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私が私に何としても伝えたいこと  作者: 深谷玄冬(松木朱夏)
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形而上学入門

自分のために書きます。

世界で最も大切な知識は形而上学です。形而上学はメタフィジカ、フィジカが自然学と訳されるとするならば、その前に置かれるもの、その前提とかいう意味になります。


自然学は21世紀現代では自然科学が隆盛を誇っていますが、科学は人間という動物の五感の延長線上にある物質というのを基準に形成されているので、必ずしもそれがすべてではありません。世界は感覚だけでなく、思弁的な領域にも存在しますし、感情的な領域にも、ほかにも存在します。観点の違い、以上のものがそこにはあります。


こういったこと自体が、形而上学に興味を持って初めて議論される内容だけに、自然科学で興味が止まってしまった人たちが形而上学に踏み込んでくることは、現代においては稀有なことだといえるでしょう。現代においてはということは、古典の世界ではむしろ形而上学は真っ先に履修する内容でした。


形而上学の難しさは、その表現の多様性があり、共有していると素朴に信じられる物質に対する感覚をベースにしていないこともあって、不可知な領域の学問とみなされたり、神のみぞ知る学問とみなされたり、結局何も語っていない空虚だとみなされたりするわけです。


しかし、空虚というなら自然科学も同じです。自然科学というのが厳然としてあったとして、それを自然科学として成立させる認識はどこで語られるのでしょう。ただ、自然科学の百科事典が読む人もなく書く人もないのに、どんどん分厚くなっていくのと何が違うのでしょう。


自然科学の物質性を支えるには感覚が存在しますし、感覚は思弁や感情によって整理されます。そういう意味では物質に先立って、精神的とでもいうものが存在するとしたほうが理には適っています。


自然科学も21世紀現代において、著しい進歩を見せ、宇宙の始まりがビッグバンから生じたことを車椅子の天才科学者が数式で証明したりもしていますが、ビッグバン以前、ビッグバン外部、ビッグバン開始原理などについては必ずしも明確ではありません。


それもそのはずで、ビッグバンはこの宇宙の最初の出来事に過ぎず、真なる宇宙の一番最初の出来事ではないからです。そして、科学の限界はこの宇宙の最初の前には遡れないからです。例として超弦理論によれば二つの大きな11次元構造体の衝突でビッグバンは生じたなどと言われることもあり、その場合にはこの世界の宇宙の外側や以前の世界についても想像をめぐらすことは可能になりますが、それでも十分ではありません。


何度も言うように、物質の前に精神があります。科学的世界観で世の中のすべてを説明できないのは当たり前のことで、それを無理に説明しようとする結果、「利己的な遺伝子」のような人間の人間たるゆえんを貶めるような言説にたどり着いてしまうこともあります。


しかし物質として以外に宇宙、いわゆる世界をどうやって見るのかという問いは存在するし、それは非常に難問です。答えが難しいのではなく、答えるのが難しいのです。


繰り返しになりますが、宇宙とは認識対象ですが、認識対象からは認識主体が同時に存在することを要求されます。これは逆ではありません。宇宙は認識対象であることによって、宇宙を認識する存在を要求して創造したのです。これがビッグバン以前に起きたことで、思弁的に見ても宇宙のほぼ最初の出来事と言えるでしょう。


この意味で言えば、宇宙は単なる物質ではなく精神的なものでもあるはずです。認識主体とセットになって認識対象となっていると同時に、認識主体を観察する認識主体でもある可能性が高いです。この場合は汎神論と呼ばれる立場になると思うのですが、各論はもう少し後で考えます。


自然学が成立する前提である、こういうことまで踏み込むのが、形而上学探求の本質であり、本当は科学哲学と呼ばれる仕事は形而上学でなければならないはずです。


そんなことを研究して何の役に立つのか、とは、生まれ変わった私はそんな根源的な愚問は発しないはず、と信じていますが、それでも万が一のために説明しておくと、世界がある理由と私がある理由がここには凝縮されており、これは人生を送るにあたっての一番根本となる大前提になってくるわけです。この領域をすっ飛ばして人生を駆け抜けてしまった場合、あるのは死の永遠の静寂か、生に対する果て無き後悔になります。人生の意味と目的とあり方とやりがいを知って、どんな状況でも腐らずに真摯に生きることが、人生の覇者としては必要なことなので、この文章を書く私は、再び生まれた私に、絶対に知っておいてほしいと思っています。


形而上学が理解できるなら、人間の営みなど単純すぎるくらい単純で、思い通りにならないことの妙味や、正しく努力して手に入れた愛の偉大さなど、遺伝子では説明できない意味と意義とを感じることができ、それが永遠に続くのだと理解すらできるでしょう。


私が万が一、死ぬことがあったら、この文章を最初に読めるよう望みます。形而上学こそが人生の覇者には必要だと説いたこの文章を魂の記憶から想起できるように。

世界で最もシリアスな本にします。

いずれ自費出版を考えているものの下書きとします。

質問等は随時受け付けていますが、

何がわからないかすらわからないというのが普通だと思うので、

気にすることはありません。

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