秩序という倫理
ちょっと勇み足なきはします。
世界はなぜそこまでして存在するのでしょう。「事実として世界はこのように存在するから存在するのであって、それを疑っても仕方ない。世界はあるのだから、その世界のあるを有意義に生きるだけだ」というのは、ある意味真実に近いところだと思います。ただ、もっと深く分析することもできます。そして、深く分析した結果として、同じところに戻ってきます。
世界は事実としてあるのだからあるのだ、というのは何も情報を含んでいません。しかし、となると、日常、生活の根源にある世界についての情報が空白になったまま、人間は生きているのでしょうか。そうである人もいます。
ここで、事実としてあるというのは、そもそも対称性の破れです。物質界の真空はそれ自体がエネルギーを持ちます。真空がエネルギーを持つのは、対称性が破れているからです。すなわち物質として存在するというのは初めから対称性が破れています。もし仮に、ゼロがプラスとマイナスに分離せず、ずっとゼロのままであったなら、対称性という概念は生じないでしょう。わずかでも揺らいで、プラスとマイナスになった、あるいはプラスの世界から見られるプラスの物質が存在するようになったと認識されたということが、対称性が破れた証拠です。
対称性は回転によっても破れます。回転の方向に右と左はあっても、プラスもマイナスも優劣もありません。プラスとマイナスも優劣とは関係ない概念です。私たちが住んでいる世界の物質がプラスをプラスと認識する事実があるから、プラスがプラスであり優位だと信じてしまうだけです。そういう意味では、プラスはマイナスを想定する、つまり存在は非存在を要請します。
もう一度、冒頭に戻ります。世界はなぜそこまでして存在するのでしょう。対称性が破れてしまうようにできているからだと思われます。そこに何らかの動きや揺らぎがあるとき、対称性は破れます。つまり、対称性が破れることが生きているということなのかもしれません。物質というのは完全に対称性の破れによって存在します。対称性の破れとして真空がエネルギーを持つこと、そしてそのエネルギーは物質の形態をとることがあるからです。
物質というのは存在することからして歪つです。少し話は飛びますが、秩序というのは対称性からの有意義なずれを言います。エントロピーという言い方をするとピンとくるかもしれませんが、秩序とはエントロピーの小さい状態です。文明や文化というのは、対称性が破れていきつつ、秩序が構築されていく過程です。物質化しつつ、意味が満ちていくというのが生命の営みです。
秩序が構築されつつ、対称性が破れていくときには可逆変化が起きています。この点、秩序が崩壊しつつ、対称性が破れるときには不可逆変化が起こっているのです。私たち生命の、いや人間の価値はどこにあるかといえば、対称性の破れを無意味に起こさないこと、つまりは秩序を創出しつつ意味のある対称性の破れを構築することにあります。そういう存在が、歴史を発展させることになるからです。
秩序の最たるものとして、書物があります。書物に込められた意味はエントロピーのとても低い状態です。特にその物語が真実に根差していて、秩序だったストーリーを持つとき、そのエントロピーは低く、それを読んだ人間のエントロピーも低くしてくれます。人間はエントロピーを増大させて快楽をむさぼることもできますが、エントロピーを減少させて、周囲の環境のエントロピーを減少させて、文明や文化を秩序だったものにすることができるのです。
世界は秩序を構築しながら育ちます。秩序が育たない世界では、認識すら発生しないかもしれません。逆に言えば、せっかく秩序が構築された世界を、エントロピーを増大させる能力しかない生物が覆ってしまえば、その世界は熱的な終焉に向かいます。よく言われる、シンギュラリティというのが到来するとき、人間は秩序を生み出すことのない人工知能に負けて、この世界をただ冷たく冷えていくのを待つだけの存在へと落ち込みます。
そういう意味で、真実が書かれた書物や伝承は大事です。焚書などというのは許される行為ではありません。検閲もそれに準じます。秩序を扱った書物について、人の目に触れないようにするということは、人間をエントロピーを増大させるだけの快楽お化けへと変える行為です。
なぜ世界はそうまでして存在するのでしょう。秩序のためです。そして秩序こそ倫理であり、倫理のための対称性です。対称性がこの世界の基準として構造化しているから、倫理という機能が可能になっているのであり、これは倫理が対称性を要求したと考えるべきです。そして、世界を生きる理由は倫理のためであり、対称性という構造を学ぶためだと言えます。
世界は対称性を内包します。事実としてそうなってます。そうなっているのだから、人間は秩序という倫理ゲームをやることが運命づけられています。それをやらない人間はもはや生きている意味を喪失します。そういう意味では、事実として生きているのだから生きるしかない、ただし倫理を掲げて、ということになります。倫理のために世界はあります。世界は倫理のおかげで永続します。倫理と世界は円環の関係にあるのです。
今の段階でここまで言うのは少し行きすぎですが、あえて結論に近いところを書の冒頭部分で提示してしまいます。