4祝福
産まれてくる子どもが男の子であるという話を噛みしめていたお母様は、しばらくして大きく深呼吸をして、真剣な目でマリエッタ医師を見た。
白銀の髪がふわりと揺れて、豊満な胸にかかる。私も、お母様のように成長するのだろうか。前世の寸胴体形から解き放たれるのだろうか。
……現実逃避はやめよう。今は、次の診察の話だ。つまり、私の診察結果。
「それで、サナの状態はどうだったのでしょうか?」
一般的な貴族のことは知らないけれど、男爵家には本来、健康優良児な私を定期的に診察するような家計の余裕はない。それにもかかわらずお父様とお母様が私にマリエッタ医院を受診させているのは、私が前世の記憶持ちという気味の悪い存在だから――ではない。
お父様とお母様曰く、私は「祝福された子ども」なのだという。正直意味が分からなかったけれど、二人は悩んだ末、幼い私にその詳細を話さないことを選んだ。
それはたぶん、「祝福」という単語に私が激しい嫌悪を見せたからだと思う。
正直、当時の私は幼さも相まって感情の制御が全くできていなかったから、それはもう恐ろしい顔をしていたのではないかと思う。泣き叫んだおぼろげな記憶が浮かんで、恥ずかしさやら申し訳なさでいっぱいになった。
私は昔のことを心の中で謝りながら、マリエッタ医師が私の健康状況に太鼓判を押してくれるのをぼんやりと聞いていた。
「――流石は祝福された子どもですね。早産児だったから心配でしたけど、成長も今や平均レベルに追いついていますし、もう大丈夫だと思いますよ」
祝福――その単語が耳に飛び込んできて、私は思わず身を固くした。祝福、神の、祝福だろうか。ああ、嫌な響きだ。神の祝福、あるいは寵愛を、決して私は手に入れては行けなかったのに――
「サナ?」
心配そうに顔を覗き込みながら名前を呼ばれて、私ははっと我に返った。空色の瞳が不安そうに揺れていた。そっと伸ばされた手が、血の気が引くほどに強く握りしめていた私の拳に触れた。
目を瞬かせたマリエッタ医師が、思い出したように「ああ」とつぶやき、クシャリと顔を歪めた。そんな顔を、させるつもりなんてなかったのに。
「すまなかったね。わたしのミスです。そういえばまだ話していなかったのでしたね」
「いえ、そろそろこの子にも話していい頃だと思っていましたから、少しタイミングが早まっただけですよ」
凛とした声でマリエッタ医師のミスを否定したお母様は、一度私の体を優しく抱きしめてから、わずかに体を前のめりにして私と視線の高さを合わせた。
「……サナ。祝福というのはね、生まれながらにして名前を持っている子どものことを言うの」
「生まれながらに、名前を持っている子ども……?」
お母様の言葉をオウム返ししながら、私の頭は高速で思考を巡らせていた。生まれながらに名前を持っている――それはたぶん、私が前世の記憶を持って転生を果たしたからだろう。私以外にもかつて、そしてひょっとしたら今を生きる者の中に記憶を持って転生した「祝福された子ども」がいるかもしれないというのは、ある意味で私の異常性を薄める安心材料だった。お母様は、祝福された子どもが転生者とイコールの可能性があることを知らないのだろうか。多分、知らないのだろう。だって、他人の記憶を宿した子どもを、そうと知って育てているなら、二人は私の異常性に困惑することはなかっただろうから。
まあ、そのことは今はどうでもよかった。
問題は、私が産まれながらにして名前を持っていた事実が分かったのは、マリエッタが私を「見た」からだということ。まだ生まれたばかりで名付けられていなかった私を、あるいはまだお母様のお腹の中にいた私を、マリエッタ医師が鑑定して、私が名前を持っているということを知ったのだろう。
違和感はあった。どうして夢の中の――前世の私の名前と、今の私の名前が同じだったのか。全く同じサナという名前が付けられる確率など、果てしなくゼロに等しいことは明らかで。その異常事態が発生していた時点で、マリエッタ医師にサナという名前を見られていたという事実に私は気づくべきだったのだ。
マリエッタ医師は、どこまで私のことを知っているのだろうか。彼女のことだ、サナという名前から、歴史から名前を消された「サナ・グンダカール」という人物に行きあたる可能性もゼロではないだろう。
いや、そもそもマリエッタ医師が見た私の名前は、本当に「サナ」だったのだろうか?彼女は「サナ・グンダカール」という名前を見たのではないだろうか。
だとすれば、彼女は前世の私と、そしておそらくは私が犯した罪を知っていることになる。
私の過去を、彼女は知っている?
彼女、だけだろうか。マリエッタ医師が知っているのであれば、お母様も――
ああ、私が夢の話をした時、二人があっさりとそれを受け入れたのは、私の名前について知っていたからなのだろう。
私は、うつむいていた顔を上げて、恐る恐るお母様の顔を見た。
思ったよりもすぐ近くにあったお母様の顔。空色の瞳に、私の顔が映っていた。
疑心に満ちた顔。昏い、絶望と諦観の目。
ああ、私は、お母様を疑っていた。お母様が真実を知っている可能性を考えた。それなのに、お母様はどこまでもまっすぐに、何の悪感情も宿していないきれいな目を私に向けていた。
吐き気がこみ上げた。お母様は真実を知った上で、こんな私を娘と呼んで愛していたというのだろうか。こんな、お母様の娘の立場をかすめ取ったような私を、心から娘と思ってくれていたのだろうか?
これまでのお母様の愛は、ご機嫌取りだったのではないだろうか。あるいは、サナ・グンダカールを恐れ、私に殺されないようにするために何とか平穏な家庭を取り繕って来たのではないだろうか。
お父様も、私のことを知っているのだろうか。狂った私の、その凶行を。絶望の日々を。あの、全てを――
くしゃりと、お母様の顔がゆがんで。その頬を、一筋の涙が伝った。
「サナ!」
そして気づいたとき、私はお母様から熱い抱擁を受けていた。
しっかりと、けれど私が痛くない程度の力で、お母様の腕が私の体を包み込んでいた。
その体は、震えていた。零れ落ちる涙が、私の肩を濡らした。
「サナ、わたしは、例えあなたがどんな子であろうと、あなたの母親なのよ。わたしたちにとって、あなたは可愛い我が子なの。サナという名前の由来が気になって調べたことは謝るわ」
ああ、そうか。お父様の書斎にあった、あの禁書。質素な男爵家にどうして禁書なんてものがあったのか、これで分かった。あの本は、お母様とお父様が、「サナ」について知るために入手した者だったのだ。
そして今の口ぶりからすると、お母様は私が禁書を読んだことを知っている。そういえば、お父様とお母様はわざわざ私の目の前で、書斎の本棚の話をしていなかっただろうか。それも、隠しものについての話をしていたはず。だから私は、あの棚の二重底を発見したのだ。
つまり、お母様はわざと私に禁書を見せた?なぜ?
――決まっている。私の反応から、禁書の中に出て来たサナと私の関係を調べるためだ。
そして私は、まんまと二人の策にはまったわけだ。
裏切られたと、そう思った。けれどそれは、筋違いだった。
だって、過去についてぼかして話したのは私だったのだ。私は、お父様とお母様に夢という過去を話して、自分勝手に背負っている重荷を減らして、二人の心労を鑑みずにのうのうとこれまで両親の愛を享受してきたのだから。
二人の愛がたとえ偽りのものであったとして、一体どうして私が二人のことを責められるだろうか。
「……サナに何があったのか、どれほど辛い『夢』を抱えているのか、わたしにはわからないわ。けれど、わかることもあるの。当時、夢について話してくれたあの時、サナは苦しかったのよね?辛かったのよね?訳もわからない夢に苦しめられて、その苦しみから少しでも解放されたくて、私たちに夢の話をしてくれたのよね?私たちは、サナの力になれたかしら」
どう、だろうか。
お母様の腕の中から抜け出すこともできずに、私はひどく熱を帯びた頭で考え続けた。
私はあの時、どうして夢のことをお父様とお母様に語ったのだろうか。
どれほど考えても、答えは見つからなかった。
私が返事をしないまま、お母様はさらに声に嗚咽を混ぜながら話を続けた。
「あるいは、わたしたちを思ってのことだったのかしら。始めての子どもと初めての子育てでわたしたちが不安に思っているのを悟って、わたしたちを励まそうと夢の話をしてくれたのではないかしら」
なるほど、私が夢の話をして、私には過去に別の人間として生きた記憶があると告げ、さらには私が「祝福された子ども」であるという情報を加味すれば、話は変わってくる。つまり、子育てに失敗したのではないかと思っている二人に、私が実は前世の記憶があって、そのせいで人格がゆがんでいると突き付けることで失敗ではないと教えようとした、と。
そう、なのだろうか。
わからない。そうである気もするし、違う気もする。
ただ、わかるのは、私はこの世界の、そしてステイシア男爵夫婦にとっての異物であるということだった。
「私、は……」
予想した以上にふるえた声が出て、私は言葉を詰まらせた。泣きそうな声。私は、どうしてそんな声をしているのだろうか。
まさか、お母様が私から離れていくのではないかということに、絶望でもしているというのだろか。
離れていくのが普通だろうに。私がお母様の立場だったら、サナ・グンダカールという悪魔のような人物の記憶を持つ子どもなど、気味が悪くて仕方がないと思う。それこそ、仮初めの家族関係だって築きたくないと思う。だから、これまでのお母様たちの献身が異常だったのだ。私はこれから、お母様たちと別れて、正常な状態に戻るのだ。そう、あるべきなのだ。
なのに、どうして私は泣いているのだろうか。
「あ、え……」
頬を伝う涙は、私の目から流れていた。自分の頬を触れて、涙の線を辿った先には、私の目があった。
目元に触れる私の手に、お母様の手が優しく添えられる。
「……私が、怖くないの?」
怖かった。答えなんて、聞きたくなかった。それなのに私は、気づけばそんなことをお母様に尋ねていた。
「どうして?だってサナはわたしたちの子どもなのよ?」
そんなはずがない。だって、私自身、私が怖いのだ。過去の私が、狂っていた頃の私が、怖くて仕方がないのだ。なのに、お母様が私のことが怖くないなんて、そんなはずがない。
「気持ち悪く、ないの?」
「まさか。そんなことないわよ。サナはわたしの、わたしとアレクシオの大切な娘なのよ。愛娘が気持ち悪いなんて、そんなはずないじゃない」
どこか怒るような口調だった。
「……私は、生まれてくるはずだった子の精神を乗っ取ったかもしれないんだよ?私は、お母様の子どもじゃないかもしれないんだよ?」
びくりと、お母様の体が震えた。そうだ。私は、生まれてくるはずだった子の精神を歪めた、化け物だ。もしサナ・グンダカールの記憶がなければ、サナ・グンダカールという過去の存在の意識がこの体に宿らなければ、ステイシア男爵令嬢は、心優しい両親のもとで健やかに成長していたはずなのだ。
それを思えば、お母様だって私のことが憎くて仕方がない、はずなのだ。
「……そんな悲しいことを言わないでちょうだい。サナは、あなたは、わたしたちの子どもなのよ。それに、わたしのことを『お母様』と慕ってくれるあなたが、娘じゃないわけがないじゃない」
ああ、その通りだ。私の心は、お母様を母と呼び、慕いたいと叫んでいた。お母様に離れていってほしくないと叫んでいた。
私は、お母様とお父様が好きだった。だからこそ、二人を傷つけたくなかった。いつか再び同じ過ちを繰り返すかもしれない私という化け物のせいで傷つく前に、さっさと離れて行って欲しかった。同時に、ずっと二人と一緒にいたかった。
私は、私が分からない。
ぐちゃぐちゃになった心は、もはや言葉を紡ぐこともままならなくて。
それでも私の体は、まるで求めるように、お母様の体を抱きしめていた。
「私は、二人の子どもじゃないかもしれないよ?」
「あなたは、他の誰が何と言おうと、わたしたちの子どもよ」
お母様の言葉に、嘘はなかった。王族として鍛えられた観察眼は、そこに嘘を見出さなかった。
そのことに、胸を打たれて。
私はただ、お母様の腕の中で泣きじゃくった。