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「アコナ!」
上掛けを蹴り上げて起き上がった俺は、周囲を見渡す。
聖域でアコナを手放した後。
血の湖の水に濡れた俺は、息も絶え絶えの状態でディナスの屋敷へと帰宅した。
花に水をやっていたテディールが絶望にも似た驚愕の表情でこちらを見ていたのが、最後の記憶だ。
ここは自室。カーテンの向こうが暗いということは夜だろう。
どのくらい時間が経ってしまったのかはわからないが、グロウ家の屋敷に行かなければならない。
ほぼ転がり落ちるようにベッドから出ると、ちょうどドアが開いた。
「ワルター! 大丈夫だったの!? なにがあったの!? アコナは!?」
水を持って室内に入ってきたピアナが、俺の姿を認めるなり飛び込んでくる。
涙目の彼女に申し訳なく思いつつ、瞳を伏せる。
「ギゼラに連れて行かれた。おそらくゾンビにされそうになっている」
「そんな……!」
「俺が帰ってきて、どのくらい経った?」
「ちょうど2日だよ。アコナ大丈夫かな……」
口元を覆って衝撃を受けているピアナに背を向け、クローゼットを開く。
中から杖と剣を取り出して、剣は腰に佩く。
武装する俺に、ピアナは顔をしかめた。
「ちょっとワルター。殴り込みに行く気?」
「グロウ家は皆殺しにしてもいい。アコナを取り返す」
「無茶でしょ! グロウ家は私兵だって、いっぱい抱えてるんだよ。ワルターは騎士でもないんだし、下手したら殺されちゃうよ」
「そうだよ、ワルター」
ピアナの制止も聞かず、部屋を出て行こうとしていた俺の前に立ち塞がったのはテディールだった。
テディールの赤い瞳には怒気がはらんでいる。
俺も同じような目をしているのかと思うと、少しだけ冷静になれた。
「だが、どうする。武力行使でもしなければ、あの母親は止まらんぞ。なにしろ、道具にするために自分の娘を産み育てるような女だ」
「武力行使については否定しないよ。でも、ひとりで行くなんて絶対無理。ワルターは武闘派でもなんでもないんだから勝てるわけない」
「……なら、どうするんだ」
「これあげる」
テディールが差し出してきたのは、小さな瓶だった。
中では赤い液体が揺れている。
ただよう香りでそれがなにかは、すぐにわかった。
「血か?」
思わず責めるような口調になった俺に、テディは「勘違いしないでよ」と両手をあげた。
「別に脅してとってきたわけじゃない。僕は昔から血を愛してるだろ? ワルターみたいにコミュ障でもないし、顔もいい。ちょっとかわいくお願いしたら血をくれる人はいるってこと」
「……この血で、どうするんだ」
「血を飲めば、吸血鬼は魔力があがる。そうすれば、できることも増えるでしょ? もちろん殺しはダメだよ。騎士団のお世話になんかなりたくない」
いたずらっぽく笑うテディールに、ひとつの考えに至る。
俺は思わず口角をあげていた。
「なるほど。ディナス家にしかできない芸当だろうな」
「なになに? なんの話なわけ? アコナは助かるの?」
不安げな声を出すピアナを振り返る。
青い目を潤ませる彼女に、俺は微笑んで声をかけた。
「取り乱して、すまない。アコナは信じろと言っていた。絶対に無事でいてくれるはずだ。メイドとして着いてきてくれるか? 男ふたりで行くよりは、ピアナがいた方が警戒心が違う」
「戦うの? あたし弱いんだけど、大丈夫かな!? 足手まといにならない!?」
「戦いはしない。忘れてもらうだけだ」
◇◇◇
「夜分遅く失礼する。妻が実家に帰ってしまったので、迎えに来た。開けてもらえるだろうか」
グロウ家の人間すべてが事情を知っているわけでは無いらしい。
門番に頼むと、彼らは顔を見合わせて「ああ、アコナ様の」と納得した様子で門を開けた。
ピアナがぺこりと礼をして彼らを油断させている間に、背後から俺とテディは門番に魔法をかける。
びくりと反応した後、彼らは体制を崩して眠りについた。
記憶操作魔法。
ディナス家の吸血鬼にしか使えない特別な魔法は、その特別さ故にかなりの魔力を消費する。
テディールからもらった血液がなければ、この屋敷にいる全員に魔法をかけることは難しいだろう。
魔力を最大にしておくために、小瓶に入った血液を飲み干す。
久しぶりに飲んだ血は、全身に力を漲らせた。
視野が広がり、吸血鬼本来の身体能力が解放される。
走りこんでくる黒装束の集団は、散歩でもしているかのように見えた。
「やっぱり血液って最高でしょ、ワルター。これからもわけてあげよっか?」
「結構だ。仕方なく飲んでいるが、これっきり俺はもうアコナの血しか飲まないぞ」
軽口をたたくテディールに返事をしながら、杖を黒装束の集団へと向ける。
照準なんか定めなくとも当たる。
記憶操作魔法の術式を込めた魔力を放つと、ひとりまたひとりと倒れていった。
「どんな記憶に書き換えちゃったの?」
倒れていく人々を見つめて、ピアナが目をパチパチさせながら首を傾げる。
「アコナ・ジュール・グロウは、結婚式の晩に母に殺された」
「いいね! これで、うちの奥様はただのアコナになれるんだ」
にんまりと悪い笑みを浮かべたピアナに、同じような表情を返して屋敷へと進む。
数は多いが、単純作業だ。
肉弾戦や斬り合いになるとわからないが、記憶操作魔法は当たりさえすれば処理の為に脳が一時シャットダウンして眠りにつく。
戦いになる前に眠らせることができるため、危険も少ない。
その辺を歩いているメイドや使用人たちにも魔法をかけていると、テディールがじれたような声をあげた。
「こんなことしてる間にも、アコナは危ないかもしれない。ワルターはいいから、探しに行きな。ピアナは守ってあげるから」
「あたしが、油断させてたくさん引きつけて一気にやっちゃうから大丈夫! ワルターはアコナを助けてあげて」
ピアナはこう見えてすばしっこい女だ。
テディールも魔法に関しては俺の腕と変わらない。
頷いた俺は、必死に屋敷を駆けずり回った。
出くわした人間には記憶操作魔法をかけ、みつけた階段を下る。
ひやりとした空気を感じて慎重に足を進めると、花の香りがした。
大好きな花の香りだ。
「……アコナ?」
薄暗い地下牢に、蔦と花の塊が立っている。
その隙間から、目を閉じたアコナが覗いていた。




