105 猫の人
大陸には獣人と呼ばれる種族がいて、その姿は人の身体に獣の頭部を持つという。
この国は島国のためか獣人が殆どおらず、私も絵本の中でしかその姿を見たことがない。絵本の中の獣人は、やはり人の頭を獣に挿げ替えたような姿をしていた。
しかし、目の前の獣人は猫そのものだ。普通の猫と異なるところがあるとすれば、身長……全長? が2メートルぐらいの巨体で二足歩行、人語を解するというところだろうか。
いや、もうそれって猫と言わないじゃん!
思わず自己突っ込み。
でもやっぱり猫なのだ。矛盾してる?
その柄は茶トラ……いや、茶に近いキジトラだ。手……この場合前足? もみっちり毛に覆われ猫そのもの。肉球がぷにぷにしている。
なにこの凶悪な存在。
「いッ」
消毒薬が傷に染みた。今、猫の人は、私の腕にある荊の傷にヨードチンキを塗ってくれている。私はヨードチンキなるものを初めて見たが、瓶にそう書いてあるので間違いない。
猫の人は私の両腕の傷に気づくと、不機嫌そうに西洋東屋まで連れてきてくれ、手当までしてくれている。
「お前は一体何をやってるんだ。ほら、そっちの手も出せ」
私は素直に左腕も出す。
「全く、どこから迷い込んだんだか、傷の手当てがすんだらさっさと出て行け」
猫の人はブチブチ文句をいいながらも、猫の手で器用に私の腕の荊の傷にヨードチンキを塗っていく。このもふもふの手を撫でてもいいだろうか? それともふかふかのお腹に抱きついて……いや、理性、理性。
猫の人も一人の人間なのだ。彼に抱きつくことは、その辺の通りがかりの男性にいきなり抱きつくのと変わらない。
そんなの単なる破廉恥女じゃん。
私は痴女にはなりたくない。我慢、我慢。
不埒なことを考えぬよう私は猫の人から視線を外す。猫の人が腰掛けているベンチの上に麦わら帽子と手ぬぐい、足下にはブリキ製の如雨露。そういえば、さっき出会った時もスコップを手にしていたように思う。彼は庭師なのかもしれない。それから、ゆらゆらと揺れるしましまの尻尾―――
「うっ」
思わず煩悩が口から漏れ出た。ああ、触りたい。
「痛いのか?」
金色の目が気遣わしげに私を見る。縦長の瞳孔が素敵だ。
「い、いえっ……あ、あのっ、私は明日葉。如月明日葉と言います。突然ですが、お友達になってください」
すみません。私は煩悩の塊です。
猫の人は不可解といった表情を浮かべると、不機嫌そうに言った。
「巫山戯るな。ほら、終わったぞ。さっさと行け」
私の欲望の声―――いや、勇気を振り絞った告白は玉砕し、至福の時間は終わりを告げた。私は渋々立ち上がる。
クゥーーーゥ。
お腹が盛大になった。さすがにこれは恥ずかしい。
私は多分真っ赤になったであろう顔を俯かせ、ちらりとテーブルの上に視線を向けた。そこには、ヨードチンキの瓶の他においしそうなサンドイッチが並んでいる。だからこれは仕方が無いことなのだ。人間には抗えない身体の仕組みなのだ。不可抗力ってヤツなのだ。
私の頭の中をいくつもの言い訳がぐるぐると回る。
「はぁ、本当にどうしようもない娘だな。ほら、食え」
「いや、別に催促したわけじゃ……」
さすがにそこまで図々しくはありません。
「ほら何をしている。座って食え。食ったらサッサとどっか行け」
猫の手に誘われ、躊躇していた筈の私はいつのまにか西洋東屋のベンチに腰掛け、サンドイッチを手に取っていた。
食い意地が張っていてスミマセン。
控えめに一口。
「美味しい」
そして、パクッともう一口。
サンドイッチを噛むと、ぐちゃっと手にソースが付いた。もったいない。
「全く、何しているんだ」
ぐちぐち言いながら猫の人が手ぬぐいで私の手を拭いてくれる。
重ね重ねスミマセン。
「おい娘、お前、入学生だろう。こんなところで暢気にしていていいのか?」
猫の人が私の制服のセーラーカラーの記章を指さす。
「?」
「午後からはオリエンテーションじゃないのか?」
はっ、そうだった。
まだクラス分けも確認していないし、菊子も放っておいたままだ。もしかして怒っているかもしれない。
慌てて、サンドイッチを飲み込み立ち上がる。
猫の人がやれやれといった表情を浮かべた。
「ごちそうさまでした。では、失礼します」
その場を立ち去ろうとして、私の足は止まった。
「あの……、えーっと、ここはどこでしょう?」
そうだ。私は迷子だったのだ。
猫の人は呆れた様子を見せたが、律儀なことに庭園の出口まで送ってくれ、さらに講堂への道順を教えてくれた。
「あの……また来ますね」
「もう来んな」
「いえ、手ぬぐいを洗って、お礼に伺います」
私はちゃっかり確保していた手ぬぐいを見せる。
「そんなものいらん。お前にやる。だから、もう来なくていい。それから、ここのことは誰にも言うな」
「わかりました。二人だけの秘密ですね。ではまた!」
「あ、おい」
たまに鈍感に装うのも生きていく知恵だと私は師匠に教わった。
猫の人の名前は聞けなかったが、次の楽しみに取っておこう。私は秘密の花園を見つけたのだ。まだ花は咲いていないけれど。
***
太陽は一日で最も高いところにあり、柔らかい陽射しを地上に降り注ぐ。
エピフィルムは、緑の壁の通路を縫って西洋東屋へと向かっていた。西洋東屋は迷路庭園のほぼ中央に位置するが、迷路を辿らずとも着ける隠し通路が存在する。隠し扉を開け、エピフィルムが西洋東屋に戻ってくると先客があった。
「よお、待ってたぞ。あー腹減った」
長い足を投げ出し、西洋東屋のベンチに腰掛けた日向葵が右手を上げた。
「自治会の仕事はもういいのか?」
「入学式の院生代表の挨拶だけだからな。さあ、腹へった。食うぞ」
葵がテーブルの上にあるサンドイッチの籠の蓋を開く。
先に食べていないとは律儀な奴だとエピフィルムは思う。
「あれ、もう食ったのか?」
籠の中のサンドイッチは僅かに減っていた。
「ああ、闖入者がな。そこから手が生えたから保護した」
エピフィルムが猫の手で背後の生垣を指し示す。
「何だそりゃ、ホラーか? でも、エピが昼間に人に会うとは珍しいじゃないか。うーん、もう少し辛子が効いている方がいいな」
葵がサンドイッチに齧り付く。
「ふん、あの娘が勝手に入ってきただけだ。全く、この庭園は隠蔽の魔法が掛けられているのではなかったのか? 簡単に入ってこられては困る」
エピフィルムが文句を言うが、葵は意に介さずもう一つサンドイッチを手に取った。
「その子は精霊憑きなのかもしれないな。精霊は真実を見抜く目を持っているらしいぞ」
「ふん、欠陥魔法め」
「まあそう言うな。精霊憑きなんてそんなに居ないから、大した影響はないさ。で、どんな娘だったんだ? 可愛い子か?」
「どんなって……」
エピフィルムは先程までここにいた娘の顔を思い出そうとした。しかし、記憶の中のその顔はまるで靄が掛かっているかのように不明瞭だった。
エピ「さあ、そろそろ昼にするか」
ズボっ!
エピ「(何だ!? 手が出た!)」




