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「いやっ!」
逃げなければ。
ドアを背にしていた私は、本能でそう感じて身をよじる。
数歩進めたけれど、相手は騎士で、ここは教会の狭い控え室。
逃げられるわけも無く、マティアスが壁にたたきつけた両手の平の間で、腕の檻に閉じ込められてしまった。
恐怖で濡れた目で彼を見上げる。
マティアスは人狼としての姿を隠すこともできず、群青色の瞳を燃やしていた。
「マティアス様っ、これはお姉様の罠です! 私とあなたが不貞を働いたことにして、この式をめちゃくちゃにしようとされているんです! こんなこと、あなたも本意ではないでしょう!? どうか落ち着いて……っ」
かみしめた唇の隙間から、マティアスが熱い呼吸を繰り返している。
お姉様は、私を取り返したがっていた。
この式がめちゃくちゃになれば私の結婚もなくなり、私を取り返せると思っているのだろう。
こんなことをしたら、自分だって離縁は免れないだろうに。
けれど、この計画の浅はかさがお姉様がひとりで企てたものだということを物語っていた。
「アコナ……。気が狂いそうなくらいに、君がほしい」
マティアスは全身に力こもっているようだったけれど、壊れ物に触れるように私の頬に触れた。
その熱い手が、潤むまなざしが、きっと少し前までは愛しかったはずだ。
けれど、今は恐怖しか感じられない。
頭の中に響くのは、ワルターさんに助けを求める自分の声だけだった。
「やめてくださいっ。私はもう、あなたになら食べられてもいいとは思えません!」
あなたになら食べられても、それでいい。
そう思えていたのは、過去の話だ。
今、私を食べて良いのは、私の血が毒に犯されていないのなら吸い尽くしても構わないのは。
ワルターさん、ただひとりだけだ。
切なげに息を詰めるマティアスが、自身の顔を手で覆う。
彼は常識のある人だ。
薬の影響を受けているだけで、きっと本心で私を襲おうとしているわけでは無い。
「アコナ。オレは、 君が好きだ。一生、きっと君が好きだ。だからこそ、オレは違う女性を愛する」
ずるずると、マティアスが床に座り込む。
追い詰めれていた状況から解放されて、私もへたりこんでしまった。
「アコナを食べてしまいたくない。幸せになってほしい。だからオレは耐えるし、もう今日限り、君の前には現れない」
「……お姉様は、どうするのですか」
「グロウ家に帰す。アコナと親族ではいられない。今は薬のせいにできるが、君を見ていたらオレはいつこんな状況になるかなんてわかりゃしない」
ふうふうと、マティアスが肩で息をしている。
おかしなことになってはしまったけれど、彼が私を愛してくれていたのは本当なのだと思う。
結ばれなかった運命ではあるけれど、私も彼に幸せになってほしかった。
「マティアス。私のことは、もう忘れてね」
「……忘れられるものか。こんなにも愛しているのに」
「大丈夫よ。私もワルターさんに出会って時を共にするまで、あなたのことを忘れられるなんて思っていなかった」
マティアスが少しだけ顔をあげる。
彼の目に涙はなかったけれど、その表情は泣いているように見えた。
「きっとあなたのことを愛してくれて、あなたが愛せる人がいるわ。その人には人狼のことを話して、ふたりでどう乗り越えていくか相談して、幸せになってほしい。絶対にあなたになら食べられてもいいって人が、また現れる。だって、あなたは震えるほどの苦しみに耐えて、今も紳士でいてくれているような強い人だもの」
人狼の性である愛する人を食べてしまうという運命と、どう向き合って良いのかは、今の私にはわからない。
けれど、それはもうきっと私が彼を愛していないからだ。
彼を愛していれば、きっとどうすれば共に幸せになれるのかをどんな努力をしてでも考える。
そんな人が、マティアスに現れるように祈った。
お姉様はワルターさんを呼びに行くと言っていた。
もうすぐ結婚式がはじまるのだし、すぐにお姉様はワルターさんと戻ってくるだろう。
そのときに、マティアスが疑われないように。
窓に掛かっていたカーテンを取り払って、彼の頭からかぶせた。
「これで大丈夫です。私がきちんと説明しますから、マティアス様はすぐにお医者様に診てもらってくださいね。……あ、ジル家の医者の方が良いですか?」
「……ああ、そうしていただきたい」
マティアスが人狼であることは、バレてはならない秘密だろう。
ジル家の医者に診せるのなら、すぐにジル家の者を誰か呼ばなければ。
「アコナ」
思考を巡らせていると、マティアスが声をかけてくる。
カーテンの隙間から、私が何度見ても美しいと思っていた群青色の瞳を覗かせたマティアスは、最後に微笑んだ。
「……幸せになれよ」
ああ、これで彼とは最期になる。
一抹の寂しさがよぎったけれど、身を引き裂かれるほどのものではない。
ひとつの舞台が幕をおろしたような切なさだった。
「アコナ、無事か!?」
ワルターさんの大きな声と同時にドアがたたき破られる。
ワルターさんが使ったのだろう暴風魔法が荒れ狂い、私の髪やドレスも煽られた。
かぶっているカーテンを掴んだマティアスを見下ろすワルターさんの表情は、怒りでほぼ獣に近い。
今にも襲いかかりそうな荒っぽい足取りで部屋に入ってきたワルターさんの前に、私は慌てて立ち塞がった。
「待ってください、ワルターさん! マティアスは薬を盛られただけで……! ひゃっ」
言い終える前に、私はワルターさんに抱きすくめられていた。




