第九話 魔術とは?
設定回です。
「……あんまりキョロキョロしてると怪しまれますよ」
「あ、ああ……だがこいつは……すげえ」
酒場へ向かう途中の道。転移先の路地裏を出た二人は大通りを歩いていた。
両端に並ぶ外灯と家屋の硝子から漏れ出る明かりに照らされたその道には、所狭しと人が往来する。
その誰もが、見た事のない服装を身に纏い、見知らぬ物体を抱えて歩く。馬車に似た構造の乗り物を、得体の知れない機械のようなものが引く。
目に映る全てが未知。何より所々から漂ってくる魔力。微弱ながら感じられるそれは、間違いなく自分の使う力と同じもの。
……本当に、本当に来たのだ、自分の力が異物でない世界に。
近衛はその感動に、心静かに胸打たれていた。
「うおぅっ」
視界に意識を取られているうちに馬車に似た車両と肩がぶつかり、大きく体勢を崩して咄嗟に石畳の地面に手を着く。
「もうっ、何ぼやぼやしてんですか」
「ああ、悪り……ん?」
地面に顔が近づいたことで微かに聞こえた音に、近衛は訝しんだ。地面から確かに、水が流れる音がしたのだ。
「どうしました?」
「いや……。なあ、この下には何が通ってる」
「ああ……下は水路です。東方の『精霊林』からの水を街全体に行き渡らせているんですよ」
「せいれいりん?」
聞いたことのない単語に近衛は更に首を傾げるが、メアリは構わず彼の腕を掴んで歩を進める。
「精霊林、知らないですか……今までどんな世界で生きてきたんです? ま、その辺の話は後でしてあげますよ」
しばらく近衛の手を引いて進むメアリ。程なくして段々とすれ違う人の数は減っていき、石畳や家屋にも汚れや傷が目立ち始める。
メアリは大通りを横切り、再び狭い路地裏に踏み込む。
その長く暗い道を三度ほど曲がった先に、扉が一つ。薄暗い空間の中、電球らしきものでぽつねんと照らされたそれが、酒場への入り口だった。
「ここです」
「……ここホントに大丈夫なのか?」
「大丈夫、って単語が治安を指すのか衛生環境を指すのかは知りませんが」
メアリは迷いなく扉を開く。巻き上がる埃はかび臭い。
「貴方、そんなこと気にしてられる身分じゃないでしょ」
「……確かにな」
その酒場は、穴倉のように地下にあった。
扉から四十段程の階段を下れば、そこは教室ほどの広さの空間。
漆喰壁に据え付けられた棚には所狭しと並べられた酒瓶。
空間の一角を占めるのはバーカウンター。その奥には窓があり、そこに置かれる料理や酒を、エプロン姿の少女がせっせとテーブルまで運んでいる。
何より激しく主張しているのが、この狭い店内にごった返している客の歓声と熱気だ。
密閉された部屋の湿気と相まって、むせ返りそうになる。こういう空気に近衛は慣れていなかった。
「……一番人が少なくて、これなのか?」
「ええ、まあ大体こんなもんですよ」
毅然と店内を進むメアリの背中を追って、近衛もテーブルや椅子を避け、隅の小さい席に腰を下ろした。
すぐさまエプロン姿の少女が駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませっ、ご注文は?」
「あっ、っと……うーん」
渡されたメニュー表を見て、近衛は困惑した。
地球で食されている食材の名前がほとんど見当たらないのだ。幸いにも文字が読めないということはなかったが、見知った単語がほとんど見当たらない。
だがぐずぐずしていると不審がられてしまう。
「……この店で一番人気のメニューを頼む」
考えうる限り最も不確かで安全と思われる答えに、少女は一瞬きょとんとしながらも承諾してくれた。
「はいっ、おススメですね! そちらさんはどうしますか?」
「『ブラッディソイル』をジョッキで」
「はい、かしこまりましたっ!」
何やら珍妙な名称のものを注文するとメアリは少女に硬貨を渡す。溌剌な返事で厨房の方へ向かう少女。
少しして、近衛はため息をついた。再認識したばかりだが、やはりここは異世界だ。どうやら俺の知識や常識は本当に通用しないらしい。
「悪くない判断です。浅はかな推察で変なものを食べずに済みますから」
「そういうなら何がどんなもんか教えてくれりゃよかったじゃねえか……で、あんた何頼んだんだよ」
「酒です。この国ではかつて酒が禁じられていた時期があったようで……それでも飲みたい農夫が妻を殺してその墓を酒蔵庫代わりにして作ったのが、ブラッディソイル。今じゃそれもただの果実酒ですがね」
「……胃が空でよかったよ」
滔々とえげつない事を語るメアリの前に、赤い透明の液体が入ったジョッキが運ばれてくる。おどろおどろしい経歴を持つそれをぐいっと飲み干した。
「で、貴方なんでそんな世間知らずなんです? 魔術のまの字も知らないなんて、三歳の時の私でももうちょい賢かったですよ」
「……ああ、俺の世界では魔術ってのがポピュラーじゃなくてな。俺の周りに他の魔術師はいなくてよ。誰も俺の力について教えてくれなかったよ。自力で調べる術もなかった」
「その割には随分な力をお持ちのようですが、それは?」
「……これは元々俺の力じゃねえのさ。俺が死にかけてた時、魔術師だった親父の肉体を移植してな。それで……このザマってわけだ、ハハ」
自分の身の上話をするのが恥ずかしくなって、メアリのグラスを奪って飲む。
わざとらしい笑いを浮かべる近衛に対し、メアリは顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。
「ふむ……しかし、にわかには信じがたい話ですね。肉親とはいえ術式の移植など。よく拒絶反応が出なかったものです」
「拒絶反応? ああ、使った後は身体の具合が悪くなるが?」
「拒絶反応はそんな一時的なものではすみませんよ。移植先の肉体との魔力が噛み合わなければ、瞬く間に身体が内部崩壊してドロドロに……それにもし適合したとしても、途切れ途切れの術式のスペックなどたかが知れています……相当運がよかったのか、それとも元々の力が相当だったか……」
勝手にぶつぶつと考察し始めるメアリを引き戻すように、近衛は声を少し大きくした。
「……理解できるように話してくれ。そもそも何なんだ魔術ってのは? 情けない質問だが、俺はそんな事さえ知らないんだ」
「……そうですね、いいでしょう」
足を組んで長い息を吐き出すと、メアリは再び話し始めた。
「魔力とは……厳密に定義はされていません。少なくとも私の世界では。生命体に宿る不思議な力と思うのがよろしい。実体を持たず、感情や意思といった心理的・生理的現象に強く反応する、とされています。それを様々な手段で力に変換するのが魔術です。わかりますか?」
「ああ、魔力が意思の力に反応するってのは身にも覚えがある……その様々な手段ってのは、具体的に?」
「ふうん、なるほど。では例えを立てましょうか」
メアリは爪を立てて自分の手首を切り裂いた。テーブルにびたびたと血が零れる。
近衛はどきっとしたが、この女は足をへし折っても一分と経たぬうちに再生させてみせた事を思い出し、飛び出しかけた声を抑えた。
「言葉を用いて魔力を定義するのが詠唱。そういう面倒な手順を図式にまとめて省略したのが術式。そして、この血には私の魔力が宿っています……『深血槍』」
メアリの言葉に反応し、液体だった血は氷のように刺々しく固まって棘になった。
「このように、言葉によって血の中の魔力を魔術に利用することができるのです。あなたのソレもそうでしょう。ま、戦場で馬鹿正直に術名を言っている暇は無いので、普通は心の中で唱えますがね」
これに俺の身体は突き刺されたのか、と近衛はすこしげんなりした。
「しかしよ、声に出さなくてもできるなら最初から念じるだけでいいんじゃねえのか?」
「頭の中のイメージが鮮明であればあるほど魔術の完成度は上がります。使い慣れた魔術などは念じるだけでいいですが、もっと大掛かりなものとなると話は別です。きちんとした手順を踏まなければ失敗します」
血が棘から液体に戻り、メアリの身体に戻っていく。血を吸い込んだ傷口はすぐに塞がった。近衛がその何気なく流れる異様な光景に目を引かれていると、2枚の皿が運ばれてきた。
「お待たせしました! こちら、ガラスグロのローストとパンでございます!」
「これおかわりいいですか?」
「おっと、俺も同じの一つ」
「はい! かしこまりました!」
メアリは少女に追加で硬貨を渡すと、会話に乾いた口を酒で潤した。空になったジョッキを少女に渡し、深く息を吐き出す。
「ま、詳しい話は『図書館』でしましょう。私も疲れました。とりあえず今は食べてください」
メアリの言葉に従って、近衛は意識を料理に向ける。
ローストが調理方法ならば食材の名はガラスグロと見て間違いないだろう。ガラスグロというのは鳥のような生物らしい。
近衛は皿の上で狐色に焼けた、鶏もも肉に酷似するそれを見て、そう推察した。湯気と共に上る香ばしい香りに空腹を思い出し、思わず頬が緩む。
もう1枚の皿の方に目を向ける。元の世界でも慣れ親しんだ茶色の丸っこいそれは、間違いなく自分もよく知る『パン』だ。
だが、近衛が何より食したいのはパンではなくこの脂っこい肉の方だった。置かれたナイフとフォークを手に取り、肉を切る。汁が滴り、赤みの残るそれを、近衛は迷いなく口に放り込んだ。
「……うん、うめえ」
適度な塩加減、焼き加減のガラスグロの肉は、噛めば噛むほどに汁と脂が溢れてくる。鴨肉のような歯切れのいい食感と相まって、止まる事無く食べ進めてしまう。
肉を半分食したところで、パンに手を伸ばした。
まず手触りから確かめてみる。普通のパンだ。表面は硬い。2つに割ってみると、白のふわふわとした生地に、粗めの気泡。口に入れて咀嚼してみる……普通のパンだ。小麦粉で作られるそれと大きな違いはない。ただ煎茶に似た渋みを微かに感じたが、それが逆に肉の脂と合う。
そんな調子で肉、パン、肉、パン、パン、肉と交互に食らい、あっという間に完食してしまった。
「……ふぅー」
いつの間にか運ばれていた自分の分の酒を飲み、一息つく。空腹が解消されて上機嫌になった近衛は、久しぶりに心の底からの笑顔を見せた。
そんな無邪気な彼を見るメアリもまた、何かを懐かしむような柔和な表情を見せる。
「……どうかしたか?」
「えっ? い、いえ、別に何も……それより、それさっさと飲んじゃってください」
近衛が声をかけると、メアリははっとして、8割は残っていた自分の分を一気に飲み干してしまう。ぷはっと息を吐き出すと、いつもの剣呑な目つきに戻った。
釣られて近衛もさっさと残っていた酒を飲んだ。テーブルの上に、二つ空のジョッキが並ぶ。
それを見たメアリは、即座に立ち上がる。
「よし。じゃ、出ましょうか」
「ええ? おいおい、もうちょっとゆっくりさせてくれよ」
「あほですか、ゆっくりするのは用事が済んでからです。面倒なのが来る前にさっさと行きますよ!」
すっかり場の空気に慣れた近衛は立ち上がりたくなかった。アルコールを摂取したせいだろうか、目の前のおっかない女が何に怯えているのかも理解できなかった。それでも無理矢理立たせようとしてくるから、仕方なく立ち上がって出口まで歩く。
しかし、
「‼」
階段の前に立った時、近衛は自分の背後で魔力が発生したのを感じた。驚いて振り向くと、顔に風が当たり、それを受けて深く被っていたフードが飛ぶ。
「あっ……!」
メアリが声を上げる。だがもう遅かった。
晒された近衛の顔を見て、待ち構えていたかのように直近の客二人が声を張り上げる。
「おい、この顔……」
「おい皆、こいつ、『英雄』だぞぉぉぉぉぉぉ‼」
あっという間に沸き上がる店内。客たちは怒涛の如く机と椅子を蹴立てて立ち上がり、近衛に迫る。
「しまった……!」
メアリは咄嗟に近衛の腕を掴もうとする。だが、客がメアリよりも早く近衛の手を掴んだ。呆気に取られたままの近衛は抵抗もできず人の渦に巻き込まれてしまう。
「おおっ!? ちっ、くそ、離れろって!」
無数の手がべたべたと触れてくる不快感の中近衛はもがくが、脱する事はできず、どんどんと階段から離れて店の中央へと移動していく。
一気に拗れていく状況と、高まる熱気。
それを引き起こした者が狡猾な笑みを浮かべている事に、彼女はまだ気づいてはいなかった。