108 【記憶】
桃色の髪の少女が教本を抱え、中庭に面した廊下を進む。その足取りは軽い。そっと制服の袖口を顔に寄せると、甘い香りが鼻を擽り、少女―――アンズはニッコリと微笑んだ。
「先生、この香り、好きだといいな」
制服の裾と袖口には杏の香りのコロンが僅かに付けられており、彼女の動きに合わせ甘い香りがふわりと広がる。
「あ、カズラ先生」
廊下の先の人影がゆっくりと近づいてくる。
「こら、廊下を走るな」
意中の人物の登場に思わず駆け寄ると、諫めの言葉が飛ぶ。が、その声はどこか甘さを帯びていた。
「はぁい、先生。ところで、約束の時間にはまだ早いですけど、もういいのですか? だったら、これから早速、魔力の効率的な循環と活用についてご教授お願いしまぁす」
もちろん二人きりでね。アンズは言外にそう匂わせる。
「それなのだが……」
カズラの顔が俄に曇った。
「すまない。今日の個別授業は中止だ」
「え?」
「これからスミレ……妹が街に行くというのだ。一人では危ないので、私が付き添ってやらねばならない」
カズラの陰から彼と同じ紫色の髪を肩で切りそろえた小柄な女子生徒が顔を覗かせる。
「ごきげんよう、アンズさん。お勉強の邪魔をしてごめんなさい。スミレはこれからお兄様とお出かけなのよ。とっても美味しいあいすくりんのお店が出来たのですって」
クスクスとスミレが笑う。
そして、画面上に現れる三つの選択肢―――
『先生、私と先に約束していましたよね。約束を破るなんて酷いです。スミレさんと出かけるのは今日で無ければならないのですか?』
『わかりました。勉強会は別の日にしましょう。その時はスミレさんも一緒にいかがですか?』
『あいすくりんですか? 美味しそうですね。是非私もご一緒させてください』
***
「はあ? 巫山戯んな!」
アンズの中の人である私は、思わず画面にツッコむ。
全く、妹が妹なら、兄も兄だ!
手にしたコントローラーを投げ付けたい衝動を抑え、一番目の選択肢―――
ではなく、二番目の選択肢にカーソルを合わせ、渋々決定ボタンを押した。
『わかりました。勉強会は別の日にしましょう。その時はスミレさんも一緒にいかがですか?』
個人的には一番目以外あり得ない。でも仕方が無いのだ。カズラ攻略のためには二番目の選択肢を選ばねばならない。
なぜならば、攻略本にそう書いてあるから!
攻略対象が気に食わなくても一通り全てのエンディングを見るのは私の義務である。
なぜならば、なけなしのお小遣いを投じたのだから!
―――と、いうことで、私は自分の意思とは乖離した選択肢を選んでいく。
アンズが日頃のお礼にと、ネクタイを贈った翌日―――、
「スミレが、ネクタイはこちらが良いと言うのだが、君はどう思う?」
スミレ様がそうおっしゃるならその通りでございます。
決定ボタンをポチッ。
『とても素敵だわ。さすがスミレさん、センスがいいですね』
何故スルメ柄? どこで売ってんの? それ?
ようやくカズラとのデートに漕ぎ着け―――、
「次の休みは、スミレが魚市場に行きたいと言うんだ。君ももちろんいいよな」
はいはい、スミレ様優先ですね。
決定ボタン、ポチッ。
『もちろんです。スミレさんと一緒のお出かけ、お休みが待ち遠しいです』
本当に私は一体、誰を攻略しているのでしょう?
そして、攻略本に従いカズラの攻略が進み―――、
画面の中では何故かアンズとカズラとスミレの三人のデートイベントが発生していた。
何これ?
で、何故魚市場……?
「ふふっ、スミレはアンズのことがモーレイと同じくらい大好きよ。アンズは私の親友だわ」
はいはい、ポチッ。
『もちろん、私もよ。私たち、ずっと一緒ね』
モーレイが何か知りませんが、スミレ様はアンズのことが大好きなのですね。
でも中の人はそうでもありません。口先と本音は違うんですよ。
で、肝心のカズラはどこ? スチルに見当たらないけれど……え、まさかこの背後の小さい黒いヤツ……
そして、そして遂に訪れたエンディング! ああ、長かった―――……
アンズの前に現れたのは――――
「……………………え!?」
私の手からコントローラーが滑り落ちた。
いや、何故またお前!? 私は、一体どこで間違えた!?
モーレイ イール= moray eel
スミレ「これよこれ、これが食べたかったの♪」
カズラ「スミレ、あいすくりんに刺さっているコレは何だい?」
スミレ「ワラスボの干物ですわ、お兄様」
カズラ「…………そうか」