世界はいかに存在するか。あるいはいかに存在しないか。
最初は難しいのです。なぞはだんだん解けるようにできています。解けるようになるならば。
形而上学の第一原理の前にある原理とは、一体何でしょう。この世界での第一の問いは何かということでもあります。私はそれは「世界はなぜ、どのようにして存在するか? あるいは世界はどのようにして存在しているように見えるか?」ではないかと考えます。そして、私自身はそれに対する答えを明確に持っていたりします。
答えを持っているとはいえ、一言で答えられるものではありません。なにせ、同じ問いに発したハイデガーは『存在と時間』を執筆しようとして失敗しましたし、かのライプニッツもむしろその問いを発した人間として重要な感じです。そして、もちろん、宇宙がビッグバンで始まった、などとする科学的宇宙論は、「それなら時間はいつ始まったの?」という問いの前に撃沈するのを避けられません。とはいえ、経験的に生きる人からすれば、時間の始まりなどどうでもいいことなので、ビッグバン宇宙論で十分だし、ビッグバン宇宙論を知っているからと言って、経験的な生活に何かかかわりがありそうもないので、どうでもいいと思っている人がほとんどでしょう。
でも、それは危うい綱渡りな生き方だと思います。自分の足元にある世界がどういう理由で存在するかにも無頓着だし、どのような仕組みで動いているかにも興味がないということであれば、新しい出来事に対する対策など立てられようがないし、自分より頭がいい人の言いなりになって生活する羽目に陥ってしまいます。それは楽な生き方かもしれませんが、私は形而上学に通じた人間として、それは人生全部を黒歴史に変える生き方だと断言してしまいます。生まれ変わった私はこの部分を読んでどう思うのでしょう。
宇宙には理由があるのかないのか。仕組みがあるのかないのか。宇宙が世界なのか、世界が宇宙なのか。言葉遊びみたいですが、普通の人は全然わかってません。
そもそも世界を語るときに、それを語りの対象とする時点で、語りの主体が要求されていることに気がついているでしょうか。世界が存在しようと存在しまいと、世界について語る主体が存在することだけは、その主体にとってのみ自明となっています。これは「われ思うゆえにわれあり」と述べたデカルト的な発想ですが、注意しなくてはならないのは主体だけの存在というのはあり得ないという点です。(己自身を客体とみることについてはまた深い議論の対象となりますが、その自意識すら独立して存在できるわけではありません。)
実際のところ、主体と客体はセットなのです。そして客体からは主体が客体に見えることもあるし、主体からは客体の主体を想定することもできるわけです。このようにセットであるという点に着目すると、存在は対称性を持つといえてしまいます。
突然、対称性などという言葉が出てきましたが、さらに唐突なことを重ねていってしまえば、「存在は対称性への信仰の乱れで生じる」と表現できます。これが形而上学の第0原理です。
もちろん、これには徹底した解説と論証が必要です。ここではまず論証よりも解説に重きを置いてみた方が、経験的には理解しやすいと思いますのでそうします。すでにここで、経験的というのも概念的というのとセットになって、時間と永遠を背景とした対称性によって構成されているのですが、それくらい対称性というのはこの世界で強力に働いています。
人口に膾炙しているという意味では、ビッグバン宇宙の話が一番語りやすいのかもしれません。ビッグバンを開始とするという言説は、すでに時間というのが虚数項としての実体を持ってしまった後の話にはなるのですが、ビッグバンで生じた宇宙には対称性の破れがすでにあります。物質とはエネルギー的に見て安定しているから存在するのですが、その安定している場所はゼロからは外れています。物質は対称性が破れているからこそ存在できます。存在とは、歪なものなのです。
形而上的に言うなら、存在は非存在とセットになって空を形成しますとなりますが、宇宙も真空から生じてゼロからずれた形で、正(存在)と負(非存在)の世界に分離しているはずです。正の存在は正の存在からは確認できるけれども、負の存在によっては確認できないし、負の存在は正の存在によってはどうやっても確認できないけれども、負の存在にとっては当たり前なのです。負の存在とは存在しないこと。存在しないこととは、存在しないという形で存在することです。
確認はできないけれども、概念としてはどうしてもそうでなくてはならないという形でその存在を予言されます。ダークマターなどは絶対に存在としては確認できませんが、それが存在することは計算されて出てくるという具合です。現代物理学の標準模型になりつつあるM理論でも、超対称性というのが提示されているのは有名です。物質と力、プラスとマイナス、引力と斥力、右と左、過去と未来、入れ子構造の中にも対称性が含まれています。
そもそもこのお話の中で、当たり前に存在しているように感じている時間についての対称性の破れが経験を可能にしています。時間の矢はエントロピーの増大する方向にしか進みません。だから、世界はシンプルなところからだんだん複雑になっていき、最後は秩序を失って飛散していきます。これを救済するのが、ダークエネルギーと呼ばれる非存在なのですが、そのことはまだ自然科学では話題に上ってないと思います。飛散しないようにする仕組みについては、このように形而上学ならば示すことができますが、経験に彩られた主体や客体は理解できません。なぜなら、それは永遠を体験的に理解することと等価だからです。つまり、絶対に経験ではたどり着かない領域なのです。
だいぶ文章や論旨が乱れてきましたが、対称性の大事さは理解できたでしょうか。経験ではなく概念で物事を考える方は、おそらくなんとなく理解できると思うのです。なにしろ概念の世界はそもそも対称性が成立している世界でもありますから。先ほどの述べた通り、経験世界は物質一つとっても対称性が破れているからこそ、存在という歪さを示すと言えます。つまり、経験とは歪であり、そこから概念に回帰することで真の安定はもたらされます。仏教ならそれを解脱というのかもしれません。
繰り返しになりますが、存在は非存在とセットになっています。存在も無も極性が反対なだけで同じものです。しかし、存在が存在として存在しているように見えるのは、認識する主体がその主体の存在をまず信じ込むところから始まっています。私は存在する。これを疑う経験主体はまずいないのです。そして、経験主体は周りの客体を対象として認識し、二次的にその存在を確信します。ここで、認識に先立って、信じるという作用が先行しています。この辺りは、認識論としてカントの『純粋理性批判』が重要な書物となっていて、ここでは客体の存在は要請されるという形でその実体性を論じられています。
これくらい乱れ書きしたところで、もう一度、形而上学の第0原理を掲げてみます。
「存在は対称性への信仰の乱れで生じる」
まず、存在と非存在の混沌の海=(真)空に信仰が発生しますが、それ自体が存在と非存在のどちらかを切り捨てる対称性の破れです。信仰とは主体が己の存在を信じることです。「われ思うゆえにわれあり」とわれを発見したときにはすでに対称性は破れています。そして、われを発見する以前へと回帰するときには、必ず分離した対称性の片割れが再結合することになります。あらゆる世界は、破れては再結合するの繰り返しです。破れるのが誕生、再結合が死です。
これが、世界存在の根源的な限界であり、可能性の始原となります。
形而上学は第一原理と第0原理の繰り返しです。それ以上のものはありません。だから、対称性と信じる、機能と構造、という枠組みさえわかってしまえば、経験世界などは児戯に等しい対象となります。まあ、生きるのは大変ですけどね。