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5家族と、聖女

 このところ、精神が体に引きずられているように思う。

 以前の私では考えられないほど涙腺が緩いし、思考も若年化している気がする。前世の記憶に引っ張られていた状態から回復しつつあるということであればいいけれど、こうも子どもっぽいふるまいになってしまうというのは考えものだと思う。

 それはともかく、私はマリエッタ医院を後にして家に帰ってからも泣いた。私とお母様の話を聞いたお父様の号泣につられた形だ。

 うん、だからまあ、お父様が悪い。

 腫れあがった私の目を見て、お母様は「仕方がないわね」なんて言いつつ、冷水で冷やしたタオルを、横になる私の目にそっとのせてくれた。


 あれから一週間。私は完全に普段通りの生活に戻っていた。

「サナ、次はそっちを支えておいてくれるか?」

「うん、いいよ!」

 風雨にさらされて傷んだ柵の修理。新しい木を支える私の手に、金槌の震動が襲い掛かった。こうしてみると、前世での私の経験は全くと言っていいほど役に立っていなかった。王女と貧乏男爵令嬢の生活が似ているわけがないので、王女としての経験が役に立たないのは当然なのだけれど。

 そんなわけで私は、苦戦しつつも腕のしびれに耐えていた。

 ふと、楽しそうな視線を感じた。顔を上げた先、相変わらず無精ひげを生やしたお父さんが、ニヤニヤと笑みを浮かべて私を見ていた。

「……お父様、早く釘を打って。じゃないといつまでたっても終わらないよ」

「そうだなぁ、サナの応援があればお父さん頑張れると思うなぁ」

 応援。……お父様頑張って、だろうか。でもすごく恥ずかしい気がする。ここは心を鬼にして奥の手を切るべきところだろうか。

 私は顔を上げ、遠くで雑草を抜いていたお母様の姿を探し、声を張り上げた。

「お母様ー、お父様が働かないよー」

「ちょ、サナ!?」

 お父様が慌てふためいているけれど、もう遅い。ニッコリと笑みを浮かべたお母様は、目尻を下げながらも、眼窩に底冷えするほど冷たい光を宿してお父様を見ていた。

「アレクシオ?」

 ビクンと体を跳ねさせたお父様が、まるでさび付いた扉のようにぎこちない動きでお母様の方を振り向いて。

 カヒュッ――おかしな音がお父様の口から洩れた。

「……お父様?」

「な、何かな?」

 だらだらと冷や汗を流すお父様が、音を立てて唾を飲み込んだ。すがるような目を向けられて、私はお母様へと視線を移した。

「サナァァァ」

 裏切られたとでも思ったのか、お父様は悲痛な声で私に縋りついた。そんなお父様の背後に、腕を組み、凄みをきかせるお母様の姿があった。

 その細い腕からは想像もつかない膂力でお父様を引っ張っていったお母様の姿が遠くに消える。最後まで私に手を伸ばしていたお父様の哀愁漂う姿が、いつまでも私の瞼の裏に残っていた。


 お母様の妊娠が発覚してから早八か月。

 ステイシア男爵家を継ぐ男児の誕生を今か今かと待ちわびる空気が屋敷には広がって――いなかった。

「……また増えたのね?」

「ああ、既にマリエッタ医院では全く手が追いついていない。外部から呼んだ医者も手を尽くしてくれているが、かなり厳しい状況だ」

 例年以上に長く続いた雨。それがもたらしたこの湿った夏、ステイシア男爵領では多くの者が病に倒れていた。

 最初は夏の暑さにやられただけだと思われた患者の数は次第に増えていき、ついには死者が出始めた。

 お父様はこれを伝染病とみて対策を始めたが、既に病原菌は領都中に広まってしまっていたようで、病に倒れる者は増加の一途をたどっていた。

 早く対応を進めないといけなくて。お父様はいつ産まれてもおかしくない我が子を抱えるお母様を気遣いながら奔走を続けていた。

 深刻な顔をして話すお父様とお母様を見ながら、私は手元の書類に目を落とした。頼み込んで見ることを許してもらった、ステイシア男爵領における病床者数の報告書。そこにはすでに市民の一割以上が病に倒れているという記載があった。

 三百人。しかも、さらに増える可能性がある。

 不安に瞳を揺らすお母様の姿をじっと見つめていたお父様は、おもむろにテーブルに手をついて立ち上がった。

 疲れのにじむ瞳が、なぜだかギラリと輝いた。そこには覚悟と、確かな希望の光があった。

「……聖女様を呼ぼう」

 ……聖女?まさか、あの「聖女」だろうか。生命神の指輪に祝福された、神秘の技を使う女性のこと?

 かつて私がその名を失墜させた――

「そうね。この規模の伝染病を終息させるためには、聖女様のお力をお借りするのが一番でしょうね。けれど、いらしてくださるかしら」

「お忙しい方ではあるけれど、状況を報告すれば必ずいらしてくれるだろう」

 手の中から、書類が零れ落ちた。ばらけたソレは、雪が舞うようにひらひらとはためき、執務室の床に、ローテーブルの上に散っていった。

「……サナ?どうしたの?」

「ん?何でもないよ?」

 自分でも震えているとわかる声だったけれど、お母様は特に私に何か言うことはなく、散らばった書類を集めようと椅子から起き上がってくれた。けれど、身重なお母様にしゃがんで立つのを繰り返させるわけにはいかない。

 私はお父様に視線を送ってお母様を止めてもらい、慌てて散らばった書類を集めた。

 その間も、私はずっと聖女について考えていた。今の聖女は、どんな人なのだろう。私と同じ轍を踏んでいる人ではないのだろうけれど、心配で、不安で、そして怖かった。

 私は、生命神の指輪が怖くて仕方がなかった。

「早速手紙を送るが、いついらしてくれるかはわからないな。時間との勝負になるか」

 重いため息を吐いたお父様の目の下には真っ黒な隈ができていて、お母様が心配そうにお父様を見ていた。けれど今の二人の目には、強い希望の光があった。聖女とは、多くの者にとって救いの存在なのだ。

 だから、私は言い出せなかった。

 聖女に会いたくないと。聖女にこの街に来てほしくないと。

 言葉を飲み込む代わりに、私は強くこぶしを握った。


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