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耳元で彼の吐息が聞こえる。
むき出しの首筋にかかる息がくすぐったい。
「わかっている。リーリスがやったことだろう。あまりにも浅はかな手口に吐き気がした。そんなことより、無事か? 心臓が潰れるかと思った」
「はい。ありがとうございます……。大丈夫です」
「ブローチは没収済みだ。後始末はおまえがどうにかしろ、次期騎士団長」
私を抱きしめたままに、ワルターさんが唸るような声でマティアスに言う。
ワルターさんが指示を出すと、ジル家と共に来ていた騎士がマティアスを抱えて出て行こうとする。
廊下からは、お姉様の叫び声が聞こえていた。
「イヤァァァ!! ワルター様、どうかお聞きください! ブローチに媚薬など仕込んでおりません! 急にマティアス様がアコナを襲い始めたのです! どうか、わたくしを信じてください!」
あまりの叫び声に、私はワルターさんの腕を逃れて廊下に出る。
暴れ狂うお姉様は、騎士に取り押さえられて地面に這いつくばっていた。
そんなお姉様を騎士がなだめている。
「落ち着いてください、奥様!」
「落ち着けるものですか! 触らないでちょうだい! アコナ、アコナ助けて! ワルター様が、わたくしを信じてくださらないの!」
私をマティアスに襲わせようとしたのに、私に助けを求めるなんて、おかしいとは思わないのだろうか。
騎士に抑えられてぐちゃぐちゃになっているお姉様の傍まで歩み寄り、見下ろす。
お姉様は神でも来たかのように、私を見上げた。
「アコナっ、アコナぁ! わたくしのところに帰ってきてちょうだい。一緒に帰りましょう。もう結婚なんてどうでもいいの。あなたと一緒に過ごせるのなら、それでいい! わたくしのために生きて、わたくしのために死んでちょうだい!」
「あなたのためになるようにと、何でもしてきました。それが私の役割だと。でも、ごめんなさい。間違っていました」
「間違ってなんかいないわ! あなたはわたくしに尽くすために生まれてきたのよ!」
その通り。
けれど、お姉様がこんな風になってしまったということは、きっと私は間違っていた。
「お姉様。私がいなくとも、あなたは生きていけます。事実、マティアス様と数ヶ月暮らしてきたではありませんか」
「それは……」
「人は求め、求められる相手と支えあって、生きるべきです。お姉様は私を求めてくださっていますが、私はお姉様を求めていません」
お姉様の顔面が蒼白になる。
はくはくと開く口がかわいそうなくらいに、哀れだ。
「さようなら、お姉様。私は嫁ぎます。グロウ家をよろしくお願いいたします」
「なにを、言っているの? わたくしはジル家の……」
「離縁する」
カーテンを被ったまま、苦しげにしているマティアスが冷たく告げる。
お姉様の顔はますます青くなっていった。
「オレは君と夫婦になれるよう努力した。だが、君は歩み寄ってはくれなかった。こんなことまでされて、君を傍には置いておけない。グロウ家に帰ってもらう」
「……そんな。そんな。こんなはずじゃ、なかったの」
冷たい石の床に倒れ伏すお姉様の姿は痛々しい。
けれど、助けなければとは思わなかった。
カツカツと足音が聞こえてきて、廊下の向こうからお母様が現れる。
お母様はお姉様の腕を引き上げて立たせると、私をにらみつけた。
「絶対に、余命より早く死ぬことは許さないわ。あなたは次に呪われるリーリスのために、長生きしなさい」
「私は、私のために長生きします」
久しぶりに、お母様の目が私を捉えた気がする。
忌々しげに唇をゆがめたお母様は傍にいた使用人にお姉様を渡して、颯爽と教会を去って行った。
マティアスも解毒のために馬車に乗って去って行く。
そうして、残ったのは私とワルターさん。それから、リーリスと店長だけになってしまった。
走り去る馬車を見送る私の肩を抱くワルターさんが、長い息を吐く。
私も安心して、同じような息が漏れた。
「アコナに何かあったんじゃないかと思うと、おかしくなりそうだった。怖くなかったか?」
「怖かったですけど、大丈夫でした。私には、ワルターさんがいてくれると信じていたので」
ふっと笑ったワルターさんが、名残惜しそうに私の体を離す。
抱きしめてくれるのかと思ったから、ちょっと残念だ。
ワルターさんは、控え室の外で私を探している店長を指さした。
「兄上が待っているぞ。式がはじまる。幸せになろう」
「はいっ」




