310 夢見る精霊
「あーあ、お気に入りだったんだけどな……」
私の手の中には赤く染まったハンカチがある。随分草臥れてしまったけれど、これは昔、師匠から誕生日プレゼントとして貰ったものだ。ちなみに、色は赤ではなく白だったのだけれど……。
「ちゃんと落ちるかな? 斑な赤……か、ピンクに染まってしまったらヤダなあ」
私は亜空間収納から小さな丸い手鏡を取り出した。鏡の裏には日付と“鬼頭商店五十周年記念”の剥げ掛かった金文字が読める。これは昔、あの人から貰ったものだ。今思えば顧客に配る記念品に過ぎないのだろうけど、師匠以外からの初めての贈り物に幼い私は天にも昇る気持ちだった。
だってあの日は、私の誕生日が近かったのだもの……
「馬鹿だなあ……私」
鏡に映る私の顔には薄らと赤いものが残っているが、まあ許容範囲だろう。それよりも髪にこびり付いた果汁がベタ付いて気持ち悪い。
「こういう時、水魔法を使えると便利なのに……」
私に水魔法の才能が無いのが悔やまれる。
『コッチダヨー、コッチ』
精霊がぽやぽやと宙に浮かびながら先導し、私は地上に姿を覗かせた巨木の根から根へと跳ねるように後を追う。
『ココダヨー、ココ』
『ダレカー、ダレカー……イルヨ』
突然目の前に扉が現れた。素朴な片開きの木製の扉で、樹木の根元部分の洞を蓋するように垂直というよりやや傾いて設置されている。何だか地下室への扉といった風情だ。大人が通るにはちょっと小さく、子供用といったところだろうか。
これは……………怪しい。
『アケテ、アケテ』
間違いなく怪しい。悪戯好きの精霊が何か仕掛けているかも知れない。
私は精霊に対してすっかり疑心暗鬼になっていた。でも、仕方ないことだと思う。
『マッテル、マッテル』
「ここには誰がいるの?」
この扉の向こうに誰かがいるとしても、人間であるとは考えにくい。
『ダレカー、ダレカー……イル』
びょんびょんと跳ね回る精霊に尋ねたものの相変わらず要領を得ない。でもいつまでもこうしていても仕様が無い。経験上、精霊は悪戯好きだけど、大きな怪我をさせられることは無い筈だ。
「ええい、女は度胸!」
私は意を決して拳を振り下ろし―――
トン、トン。
まずは慎ましく、扉を軽くノック。
ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト……
「ん!?」
私はもう叩いてないよ?
何事!? と思ったら、傍らで精霊達が列を成して次々と扉に突進し、ぶつかっていく。どうやら私がしたノックのまねごとらしい。
『キャハハハハハ……』
これ完全に遊んでいるよね。
ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト……
それにしてもコレいつまで続けるの?
「五月蠅い! いい加減にせんか! 鍵は掛かっておらん。さっさと入ってこい!」
扉の向こうから怒声がした。う、私じゃないです。精霊がやったんです。言い訳させて欲しい。最初から機嫌を損ねるなんて、前途多難もいいとこじゃない?
私は恐る恐るドアノブに手を掛け、引き上げるように力を入れる。が、開かない……というか動かない。え、何で?
「うううー」
もっと力を込めて引いてみた。木の根っ子の上というのもあって足場が悪く、扉を斜めに引き上げるには体勢が取りづらい。ついバランスを崩し、前のめりになる。
「わっ!」
その私の背中に精霊達がのし掛かってくる。扉に手をつき寄りかかると簡単に内側に動いた。
「わわわっ!」
体勢を崩して私と精霊達が室内になだれ込む。どうやら、 “引く”じゃなくて“押す”だったらしい。う、何てベタな……。
ドサッ。
『ワアイ、ワアイ!』
『シュー、ズササー、ドサー』
この状況でも精霊達は遊んでいる。せめて私の上で飛び跳ねるのは止めて欲しい……
「う、痛たたたた……」
両手をついて顔を上げると碧のような蒼いような波がうねっている。それは空間全てを満たしており――――
「え、海?」
波に指を伸ばしても濡れることはない。それどころか波を突き抜ける。
『きゃあ、きゃあ……』
子供の声が聞こえた気がした。そちらに目を向けると、波に重なるように、シミーズのような白いワンピースを着た、はしゃぐ少女の姿がぼんやりと見える。
「これは一体……」
続いて蒼いうねりの向こう側から、奇妙な一団が現れる。
それは巨大な綿埃だった。色鮮やかで様々な形をした巨大な精霊達が行進している。それらには角が生えたり、尻尾が生えたりしており―――これって、百鬼夜行?
『カッコイイネー』
小さな綿埃の精霊が、巨大な綿埃の行列に加わろうと次々と飛び込むが、全て擦り抜けてしまう。
「幻影?」
「ここはのう…心の中を映すのじゃよ」
突然誰かに声を掛けられた。声の主を探すが見当たらない。まさか幻影が声を掛けてきたとか?
「ここじゃ、ここ」
視線を下に向けると、小さなお爺さんが木製のスツールに腰掛けている。お爺さんはホースのようなものを咥え、ぽふっと煙を吐いた。傍らの中央部分が膨らんだ壺がボコボコと音を立てる。壺は底と上部にツタのような装飾がされた透明なもので、中に液体が満たされており、お爺さんがホースを咥える度にポコポコと泡が生まれる。これが噂に聞く水パイプというものだろうか?
「この部屋はのう…ここにいる者の記憶、望み、憧れ、妬み、不安……心の状態が幻影となって現れる」
『デッカーイ、デッカーイ!』
目の前で精霊達が懲りずに何度も何度も突進し、幻影を擦り抜ける。
「じゃあ、これは……?」
精霊の心―――望みなのだろうか?
『キャハハハハハ……』
綿埃がころころと転がる。こいつら完全に遊んでいるな……
「そうじゃの、精霊達の望みなのじゃろうよ」
ザパーン……ザザザザザザ…………
足下に幻の波が寄せてくる。
『きゃあ、きゃあ……』
幾重もの波の向こうで、あの白いワンピースの女の子がはしゃいでいる姿が見える。
それじゃあ、これはお爺さんの記憶なのだろうか?
「あの……」
お爺さんに話し掛けようと振り向くと、亜空間収納に仕舞っていた筈のペンダントが目の前に浮かんでいた。
「あ、また……」
こう勝手に飛び出されると亜空間収納の性能が疑われる。
「ほうほう、これは懐かしいのぉ……」
お爺さんがぽふっと煙を吐く。ペンダントはお爺さんの手の中へと宙をふよふよと移動し、しわしわの手がそっとそれを撫でる。
「そうか……割れてしまったか……」
お爺さんが目を細め、少し哀しげに呟いた。
「え、それってどう言う……と言うか、もしかして私、ペンダントの石を割ってしまったの!?」
そんなに乱暴に扱った覚えはないけれど……まさかあの時の変身で負荷が掛かったとか?
このペンダント、何度かエピさんに返そうと思ったのだけど、エピさんはお前にくれてやったものだからと取り合ってはくれなかった。だからと言って、こんな高価そうなもの受け取る訳にはいかないので、私がしばらく預かることにしたのだ。まあ、私の心の中でそう決めただけだけど。兎に角、そんな大事な預かり物を破損させてしまったのだろうか……
「ああ、お前さんが原因でないから安心せい。これはの、元々は一つの石だったのじゃが、割れてしまったのじゃ……このペンダントはその割れた欠片を加工したものじゃろう。大きな欠片を中央に小さな欠片を周りに配置したのじゃな。上手く加工するものじゃのう。ほら、この中央の石の内部に僅かに罅が入っておるのが見えるじゃろ」
お爺さんがペンダントの中央の石を指し示す。少し白く濁って見えるのが罅だろうか?
それにしてもどうしてこのお爺さんは、そんなことを知っているのだろう?
「なんじゃ? こんな爺がそのようなことを知っておるのが不思議かのう?」
もしかして宝石鑑定士!?
「もしかせんでも、ワシは宝石鑑定士じゃないぞ」
う、心を読まれた。
お爺さんがぽふっ、ぽふっと煙を吐くと、ぽわん、ぽわんとドーナツ型の小さな雲が生まれ、そのドーナツの穴を精霊達が潜って遊んでいる。
「そうじゃのぉ……これがお前さんの手の中にあるのも、何かの巡り合わせじゃろうて……きっと意味があるのじゃろう。折角だし、この爺の戯言でも聞いて貰おうかの……」
ザザーン、ザザーン……
お爺さんは波の抜こう側を、目を細めてしばし見詰めた後、徐に口を開いた。
「さて……じゃ、ワシのことを話す前に、お前さんは獣人についてどの程度知っておるかのう?」
「ええっと―――」
私が獣人について知っていること、それは数が少ないこと、それから―――




