120 不細工
私は走る。
私は逃げる。
あの場所から……現実から―――
涙が止めどなく溢れ、ひっくひっくとしやくり上げる。もう自分ではどうしようも無い。私の顔は、きっとぐちゃぐちゃだろう。
物語の登場人物はどうしてあんなに綺麗に泣けるんだろう?
私はあんな風に綺麗に泣けない。
だから私はあの人の目に映らないのだろうか……?
いいえ、違う。そもそもこの物語に私なんて登場しない。私なんて存在しないのと同じ。物語の登場人物になろうだなんて烏滸がましい。そんな事は分かり切っていた筈なのに、どこかで私は期待していたのだ。記憶の中のゲームと現実は違うって……
馬鹿みたい。
とっくの昔に失恋していたというのに……
「ヒッ、ヒッ……」
上手く呼吸が出来ない中、私はこの現実から逃げ出そうと足掻く。
ボフッ。
俯いて闇雲に走っていた私は柔らかいものにぶつかり、そのまま柔らかさに顔を埋める。私の足は無意識に秘密の花園へと向かっていたらしい。
「おい、迷惑なんだが……」
エピさんはそう言ったものの、縋り付く私を引き剥がすことはなかった。
「ヒッ、ヒック……ズッ……ヒッ、ヒッ、ズッ……」
辺りに響くのは私のしやくり上げる音と鼻を啜る音。
……。
「もういいか?」
どれくらい経ったのだろうか。もの凄く長い時間だったようにも、ほんのちょっとの時間だったような気もする。エピさんは、私が落ち着くまでそのままで居てくれた。
「ズズ……エっビ…ざぁ……ん」
「全く、お前は」
「ごめっ……んなさい……っく、ズビビビビ」
エピさんが差し出した手ぬぐいで涙を拭い、鼻をかむ。私が縋り付いていたエピさんの胸は涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れていた。
「はあ、全く……」
汚れた胸を濡らした手ぬぐいで拭きながら、エピさんは私を睨む。
「どうした。誰かに虐められたのか?」
「エ、エピさーん…」
エピさんの胸に再び抱きつこうとした私の頭はぷにぷにの肉球でぐいっと押しやられた。
「いいから、こっちに座れ」
エピさんに西洋東屋へと誘われ、ベンチに腰を落とした。何故か目の前にサンドイッチと温かい飲み物が出される。
「どうせ腹を空かせているんだろ。いつも腹を鳴らしているからな」
私、エピさんの前でお腹が鳴ったのは初めて会った時だけだと思うんだけど……第一印象って強すぎる。でも有り難くいただきます。
私は温かい飲み物を啜りながら、ポツポツと私があの人に失恋したことを告げた。ただし、あの人が私を覚えていなかったことは話さなかった。それは私のちっぽけな矜持だった。
「それで、お前のソイツに対する気持ちは変わったのか?」
エピさんの問い掛けは私の心を穿つ。
私があの人を好きになったのは、あの人だけが私を見つけてくれたから。それは結局、幻想だったけれど、じゃあ、私の恋心もその幻想と共に消え失せたのか?
ううん、そんな事はない。
そう簡単に心は変わらない。例えあの人が私を覚えていなくても、この気持ちが簡単に消える事はない。
「今でもあの人が好き……」
その言葉と共に涙が溢れる。それは切っ掛けに過ぎない。簡単にこの気持ちが無くなったりしない。
私はエピさんから借りた手ぬぐいで涙―――と鼻水を拭く。
「そんなもの単なる錯覚だと思うがな。まあいいさ、それが変わらない気持ちというならば、是非証明して貰いたいものだね」
エピさんが何処か醒めた様子で言う。
「そうだ。これをお前にやるよ。お前の恋心が本物である事を祈っているよ」
エピさんは繊細な細工が施されたペンダントを私の目の前にぶら下げると、それを私の手に握らせた。
何かこれって、魔法のアイテムっぽい?
ほら、魔法少女とかの変身に使うアレね。普通、魔法少女なら可愛らしい小動物から渡されるのに、私の場合、厳つい大動物から渡されるらしい。
こんな時なのにそんな間の抜けた事を私は思った。
***
「おい、いつまで隠れているつもりだ? 覗き見とは悪趣味なやつだな」
日に透け金色に見える頭がヒョイと覗き、日向葵が悪びれもせず先程まで如月明日葉が座っていた場所に腰を下ろした。
「いやあ、つい登場するタイミングを逃してしまったよ。あ、僕にもサンドイッチをいただけるかな? 飲み物はコーヒーでね」
「自分で入れろ。で、どこから見ていた」
「うーん、明日葉ちゃんがエピの腹に鼻水を擦り付けて泣いていたところから……かな?」
葵がサンドイッチを咥え、魔法瓶からカップにコーヒーを注ぐ。
「ほぼ、初めからじゃないか。人に触れ回るなよ」
「んぐ……やだなあ、僕がそんな軽薄な男だと思っているのかい? 心外だなあ……でも、エピ、アレ渡してしまっても良かったのか? 大切な物なのだろう?」
葵は真剣な顔をすると、エピフィルムの目を見詰め言った。
「ふっ、もういい。疾うの昔に諦めた。どうせ何をしても無駄だろうからな」
エピフィルムの表情は何処か虚ろで、その様子に葵が慌てて取り繕うように口を開く。
「あー、えっと、ほら物語では、呪いを解くには真実の愛が必要とか言うじゃないか。まだチャンスはあるさ」
「はっ、何だよ。真実の愛って……巫山戯てんのか? そんなものがどこに存在するっていうんだ? 口先だけの愛にはもううんざりだ」
何か気に障ったのだろう。普段冷静なエピフィルムの口調が荒くなる。
「そりゃまあ、真実の愛がその辺にゴロゴロ転がってやしないだろうさ……物語でも真実の愛に出会うのに何百年も掛かっていたりするしな」
「はぁ? そんなに待てと? その時には、俺は既に棺桶の中だ」
冷静さを装っているがエピフィルムの口調には苛立ちが混じっている。
「いやいや、物語の中の話じゃないか。……そういや童話では他に、壁に叩きつけると呪いが解けるとかいうのもあったな」
確か蛙にされた王子様の話だ。葵の瞳が「やってみるか?」と語りかける。
「は? どんな物語だよ、そんなので呪いが解けるかよ。それに愛はどこに行った」
「愛、愛かあ……愛といえば、ド定番、王子の口づけとか……」
「拒否する」
間髪を入れず却下である。エピフィルムの何かを疑うような視線が葵を突き刺す。
「いやいやいや、僕だって何を好んで男同士で……」
学院の王子様が慌てて否定し、その様子にエピフィルムの猫の目に獲物を狙うような光が灯る。
「だが、可能性があるなら試してみても良いかもしれん。背に腹はかえられぬと言うだろう」
エピフィルムが葵にぐいっと迫る。巨大な猫に押し倒される学院の王子……
「お、おい」
「冗談だ」
解放された葵が安堵の息を漏らした。
「ったく、洒落にならねぇ」
エピフィルムは呪われている。なお、彼に掛けられた呪いを解く方法は不明である。
一縷の望みに掛け、馬鹿げたことに童話の中の“真実の愛”というものに縋ったこともある。しかし、勿論そんなものはどこにもなかった。
――全く、滑稽な話だな。
愛を囁いていた女達も、彼の姿を見ると嫌悪で顔を歪め、慌てて立ち去った。結果、彼は傷つき、諦めてしまった。
そんな中、彼の目の前に恋に浮かれたお馬鹿な少女が現れた。結局彼女はその恋に破れ、大声で泣く羽目になったのだが―――そこで、彼は問うてみた。
『お前の恋心は本物なのか?』
と―――、そして、気紛れにあの魔法の道具を渡した。彼にはもう不要な物だから。
――もしかして、彼女なら自分が得られなかったものを手に入れられるだろうか?
エピフィルムは首を左右に振った。口では御大層な事を言っても、人の心なんて直ぐに変わるだろう。そして、その内きっと、こう言うのだ。
『ほら、やっぱり真実の愛なんて存在しなかっただろ』
エピフィルムは、彼女の顔を脳裏に描く。ずっと霞がかった彼女の顔が、先程一瞬ではあるが、はっきりと目に焼き付いた。その顔は涙で濡れ、グチャグチャだった。
「ふんっ、ブサイクだな……」
知らず柔らかな笑みが零れた。




