すべての悲劇の真因は善意が無造作に表現されることにあるのです
善意の問題はよく誤解を招きますが、それはなぜなのでしょう。そのあたりの分析に入ってみます。
【善意】
標語7:「善意は持ち続けるだけでこそ価値があるのです」
標語8:「すべての悲劇の真因は善意が無造作に表現されることにあるのです」
善意は誰にとっても素晴らしいからこそ善意です。そして善とは正しさと無関係ではなく、正しさは追究し続けるものです。また、正しさも善も時空間の一点(歴史のある時点や地域)で絶対的に決定することはありません。ですから、善意は具体的に表現されたときには悪と解釈される可能性を常に有するのです。
そういう意味において、善意とは表現しないところまでを厳密には言います。善意を表現したとたんに、それは善と悪に分離する必然なのです。概念には絶対的な善が存在しますが、物理的現実には善は悪と同居することしかできないのです。悪を太極として含む場合のみ、善は成立するのです。
「やらぬ善より、やる偽善」という言葉がありますが、やる偽善は誰かにとって悪だから偽善と呼ばれます。善意というのは概念なので純粋であり得ますが、善と思って為したことは自分の意志が関わることがなくなった時点で、いつでも悪に転換するのです。善を為すというのであれば、すべて偽善となりうることを理解すべきでしょう。その認識がない場合は、元をたどって善意が善であるかどうかすら危うくなるのです。
ですから、現実を生きる次善策としては、善意に達するために正しさを追究すべきなのです。正しさの追究の過程で為すことであれば、それが善と解釈されようが、悪と解釈されようが、自分の中では完全に善意となります。ですから須らく行為は善意から発するのではなく、善意を持つために行為するべきなのです。それだけが本当の善に達する道なので、偽善というのは本人が善だと認識しているからこそ醜悪でもあります。
誰もが非難する悪を為すことよりも、善を確信して行為することの方が実質的な罪は大きいのです。この認識がないと社会はどんどん固定化された道徳が信仰されるようになり、その道徳は絶対的な正しさはないのでそれを嘲笑う存在が台頭することで、正しさの作用により反省を促されるようになります。ある社会や個人において道徳的な悪が出現するのであれば、そこで善とされる行為にこそ(その道徳の存在こそ)、悲劇を生んでいる真の原因ではないかと疑うべきです。善意は善としては表現されません。表現されたときには善と悪に必ず分離するのです。
善は正しさに通じる概念です。正しいことは常に追究の対象ですし、善意とはその追究する意志にこそふさわしい名前です。そして正しいことは正しくなってみないと正しいとわからないのです。ですから、正しいのではないだろうか、と行為してみるしかありません。行為の結果が責任とれるようであれば、正しいの範疇だと考えていいでしょう。
ですから最初から善であろうというのは無理です。行為してみた結果を受け取り、それを考えることで正しさを磨いていく。これが善意です。現実的に表現されたら、絶対にどんな行為も善と悪になるのです。その時代の多数者が善と決めることが、正しいわけではないですし、知識や理解が足りない状態で自明だと信仰する善が正しいわけでもないのです。
決められた善を表現することよりも、正しさを追究する善意を内面に宿す方が価値があります。その善意だけは誰が何と言おうと、正しいという意味で善でしかありえません。この善だけは時空を超えて成立します。
いえ、これももちろん疑うべきことですから、自分の経験の中で確認していくべきでしょう。こういうことを意識するのが習慣になれば、それだけで人生は圧倒的に充実すると思います。この充実を人生の素晴らしさと感じることもあるでしょう。
正しさの追求が善意につながる。一つには正しいと思って書きました。そう考える正しさが広がれば、世界は平和になるだろうと希求したのもあります。平和を願うことは善意なのでしょうか。少なくとも私はこれらの文章を用いて、自分を優位に立たせたいわけではありません。それだからこそ、タイトルも「私が私に伝えたいこと」なのです。




