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侯爵様と女中(メイド)  作者: えんとつ そーじ
本編 (完結済)
12/49

6. 苦い夢 ――異変――




 いつしかエステルはカイルの様子に違和感を感じ始めた。始めは小さな違和感だったが、会うたびにそれは大きくなった。

 一度だけ、彼女はカイルに問うたことがある。

「なにかあったの?」

 けれど、青年は静かに首を横に振るだけだった。

 支えになりたかった。――でも、重荷になりたくなかった。

 だから、無理に訊くことを躊躇い、彼が話してくれるのを待とうと、決めた。



 それが、過ちだとも気づかずに。




***   ***   ***




 カイルの異変を確信したのは、雨の日だった。



 季節は秋に差し掛かり、夜は肌寒さをおぼえる。

 エステルは窓の向こうの闇色に染まった景色に呟く。

「明日も雨かしら……」

 お菓子作りに興味を持つ彼女は、庭園を散策して気になった香草や季節の果実の成長を日記につけていた。

(もうそろそろ収穫してもいい時期なんだけどなぁ)

 小さく溜息をこぼす。最近はもっぱら天候が崩れているため、このままでは収穫時期を逃しかねない。かといって、雨の日の収穫は泥と雨で汚れるために洗い物が増え、使用人の負担にもなる。

(やっぱり時期を待つしかない、か)

 がっくりと頭を垂れた時、耳に馬の戦慄き声が届いた。

(こんな夜に来客かしら?) 

 誰だろう、と考えていると、なんだか喧騒も聞こえてくる。

 首を傾げる。まるで見当がつかなかった。

 すると、扉が叩かれる。

 ますます状況がわからないエステルが扉へと歩み、わずかに開けば。

「どうかしたの?」

 扉を叩いた張本人であろう侍女は、困惑と慌ただしさを含んだ顔で頷いた。

「エステル様にお客様ですっ。すぐに玄関までおいでください」

「……こんな夜に?」

 誰かと問おうと思ったが、エステルに出迎えるよう伝えたということは、怪しい人物ではないだろう。

(……急用、かしら?)

 納得いかない点は多かったが、夜着の上に上着を簡単に羽織、玄関へと向かった。



 呼ばれたエステルが玄関まで駆けつけると――そこには雨の雫を滴らせたまま佇む、よく見知った青年がいた。エステルは目を瞠る。

「……カイル様!? そんなに濡れて……どうしたの!?」

 カイルの目前まで駆け寄り、顔を覗くようにして見上げたが、俯いているため髪に隠れて表情がわからなかった。

「カイル様、風邪をひくわ。すぐ部屋を用意するから」

 待ってて。

 言葉は最後まで続かなかった。

 カイルが、踵を返そうとしたエステルの手首を掴んでいたのだ。困惑し、「……カイル様?」と名を呼んで青年を見つめるが、返答はない。

 仕方なく持っていたハンカチで頬に伝う雫を拭う。ついで目にかかっている黒髪を後ろへと掻きやると、揺れる灰青の瞳があらわれた。

 おかしいと、思った。

 今日、カイルから訪問の連絡を受けていない。来る時は必ず連絡をくれる、彼が、だ。こうして突然現れたことといい、彼の様子といい、いつもとは違って感じた。――いや、違和感を感じ始めたのは、もうずっと前からだった。

 外気と雨で冷きった頬に手を添えると、カイルは顔を切なく歪ませた。

「カイル様、――っ」

 


 エステルは言葉を失った。

 息を詰める。

 気がつけば、冷たい腕に閉じ込められていた。

 あまりに強い力に身を強張らせ、押し付けられる胸板を押す。

「カイル様、痛いっ。カイ――」

「エステル、エステル、エステルっ」

 エステルは耳元で懇願するように名を呼ばれ、身体が熱い吐息に震えた。

 カイルが銅色の髪に唇を押し付けて言葉を紡ぐ度に、エステルの頭に直接声が響く。

「エステル……好きなんだ。誰よりも、なによりも。だから、お前を――信じたいんだ」

「……カイル様? どうしたの?」

「信じたい……のに。好きすぎて、怖いんだ。お前を守りたくて騎士になった。それなのに……裏切られたら俺は……」

 はっきりと聞こえたのは、そこまでだった。続く言葉は、もっと切実なものだったのに。

「このままじゃ、誰の目にも触れないように、お前を閉じ込めてしまう。大切にしたいのに、壊れてしまえばいいと――誰かに奪われるのなら、その前に俺がすべてを奪ってしまおうと、思ってしまう」

 喉の奥で紡がれたその言葉。それは、狂気を孕んだ恋だった。

「俺は、こんなにエステルのことが好きなのに。きっとエステルはその十分の一も愛してくれていない」

 ――どうして、俺ばっかり。

 涙声のような声音であることに気づき、途中からエステルは必死に耳を凝らして聴いた言葉。

 彼がぎりり、と歯をくいしばったことに気づく。

「カイル、様」

 エステルには、カイルの言葉の意味がわからなかった。”裏切る”という単語に対し、エステルはやましいことがなかったし、”好きすぎて怖い”という気持ちの歪みも理解が難しい。だから、傷つけることのない言葉を必死に探した。それでも――ただ、なにかに怯えるように小刻みに震えていることはわかったから、慰めるようにカイルの濡れた背を撫でる。

「カイル様、好きよ。私は、あなたを裏切らない」

 それだけ伝えると、カイルはエステルの両頬を手で覆って上向かせる。

 視線が絡んだ。

 その瞳の灰青が色濃く切望するように細められる。エステルにはまっすぐ瞳を見つめるだけで精一杯だった。

 灰青の瞳が少しずつ位置をかえ、エステルの紫の瞳に映らなくなった。刹那、額に冷たく柔らかなものが押しつけられたことに気づく。

 同時にカイルの漆黒の髪から雫が落ちてきて、エステルは目を瞑った。――けれど、たった一粒。頬に落ちてきた雫は、温かかった。



 ――今にして思えば、あの時、カイルから零れた温かい雫は、涙だったのかもしれない。



「……カイル様、傍にいるわ」

 エステルは慰めるように優しく濡羽色の髪を指で梳く。

 冷たい身体が温かくなるまで、凍える心がぬくもりを取り戻すまで。ずっと抱きしめているから――だから、どうか独りで苦しまないで。

 この気持ちが届くように、願った。

「……エス、テル」

 掠れた声がふってきた直後、カイルの、エステルの頬を挟んでいた手が、首へと滑らされ、静かに離れていく。

 俯いたままの彼を見上げれば、カイルは笑んだ。――まるで胸が締めつけられるような、泣きそうな笑み。

「……カイ」

「……突然、驚かせて……すまない。――おやすみ、エステル」

 エステルの銅色の髪を一房すくい、愛おしそうに口付ける。そうして指の隙間からすり抜ける髪を名残惜しそうに見つめ、最後の一筋が落ちると同時にカイルは踵を返した。

 そのまま扉の向こうへ消えていくカイルを、エステルは呆然と見送った。


 ――異変を、確かに感じていた。けれど……訊けなかった。

 彼は、なにを伝えようとしたのか。そして――なにを押し止めたのか。



(私はきっと、それを知らなければいけなかった)

 たった一度。

 彼が弱さを見せた最初で最後の機会だったのだから。


(――私は、愚かだった)

 それが十五年の恋の結末から、悟ったこと。




***   ***   ***




 そして、昨年の春。



 エステルは誕生日を迎え、十九歳となった。

 その頃には、カイルの侯爵就任も間近に迫り、伴う結婚まであとわずかとなっていた。



 男爵邸で過ごす、最後の誕生日は家族だけで迎えることに決まった。

 エステルは両親と庭園で茶会をする約束をし、やがて準備を整えると父の執務室へ向かう。



 邸の中は、妙に静まりかえっていた。

 不思議に思いながらも、エステルは父の執務室の扉を叩く。

「お父様、エステルです」

「……入りなさい」

 少し強張った声が返ってきた。温和な父に不釣合いなそれに違和感を感じながら、扉を開く。

 すると、多数の視線が自分に集中するのがわかった。

 エステルは視線をめぐらせる。執務室には父しかいないと思っていたのだ。視界に捉えた人物を認め、言葉をつむぐ。

「……お母様? こちらにいらしたの」

 ちょうど呼びに行こうと思ってたの、と場の空気を和ませたくて笑ってみせる。すぐに、その隣にも誰かがいることに気づいた。

(どうして、彼がここにいるのかしら?)

 それが、彼を見て思った、始めの感想。

「誕生日は家族水入らずで過ごすといい。最後になるかもしれないからな」と言ってくれたのは、彼なのに、と。

 疑問に思いながら、名を呟いた。

「――カイル様?」

 会えたことは嬉しいが、室内のどうしようもなく重い空気に、愛想笑いするのが精一杯だった。

 一歩、また一歩とカイルに歩み寄ると、カイルがエステルを見据えた。その灰青の瞳がいつになく凍るような冷たさを秘めていることに気づき、歩をとめる。

 戸惑うように、もう一度名を呼んだ。

「カイル、様? あの……」

「エステル」

 瞳と同じ、冷たく鋭い声がエステルの身体を硬直させる。

 答えるようにわずかに首を傾げると、彼は躊躇いを含むことなく、告げた。


「婚約を破棄させてもらう」




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