416 魔王の僕たち
遅くなりました。
薄い雲がベールのように月を覆う。
明かりが灯らぬ部屋には、窓越しの月が放つ朧気な光が唯一の光源だった。僅かに開かれたテラス窓の隙間から、湿度を孕んだ空気が滲み出し、ねっとりと肌に纏わり付く。室内の薄闇の中を白い何かがゆらゆらと魚のように泳いだ。
「あーあ、失敗しちゃった」
小柄な身体をドサッとソファーに預け、まだ幼さの残る整った顔の少女が口を開く。言葉に反し、顔に落胆の色は見えない。その肩には、モヤモヤとした黒い何かが乗っており、小動物のように小刻みに震えている。
「ふふっ、そんな滑稽な格好までしたのにね」
少女の向かいのソファーに座る豪華な巻き毛の美女が僅かに口元を歪める。あまり実用的とは思えないメイド姿の少女は、少し顔を顰めると頭に乗ったメイドカチューシャをローテーブルの上にポイッと放った。
「ねぇ、知ってる? これってリュウグウノツカイっていう深海魚を模しているのよ」
尻尾のように不自然に長く伸びたドレスエプロンの後ろリボンを摘まみ、少女は巻き毛の美女とその背後の闇に溶け込むように佇む凛とした女騎士に視線を向ける。
「“獣使い”、行儀が悪い」
女騎士が少女を窘めた。彼女の肩にも“獣使い”と呼ばれた少女と同じように黒い何かが蠢いている。
「“剣”ってば、お堅―い。魔王様の御前でもなし、そんなの気にする必要ないわよ。とにかく、早く魔王様にお目にかかりたいわ。ねえ、魔王様はちゃんと自由になられたのよね」
少女の視線の先で巻き毛の美女が愚問とばかり口を開く。
「ワタクシ達がここにこうしておりますもの。魔法様の封印が解かれたことに間違いはありませんわ」
「魔王様、可哀想。ずっと閉じ込められていたなんて……」
“獣使い”が、胸の前で指を組み、芝居がかった様子で嘆く。
「だから魔王様に相応しい環境を整え、お出迎えしなければなりませんわ。十分な贄を捧げてね」
「でも失敗したじゃない。全部無駄になってしまったわ。“歌姫”にもがっかりしちゃう。わざわざ邪魔になりそうな実力者たちに薬を盛ったり、騒ぎを起こしたりして事前に排除したのに、あんなのに簡単に魔法陣を壊されちゃうなんてね」
“獣使い”が批判めいた言葉を吐くと、肩の上の闇がより濃く、はっきりと蠢く。
「そう言うな、“歌姫”に適合する器が見つからなかったのだ。仕方が無いだろう。あのような代わりでも多少は役に立ったさ」
“剣”が感情の籠もらぬ声で“歌姫”の擁護とも侮蔑ともとれる言葉を放った。
「うーん、でもねえ……で、その“歌姫”はどうしたの?」
「ここよ」
巻き毛の美女が差し出した手の中で、今にも消えそうな何かがブルブルと震えており、フッと息を吹きかけると砂のようにサアッと崩れ去った。
「あーあ、“荊”ったら容赦ないんだから。でも、適合する器が見つからなかったんだから仕方がないわよね。でも、アタシ達、魔王様の四天王じゃなくなってしまったわ。これからは、魔王様の三人衆? 三賢人? 何だか締まらないわね」
「誰が欠けようと、我々が魔王様の僕であることは変わらぬ」
「そうだけど、“歌姫”が消えちゃったのに“剣”ったら冷たいわね」
そう言う“獣使い”の口調も塵となった同胞への哀れみなど感じさせなかった。
「ワタクシ達の全ては、魔王様のものですもの。微力でも魔王様のお役に立てたこと、“歌姫”も満足でしょう」
「ふうん、そうかしら? まあいいわ。それで、次はどうするの? “歌姫”なしで魔王様をお迎えできるの?」
「大丈夫、一度あちらと繋がったから問題ないわ。扉を無理矢理こじ開ければ良いのよ。多少時間はかかるでしょうけど……それより気になるのは、あの場に乱入した子ね」
「どっち?」
「“歌姫”を消した聖魔法を使う方……多分、預言された娘だと思うわ。やっぱり邪魔ね」
“獣使い”が記憶の中から該当する名前を探る。
「んー、ああ、サクラキョーコ? あんなおかしなのに邪魔されるなんてね。ホント、何あれ? アメフラシ? それともイソギンチャク? “歌姫”もあんなのにやられるとは、ホント弱すぎよね。“荊”はあんなのが聖女だというの?」
「『大賢は愚かなるが如し』って言うじゃないの」
「はあ? “荊”は、アレが普段は無能の振りをしているとでも?」
“獣使い”はその言葉を知らなかったが、何となく意味は分かった。納得いかないが、“荊”は彼女を高く買っているようだ。
「その『サクラキョーコ』が、“歌姫”の邪魔をしたのは間違いないだろうが、それよりも問題なのは、その後に現れた方じゃないのか?」
“剣”が疑問を投げかけた。
「その後に……? ああ、アンジェリカとかいう……そうね……」
“荊”の記憶を何かがチクチクと刺激するが、それがなんなのかよく分からない。
「まあ、どちらにしろ、私達の邪魔をするようであれば、排除するだけだわ。……でも、何故かしら、彼女からは同族の気配がするのよ」
“荊”が思考に沈み―――
「ねえ、そんなことより、魔王様をお迎えするのはいつ?」
それを邪魔したのは、“獣使い”だった。
「そうねえ……時空の扉をこじ開けるには、十分な魔力を持った贄が大量に必要だから……―――かしらね?」
「えっ、それじゃあ、遅すぎない? 魔王様が痺れを切らしてしまうわよ」
指定された日に納得がいかないのか、“獣使い”が反論する。
「あら、魔王様はもうずっとずっと、長い間封印されていたのよ。ワタクシ達の時間の尺度なんて無意味だわ。ワタクシ達のすべきことは、魔王様をお迎えすることだけ……さあ、魔王様にこの世界を捧げるのよ。ね、そうよね、精霊さん」
“荊”が肩に乗った黒い何かを愛おしげに人差し指で撫でる。黒い何かは眼を細めるような仕草を見せた。
―――カチャ、キィィィ……
ドアがゆっくりと開くとともに、廊下から室内へ光が入り込む。
「あら、こんな時間にまだ誰か居るの?」
部屋の中へ髪を結った女性の影が伸びる。
それと同時に月に掛かった雲のベールが剥がれ、窓越しに月の光が降り注ぐ。その瞬間、少女達の肩に乗った黒い靄たちの姿が月光に溶けるように消えていった。
「寮長先生、申し訳ありません。あまりにも月が美しくて観賞しておりましたの。でももうお開きにいたしますわ」
“荊”は、大輪の薔薇のように初老の寮長へ微笑んだ。
あやつは四天王最弱……




