6. 苦い夢 ――幼い日の約束――
『こんな時間に廊下歩いてるなんざ……どうせ男のところにいたんだろ?』
『その女だって、夜中に廊下を歩いていたんだ! 誰かと通じているに決まってる!』
パトリックの声が、今も耳に残る。
疼く傷を刺激し、癪に障った。
(ああ、だから――こんな夢をみているのね)
不思議と、今日は”夢”を”夢”だと理解していた。
夢だけれど――忘れる事のできない、記憶の一部。
亀裂が入った心は、癒える事がないと思っていた頃の、残酷な記憶だ。
*** *** ***
それは昔の約束。
白い草原で三人の幼子が遊ぶ。
侯爵家嫡男カイル・セドリック・ハーシェル。
男爵令嬢エステル・コーネリア・クラーク。
子爵令嬢カレン・ローナ・メイナード。
それぞれの領地が隣り合わせであるため、三人は幼馴染という間柄だった。
遊ぶ時は、決まって”白い草原”と呼ばれる野へ行った。ちなみに”白い草原”という名は、春になると白詰草で地が覆われ、白い絨毯のようになるからそう呼ばれている。
黒髪の少年は白詰草で必死になにかを作っていた。
「……カイルさま? なにを作ってるの?」
エステルが問うと、カイルは背中を向ける。
「エステルはこっち来ちゃだめ。あっちで遊んでて」
「でも、ひとりで遊んでも楽しくない」
エステルは、ちらりとカイルの隣に座る赤髪の少女をみやった。少女――カレンはエステルの視線に気づくと「もうちょっと待ってて」とカイルと同じようにそっぽを向く。
二人が仲良くしゃべっている後姿に、エステルはしゅんと落ち込んだ。
(楽しくない……)
広くて白い草原。友達が傍にいるのに、一緒に遊ぶ事を許してもらえない。それがどんなに寂しいことか。
膝を抱えて独り涙ぐむ。二人を見るのが辛かったから、エステルも彼らに背を向けた。
すると、「できたぁ!」とカイルが歓声をあげた。
エステルが振り向かずにいると、サクサクと足音が近づいてくる。
自分に落ちる影に気がつけば、少年が目の前に立っていた。
カイルはしゃがむと、恥ずかしそうに笑った。
「……カイルさま?」
さっきまでは一緒に遊んでくれなかったのに、なんだというのか。
エステルが目を涙で潤ませながら弱弱しく睨めば、カイルは苦笑した。
「ごめん。怒らないで」
そう言って、エステルの目尻に溜まった涙を拭うと「目、つぶって」と言葉をついだ。
エステルには意味がさっぱりわからない。「なんで?」と問うても「なんでも」と言い返されてしまった。
若干不服に思いながらも目を瞑る。数拍後、カイルが頭になにかをのせた。
「カイルさま? なぁに?」
首を傾げると、頭からカイルがのせたなにかが落ちてきた。
エステルは目を丸くする。
「……これ、白詰草のかんむり?」
目を何度となく瞬く。
驚くエステルに、カイルは黒髪を揺らしてはにかんで笑んだ。
「エステル、大きくなったらケッコンしよう?」
「けっこん?」
エステルが『わからない』というように眉を寄せる。カイルは一つ頷き、優しく目を細める。
「うん。好きな人とずっといっしょにいるために、神さまにちかうことだよ。――だから、おれとケッコンしてほしい」
――それは幼い約束。
「エステルは、おれのこと、好き?」
「うん、カイルさますき」
「じゃあ、ケッコンしてくれる?」
「うん、けっこんする」
エステルが笑って返事をすると、カイルは頬を染めて満足げに笑った。
「ありがとう、おれのお姫さま」
そっと慈しむようにエステルを抱きしめる。
そんな二人に、カレンは集めた白詰草の雨を背後から降らせた。
「よかったね、カイルさま、エステル」
彼女も笑って祝福した。
――この日、侯爵家の嫡男カイルは男爵家の娘エステルを望んだ。
この時は、エステルもカレンも交わされた約束の意味を知らなかった。
そうして後に、この幼い約束は正式に取り結ばれ、婚約が成立する。
やがて幼い恋は育まれ、蕾はほころんだのだ。
*** *** ***
――三年前、春。
男爵邸では、エステルが寝台の上で寝込んでいた。
続く高熱にうかされ、滲む汗で銅色の髪が額にはりつく。
滅多に病気をしないエステルは、久々に孤独を感じた。
(もう十七にもなるのに……)と自嘲したくなる。だが、不治の病ではないとわかっていても、寂しくものは寂しい。
気づかぬ間に、涙が一筋こめかみを伝った。
「エステル」
不意に耳に届いた声に、エステルは閉じていた瞼をゆっくりと押し上げる。熱ゆえのだるさで瞼が重く感じた。
額にはりついた髪を横へ流し、濡れたタオルが置かれる。
「……誰?」
瞳を動かすことも辛くてぼんやりと尋ねると、誰かが寝台横の椅子に腰掛けた気配がした。
視線をやる。
黒髪が揺れたのがわかった。――ああ、そうか。
「……カイル、様」
エステルはゆっくりと名を呼ぶ。
布団から手を出すと、大きな手で包まれた。その力が少し強くて、痛かった。それでも言わなければならないことがあったから、小さく微笑んでみせる。
「おかえりなさい、カイル様」
笑ってほしかった。だから笑ったのに。
不機嫌な声が返ってきた。
「エステル、そんなことはいい」
「そんなことじゃ、ないわ。……王宮からお戻りになって、正式な騎士になったんだもの。お祝い、しなくちゃ」
「いいんだっ!」
強く反駁され、エステルは言葉を呑み込む。拗ねるように頬を膨らませると、隣で嘆息したのがわかった。
(……呆れられたかしら)
少しばかり自分の行いの幼稚さを自覚していた。しかし、エステルは自分の意思を曲げるつもりはない。
幼い約束を交わしてから間もなく、カイルは騎士になるため王宮へ行った。
騎士になるためには従騎士期間が設けられ、二十から二十一歳で正式な騎士となる。ゆえに、それまでは年に一度か二度しか会う事もままならなかった。
会えない変わりに二人は文を交わし、年に指折り数えるくらいのわずかな再会の間に婚約を果たした。
ようやっとカイルは二十歳となり、正式な騎士となって帰って来たのだ。
『エステルを守れるように強くなる』
幼い頃のカイルの口癖。それは、誓いなのだと、彼は語ったことがあった。それを聞いていたから、エステルは会えなくても信じて待ち続けた。十七歳ともなれば貴族の間では結婚適齢期だが、気にしないようにしたし、寂しい時には彼からの手紙を何度も読み返し、胸に抱いて無事を願って祈りを捧げた。
だから――帰って来るのがあまりに嬉しくて浮かれたことを、許してほしかった。
エステルが睫毛を伏せると、カイルが火照った頬を掌で覆う。
「――もっと自分を大切にしろ」
カイルにしては心もとない声に、エステルが視線を上げる。彼は切なげに顔を歪ませていた。
「……カイル、様」
心配をかけたのだと察した。その気持ちが嬉しくて、申し訳なくて。謝らなければいけないと思ったけれど、素直になれなくて布団を口元まで引き寄せた。
「……はい。――ごめんなさい……ありがとう」
すると、カイルはエステルの頬に当てていた手を頭に移動させ、くしゃくしゃと銅色の髪を掻きまぜる。
「今後気をつけるように」
そう言って苦笑した顔は、穏やかだった。
熱で心が弱っていたエステルは、その優しさに泣きそうになる。
(彼は、変わらない)
そう思った。
変わらないでいることの難しさは、エステル自身心得ている。幼い頃とは求められるものが変わり、環境も移ろう。それに伴って自分が変わることも必要とされるのだ。
確かに、幼いままではいられない。けれど――変わってはいけないものもある。
潤む紫の瞳を細めると、エステルはもう一度微笑んだ。
じっと見つめていれば、カイルが首を傾げる。
「なんだ? どうかしたのか、エステル」
「……どうもしないわ」
くすくす笑うエステルを、カイルは訝しんだ。
(久々に会った婚約者を観察してたなんて……照れくさくて言えないわ)
正式に騎士となり、帰って来た青年。ずっと手紙のやりとりをしていたが、成長する過程は想像の中でしかお目にかかれなかった。年に数回の会える時は、いつだって期待を裏切られ、想像よりも遥かに格好良くなっているのだ。
そして今。彼は精悍さを見せるようになった。だけど、ぬばたまの髪は麗しく、空の色をした瞳は甘い雰囲気を放っている。なにより、整った顔が綻べば精悍さよりも穏やかさが際立つ。
未だ眉を顰めるカイルに、エステルは降参した。好きな男には笑ってほしい。
「また格好良くなったと思ったの」
照れるように笑うと、カイルは灰青の瞳を和ませて淡く笑った。
「エステルも綺麗になった」
その言葉に、エステルは目を丸くする。不器用な彼は、滅多に甘い言葉を率直に言わないのだ。思わず赤面すると――発言の張本人であるカイルまで耳が赤くなるほど顔を紅潮させた。
エステルがおかしくなって噴き出す。
カイルはエステルの額を軽く叩いた。「笑うな」という呟きに、さらに笑みがこぼれる。
「……エステル、早く良くなってくれ」
祈るような囁きに、エステルは小さく頷いた。
ふと、カイルは扉へと顔を向ける。
「カイル様?」
「足音が近づいてくる。誰か見舞いに来たのかもな」
エステルも少し身体を起こして扉へと視線をやると、コンコンと扉が叩かれた。
直後、開かれる。
そこにいたのは、二人の親友のカレンだった。
「エステル、体調はどう?」
幼い頃、カレンは赤毛に劣等感を抱いていたが、今やそれは薔薇色の髪となり、緩く波打って美しい。紅の髪と金茶色の瞳が見事に調和し、むしろ魅力となっていた。
カレンは手に持っている硝子皿をカイルに渡す。
「……すりおろしリンゴか」
皿の中を確認したカイルが呟くと、カレンは頷いて軽くドレスをつまんだ。
「お久しぶりです、カイル様。エステルのお見舞いですか?」
「ああ、久しぶりだな、カレン。畏まらなくていい」
カイルは微笑むことなく告げる。それにカレンは嘆息を吐いた。
「相変わらずですねぇ」
皮肉のように笑うカレンに、カイルが顔を顰める。エステルが二人のやりとりをぼんやりと眺めていると、カレンが突然エステルの首に腕を絡ませた。
「カイル様の甘い微笑はエステル限定ですもの。ねぇエステル、わたしも友達よ。仲間はずれにしちゃダメってカイル様を叱ってやって。――て……あら、眉間に深い皺が刻まれてますよ? カイル様。ふふ、うらやましいんでしょう」
カレンは嫣然とした笑みを浮かべて、さらにエステルの頭に顔を寄せる。
言い当てられたカイルは一瞬片眉をピクリと動かしたが、もう幼い頃の彼ではなかった。
「エステルは熱があるんだ。放してやれ」
「え? 熱??」
目を瞬くカレンは腕の力を緩めてエステルを見下ろした。首を傾げながら問う。
「木から落ちて捻挫したのでしょう?」
カレンはそう聞いていたらしい。
「は?」
今度はカイルが首を捻った。
カイルとカレンからの視線を受けたエステルは、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「エステル?」
声を揃えた二人の問いかけに、居た堪れなくなり、たまらず白状した。
「えーっと……カイル様が帰ってくるから、リンゴを差し入れようと思って」
「それで、なんです?」
「庭園にある季節外れなリンゴの木に登って実をとってたら」
「なぜそこで登るんだ。使用人に頼めばいいだろう」
「それは……自分でとりたかったから……」
カレンの冷ややかな促しとカイルの容赦ない突っ込みに、エステルの声は次第に小さくなる。
カイルは長い溜息を吐いた。その一息には、自分のためだと言われたも同然だから、嬉しいようだが、手放しで喜べるわけもない、という心情がこめられているように思えた。
「で、落ちて怪我して、熱がでたってことか」
確認するように問われ、エステルはこくりと頷いた。
「心配かけて、ごめんなさい……」
小さく呟く。二人は苦く笑った。
「今後、気をつけるのよ」
カレンがエステルに優しく叱ると、カイルは真摯な瞳でエステルを見つめて言った。
「頼むから、自分を大切にしてくれ」
二度言われた言葉に、エステルは眉尻をさげて笑んだ。
「はい。以後気をつけます」
答えるれば、カイルが手に持っていた硝子皿のスプーンをとりあげる。そうして、そのスプーンですりおろしリンゴをすくう。
「エステル、口をあけろ」
「…………」
瞬時にして、エステルの熱で染まった顔はさらに朱がさす。――これは、まさか。
(あーん、とか言わないわよね?)
窺うようにカイルの顔を上目でみやる。
「えぇと、あの、自分で……」
「駄目だ。病人に任せられない」
「私、そこまで悪く……」
エステルが是が非でも拒む姿勢をみせると、カイルは寂しそうに笑んだ。
「カイ――っ」
あまり見ることのない表情に罪悪感をおぼえ、つい口を開くと、すっとスプーンを隙間から入れられた。
「ん……っ」
リンゴの蜜が口中に広がる。
(あ……甘い)
エステルがうっかり口元を綻ばせる。
見つめていたカイルは目尻を下げた。その、リンゴよりも甘い笑みに目を奪われる。カレンもその顔に「まぁ」と驚いた。それくらい、彼の甘い笑みを見る事は幻なのだ。
惚ける二人を他所に、青年は黒髪を揺らした。
「エステル、もっと頼ってくれていい。これからは、傍にいるから」
今までいられなかった分も。
続けられた言葉に、エステルは口をひき結んだ。
我知らず、涙が零れる。
「エステルの負けね。さ、カイル様の手ずからたべさせてもらいなさい」
カレンが妹の面倒をみるようにエステルの涙をハンカチで拭くと、ついでカイルはまたリンゴののったスプーンを差し出した。
幸せ者だと、思った。
今まで、自分の気持ちに気づかないようにしていたけれど。本当は。――ずっと寂しかった。傍にいてほしかった。我侭を言わないように、口を噤んでいた。
そして今、目の前には親友と婚約者の笑み。遠い昔のように、また同時に見られる日がくるなんて――。
「ありがとう、大好き」
エステルは幸せを噛みしめながら、破顔した。
――けれど、歯車はいつしか狂っていたのだ。
そのことをエステルが知るのは、そう遠くない未来のこと。