6伝染病と聖女の奇跡
聖女様に手紙を送ってから、ちょうど一か月後。
ステイシア男爵領に聖女来訪の先触れが届いたのは、まだ日も昇っていない早朝のことだった。体のだるさを訴えるお母様は、昨晩寝付きが悪く、起こすべきではないとの判断が下された。聖女様を歓待する役割は私に回って来た。
まだ閉めたままだった街を囲う外壁の門を開き、その脇で私は聖女様がやって来るのをじっと待っていた。
夏とはいえまだ日が昇っていない朝の時間帯は涼しい。吹き抜ける風が体の熱を奪い去っていく。風に吹かれた松明の火が唸るような音を立てた。
聖女様、聖女様――意識しないとつい「聖女」呼びをしてしまいそうで、私は必死に敬称をつけて心の中で呼び続けた。
グンダカール王国において、聖女様と王族は対等な関係にあった。国王という絶対的な存在の下に、かつての私と聖女は――聖女様は対等だったのだ。それゆえに聖女呼びが普通で、つい昔のように呼んでしまってお母様にきつく注意された。
ああ、そういえばお母様に叱られたのは初めてのことだったかもしれない。
ちなみに今は、聖女様は国王陛下と同等の立場にある。時代は変わるものだと思う。
「……いらしたね」
そう考えているうちに、わずかに白んだ空の下を駆けるように進む馬車が見えて来た。私は一度深呼吸して気を引き締めた。
生命神の指輪に選ばれた神聖な乙女。美しく女神と見紛うような人だろうと、私は勝手に想像をしていた。
けれど馬車から姿をあらわしたのは、私が想像する若々しい女性ではなく、貫禄ある老齢の人物だった。一瞬、目の前の人物が聖女様の付き添いだと疑ったけれど、代々聖女様に受け継がれている金糸の純白のドレスは彼女が聖女であることを示していた。
何よりその手には、緑の蔓模様があしらわれた灰色の指輪がつけられていた。
ひどく心臓が痛んだ。指輪から呼ぶような圧を感じたのは、私の気のせいではなかった。指輪が、何かを探るように私を観察しているのを感じた。
かつては黒髪だったであろう長い髪は白髪交じりで灰色に見え、聖女様の瞳は髪と同じグレー。これまでの苦労を思わせる深いしわが刻まれた手に握られた杖が、カツンと降車用の階段を打ち鳴らした。
聖女様の降車をサポートしていた騎士が背後に下がる。ジロリと訝しげな目で見られて、私はようやく我に返って頭を下げた。
「聖女様、お忙しいところステイシア男爵領にいらしてくださり、感謝の念に堪えません」
「ふん、あたしは依頼があったから来ただけよ。さっさと病院に案内してもらいましょうか」
なんとなく、今の聖女様はかなりの権限を持っているように思った。おそらく、聖女として活動してきた期間はとても長いのではないだろうか。確か私と同じ男爵家出身の女性だったと思うけれど、彼女の鋭い言葉遣いに反感を示す騎士はいなかった。
それどころか、若く美しい男性騎士たちは、まるで妙齢の淑女を扱うように聖女様に腕を差し出した。まあ聖女様はその腕を取ることなく、すたすたと軽快な足取りで私の後を追い始めたのだけれど。
「現在、病に倒れている者は四百人ほどになります。そのうちの重傷者三十人については、今から向かうマリエッタ医院で治療を受けています」
状況説明をしながら、私はずっと背後にいる聖女様のことを考えていた。
過去には想像できないほど長い期間を聖女として務めたのであろう女性。そう、老齢の聖女様というのは、かつてはまず見られなかった光景だった。
何しろ、聖女が聖女であるためには生命神の指輪を使う必要があり、そしてその指輪は、所有者の命を使うことで効果を発揮するものだったからだ。
戦乱の時代にあった、サナ・グンダカールとして生きていた頃、聖女は国が抱える治療道具のような存在として扱われていた。まあ、その事実を知ったのは私が聖女になってからのことだったけれど。
グンダカール王国よりも国力の大きな国との戦争。それにグンダカール王国が抵抗できていたのは、間違いなく聖女という存在あってのことだった。英雄的強さを誇る騎士も、長く戦いを続ければ心身を疲弊させ、怪我を負って動きが悪くなり、そしてあっさりと死んでしまう。
けれど、聖女は騎士を死なせなかった。生命神の指輪によって発動した回復の力が、たとえ致死性の傷であっても完璧に癒した。すり減った騎士たちの心さえ、指輪の力は癒すことができた。
そして、騎士たちは自らを救った聖女に心からの信仰を捧げ、戦鬼もかくやといった獅子奮迅の戦いをみせて戦況を維持していた。
私が望んだ聖女としての生き方は、そうして騎士たちを癒し続け、私の命をすり減らすというものだった。
けれど今のグンダカール王国は敵国を破り、平和な時代を享受していた。戦いが無ければ、聖女はその力を使う機会も減り、普通の人と同じくらい長い人生を送ることができるのだろう。
だから、彼女のような年老いた聖女が生まれることになったのだと思う。
マリエッタ医院にたどり着くなり、聖女様は先に医院で待っていたお父様の挨拶を無視するような勢いで病室へと足早に進み、床に伏した患者を診て眉間のしわを深めた。
病室に並ぶベッドの上には、浅い呼吸を繰り返す患者たちの姿があった。ひどい高熱に侵されているのに肌は青白く、起きている者の目は虚ろ。汗でシーツはぐっしょりと濡れていて、目の下に濃い隈を浮かべた医院のお手伝いさんが、疲れた体に鞭を打ってシーツを変えていた。
汗と排泄物と吐瀉物の匂いは窓を開いていても完全には消えてくれず、病室にこびりつくように存在していた。
「ふぅん……これはひどいですね」
小さく息を吐いた聖女様は、おもむろに病室の真ん中へと向かい、背後に控える騎士に杖を手渡す。指輪を包み込むように手を重ね、祈るように言葉を紡いだ。
「偉大なる命の神よ。雄々しい生命の神よ」
ふわりと、聖女様の灰色の髪が舞い上がる。この世のものとは思えない空気が聖女様を中心に――聖女様が手で包み込む指輪から放たれた。その気配に、心臓を握られたような気がして、私は息苦しさから胸に手をあてた。
そんな私の様子には気づかず、誰もが聖女様の動きをじっと見つめていた。焦点の合わぬ目で天井を見上げていた者たちも、その虚ろな目を聖女様へと向けていた。
聖女様が膝を折り、床に足をつける。組んだ手を、額にあてる。
「緑の神よ、迷える我ら子羊に祝福を授けたまえ。か弱き我らに、その大自然の息吹を吹かせたまえ」
聖女様が組んだ手。そこから金の光がもれ出した。それは空中で収束し、無数の半透明の蔓となって病室に広がっていく。
蔓が、横になっている患者へと伸びて、触れる。
手をほどいた聖女様が、その手にはめた指輪に口づけを落とし、つぶやく。
「かの者らを癒したまえ」
瞬間、指輪がまばゆい黄金の光を放った。そのことを予想していた私は、うっすらと開けた目で奇跡の行方を観察した。
金の光は蔦に吸い込まれ、勢いよく患者たちの体に流れ込んだ。そして、聖女様がゆっくりと目を開けた時には光は消え、苦悶の表情を浮かべていた患者たちは安らかな顔で寝息を立てていた。
血色が戻り、呼吸も落ち着いた患者の一人に医師が触れ、熱が収まっていることを告げた。
病室に、静かな、けれど堪えきれない歓声が沸き起こった。