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「キス!?」
裏返った声をあげてしまう。
ワルターさんの口ぶりだと、私とワルターさんは何度もキスをしていることになる。
夫婦だから普通のことなのかもしれないけれど、衝撃的だ。
記憶をなくした今の私にとっては、キスなんてしたことはない未知のものだ。
ワルターさんの唇を思わず見つめてしまう。
薄いけれど、形のいい唇だ。
その唇をちろりとワルターさんが舌で濡らしたところを目撃してしまって、心臓が跳ね上がった。
「結婚式での誓いのキスのとき。アコナは恥ずかしがって、罪深い罪深いと言っていた。結婚してからも何度もキスはしたが、その……君はこんなに恥ずかしいことは、罪深いことに違いないと目を濡らして訴えていた」
「キスは、キスは絶対に罪深いです……! 恥ずかしすぎますもの!」
「だが、君はキスが好きだったぞ?」
拒否の姿勢の私に、ワルターさんは拗ねたような声をあげる。
私は「え?」とかすれた声をあげて真っ赤になってしまった。
「恥ずかしがっていたくせに、君はいつも欲しがった。口移しで水を飲ませたときだなんて『もっとください』というものだから、俺は頭がおかしくなるかと思った」
「そ、はっ。く、口移し!?」
「恥ずかしいと、俺の胸をたたくアコナが、俺はかわいくて仕方が無いよ」
ワルターさんは頬を赤く染めたまま、照れた様子で自分の髪をかき上げる。
ワルターさんのつるんとしたおでこが現れて、キュンとしてしまった。
ああ、記憶をなくしても彼のことが好きなのかもしれない。
だって、こんなに心臓が早鐘を打ったことなんて私の記憶にはなかったもの。
「まあ、キスが記憶の鍵になるのかもわからない。今のアコナは、俺と結婚した記憶もないんだ。キスは今すぐにしろとは言わない。他の禁忌から試しても構わない」
「今すぐ、ではダメなんですか?」
恐る恐る訊ねてから、自分がとんでもないことを言ってしまったことに気がつく。
でも、記憶が戻るなら何でも試してみたい。
これ以上ワルターさんが苦しむ時間が長引かせたくはない。
ワルターさんは、目をこぼれんばかりに開いて、「あああ」と悲鳴とも呻きともとれる声をあげながら、顔を両手で覆った。
「む、無理にとは言わないです! 嫌なら、日をおきましょう! ちょっと寝てからでも大丈夫ですし、なんならワルターさんが寝てる間に私がチュッとしに行くとかでも、ワルターさんが大丈夫なら大丈夫です!」
あああ、焦ってとんでもなくキスをしたい女みたいになってしまった。
恥ずかしすぎて、頭から湯気が出てしまっている気がする。
ワルターさんと同じように両手で顔を覆って、「うううう」と悶えていると、ワルターさんが近寄ってくる気配があった。
顔を覆う手に触れられて、思わず肩が跳ねてしまう。
全身が硬直する私をなだめるように、ワルターさんは「大丈夫」と声をかけてくれた。
「大丈夫だ。優しくする」
砂糖をどろどろに溶かしたような声に、脳がとかされていく気がする。
記憶をなくしている私にとって、これはファーストキスだ。
緊張しているし、心臓は壊れそうなくらいに暴れ回っている。
けれど、ワルターさんが「大丈夫」と言ったら大丈夫な気がした。
「力抜いて」
ワルターさんの手が私の肩に滑る。
優しく撫でられると、ほどけるみたいに力が抜けた。
それを確認したのだろう。
ふっと微笑んだワルターさんは、眩しいくらいに美しかった。
赤い瞳が私の目を覗き込む。
額がこつんと合わさって、鼻の横にワルターさんの鼻先がくっつく。
吐息と吐息を交換するような距離に、自分の呼吸が速まっていることが悟られてしまいそうでドキドキした。
「目、とじて」
なんだかそれは、前にも言われたことがある気がした。
慌てて目を閉じると、ワルターさんの手が私の頬に触れる。
そして、唇に信じられないくらいに柔らかなものが触れた。
その瞬間、頭の中でキーンという音が鳴り響いた。
ぐらりと傾いだ体をワルターさんが支えてくれる。
「アコナ!? 大丈夫か!?」
記憶が洪水のように頭の中を駆け巡る。
血の湖の縁でワルターさんの胸を借りて泣きじゃくったこと。
深夜のデートに行ったこと。
過去を乗り越えようとする私を「大丈夫」「側にいる」とワルターさんが励まし続けてくれたこと。
教会で誓いのキスをしたこと。
記憶と共にあふれ出したのは、ワルターさんへの愛しい気持ちだった。
どうしようもないくらいに彼のことが好きだ。
あふれ出した感情は、涙になってこぼれだす。
戸惑うワルターさんに背伸びをして、私は彼の唇にキスをした。
ちゅ、ちゅと繰り返し口づけて、彼の頬を両手で挟む。
呆然としているワルターさんに、私は涙を流しながら伝えた。
「大好きです。ワルターさん。思い出しました、全部。こんなにも大切なものを私は失いそうになっていたんですね」
ワルターさんの目が見開かれる。
それから、彼はぎゅっと涙をこらえるように表情をゆがめて、私の涙を唇ですくいとって、何度も何度もキスをくれた。
それは、私の人生の中で最も幸せな時間に感じられた。




