第八話 夜の街へ
「ッ、……」
どうやらいつの間にか眠りこけていたらしい。
近衛は冷えた床に手をついて身体を起こしてみるが、窓がないから外の状況は把握できない。部屋を見回すと、部屋の隅で白いローブを着た女が安らかな顔で横たわっていた。
このローブは、転移したての時俺を取り囲んできた者たちのそれと同じものだ。そんな女が何故床で眠っているのかは全く分からないが、好機である事は間違いなかった。
硬い床で眠ったお陰で背中は痛かったが、身体は万全。
よくよく考えれば、あれだけ暴れたというのに体が痛む気配は全くない。思い当たる要因は先程の吸血行為くらいだ。あれで体内の魔力の流れが改善されたのだろう。意図してかは知らないが、色々と気の利く女だ。
と、何気なくあの黒髪赤眼の吸血鬼を思い浮かべると同時に、近衛は先ほどの遣り取りを思い出していた。
「……」
陰鬱な気持ちを振り払うように黙って立ち上がると、病衣を脱ぎ捨ててテーブルの上に置かれていた元の衣服に着替える。血塗れの上着とシャツを着なおすのは勇気が必要だったが、他に選択肢は無かった。
「さて、と」
近衛は扉の前に立ち、唾を飲み込んだ。
ここが城のどこで、どう行けば出口なのかは全く分からない。だが、今の近衛は壁に穴を開けるような手荒な真似はできない。メアリが脱出に協力してくれるというのに、派手に動いては状況が悪化する恐れがある。
ドアノブに手をかけ、扉を開こうとしたその時、
「ども、起きました?」
「っ、い、居たのかよ⁉」
背後からメアリの声————振り向くと当の彼女が立っていた。
「正確には今来たんです。こっちはこっちで用事があるんでね」
「今来たって……お前まさか、まだ俺の体内に血を残してんのかよ」
「ええ、色々便利なので」
「はぁ……結局、急所握られたままかい。萎えるぜ」
とんでもないことを飄々と言ってのけるメアリを殴りたくなった近衛だが、また激痛を味わうのは御免なので踏みとどまった。
「とりあえずこれ着てください。お忍びで出るのに英雄だとばれると色々厄介です」
メアリは近衛にローブを投げると、自分も同じものを羽織った。近衛もそれに倣う。
「で、今度は何だよ。まだ何か話す事でもあるってのか?」
「いえ別に。ここを出る道案内をしようと思いまして。また壁ぶっ壊されたら衛士の仕事が増えますんでね」
「へ、吸血鬼のあんたが人間の労働事情を気にかけるんだな」
案外優しいんだな、と近衛は苦笑した。そんな反応に、メアリは少しだけ不機嫌そうな表情を見せる。
「余計なことは気にしないでよろしい。で、本当に行くのですね、国外に」
「ああ……だがまだ今じゃねえ。後三日は待ってくれ」
「ほう、何故?」
「この国を出て一人で生きるには、俺は知らなすぎるんだ。この世界の事も魔術の事もな。まずは情報を集めたい」
近衛がそう言うと、メアリは少しだけ表情を陰らせる。
「……それは構いませんが、あまり時間はありませんよ」
「? どういうことだ」
「レオナール王は貴方を何としてでも英雄戦争に駆り出すつもりです。一先ず結論は先延ばしにするよう申し出ましたが、それもどれだけ効果があるかわかりません」
「……なるほどな」
近衛の頭に、あの王の顔が浮かんだ。
要求を拒んだ途端に拘束してきた男だ。確かに何をしてもおかしくない。今こうして何の邪魔もなくメアリとコンタクトが取れていることが異常事態なくらいだ。
急に心配になってきた近衛は、全身を強張らせた。
「そんな状況で外に出られるのか? やっぱ壁ぶち抜くか」
すぐ短絡的な思考に走る近衛に呆れたメアリは、近衛の耳を引っ張って制止する。
「やめなさい。いいからとっとと行きますよ」
「痛てえなッ、わかってるって。んじゃ行くか」
ドアノブに掛けようとした手を叩かれる。
「なんだよ!」
「もう、何もわかってないじゃないですか! ほら行きますよ!」
近衛の意思を無視してメアリは彼の腕を掴むと、一つ唱える。
「『血瞬身』————」
その瞬間、二人の姿は部屋から消え、街に降り立つ。
景色が部屋の白い壁から、暗黒の路地裏に急転換する。突如変化する周囲。
その狭く細い空間の隅に置かれていたのは、血に濡れた木材だった。酒場での戦いによって砕かれた床や壁の木材は捨てるしかない。それに付着していた自身の血を利用して、メアリは街の人気のない場所に跳んだ。
「……~~~~っ、こ、この手か……」
昼間にも味わった感覚だが、未だ慣れない近衛はうっかり尻餅をついてしまう。そんな彼を見るメアリは、もう今日何回目かも分からない溜息と呆れた表情を見せた。
「はあ……ほら行きますよ。まずは何から済ませます? 情報? 食事?」
「……ああ、飯からで頼むわ。もう腹減って仕方ねえよ」
近衛は埃を払って立ち上がり、メアリと並んで明るい方へと歩き出しながら、会話を再開する。
「しかし食事となると……今の時間ならばもうあそこしかありませんね。市場も閉まってますし」
「あそこ?」
「酒場です」
「……えぇ?」
「昼間と同じ場所ではありませんが。ま、碌な場所ではないので気を抜かないように」
渋い表情で語られる行き先に、近衛は早々に雲行きが怪しくなるのを感じずにはいられなかった。