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私が私に何としても伝えたいこと  作者: 深谷玄冬(松木朱夏)
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形而上学的形而下学入門

138億年の宇宙の歴史、100年の人間個人の歴史、このギャップを埋める思考は発想の転換だけでもたらされます。

世界があらかじめ在って、そこに遺伝子をもらってたんぱく形成した有機体として人間は存在するようになる、と信じている人はほとんどで、それに異を唱えたりしたらまず間違いなく奇異の目で見られるでしょう。宇宙の中に身体があるというのはとても強い信仰となって地球を覆っており、地球はそれゆえに物理の星だったりします。そういう信仰は代々受け継がれて今の地球物理の詳細な発展と解明となっているので、実に素晴らしい受け継がれた歴史的遺産ですが、あまりにもそればかりに気を取られると、なんのためにそんな舞台装置まで用意して、体として経験できる世界が出来上がっているのかという本質を見失います。


生まれ変わった私は、上の文章をどれくらい理解できるでしょう。機能が構造を要求するという基準からすると、世界が私を生んだのではなく、私の経験のためにこそ世界は構造化したということができ、これは世界にただ一人自分が存在するという実感を持ったことのある人であれば、うっすらと理解の範疇になるでしょう。しかし、現代物理学や遺伝生物学などまでが、私の経験のために構築されたなどと言ったら、少し神がかりすぎてしまいます。ただ、全く神がからないかといえば、それらを詳細に理解することができれば、世界創造の秘密に迫ることもでき、数学がそこでの形而上学であることもわかったりします。


なんにせよ、哲学史でいえばプラトンで大抵のことは尽きています。論理実証主義者が大切にしている実証できることのみを語ることも、それはただ物事の判断を身体が行っているという大前提に立っているので、その前提よりも深いところで思考されるプラトンが、論理実証主義者には理解不可能なのは当然と言えます。


科学とはどうやって生まれたのでしょう。科学はその根底に何度も言うように身体の感覚器官の存在があります。感覚器官でキャッチできないことは超越として語りえないものであると判断されます。経験の範疇に入らないことを排除することで科学のストイックさは守護されますが、反面、経験に還元されることが目的となってしまうと、単なる強引な技術としての側面があふれ出てきて、文化を押しのけて文明を作り上げてしまいます。


文明と文化、どちらが人間の営みかと言われれば、間違いなく文化です。文明は手段であり道具にすぎません。その点、文化は文明も含む形で、その美を楽しむためにこそあります。文明が身体が担い、身体を支えるものだとしたら、文化は精神が要求し、精神を楽しませるためにあります。人間の本質は身体ではなく精神です。ですから、文化が重要で、その支えとなる意味で文明はその役割を与えられます。


世界には法則と呼ばれるものがあり、そのほかに世界に住む個体はそれぞれ歴史や記憶を持っています。世界の法則はすべての精神ある個体に通用する原理であり、真実と呼ぶべきですが、それぞれの歴史や記憶については、覚醒した個体の意識にとって限定された情報であり、事実と呼ぶべきものです。真実と事実は絡み合って、その意識にとっての世界を形成します。


私は世界に産み落とされたのではなく、私が発生したことで世界は形成されたのです。そう考えるならば、身体に先立って精神があることになり、当然、身体を大切にしたいと思うならば精神を大切にしなくてはならないことになります。


物理に特化した文明の中では、法の実証性も物理に求められてしまいますが、実際に真実を語るのは主体の意識に根差した精神活動の中です。このあたりも、のちの章で詳しく論じてみたいと思っているところです。


精神が見る法則の中で最も重要なのは、対称性だと思って間違いありません。対称性は、意識の発生より前か、同時に真実となって存在するようになっています。対称性の破れたこの世界でも破れるということは元は対称性を満たしていたということです。そして、通常破れが解消されれば対称性に戻ります。死や忘却はこの辺りの事情と密接な関係がありますが、これももっとわかりやすい形で、のちに論じることになります。


私の世界は、真実と呼ばれる法則、私の場合は対称性とその破れを直視した形で、日本という国で生まれ育ち、日本語をベースに歴史や数学を学び、それを確かな記憶として信じることで、この世界の在り方に現実感を持って暮らしています。この世界は、対称性という真実があり、私の記憶や歴史という事実があって形成されています。事実を入れ替えることによって、私は他者になることもできますが、事実を入れ替えることがほとんど不可能なので、この世界が終わるまでは私は私のままでいられます。


さあ、生まれ変わった私はもしかしたら、身体を中心とした世界観を持っているかもしれません。身体を中心とした世界観からは、精神の世界観は非常にわかりづらいと思います。しかし、丸暗記でもいいからそう覚えておいた方が、誰もが世界の犠牲者になることなく、自らの意志で世界を変えていくことができるようになります。世界は事実の解釈次第なのです。この辺りは、科学技術が変革をもたらすことよりも、さらに大きく人生に寄与する部分なので、精神の存在を思うのであれば、よく考えてみるべきです。もとより、この書はそのあたりのことを特に重要視して語るつもりではあります。

強い人間原理に酷似していますが、実際に考えるともっと大胆なことを言っています。シミュレーション仮説に紐解くと、様々な宇宙の見方ができます。真実と事実という発想は、私はドイツ観念論の学習から着想を得ています。

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