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1始まりの記憶

 冷たい、指輪。何の特徴もないそれを、私は震える手で持ち上げた。

 鈍色の指輪は、魔法具ランプの明かりを反射して淡く輝いていた。

 自分に集まるいくつもの視線を感じながら、私はそっと、傷一つない真白な指に、指輪をはめた。

 一秒、二秒――永遠にも等しい時間が過ぎた。

 心臓は張り裂けそうで、バクバクと耳の奥で音が鳴っていた。指輪をはめてない方の手をぎゅっと握っていた。拳の中はひどく汗ばんでいた。

 長い、時間の中。私があきらめと共に指輪を外そうと手を伸ばしたところで。

 私の指の中にある銀の輪が、淡い金色の光に包まれた。そして装飾一つなかったはずのその表面に、美しい緑の蔓模様が出現した。

 私はただ、呆然とその指輪を眺めていた。

「喜べ。お前が聖女に選ばれたぞ、サナ」

 お父様の言葉を聞いて、私は頭が真っ白になった。

 聖女。それは「生命神の指輪」という強力なアイテムを扱うことができる清き女性のことだった。指輪に選ばれし聖女は、他のどんな人にも扱えないような奇跡の力を行使することができる。

 そしてその奇跡の力によって、このグンダカール王国は国土を守って来た。

 そんな素晴らしい聖女に、私が選ばれた。指輪が、私のこれまでの頑張りを認めてくれた。

 私は、聖女になれるのだ――

 心の底から沸き起こる歓喜に打ち震えて、私は無意識のうちに涙を流しながら父を見て強くうなずいた。

 聖女、聖女だ。私がなりたくてたまらなかった聖女に、なれるのだ――

 指にはめた鈍色の指輪。氷のように冷たかったその指輪は、今はとても温かかった。まるで陽だまりのような熱を帯びた指輪を、私は両手で抱きかかえた。

 その日、私は胸がいっぱいで話に集中できなかった。

 だから、気づかなかった。父である国王が、兄が、弟が、どんな顔をしているのか。


「……サナ、聖女に選ばれたんだってね?」

 婚約者のレオン様が、目を細めて私を見ていた。まるで陽光を凝縮したような艶めく黄金の長髪に、森の奥の泉のような深い碧眼。すっと整った顔の輪郭に、きりりとした眉、すらりとした鼻立ち、それから白皙のような透き通った肌。隣に並ぶのが恥ずかしくなるほどに、レオン様は美しい方だった。

 レオン様を見ると、いつも自分が酷く醜い存在のように思える。この国で最も平凡な茶髪茶眼の私は、さぞ地味だろう。心無い令嬢たちが私とレオン様を不釣り合いだと呼んでいることを、私は知っている。最も、容姿はともかく、王女である私とレオン様の立場については、十分に釣り合っていた。

 グンダカール王国に仕える三公爵家が一つ、ガイド家。その次期党首であるレオン様は、私の婚約者。

 私が王女だから、彼は私の隣にいてくれる。そしてその夢うつつな時間も、もう今日で終わり。

「はい、レオン様。これでようやく誓いを果たせそうです」

 そうですね、と小さくうなずくレオン様の長い睫毛が儚げに揺れた。

 誓い、約束、あるいは取引。

 私とレオン様は誰にも言えない秘密を抱えていた。

 レオン様には思いを寄せている方がいた。そして私は、清い身でなければ務まらない、聖女になりたかった。

 だから私とレオン様は、この婚約を決めた互いの父に内緒で取引をしたのだ。

 私が聖女になることで円満に婚約を解消して、レオン様は晴れて思いを寄せる方と婚約なさる。

 そのために、私たちは今日まで仮初めの婚約者を演じていた。

 それも、今日で終わり。

 私たちの門出を祝うように、進先の花々が揺れた。

 すがすがしさと、わずかばかりの寂寥を感じながら、私は足を止める。真っすぐにレオン様の方へと向き直った。

 レオン様もまた、一歩進んでから足を止め、私の方へと視線を向けた。

 王城の庭園。美しく咲き誇る花々をくすぐるそよ風が吹き抜ける。運ばれて来た甘い香りに、なつかしさがこみ上げた。

 これは確か、レオン様から初めていただいたスイートピーの香り。あの時はまだ、私とレオン様はただの婚約者だった。

 レオン様の美しい金髪がはためく。頬にかかった髪を、白手袋に包まれた長い指で耳にかけ、それから碧色の瞳を瞬かせて、私をじっと見つめた。

 困惑した顔になっている私の頬へと、レオン様がそっと指を伸ばした。

 何事かと困惑でいっぱいな私の頬に、その手が触れて。顔にかかっていた私の髪を、そっと耳に掛けてくれた。

 これまで以上にはっきりとレオン様の姿が視界に映った。ああ、レオン様が、そこにいた。私が、ほのかな恋心を寄せていた殿方が、そこに――

 すっと、レオン様の手が私の頬から離れていく。名残惜しさから思わず声が出そうになったけれど、私は必死で口を閉ざした。

 駄目だ。こんな思いを、告げてはいけない。だって、私たちはこれで終わりなのだから。私は聖女に選ばれて、レオン様は愛しの方へと思いを告げに行かれる。

 私たちの関係は、これで、終わり。

 離れていった手を不思議そうに見下ろしたレオン様が、何かをつかむようにそっと手を握りこんだ。それから、私と真っすぐに目を合わせて、ふわりと口の端を緩めた。私以上に美しい淡いピンク色の唇が揺れる。その眼には、慈しみの光があった。決して、まだ婚約者である異性に向ける目ではなかった。妹に対するものの、ような。

 揺れる瞳に囚われた私の意識から、レオン様以外の全てが消えた。

「……これまで、ありがとうございました」

「私こそ、これまでありがとうございました。レオン様のような理解ある方の婚約者でいられたことを誇りに思います」

 ゆるりと、レオン様が笑みをこぼす。

 その笑みは、これまで私が見たどの笑顔よりも美しいものだった。心からの笑みだと、そう伝わるもので。

 解放の晴れやかさと、手を伸ばせば届く先に近づいた幸せな思いがこもった、私ではない誰かに向けられた笑みだった。

 ああ、こんなにもレオン様はその女性に思いを向けているのだなと、そう思うとズキンと心が痛んだ。

 これから、レオン様は先ほどの笑顔を、ただ一人の女性に向けるのだ。私ではない、私という婚約者がいながらもずっと心の中で温め続けた思いの向かう相手に。

 心臓が激しく軋んだ。目の奥が熱くなった。

 ああ、私は、気づけばレオン様に激しく恋をしていた。レオン様のことが、好きだった。けれど結局、ただの一度もそれを言い出すことはできなかった。

 そして私は、思いを寄せる女性のために、月夜に静かに涙するレオン様を見て、誓ったのだ。

 私が聖女になってレオン様を解放するのだと。

 ここまで、すべては私の望むように進んでいた。

 けれど、まるでこれまでの都合のいい展開を埋め合わせるように、私とレオン様の人生は、そこからどうしようもなく困難な道になった。

『どうしてこのようなことをなさったのですか!サナ様!』

 強まる雨足の中、激情に身と心を震わせるレオン様の叫び声が聞こえた。

 濃密な血の匂いがする世界で、私はただじっと、近づいて来るレオン様を見て、笑った。

 次の瞬間、私の意識は闇に囚われて。

 そして、サナ・グンダカールという人間は――死んだ。


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