嫁がずの姫と眠らずの公子
†
「姫ねーちゃん、誰か来たぞー」
頭上の枝にまたがった村の男の子が呼んだ。
アーシアは鼻をつっこむ寸前だった茂みから顔を離した。無造作に編んだ量の多い栗色の髪を揺らして、疑わしげな目を門扉に据える。十八歳、成人と見なされる年齢にしては、その表情は少しばかり素直すぎるかもしれない。
生け垣にうずもれかかった門扉から、この村荘の世話を一手に引き受けるメイリス夫人が、そわそわした足取りで入ってきた。後ろで、初夏の陽射しをはじく巨大な絹の日傘がゆったりと動いている。
「……やっぱりおじさまか」
アーシアは思いきり眉間にしわを寄せる。
「姫ねーちゃん、おとなげねー」
「お客さまにはいい顔しなきゃいけないのよー」
枝葉を伸びるにまかせた植木に素足で登ったり、その下の茂みで木苺を集めたり。村荘の広い庭でめいめい好きなように過ごす村の子どもたちは、そんなアーシアを見てけらけら笑う。
「この世にあるものはそっくり全部、まずはありのままに認めるべきなのよ」
と、しかめっつらのアーシアは、説教口調で彼らに言った。
メイリス夫人に案内されて、客の中年男がやってくる。従者に持たせた日傘の影の中にいても暑そうな顔は、精緻な模様を浮き出させた上着もさることながら、前回会ったときよりさらにひとまわり広がった気がする体格が主な理由だろう。一見柔和な細い目がじろりとアーシアをにらむ。
「この家の女主人として、客を歓迎しようとは思わんのかね、アーシア?」
アーシアは伏し目になって、片手でスカートをつまんで優雅に腰をかがめてみせた。
「失礼いたしました、おじさま。ですがこのように突然いらっしゃられては、おもてなしどころか、恥ずかしくない身なりを整える時間もございませんわ。こちらといたしましては、それだけでも機嫌よくお迎えするというわけにはまいりませんの」
小さな顔に化粧気はなく、そのうえ亜麻布のエプロンの裾を帯にたくしこんだ姿は、集まった子どもたちの姉の村娘といってもおかしくはない。だがことばとは裏腹に、しゃんとそらせたアーシアの背は、こうした素朴な身なりを恥じる気持ちなどかけらもないことを物語っている。
「その上おじさまときたら、いつだってどうでもいいお話を持っていらっしゃるんですもの。一国のあるじともあろう方が、押しかけ仲人のようなお節介をなさるなんて、まったくご苦労なことですけど」
アーシアの叔父は、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「おまえに合いそうな相手を懸命に捜してやっているというのに、なんだ、その言いぐさは!」
「あら、わたしが結婚したら、おじさまだって莫大な持参金をつけずにはすまないじゃないですか。おじさまに損をさせないようにしてさしあげているのにご不満だなんて、おじさまったら、わけがわかりませんわ」
「わけがわからないのはおまえのほうだ! 結婚もせず、かといって尼僧院にも行かず、ただふらふら遊び暮らしたいなどと言い張りおって! 知っているか、世間ではついにおまえを《嫁がずの姫》などと呼ぶようになってしまっているのだぞ。私は、おまえの将来を思ってだな」
「まあ申し訳ございません。ご心配していただいてありがたいですわ、おじさま」
と、アーシアは無邪気そうに小首をかしげてみせる。
「ですけど、この村荘は母にゆかりのものでしたの。父方のこの国なんて要りませんけど、これだけは継ぎたいですわ」
アーシアの父は先のロズ侯、アーシアはその姫である。だが、アーシア出産後に体調が戻らないまま死んだ母は正妃ではなく、アーシア自身も父の死去時はまだ三歳、有力な後ろ盾もなかった。ゆえに、父の後継者選定ではアーシアは相手にもされず、すんなりとこの叔父が侯に決まった。
しかも、叔父の若い奥方は、先日まるまると太った男の子を産んだばかりだ。次代の侯位を継ぐのはその子でまず間違いない。
こうした一連の件について、アーシアに不満はない。叔父はこのロズ侯国をなかなかよく治めていたし、そもそもアーシアは宮廷暮らしが性に合わず、十四歳でこの村荘に逃げ出したのだ。アーシアはいまの自分の生活に満足しきっている。
しかし、叔父はアーシアをこの幸運にとどめおくつもりはないらしかった。
「アーシア、おまえもロズ侯の一族の一員なのだぞ。このように自堕落な生活を送られては、外聞というものがある」
その言いぐさにさすがにむっとして、アーシアはついことばづかいをくずす。
「自堕落って、おじさま、どういうことよ!」
「それだ。このような田舎で遊び暮らしていれば、作法もなにもあるまい。だから、ちゃんとした結婚がいやなら、しっかりした尼僧院に行けと言っているのだ」
「いやです! 尼僧院なんて、鐘に追い立てられつづける生活じゃないですか。起きるのも、食べるのも、お祈りですら。いつも言っているようにわたしにはきちんと自分の頭があるんですから、鐘なんかに教えてもらわなくたって暮らしていけます」
「おまえの好き嫌いは問題ではない。だいたい、いまもただ村の子どもを集めて遊んでいるだけではないか!」
「ちがいます!」
アーシアは近くの男の子を手招きした。
「わたしたちの研究を見せてあげて」
頬に白くかわいた泥をこびりつかせたその子は、にやっと笑うと、アーシアの叔父に近づいて、ん、と小さなこぶしをつきだした。
「なんだ?」
ん、と男の子は、すこしいらだたしげにさらにこぶしをつきだした。
つられてさしだされた手のひらに、その子のこぶしからいもむしが落ちて、もぞもぞと緑色の体を動かした。
「!!!!」
ロズ侯国第十一代侯ボディアス二世は、踊るように両手をふりあげたあげくに片足を浮かせた。
「まあおじさま、いもむしが行方知れずになってしまいましてよ」
しれっと指摘したアーシアにむかって、ボディアス二世は声を張り上げた。
「なっなにをしているんだ、おまえは! いい年の娘が、あんな虫などを集めて!!」
「いまは冠雀について調べているんですの。ご存じでしょう、頭にちっちゃな飾り羽のはえた、かわいらしい小鳥ですわ。このあたりに多いんですけど、村の人に聞いたら、虫を食べるとか果物を食べるとか花を食べるとか、言っていることがばらばらなんです。だからこの庭に虫と果物と花を置いて、確かめてみようと思いまして」
「小鳥がなにを食べるかが、なんでおまえに関係がある!」
「知りたいから調べているんです。いいじゃないですか、誰に迷惑をかけているわけでもないんですから」
「おまえは二言目にはそう言うがな、先代のロズ侯の姫がこんな田舎にひとりひっこんで、それがどれほど不自然なのかわからんのか! 考えてみろ、これでおまえがうっかりそこらの男とでもどうにかなるようなことでもあれば」
「なりません」
アーシアは即座に否定した。
「そんなの宮廷でもう一生分見聞きしましたし、ここで鳥たちも見せてくれますわ。ご存じ、おじさま? 斑烏の雄は好きな雌に贈り物をするんですのよ。きれいな花だとか石だとか。雌も、好きな相手からの贈り物は喜んで受け取るんですけど、そうでない相手だとそっぽをむいて飛んでいってしまうんですの。鳥も人も、たいして変わりませんわね」
と、アーシアはほほえんでみせる――ただし、はしばみ色の眸をのぞいて。
「自分であんなことを真似てみるつもりはありません。ですから安心して放っておいてくださいな、おじさま。わたしはこの村荘で好きなことを調べて一生を過ごしますから」
次に浮かべてみせたあいまいな微笑は、これで会話は終わりだということを言外に告げる貴婦人にふさわしいものだった。
「……おじさま」
だが、ボディアス二世は動こうとしなかった。
アーシアはふうっと息をついて、はらはらとこちらを見守っていたメイリス夫人に、子どもたちを台所に連れて行っておやつを与えるように言いつけた。さわぎたてるひよことそれを追い立てるめんどりのような姿が消えたところで、ボディアス二世にむきなおり、行儀悪く腕を組む。
「わかりました、おじさま。またわたしをここから追い立てようと、おかしな縁談を持ってきたんでしょう? 今度は誰ですか、買ったり売ったりが忙しくて、年に一日も家にいない商人と結婚しろと言うんですか、それとも塔にこもって出てこない学者と結婚しろと言うんですか?」
ボディアス二世の細い目が、その手があったかといわんばかりに、それなりに見開かれた。
「……縁談ではない、依頼だ」
彼はくやしそうに言った。
「おまえに宮廷まで来てもらって、接待してもらわねばならん」
「接待!?」
どんな変人相手の縁談を出されてもこれほどではないだろうという勢いで、アーシアの眉がはねあがる。
「そうだ。国賓が来るというのに、先代のロズ侯の姫が姿を見せないというわけにはいかん。おまえには国庫から生活費も出している。義務は果たしてもらわねばならん」
「ちょっと待ってください、おじさま! どういうことですか、それは!?」
「公子殿下が来るのだ」
喉につかえたものを一気に吐き出すように早口に答えて、ボディアス二世は眉間に深くしわを寄せる。
「……公子が?」
いまや傍系の身ではあるものの、侯につながる生まれの者として、アーシアにも知識くらいはある。
侯にゆだねられた侯国は七十七国。それらが薔薇の花びらのように囲む中心地に《都》があり、世界を治める神女王ヴァテアが鎮座している。彼女は《都》の女王宮の奥深く鎮まって、滅多に姿を現わさない。代わって七人の公子が侯国を遍歴し、ヴァテアの名のもとに監督している。
彼らは絶大な権力を有している。訪れた公子のひと言で侯国の国政は方向づけられ、場合によっては侯の首すらすげ替えられる。
そんな相手を迎えるとなれば、宮廷はどれほどの騒ぎになっていることか、想像に難くない。
「わたし、宮廷はいやです……」
アーシアは初めて弱々しい口調でつぶやいた。
じろり、とボディアス二世の細い目がアーシアをにらむ。
「ここまで好き放題しておいて、いまさらいやもなにもあるものか。年金を打ち切られたくなければ来るのだ、アーシア」
アーシアはがっくりうなだれて、はああと深いため息をついた。
「……わかってます、わかってますわ、おじさま。要は先代の侯の娘として、おじさまと仲良くしている姿を公子のお目にかければいいんでしょう。それくらいならできます、いえ、やります」
ほう、とボディアス二世は意外そうな声をあげた。
アーシアは顔をあげて叔父を見つめた。
「わたしだって、人並みの頭は持っているんです。自分がどれだけ恵まれた立場なのか、わかってはいるつもりです。ですから、義務は果たします」
とはいえその表情は、売られていく仔羊さながらに絶望していた。
†
村荘出発から宮廷到着と、目がまわりそうに忙しい数日が過ぎて、公子が来る日となった。
前日から髪には卵液を塗りつけられ、肌には薔薇水をたたき込まれ、仕上げに香水をふりかけられまくったアーシアは、今日は目覚めた瞬間から人形も同然で、ただひたすらにこの責め苦が一刻も早く終わることを祈ることしかできなかった。
「姫さま、こちらへ」
仕上げは、床にふわふわと盛り上がった繊細なレースの固まりだった。
侍女と小間使いのふたりがかりで、腰から胸の下まで、胴はぎゅうぎゅうにしめつけられている。息をするにも不自由を感じながら、それでもアーシアは尋ねずにはいられない。
「……なに、これ?」
「ロズ侯家に伝わる正装にございます。もちろん今晩のお衣装ですわ。アーシア姫さまが歴代の姫さまと似たような体型でようございました。お顔ならどうとでも作れますけれど、お体はそうもいきませんものね。さ、どうぞ姫さま」
小間使いがレースの中央をくつろげ、すきまを作った。
優先順位の第一番は、侍女にいいようにされるしかない傍系の姫などではなくてこのドレスなのだと、アーシアは気づかれないようにため息をついた。脚をのばしてすきまに飛びこむ。侍女と小間使いがするするとレースとその下の繻子を持ち上げて、あっというまにアーシアに着せ終えた。
外の廊下を、肖像の間での歓迎式典の開始を告げる召使いが歩いていった。
「どうしたことでしょう、予定より早いですね」
中年の侍女はぴくりと痩せたこめかみをひきつらせたが、アーシアは、それだけ早く式典が終わるだろうとうれしくなる。床にひきずる長い裾に苦労しながら、履き慣れない豪華な靴に足を入れて、アーシアは侍女につれられて歴代ロズ侯の肖像画が飾られた広間に入った。
予定より早い開始にあわてながらも、ロズ侯国の貴族たちが続々と集まってくる。ことに彼らの妻や娘といった貴婦人たちの飾り立てようは、ふんだんな灯りに照らされてまぶしいほどだ。とはいえ、耳や首や胸もとや手首だけでなく、結い上げた髪にまで宝石をつけられたアーシア自身も、彼女たちに負けず劣らずまぶしい光を反射しているのにちがいない。
「アーシア、ここにいたのか。そんな顔をしないで、ちゃんと目をあけるんだ」
これもロズ侯家に伝わる正装の豪華な衣装に、金糸銀糸の肩掛けと胸飾りとでさすがの腹回りも埋もれそうなボディアス二世が、せかせかとやってくる。
「こんばんは、おじさま。だって目がちかちかするんです。夜なのに」
「また子どものようなことを。公子殿下はすぐにでもお出でだ。なんでも《眠らずの公子》と呼ばれるほど、仕事熱心な方らしい。式典の場でも、なにを言ってくるかわからん。おまえは絶対に私のそばから離れないように。いいな?」
「はい、自分の役目は心得ています。安心していてくださいな」
合図の音楽が鳴り、しんと静まった広間に、召使いの声が響く。
「フェンリク・シルヴァイアン公子殿下のお成りにございます」
供も連れずに入ってきた長身の公子は、せいぜい二十代前半といった若い男だった。細身だが強靱そうな体つきも、黒髪が映える端正な面差しも、涼やかさと同じだけの厳しさを感じさせる。本人も後者をより強く印象づけたいのか、いまも礼装というより旅装に近い暗色の長マントをはおり、装飾品の類は一切つけていない。
「お初にお目にかかります、ロズ侯ボディアス二世閣下」
しかし、そうした容姿に加えての優雅な身ごなしとよくとおる声は、たとえ公子という身分になくとも、人の目を惹きつけずにはおかないだろう。
「先の公子の分まで、長らくロズ侯国を訪れなかった非礼を詫びさせていただきます。ルシ侯国とブーリ侯国をたてつづけに襲った災害の影響が長引きまして、この恵まれた国に寄ることがかないませんでした」
叔父から半歩さがっていたアーシアは、そう言ったフェンリクの眸が煙水晶のようにきらりと光ったのを見逃さなかった。
彼の目の光を見たのかどうか、ボディアス二世もあいさつを返す。
「この十五年、公子殿下のご来訪を賜れませんでしたことはわが国にとってまことに大いなる損失ともいうべきものではございましたが、公子殿下のご多忙は重々承知しております。ようこそ、ロズ侯国へ」
「あたたかな歓迎のことば、ありがたくお受けします。久しぶりのこの訪問を、私としても存分に楽しませていただくつもりです」
「このささやかな国をあげて公子殿下を歓迎いたします。垢抜けぬ僻地の国ゆえ、至らぬことも多々ございましょう。なんなりとお申し付けくださいますよう」
うっすらとほほえみあう友好的なふたりの男の姿に、
――まるで尾羽鳩の戦いだわ。
派手な尾羽をふりたてて見事なダンスで争う鳥を、アーシアは思い出す。
口では殊勝なことを言っていても、フェンリクは十五年も見過ごしてきたロズ侯の国政上のあやまちを片っ端からほじくりだして糾弾するつもりだろうし、ボディアス二世はそれをなんとか言い逃れようと苦心するのだろう。
「どうぞこの国に、公子殿下の賢明なるご助言をお与えくださいますように」
しらじらしいにもほどがある、とアーシアがこっそり吐息をつきたくなるようなボディアス二世の世辞に、フェンリクの眸がまた光った。
「ずいぶんと耳に心地よいことを言ってくださる。閣下が公子同様、真実のみを口にしてくださる方であることを祈るばかりです」
わずかに上体を揺らせたボディアス二世は、こほん、と咳払いをして話題を変えた。
「本来ならば、妻もこの場であいさつさせていただくところなのですが、ただいま産褥についておりまして」
不意にボディアス二世がふりむいた。
いよいよ出番――アーシアはしめあげられた胴にそっと息を入れる。
「まずは、わが兄の娘アーシアを、公子殿下に紹介させていただきたく存じます」
公子の怜悧な顔が自分にむいたことを確認してから、アーシアは注意深く腰をかがめた。
「はじめまして、公子殿下。アーシアにございます。叔父の即位はこの国にとって正しい選択だったのだと、姪の立場から証言いたしますわ」
沈黙は、ほんの一瞬のことだった。
「――あっああああアーシア!」
すっかり裏返った叔父の声と、周囲の貴族たちの笑顔になりそこねたひきつり顔に、アーシアは自分のやり方がまた宮廷に受け入れられなかったことを悟った。
アーシアがこの場に呼ばれたのは、叔父の即位がむりやりな簒奪などではなかったことの証明のためだった。少なくともアーシアはそう理解していた。だからさっさと役目を果たそうとしただけのことなのだが、いまのことばはあまりに直接的すぎたようだ。
くっ、とかすかな笑い声をフェンリクの喉のあたりに聞いたように思ったのは、アーシアのはかない期待がもたらした幻だったらしい。一瞬ほっとして見上げた彼の顔は、無表情を保ってまつげ一本動いていなかった。
「アーシア姫のうわさは、かねて耳にしておりました」
真っ青になっているボディアス二世に対し、フェンリクは初めて皮肉な口ぶりになった。
「十八歳にもなるというのに、宮廷を出ていまだ嫁がず、婚約者も定めずの風変わりな姫だと。先代のロズ侯の姫ともあろう立場でのその行状は、もしやすると他の者の意志ではないかといううわさも聞いておりましたが、なるほど、自分に求められるものがよくおわかりの、賢い姫君でいらっしゃるようだ」
完全に失敗した、とアーシアはなめらかな眉間にしわを刻む。
フェンリクは、アーシアのいまのことばを完全に叔父に言わされたものと思い込んでいる。一面では事実ではあったが、そう言ったアーシアの気持ちに偽りはない。アーシアはいまのロズ侯国と自分の暮らしに満足している。それをつぶされてはたまらない。
「公子殿下!」
アーシアは胸ぐらをつかむような勢いで横入りした。
さすがにフェンリクの視線がこちらにむく。
「わたしのいまのことばは、まったくの真実です! お役目柄しかたないかもしれませんが、そうもひねくれて受け取らないでくださいませ」
「!」
今度の叔父の声は、もはやことばにならなかった。
あえぐように口をぱくぱくさせはじめたボディアス二世の隣で、フェンリクは対照的に冷淡な顔のままでいる。
「ほう、私はひねくれておりますか」
平坦すぎるその口調で、アーシアはやっと自分が重ねた失言に気がついた。
瞬間、めまぐるしく頭がまわる。お詫びして否定――だめ、そうしたらわたしがうそつきになる――じゃあなんとかとりつくろって――って、いったいどうやって――そう、ここは、やっぱり。
きっ、とアーシアは、フェンリクをもっとまっすぐ見るために胸をそらせる。
「ちがいますか? 人のことばが信用できないなんて、十分にひねくれていると言うものですわ」
アーシアが真っ向から売りつけた喧嘩に、周囲はもはや息をすることすら忘れたようだった。
だいじょうぶ、とアーシアはどきどきしている自分に言い聞かせて、相手のように冷淡な表情をむりやり作る。一度口から出てしまったことばは取り消せない。自分が決してうそをつかない人間だと彼に認めさせるには、このままひたすら押すしかない。
「わたしは、あなたにこのことを伝えるために、この窮屈な宮廷で窮屈な衣装と窮屈な靴とで待っていたんです。わたし自身とあなたのよけいな手間を省いただけですのに、こうもひねくれて受け取るだなんて。だからゆっくり眠る暇もなくなるんですわ」
フェンリクは社交的な微笑を作ってみせた。見事なまでに整った、それだけになんの感情も示さない笑み。
「おっしゃるとおりです、アーシア姫。しかし残念ながら、真実の誓いを立てた者は、この世にヴァテアと公子しかいないようでしてね」
「誓いなどわざわざ立てずとも、真実を語る者はおりますわ。それが見抜けないのはおのれの不明というものではありません?」
「あいにくと私はまだ、砂浜のたった一粒の砂金を見出す幸運に恵まれていないのですよ」
アーシアはさらに胸をそらせる。
「でしたら、お認めになりますね? 真実しか口にしないという、公子殿下が?」
「私がひねくれているということをですか」
「いいえ、いまおっしゃったことですわ。砂浜の一粒の砂金を見出す幸運に恵まれれば、ご自分の不明を認めるということでしょう?」
「砂金があると言えるのは、手の中につかんでからのことですよ」
「ええ、ではお認めください。あなたの目の前のこのわたしが、その砂金ですわ!」
どん、とアーシアは平手で自分の胸もとを叩いてみせた。
「アーシア! おまえは疲れているんだ、もういい、もういいぞ」
だしぬけにボディアス二世に腕をひかれて、アーシアはフェンリクから離された。
「た、大変失礼をいたしました、公子殿下。姪はどうも疲れているようで……」
フェンリクは無表情に、身を縮めて必死に詫びるボディアス二世を見下ろした。
彼はまだ納得していない。アーシアは自分をひっぱる手に逆らった。
「おじさま、たしかにわたしは疲れてはいますけど」
「いいから部屋に下がっていなさい! ――なにとぞ姪の失礼をお許しください、公子殿下」
侍女があわててやってきた。アーシアは外へと追いやられた。
叔父に有無を言わせないフェンリクの声が、遠く聞こえた。
「お気になさらず。それよりあいさつもすみましたし、十五年分の仕事を片付けねばなりませんので、姫にならって私も部屋に下がらせていただきましょう。案内をお願いできますか」
翌朝。朝食と着替えをすませたアーシアは、侍女にメモを渡して、そこに書いてある宮廷の書庫の本を持ってくるように言いつけた。
「……よし」
宮廷内でたったひとりで行動するためには、いろいろと準備がいる。アーシアはそっと部屋を抜け出した。
メモに書いた何冊かの本は、書庫にあるのかどうかも不確かな稀書だった。これでしばらく時間を稼げるはずだが、油断は出来ない。アーシアは姫君にあるまじき早足で廊下を折れて別棟に入り、階段をあがって、ロズ侯国特産の黒い香木に銀の象眼をほどこした扉を二度叩いた。
「いらっしゃいますか、公子殿下? アーシアです」
扉のむこうを想像してみる。いまの声を聞いて、考えて、立ち上がって――と、そこで扉があいた。想像どおり、扉をあけたのはフェンリク公子自身だった。
「……ご用件は?」
マントをはずしたくらいで、彼は昨夜とまったく同じ姿だった。ただし、昨夜は冷淡な無表情かせいぜい社交上の微笑を浮かべるくらいだった顔が、いくらか不機嫌そうに見える。
「おうわさどおり、お休みになっておられませんの?」
ひょいと部屋をのぞこうとしたアーシアの視界は、壁についたフェンリクの長い腕でさえぎられた。
「そうですね、十五年分の仕事がありますので。その質問がご用件でしたら、では失礼」
すかさず扉が閉められかける。
「お待ちください!」
アーシアは狭まったすきまに体をねじこんだ。フェンリクの腕をかいくぐり、部屋に入ってくるりとふりかえる。
「昨夜の続きをお話しにまいりました」
フェンリクは不機嫌の色をわずかに濃くしたが、それでも貴婦人を部屋に迎える礼儀として扉をあけたままとどめた。
「なんのことですか?」
「きちんとお話しして納得していただくのが、わたしの役目です。そしてあなたのお仕事のひとつでもあるのでしょう? ロズ侯国の侯位は、姪から叔父が奪ったのではなく、兄から弟へ正当に譲られたということを確かめるのは」
「先の公子が気にしていたのは確かですね。私が調べるつもりであることも」
「ですから、そのお手間を省いてさしあげます。あなたが信じてくださるまで、わたしもこの宮廷で窮屈な思いをしなければなりませんから。どうしたらわたしを信じてくださるのか、条件を教えてください。どんなことでも果たしてみせますから」
「せっかくのお申し出ではありますが、ごく少数の人間に大きなうそをつき続けるのはたやすいことと言われていましてね」
「……わたしはうそつきじゃありませんと、昨夜申し上げたつもりですけど」
「ええ、それは。しかし、あるらしいといううわさだけで、砂浜に膝をついて一粒の砂金を探し求める時間など、私にはないのですよ。砂金はあるのだと断じることはできません」
「ほん……っとうに、公子殿下はひねくれていらっしゃいますのね?」
アーシアは、笑顔にまぎらせてフェンリクをにらみつけた。
フェンリクは冷淡にそんなアーシアの視線を受け止めて、まるで動じなかった。
「なんでしたら、眠らずではなくひねくれの公子と呼んでくださってもかまいませんよ。ところで、私はもう仕事に戻りたいのですが、アーシア姫も帰ってはいただけませんか」
「まあ!」
「失礼。公子はうそをつけませんので」
「要はわたしの話に割く時間なんて、まばたきするほどだってないってことですか。――まったく強情ね、あなたって!」
アーシアは笑顔を消して、今度こそ思いきり公子をにらみつける。
「宮廷に着くまで、侯国の様子は見たでしょう? どうだったのよ? 土地は荒れていた? 道は草を生やしていた? 民は不幸そうだった? あちこち見てまわっているなら、うまくいっている国とそうでない国なんて一目でわかりそうなものだわ!」
フェンリクの口もとに、ほんの一瞬、おもしろがるような表情がよぎった。
「一目で、ですか。そのような慧眼の公子もいたのかもしれませんが、私はあいにくとそうではないのですよ。私は私のやり方で務めを果たします」
「そうですか、ご苦労さま、それでよく体が持ちますね!」
アーシアは横目に部屋を見る。
銀の間と呼ばれるここは宮廷内で一番贅沢な続き部屋で、寝室はこの廊下から面した扉のあたりからはまったく見えない。しかし、花をいっぱいにさした花瓶と置き菓子しかないはずの円卓にうずたかく積みあげられた書類と、布団のようにマントがかかった寝椅子を見れば、彼が寝室を活用しなかったことは明らかだった。
「私なりに自分の体はいたわっていますし、気分転換もできますのでね」
フェンリクは手にしていた水晶の眼鏡をかけた。
「特にこの国には、こちらが頼んでもいないのによく話してくれる、変わった姫君がいらっしゃる」
彼はさっさと円卓に戻り、書類の山のむこうに座って見えなくなった。
「お手をわずらわせてすみませんが、扉は閉めておいていただけますか」
出ていけということだった。
なにか言い返せないかとアーシアがいそがしく考えていると、次の声がした。
「アーシア姫」
「はい、なんでしょう!」
「私の仕事の邪魔をしますと、それだけあなたが宮廷にいる時間が長くなりますよ」
アーシアは無言で部屋を出て、姫君としては乱暴すぎる動きで扉を閉めた。
自分の部屋に飛びこんで、アーシアが椅子に座ったそのすぐ後。侍女が書庫から戻ってきた。彼女はむすっとメモを差し出し、頼まれた本が見つからなかったことを詫びた。
「探し回らせてごめんなさい。あったら読んでみたかったの」
アーシアも彼女に詫びた。
「もうご用はございませんか?」
「そうね、特には。だから、あとで書記のところへ行ってみてもいいかしら。公子殿下にお渡しする書類の整理を手伝いたいの」
書類にまぎれてなにかしてやろうとの考えは、だが、即座に壁にぶつかった。
「とんでもございません! 閣下の姪ともあろう姫君が、下々の男たちが集まる場所に行くだなんて、そのようなはしたないこと!」
想像しただけで恐ろしいといったふうに、侍女はぶるっと肩を震え上がらせた。
「ご予定がないのでしたら、刺繍をなさいまし。音楽の稽古もよろしいものですわ」
やはり侍女を追い払っておいたのは正解だった、とアーシアは思った。自分ひとりで公子を訪ねてきたなど言ったら、卒倒してしまうかもしれない。そこまではいかなくても、きっと昨夜よりもなお長い、貴婦人の心得についてのお説教は間違いない。
「……じゃあ、あなたの話を聞くことにするわ。あの公子について知っていることがあったら、なんでもいいから教えて?」
侍女はけげんそうに眉をひそめたが、アーシアを書記室へ行かせるよりはましだと思ったらしい。かしこまりました、と痩せた顔をつんとすませて承知した。
「と申し上げましても、わたくしもさほど知っているわけではございませんわ。わたくしの従姉の娘がガイチェロ侯国の商人に嫁いでおりますので、そこでのうわさを小耳にはさんだくらいです」
「十分よ。どんなうわさがあったの?」
「ええ、《眠らずの公子》と呼ばれるとおり、滅多にお休みにならないとの話でしたわ。ガイチェロの宮廷でもおひとりでいらっしゃって、書類や食事といった必要なものだけをそのたびに運ばせるんだそうですのよ。書類を抱えて半日部屋にこもって、たてつづけに不備を指摘したと思ったら、すぐに馬を走らせて別の書類に見つけた不備を現地へ確かめに行くのだとか。ほんとうに誰も公子殿下の眠るところを見たことがなかったそうですわ」
「あら、生きものなら眠るわよ」
「ですが、天燕などは空を飛び続けて眠らないと世間では言い慣わしておりますよ」
「眠るわよ、飛び方がちょっとゆるいときがあるもの。まあそれはいいわ、いまは公子の話を聞きたいの。好きなこととかはないの? 食べ物だとか、趣味だとか」
「どうでございましょうね。眠ることもないようなお方なのでしたら、そういった楽しみをおこなう時間など持てないのじゃございませんか」
「そうかもね。だけど、美しい女の人とかなら好きなのじゃない?」
「さあ、だいたい公子殿下は――」
と、そこで話題の微妙さに思い至ったらしく、侍女は口をつぐんでしまう。
「なに? なにか聞いているの?」
「いえ、これは口さがない者の勝手なうわさですから。とても姫さまにお聞かせするようなことではございません」
「恋のうわさなんでしょ? 優雅な恋のかけひきは宮廷人のたしなみなのに、あんなふうに物事をはっきり口にしていては決してできませんって、昨日は言っていたじゃない」
「姫さま、あれは物の例えというもので」
「生きた勉強だわ。言って」
「それに、これは恋のかけひきといった話ではなく」
「言って」
アーシアはぐっと目に力を込めて侍女を見やる。
侍女は観念したように口をひらいた。
「……公子殿下はあのとおり、たいそう魅力的な殿方でいらっしゃいますので……」
「まあそう思う人もいるんでしょうね。あの動かない顔は宮廷向けだわ」
「その……うわさでは、ガイチェロ侯の三の姫君が、公子殿下に恋されて」
「姫のほうから夜這いでもかけたの?」
「ちがいます! 公子がガイチェロ侯国の宮廷に滞在されているあいだにと、涙をこぼされながらせつない胸の思いを打ち明けたそうなんですの。ですが公子はきっぱりお断わりされたそうですわ」
「あの公子のきっぱりって、すごそうね」
「そんなこともございませんよ。地上の人が空の鳥に恋したと泣くなんてばかげているとは思いませんか、でしたかしら。自分は恋することなどないのだから、お相手はできないとかなんとか」
「そう。なんにしても、あの公子も優雅な恋のかけひきには縁がなさそうね」
「ですから、姫さまにお聞かせするようなことではと申し上げました……」
それにしても、とアーシアは手入れされた指先であごにふれて眉を寄せる。
「眠りもしなければ恋もしないだなんて、ほんとうに生きもの? お話に出てくる《まことの命を持たぬもの》とかじゃないでしょうね?」
「姫さま、そのようなことを!」
「知らない? ちゃんと動いて話せるのに体はひんやりとしていて、生きている者のあたたかな血を求めて近づいて来るんですって。まああの公子は、生きもののあたたかさなんて欲しがりそうにもないけど。公子って、みんなああなの?」
「さあ、《都》のことは存じませんわ。わたくしが若いころにお見かけした先の公子殿下は、やはりお顔立ちの整った、金髪の方でしたけれど」
「困ったわね」
眉間のしわを深くして、アーシアは小さな声でひとりごちた。
「……なんとか気に入ってもらうには、好きな話をするか好きな物を贈るのが基本なのに。これじゃなにもできないじゃない」
侍女がそのつぶやきを聞きとがめようとしたとき、ボディアス二世が入ってきた。
「アーシア! ――ああ、そこにいたか」
「はい、おりますとも、そんなにあわてて、どうしたんです?」
「公子殿下が、正式な午餐をともにする時間はないが短い茶会のかたちでならと承諾されたのだ。おまえにも出てもらう。ただし、もうよけいなことは言い出すんじゃないぞ」
たったのひと晩で、ボディアス二世はひとまわり痩せたような感じだった。
「ずいぶんとお疲れのご様子ですね、おじさま」
ボディアス二世はじろりとアーシアをにらんだ。
「昨夜、公子殿下は式典をすぐに退席されて、用意の酒にも食事にも手をつけなかったのだ。選りすぐりの五人の召使いも部屋から追い出し、運ばせた酒と十二皿の肉料理と魚料理も断わって――こちらから提供して喜ばれたものは、湯浴みの湯だけだったのだぞ! これで浮かれていられるとでも思っているのか?」
「ですけど、そう気を張っていては、公子のお帰りまで持ちませんわよ」
「アーシア、おまえは! 少しは昨夜の自分を反省する気持ちはないのか」
むしろついさっき部屋に押しかけたことのほうがまずかった、とアーシアは思ったが、叔父の気持ちのために言わずにおいた。
「アーシア、いいから茶会では黙っているんだ。もし公子殿下になにか尋ねられたら、そのときだけ返事をすればいい。くれぐれも丁重にな」
「まあ、わたしからおうかがいしたいことがあるんですけど」
「だめだだめだ、絶対にだめだ!」
声を張り上げて却下したボディアス二世は、侍女にアーシアの身仕舞いを整えるように命じた。
アーシアは大きなため息をついた。
「今日もまた拷問なのね。ぎゅうぎゅうにしめあげられて、頭にはピンをぐさぐさつきさされて、香水をたっぷりふりかけられて。鼻がおかしくなりそう」
「……アーシア」
「はい、おじさま。おじさまの言いつけでしたら、おとなしくしています」
ボディアス二世はまだアーシアをにらみながらもうなずいて、部屋を出て行った。
侍女が小間使いを呼びつけ、途端に部屋があわただしくなる。
アーシアは、姿見に映る自分がどんどん飾り立てられていくさまを、他人事のように見つめていた。改めて結い上げたつやめく髪、丹念に磨いて色づけた爪、朝よりもさらに念入りな化粧、そしてアーシアの肌と髪と目の色にしっくり合った贅沢な衣装。輝石をつないだ細い金鎖が耳たぶにつけられ、鏡の中の姫君がアーシア自身だと教えるように、耳もとで小さく涼やかな音をたてる。
「……見る分には、そう悪くはないけど」
アーシアは鏡に映った自分に話しかける。
「実際にこうしているほうは、窮屈で苦しいだけなのよね……」
準備が整い、あとは案内を待つだけとなった。まもなく召使いが訪れた。だが、彼は扉のところでとどまり、侍女とすばやくなにかを話し合った。
なにかあったらしい。アーシアが待っていると、侍女がふりかえった。
「姫さま、残念ですがお茶会は中止だそうです」
「中止?」
「公子殿下が外出されたそうですわ。主賓がいなくては意味がないと、閣下が」
アーシアは鏡に視線を戻す。人形のようになった自分が、見るからにうんざりした顔で座っている。
「……たいした礼儀知らずの公子さまでいらっしゃいますこと」
ここまで着飾らされた手間を台無しにしてくれた相手に、さすがに腹が立つ。アーシアはすっくと立ち上がる。
「お茶会が中止なら、ここまで飾り立てることはないわよね? もうちょっと動きやすい格好に着替えさせて」
意気消沈したボディアス二世の姿が痛々しい遅い午餐が終わると、もうすることがない。
アーシアは庭を散歩することにした。
「姫さま、空が曇ってまいりました。散歩には不向きですわ。それに、やけに蒸し暑くもございます。もちろんそうかんたんに落ちるような粗悪なおしろいは使ってはおりませんが、お顔を保つためには汗をかくようなことは避けるべきですわ」
アーシアの眉間にきゅっとしわが寄る。
「……いいわよ、別に」
「いいわけございません! 常に誰から見られてもよいようにしておくのが、貴婦人のたしなみというものですわ」
「わたしは、このふくれたドレスのほうがよっぽど変だと思うけど。これじゃ茸か太ったがちょうよ。走れもしないじゃない」
「姫さま! そんな、走るなどと!」
「わかりました、走りません。だから庭を歩いてきてもいいでしょう?」
決して貴婦人にあるまじきことはしないと約束すると、侍女はしぶしぶ散歩を許可した。
アーシアは喜んで庭に出た。たしかに空は重く曇り、じっとりと動かない温気は肌にまとわりつくようだったが、それでも部屋で身動きするごとに侍女に注意されるよりはよほどよかった。
庭には季節の花が咲き誇っている。しかしボディアス二世の趣味なのか庭師の考えなのか、なにかの実をつけた低木も茂みもない。それどころか、毎朝一枚一枚確かめてでもいるかのように、どの葉をめくってみても虫一匹見あたらない。庭師が立ち入りを許した虫は、ひらひらと宙を舞う華やかな蝶と、もそもそと花にもぐりこむ黄金色の小さな丸蜂だけらしい。
だからか、こんなに木があるというのに、鳥がいない。一度遠くで星鶫の声が聞こえただけだ。
「……ここも退屈」
アーシアはため息をついて、噴水台がある泉の前のあずまやに座った。両膝をそろえた上に肘を乗せて、前かがみにほおづえをつく。
刺繍は、指をつきさして肩ばかりこるのがいつものこと。音楽の稽古をすれば、いつまでたっても不器用な指に教師がいらだちはじめる。貴婦人たちとの交際は、なにげない発言で一斉に彼女たちに笑われるか、話題についていけずに黙りこくるしかない。厨房で玉ねぎの皮をむくほうがまだましな時間の過ごし方だとアーシアは思うが、それが許されることは決してない。
することがなにもなかった。信じられないほど時が経つのが遅かった。
しかたなくあずまやから見える花壇の花の数を数えていると、円錐状に刈り込まれた並木をまがって、誰かが散歩道をやってきた。
散歩には見えないすきのない歩き方と、長身と黒い髪――フェンリクだった。
「まあ!」
フェンリクもアーシアに気がつき、あずまやの前で立ち止まった。外出から帰ったばかりなのだろう、水晶の眼鏡はなく、この蒸し暑さなのにマントをはおっている。
そのくせ汗ひとつかいていない彼にあきれながら、アーシアは皮肉をこめて話しかけた。
「いまお戻りですか。ほんとうのお茶会ということでしたら間に合いましたでしょうに」
「ボディアス二世閣下は、どうも勘違いされたようです。今日とお返事したつもりはなかったのですよ」
平坦な声がいらだたしい。
「あのですね、知ったことじゃないとおっしゃりたいでしょうけれど、いまこの宮廷は、あなたの言動のひとつひとつで右往左往するんです。もう少しまわりに気をつかっても悪いことはないと思いますけど?」
「私が頼んだわけじゃありません。必要な物さえいただけるなら、むしろあとは放ったらかしにしておいてほしいんですが」
「あきれた! ほんとうに《まことの命を持たぬ者》だわ。ガイチェロ侯国の三の姫もおかわいそうに」
フェンリクはわずかに微笑した。例によって社交上の、なんの感情もともなっていない笑みだった。
「彼女は十四歳でしたからね。一時の気の迷いというものです」
「十四歳! そんな年の泣いている女の子に、冷たいことばをかけたんですか」
「そうした点では、彼女はすでに立派なご婦人でしたよ。自分の青い眸がこぼす、涙の力も甘さもよくご存じの」
息を大きく吸いこんだせいで、襟ぐりのレースに飾られたアーシアの両肩が持ち上がる。
「ますますあきれた! 泣いている女の子を見ながらそんなことを考えていたなんて」
「それでは涙に流されるがままに、姫君がたと親密な交際をしろとでも? そちらのほうがよほど冷たい仕打ちと思いますが」
「極論を持ち出さないで。あなたの場合、自分に人並みの心はありませんって、首から書いてぶらさげておくべきだと思いますわ」
「どちらが極論なんだか」
フェンリクは服の隠しから折った紙を取り出した。
「あなたを捜していたのは、こんなどうでもいい論争をするためではないのですよ。別の用があったからです。姫ねーちゃん、という方宛にことづかってきたんですよ」
「え?」
「あなたにおとなしくしていただかないことには、仕事が進みませんのでね。今日はあなたの村荘に寄らせてもらいました。そこであなたのお友達に会いまして」
アーシアはあずまやを飛び出して、フェンリクがさしだした紙を受け取った。
宮廷では見かけない、ごわごわとした安価な紙だった。それがていねいに折りたたまれてある。ひとりでにひらかないようにした少しばかり複雑な折り方は、アーシアが教えて、村の子どもたちのあいだで流行しているものだ。アーシアはあわただしく紙をひらく。
「――みんな……」
不器用で、乱雑で、けれども元気いっぱいな文字が、紙いっぱいに踊っている。
これもアーシアが子どもたちに教えた、それぞれの名前のつづりだった。
途端、村荘での暮らしがアーシアの胸からあふれてこぼれだす。庭にやってくるさまざまな鳥。メイリス夫人の素朴だけれどあたたかな料理。庭で、食堂で、子どもたちと交わすなんでもない会話。彼らに教わった村の歌。
いまここにはない、あらゆるもの。
「――」
不意に自分がひとりぼっちという気がして、寒くもないのにぶるっと身震いが出た。アーシアの意識は幸福な夢から引きはがされてここに戻った。
フェンリクがなにか言っている。
「……というわけですので、もうあれこれがんばらなくて結構ですよ」
ことばはわかったが、それだけだった。夢が消えた心はぽっかりとうつろになったまま、アーシアはただ聞こえた音につられて顔をあげた。
するとフェンリクが目をみはった。
「……泣いているんですか」
確認でしかない彼の低い問いかけに、アーシアはやっと、やたらと熱い自分の目に気がついた。しかも、鼻の奥がつんとして、こめかみがずきずきと痛む。アーシアはあわてて、うつむいて顔を隠す。
「泣いて――」
なんかいない、とかぶりを振ろうとして、そこで小さく息をつく。
「……うん」
閉じたまぶたに押された涙が、つうっと頬をつたった。アーシアは手のひらで顔をぬぐった。
ふっと、曲げた肘がすくいとられるように支えられた。
ゆっくりと導かれ、アーシアはあずまやに戻った。
「座って」
アーシアを座らせて、フェンリクも並んで腰を下ろした。
「あなたは、あそこへ帰りたいんですね」
その声は思いがけずやさしくて、アーシアの濡れた心にしみこんだ。
「――だって」
宮廷はいやだった。
自分が傍系の姫だからといった理由ではなく、いやだった。
木登りや水遊び、芝生の上に寝転がったり、土を掘り返してみたり。そうやってなにかしようとすると、決まって反対される。だったらとこっそり実行すると怒られて、その上そんなことをさせたとアーシアの周囲の人間が責められる。アーシアがしていいことは最初から決められていて、それをしている分にはなんの不自由もなかったけれど、それ以外のことは決して許されない。
「宮廷には宮廷の型があって、だけどわたしは、その型とはちがうんだもの。どんなに一生懸命合わせようとしたって、わたしははみ出してしまうんだもの。他の人と同じにしようとしたって、どうしたってなにかがちがうんだもの」
物心ついて以来、アーシアはずっと息苦しさを感じてきた。それが当たり前なのだとすら思っていた。しかし、長引いた咳の病の療養で初めてあの村荘に行ったとき、そうではない暮らしがあることを知ってしまった。
「あそこでなら、わたしはそのままのわたしでいていいの。だけど、ここはちがう。わたしがやることがおかしく見えて、困る人しかいない。わたしだって、刺繍や音楽や交際が楽しめればよかったと思う。みんなと同じものが好きになれればよかったと思う。だけど、どうがんばったって好きになれなかったんだもの――」
ふうっ、とアーシアは息をついた。そのままあずまやの天井を仰いで、呼吸を整えた。
ありったけの思いを吐き出して、涙はもうおさまっている。なつかしい手紙を指にはさんだ手のひらでぱちんと両の頬をかるく叩き、表情をきっとさせて、アーシアはフェンリクに顔をむけた。
「――と、いった感じです。まばたきする時間も惜しいところを、おつきあいいただいてどうもありがとうございました!」
すぐさま伏せた視線は作法にのっとってのことだが、フェンリクを――正確には、その目にうつっている自分を――見たくないという気持ちの表われでもあった。
「女の涙はお嫌いなのに申し訳ありませんけど、わたしだってまったくそんなつもりはなかったんです。許していただけるとありがたいですわ。じゃ、これで」
叩いた頬がじんわり熱い。そのことも悟られたくなかった。アーシアはさっさと立ち上がった。
フェンリクの声がした。
「もう少し落ち着いてから帰ったらどうです。そのままの顔では侍女が心配しますよ」
あずまやから出かかっていたアーシアは、思わず足を止めた。
「……そんなに泣いてなかったつもりですけど」
「大泣きではなかったですけどね。鼻はまだつまっているんじゃないですか」
ぐすっ、と彼に応えるようにアーシアの鼻が鳴る。
「ほら」
「しょ、しょうがないじゃない!」
アーシアは鼻を押さえた。
「だから、もう少しここにいてはと言っているんですよ。ちょうどいいでしょう。こんな日に庭をうろつこうだなんて考えるのは、あなたくらいのものだ」
「こんな日にマントなんか着込んでる人に言われたくないです!」
「どうぞ」
とん、と音がする。
アーシアはふりかえり、椅子の細い羽目板を何列分もまたぐ彼の手を見つめた。
指の長い手は誘うように、またゆっくり羽目板を叩いた。
アーシアはつかつかと足早に戻って、すとんと腰をおろした。ただし、フェンリクが絶対に目に入らないよう、まっすぐ前をむいたままだった。
「なにかお話ししましょうか。あなたの村荘とか、友達とか」
「いいえ結構です、あそこにはすぐに帰りますから。それより、忙しいんじゃないんですか」
「忙しいですよ」
「でしたらおかまいなく、どうぞお仕事に戻ってください」
「これでも人並みの心はあるんですよ」
「え?」
アーシアは驚いて、フェンリクの様子をうかがった。
冷淡そのものだとばかり思っていた顔が、どこかやわらいでいる。
「泣いた子どもを放ったらかしにはしておけません」
それがおもしろがっているからなのだと気づいた瞬間、アーシアは上体をねじってフェンリクにむきなおった。
「子どもってどういうことよ! そりゃまあ確かにいまちょっと泣きはしたけど、そんなのガイチェロ侯国の姫だって同じでしょ!」
「こうした事柄ですべてを判断するつもりはありませんが、彼女はとっくに婚約しましたよ。相手の貴族は評判の美男子でしたね。なんでも、ガイチェロ侯が入った部屋の中で彼と抱き合って、というか抱きついていたそうです。十四歳では結婚にはまだちょっと早いですし、お相手ももう少し気楽な身分でいたかったようですが、そうなってしまってはどうしようもないですからね」
「……わかったわよ。その姫は宮廷暮らしにはむいていたんでしょ。だけど、ただそれだけのことじゃない」
「子どもたちと一緒になってさわいでいる人よりは、まだ大人と言っていいと思いますが」
「あれは研究よ!」
フェンリクはわずかに目もとをゆるませ、いきなり聞いた。
「鳥がお好きですか」
アーシアはその目をにらみつけながら答えてやった。
「ええ、とっても」
「宮廷の人たちより?」
「比べるまでもありません」
「いない人生なんて考えられないほど?」
「いまのところはそうですね」
「この先は?」
「ええ、この先もきっとずっとそうでしょう」
「愛している?」
「これが愛ということなら、愛しています」
次の瞬間、アーシアは自分の目と耳を疑った。
くっくっく、と、口もとにこぶしをあててフェンリクが笑っている。
アーシアはしばらくそんなフェンリクを見つめ、まばたいて、もう一度見つめてみる。
やはりフェンリクは笑っていた。
「……なんの発作ですか」
垂れた黒い前髪の下から、フェンリクの笑ったままの目がアーシアにむいた。
「私が笑うのはおかしいですか」
「まちがいなく、とてもおかしいです」
「そう真顔で言わないでください。私も、気分がよければ笑うんですよ」
「そうですか、それはよろしゅうございました。なにがどうなってそうなったのか、わたしにはちっともわかりませんけど」
「あなたにそうしてもらったんですよ、たったいま」
「は?」
アーシアは眉をひそめる。
「ガイチェロ侯国の話を持ち出したからにはご存じと思いますが、私は自分を鳥だと言ったことがありましてね」
「はあっ!?」
「こうも熱っぽく見つめられながら愛していると言ってもらえるのは、とても気分のいいものです」
「かっ、勝手に都合よく解釈しないで! 誰もそんなつもりで言ってないです!」
「一度口から出てしまえば、ことばは一人歩きするんですよ。だからこそ慎重にならないと」
もう座ってなどいられない。かっと頭にのぼった血とともに、アーシアは勢いよく立ち上がる。
「いまのはあなたが誘導したんじゃないですか! だいたい、わたしはあなたのことなんてこれっぽっちも考えていませんでした!」
「結構ですよ。あなたは鳥を愛していると心を語り、私は自分をその鳥と思って聞いていた。あなたのはしばみ色の眸に見つめられながらね。ただそれだけの話です」
フェンリクは笑みをおさめた。それでもその表情はいつもよりはるかにやわらかい。つまりは、アーシアをからかってまだまだおもしろがっているということだった。
なんとかこの底意地の悪い公子をぺしゃんこにする言い返しはないものか、アーシアはいそがしく考えた。けれども、宮廷風の恋愛遊戯を鼻で笑って避けつづけてきたこれまでが祟ってか、どうしても気の利いたひと言が思いつけない。
「――公子ともあろう人が、ずいぶんとむなしい一人遊びですこと!」
せめて、むくれた顔でそっぽをむく。
「それでも、《嫁がずの姫》に愛していると言われた最初の男という名誉は、私にもらえるのでしょう?」
「あげません、知りません!」
さっさとあずまやから走り出ようとして、アーシアはそこで初めて、いつのまにか降り出していた雨に気がついた。
村荘でだったなら頭を手でかばって走って帰るところなのだが、いまの姿ではそれも難しい。華奢な繻子の靴は濡れた地面でかんたんに汚れるだろうし、長いドレスの裾もひどいことになって、侍女を嘆かせ、小間使いを重労働に追い込むことだろう。
「やはり降ってきましたね」
フェンリクもやってきた。
「しばらくやみそうにもないですね」
ふたりがたたずむあずまやの屋根を、雨が静かに叩いている。
「……あなたのせいよ」
「私には雨を降らせることなんてできませんよ」
「ああそうですか、ですけど、わたしがいまここでこうして困っているのは、あなたがひきとめたせいです!」
アーシアはいらいらと言い直し、空を見上げた。
灰色の雲がたちこめて、さらに分厚さを増していき、あたりはどんどん薄暗くなっている。空から落ちる無数の雨つぶが温気をぬぐい去って、あらわになった首すじのあたりからすうっと体が冷えてきた。
「ではお詫びに、いえ、先ほどのお返しに」
「えっ?」
暗色のマントが、ふわりと後ろからアーシアを包みこむ。
「旅中に突然降られたときにも重宝するんですよ。多少の暑さをがまんするだけの価値はあります」
ドレス越しに、膝の後ろに腕が入った。え、とふたたび思うのと同時、頭からマントをかぶせられたアーシアは、そのままフェンリクに横ざまに抱き上げられた。
「ちょ、ちょっと!!」
「暴れると落ちますよ」
フェンリクは無造作に庭におりて、散歩道を戻っていく。
木の枝に腰かけたときよりも不安定な姿勢のはずなのに、彼の腕はアーシアをしっかり支えてくれていて、少しも怖くない。アーシアは呆然と、いつもより高い視線で雨にけぶった世界を眺めた。
「あなたの大事な手紙はしばらく胸に置いて、私の肩に手をかけてくれませんか。持ちにくい」
吐息がかかりそうに近い声が、相変わらず皮肉っぽい口ぶりで、アーシアが荷物かなにかであるかのように言ってくる。
アーシアは自分をくるむマントから手を出して、フェンリクの肩に置いた。
「……これでいいですか!」
雨つぶは小さかったが、量が多い。マントから出た手はすぐに濡れた。
見れば、フェンリクの髪はとっくに濡れそぼって、髪の先からしずくが落ちている。
「もっと力をこめて、自分でもしっかり支えて。私ひとりでは腕がしびれます」
「重くて悪かったですね!」
すまなく思う気持ちがそがれた。それでも、彼が濡れて自分が濡れていないことに変わりはない。礼儀として言わないわけにはいかないと、アーシアは自分の心に鞭打った。
「……ありがとうございます」
ぼそっとつぶやくようにして、アーシアは礼を言った。
彼の喉のあたりに、今度ははっきり、小さな笑い声が聞こえた。
雨は強さを増して降りつづけ、翌日になってもやまなかった。
アーシアは小机にほおづえをついて、陰気な目つきで傍らの侍女を見やった。
侍女は午後の茶会で身につける物を、いそいそと選んでいる。彼女によれば、晴れた日と雨の日とでは衣装から宝石まですっかり変えるものらしい。
「姫さまは日に焼けていらっしゃいますから、こうした日にはお肌の色が暗くくすんで見えないよう、特に注意いたしませんと」
――どうでもいいわよ。
とは思いながらも、侍女からいまの仕事を奪うとまた刺繍だの音楽だのと言い出されそうで、アーシアはじっとこらえて聞いている。
「姫さま、日ごろは田舎暮らしとはいえ、陽射しにはお気をつけくださいませよ。晴れた日の外出には日傘を忘れないのが、貴婦人のたしなみでございます」
――そんな物を持っていたら、木苺も摘めないじゃない。
「ですけど、もう手遅れというわけではございませんわ。まあお待ちください。こうして宮廷におられるんですし、近々きっと、殿方からの求愛がおありになりますから」
――全っ然、要りません。
「そういえば。母君さまのご病気で遅れていらしたジャクルス士が、ようやくいらっしゃったそうですよ」
侍女は、アーシアの記憶の片隅に残っていた名前を持ちだした。
以前ロズ侯国の大商人が一代伯に任じられたとき、長子のジャクルスにも士の称号が与えられ、貴族の集まりの場に列席することを許された。それ以来、彼はしばしば宮廷に招かれて、彼より二歳年下だったアーシアも、宮廷で暮らしていたころにはたびたび顔を合わせている。
「平民の出ではいらっしゃいますけれど、母君さまは貴族の血筋、父君さまは一代伯ですし、いずれご自身もそうなりましょう。行く末が楽しみな殿方にございますわ。――まだ独身でいらっしゃいますしね」
あやしい空気を漂わせてきた侍女に、アーシアはついに声に出してことばを返す。
「あの人、『ええ、そうですね』と『ああ、残念ながら』以外に言えるようになったのかしら」
「まあ姫さま、あの方のそうしたところは、おやさしいお人柄とおっしゃるべきでございます。婦人の話に耳を傾けてくれる殿方とは、たいへんに貴重なものでございますよ」
「返事がたったのふたとおりしかないのに? それじゃこちらの話を聞いてないのと変わりないわよ。退屈でしょうがないわ」
「でしたら姫さまは、どういった殿方なら愛せるんですか?」
「!」
愛している、ということばは、当分のあいだ聞きたくない。がたっと大きく椅子を押しやって、アーシアは立ち上がる。
「わたしは恋愛ごっこをしに来たんじゃなくて、自分の役目を果たしに来たの!」
その後も、雨は降りつづいていた。
茶会は暖炉の間と呼ばれる奥の部屋でひらかれた。ほかに比べればこぢんまりとした地味な部屋で、アーシア、フェンリク、ボディアス二世、それに宮廷に到着したばかりのジャクルスというささやかな集まりにはふさわしい。
「妻は茶が好きで、結婚以来、私も仕込まれたのですよ。公子殿下のお口に合えばいいのですが」
私的な親密さを醸し出すことをねらってか、ボディアス二世はみずから香り高い紅茶をそそいで配った。
ゆっくりとひと口味わって、フェンリクは完璧な社交上の微笑を見せる。
「お見事です」
その態度にも声にも、まったくおかしなところはない。風邪をひいていないらしいことには安心したが、あまりに変わらなさすぎる様子に、アーシアは少しばかりむかっとする。
――人をあれだけからかっておいて!
昨日のことは、アーシアは誰にも言っていない。髪も靴もドレスもちっとも濡れていなかったので、侍女も、アーシアは雨が降る前に宮廷内に戻っていたのだと思っている。
アーシアにしたところで、昨日の記憶は完全に消したい、なかったことにしてしまいたいと願っているが、あっさりとそうしてしまったようなフェンリクを見ていると、また別の感情がこみあげる。
こっそりにらみつける視線には気づいているだろうに、フェンリクは涼しい横顔でアーシアを無視し、ジャクルスに話しかけた。
「ジャクルス士、今日は昨日とは打って変わって寒いくらいですし、こうした熱いお茶はなによりのごちそうですね」
「ええ、そうですね」
波打つ亜麻色の髪と夢見るような淡い眸のジャクルスは、いまだに幼さを消しきらない青年といった様子で、アーシアの記憶にある四年前とほとんど変わっていなかった。
「道中はずっと雨でしたか?」
「ああ、残念ながら」
「馬車とはいえ、雨の旅は憂鬱なものでしょう」
「ええ、そうですね」
――中身も変わってないわ。
今度はジャクルスを横目にうかがいながら、アーシアも熱いカップに唇をつける。
ボディアス二世が、ふたりの会話のようなものに加わった。
「ジャクルスは、まだ子どものころからここに出入りしておりまして。私は長く子どもに恵まれませんでしたから、ほとんど自分の甥のように思っているのですよ」
なるほど、とフェンリクが紅茶を楽しみながら相づちを打った。
「私もやっと子を持てたことですし、ジャクルスの進むべき道をよりしっかりと定めておきたいと思っているのですが――これが、なかなか」
もの言いたげなボディアス二世の視線が、アーシアにむいた。
わたしには関係ありません、と応じたいところをがまんして、アーシアは小首をかしげてみせる。
「おじさま、そちらのお菓子をいただいてかまいません?」
ボディアス二世は細い目をさらに細めたが、それでもアーシアに焼き菓子の乗った皿をよこした。
やりすごした、とアーシアがほっと焼き菓子をつまんだそのとき、不意打ちが来た。
「姪がすなおにジャクルスに嫁いでくれれば、私も安心できるのですが」
おもわず力の入った指先で、柔らかに仕上げた焼き菓子がぼろっとくずれた。アーシアはそれにもかまわず、きっとなって叔父をにらみつけた。
「おじさま、ずいぶんとはっきりおっしゃってくださいましたね?」
ボディアス二世も、細い目で負けじとにらみ返してくる。アーシアの結婚問題に関するフェンリクの誤解を、この叔父は叔父でどうにか解消しようとしていたらしい。
「察しろというこちらの気持ちを、おまえがことごとく無視してくれているからだ。公子殿下の御前で婚約となれば、これほどの慶事はない!」
「わたしは一生あの村荘で暮らすと言っているじゃないですか!」
「ジャクルスになんの文句がある! 気が優しくて、財産も十分で、これほどおまえに好き勝手させてくれるような夫などどこにもいないぞ! 一生村荘で暮らすなどと、そんな勝手がいつまでも許されると思うんじゃない!」
「自分の義務はわかってます、だからいまだってここに来ているんです。ですけど、なにも義務感だけで結婚までする必要はないでしょ!」
アーシアはそのままの目つきでジャクルスにむきなおる。
「いいジャクルス、正直に言うのよ。あなただって自分のまわりに、好きな女のひとりやふたりはいるわよね?」
ジャクルスは、無邪気にアーシアにほほえんだ。
「ああ、残念ながら」
この男の胸ぐらをつかんでぐらぐらとゆすぶりたい衝動を全力でこらえた分、アーシアの声はさらに大きくなる。
「なにをぐずぐずしてたのよ! あなたの家はそこらの貴族よりよっぽどお金持ちなんでしょ! 貧乏貴族の美人令嬢がいくらでも寄ってきたんじゃないの!」
ジャクルスは困ったように眉をひそめる。
「……母が、そうした女には近づくなと言いました」
「は?」
「母は、僕の妻はアーシア姫以外に認めないと言うのです。ですから、それ以外の女には決して近づいてはいけないと」
アーシアは初めて、ジャクルスのまともな返答を聞いた。しかしそれを褒める気にはさらさらなれなかった。褒めるどころか、あまりの情けなさに、怒りを通り越して脱力しそうになる。
その一瞬の沈黙をとらえて、満面に笑みをたたえたボディアス二世が拍手した。
「姑に望まれているとは、なんと幸せな花嫁だ! まったくこれ以上の良縁などないぞ、アーシア」
すかさず言い返そうと口をひらいたアーシアよりさらに早く、低い声が割って入る。
「なるほど、一代伯に先代の姫を嫁がせれば、ご自身の地位は安泰、このたび誕生の世継ぎもまた安泰というわけですか」
いつの間にかカップを置いて、完全な無表情となったフェンリクだった。もとの目鼻立ちが整っているせいか、おそろしく冷たい顔だった。
「一代伯の息子であれば、いくら先代の姫を妻としていても、侯位とのつながりを主張することは難しいですからね」
先ほどまでの勢いはどこへやら、ボディアス二世がぞっとすくみあがる。
「こっ公子殿下! わわ私はそんなつもりではなく、ただ!」
「ただ、なんです」
「ジャクルスならば、姪も自分の望むように暮らせると思い!」
「そもそもの結婚自体、姫は望んでいないようですが」
「し、しかし、姪もいつまでもこのままひとりで暮らすというわけには!」
「いつ何時どこの貴族の男にさらわれるかわからない状態では、あなたが安心できないというわけですか。それはそうでしょう、侯の後継者は直系の子というひとつの目安を、あなた自身が破ったのですからね。妻、もしくはもうけた子の血筋をもちだして侯位をねらう、かつてのあなたのような野心家がいないともかぎりません」
公子の冷たい声と舌鋒が描き出したのは、アーシアのまったく知らない人物だった。ばん、とアーシアは両手でテーブルを叩いて立ち上がった。
「待って、それは言い過ぎです!」
口やかましくしながらもアーシアの希望をとおし、生活費も十分に払ってくれている叔父の気持ちは、よくわかっている。公子の糾弾に震えあがる叔父の姿が哀れすぎて、アーシアは黙っていられなかった。
「おじさまは、わたしのことを思ってくれてはいるんです。ただやり方が全然わたしの趣味じゃなくて、ちょっと考えなしなだけ!」
かすかに眉をひそめたフェンリクはともかく、情けなく眉尻をさげたボディアス二世に、アーシアはまた自分がことばの選択をまちがえたことを悟った。だが、とにかくまずはフェンリクの思い込みを正そうと、アーシアはさらに言い立てた。
「だいたい、おじさまとわたしの従弟の侯位が安泰になって、なにが悪いんですか。この国にとってなにひとつ悪いことなんてありません、誰も不満になんて思いません!」
フェンリクは目を細めた。背もたれにかるくよりかかって上体をそらせ、長い指先をつきあわせる。
「では、このジャクルス士と婚約するんですか」
皮肉ですらなかった。ひたすら冷たいだけの声だけだった。
「それは全然ちがう話じゃないですか!」
昨日は、この顔は笑っていた。アーシアをなぐさめ、からかい、雨に濡れないように運んでくれた。そこには冷たさのかけらもなくて、眠らないだの涙する姫をすげなく振っただの、そんな冷血の怪物じみた話がうそのようだった。
しかしいまここにいるのは、人の言動すべてを悪意にしかとらない冷たい公子だった。
「全然……ちがう……」
遊ばれたことには腹が立った。いいように扱われて、いまいましかった。
けれども、そんな感情は表面だけのことで、アーシアの心は、実際は少しも傷つけられてはいなかった。
整いすぎるまでに整った冷たい顔に、アーシアはやっといまになって自覚する。
くしゃりとくずれた彼の笑顔に、宮廷では浮くばかりだった自分を受け止めてもらったと、あのとき確かに感じていたのだと。
いまは社交上の微笑すら想像できない冷たい顔が、アーシアの視線をはじいて立ち上がった。そのまま扉へと歩きながら、彼は言った。
「明日には雨もやむでしょう。もう村荘に帰ってくださってかまいませんよ、アーシア姫。あなたは私の仕事の邪魔ばかりしてくれる」
扉が閉まった。
アーシアは視線を落とした。先ほどテーブルを叩いたことで、アーシアのカップが受け皿の上でひっくりかえっている。残っていた紅茶が布地につけた染みが、いまもじわじわと醜く広がっていく。
――帰ろう。
無性に自分の村荘が懐かしかった。
†
「姫ねーちゃん、こぼれてるぞー」
「ええっ!?」
アーシアはぎょっと手もとに視線を落とす。
木苺をたくさん集めて鍋に入れて、庭に石で小さなかまどを作って、今日のおやつに食べようとじっくり煮詰めていたところだったのに。いつのまにかアーシアはぼんやりしていて、木べらが鍋を飛び出して、石の上にぽたぽたと深紅の染みをこしらえていた。
「もったいねー」
「火を使ってるときは目を離しちゃいけないのよー」
村の子どもたちは、アーシアの失敗も笑いの種にしてはやし立てる。
アーシアは木べらを情けない顔で見つめ、大きくため息をついてから、一度うなずく。
「ま、焦げつかせてはないから。味はだいじょうぶよ、味は」
かつてこぼした別のものを思い出す石の上の染みはなるべく視界のすみに追いやって、アーシアはぐるぐると、半分ほどかたちがくずれてきた木苺をかきまわす。
木苺は完全につぶれているほうがいいか、それともかたちを残すほうがいいか、鍋のまわりの子どもたちのあいだで論争が始まった。
彼らの声を聞きながら、アーシアは鍋に集中して小さくつぶやく。
「気をつけなきゃ。まだ疲れているみたい……」
どうもこのところ調子が悪い。あれほど帰ることを待ち望んでいた村荘の暮らしなのに、いざ帰ってみると、なにかが以前とちがっている気がする。
といって、どこがどうちがうのか、アーシアにはわからない。メイリス夫人の料理はおいしくて、子どもたちはさわがしく、小鳥はいまも庭でさえずっている。アーシアが望んだままの日々がここにはある。だというのに、あるのだという手応えが、なぜか、どこか薄い。
「……だから宮廷に行くのはいやなのよ。こんなに調子が狂わされるなんて、どれだけ神経がすり減ったんだか」
アーシアは眉間にしわをよせてつぶやいた。
「姫ねーちゃん、誰か来たぞー」
子どもが呼んだ。
「――そう、だけど待っててもらわなきゃね。まだ煮詰まってないから」
アーシアはそれまで以上にじっと鍋を見つめて、顔は動かさなかった。木苺のつぶれ具合に集中して、頭から追い払いたかったのだ。誰だろうかと考えた一瞬、ほんのちょっとだけよぎった人物のことを。
「あー。こないだの公子のにーちゃんだ」
その瞬間、アーシアは木べらを放り出して一目散に木陰に逃げ込んだ。
「ななななななにっ!?」
木の幹を背にしたところで、はっとわれに返る。アーシアは自分がなにをしたのか、やっと自覚した。
「なんで逃げなきゃならないのよ!」
口では自分がしでかしたことのおかしさを言えても、心臓はばくばくと飛び出しそうで、この柔らかな木の下闇からあざやかな陽射しの下へ出ていく気にもなれない。そんな自分にますますうろたえる。
茶会のあと、アーシアはフェンリクと顔を合わせることなく村荘に帰った。
正直なところ、決して会いたくはなかった。それでも、礼儀としてあいさつくらいしてからとは思っていた。だがフェンリクはそれから毎日早朝から深夜まで外出するようになって宮廷にはおらず、夜は侍女の目をごまかしようもなくて、結局会えないままだった。
それがいま、この村荘に来たという。
「別の人じゃないの……?」
アーシアはこそっと背後をうかがった。
「!」
こちらにやってくる見慣れたマントの裾が目に入った瞬間、体が勝手にまた木の幹に逃げ帰る。
「ちょっと待ってよ……」
落ち着こう、と胸もとに置いた手の爪は、木苺の汁に染まっている。洗いっぱなしの髪はざっくりと編んだだけ、亜麻布のエプロンはさっき茂みのとげにひっかけて、端がほつれかかっている。もちろん、香水どころか化粧すらしていない。そんなどうでもいい細かいことが、なぜかいきなり思い出される。
その間にも足音は距離をつめて、アーシアのすぐ後ろで止まる。
「な、なんの用ですか!?」
短い沈黙のあと、声がした。
「……ひとつは、近くに寄ったので少し休ませてもらおうと」
「どうぞご自由に! メイリス夫人に言ってください!」
「いや、用件はもうひとつあって、もうひとつは、その――あー」
なんだか言いづらそうに口ごもる声は、最後に聞いた冷たい声ではなかった。
「あなたにあやまろうと」
かすかな吐息とともに、声は言った。
「なんのことだか知りませんけど、結構です! なんだって疑って調べるのがあなたの仕事じゃないですか。あなたはただ仕事をしたんでしょ」
ことばでもなければ笑い声でもない低い彼の声を、アーシアは初めて聞いた。それはうめき声に近かった。
「……もう少し、ことばは選んでもらえませんか」
彼は言った。
「は?」
「いや、その――確かに、仕事でしたことなら、あやまろうとは思いませんが」
「ですから謝罪なんて結構です、あなたがなにを言おうとどう考えようと、それは仕事なんですから」
今度のうめき声は先ほどより大きかった。
アーシアは、彼が体調でも悪くしたのかと心配になった。木の幹から出ないよう、わずかにふりかえる。そうすると、彼のマントの裾だけが見えた。
「暑いのなら早くそんなマントなんか脱いで、部屋に入って、メイリス夫人に水でも持ってきてもらってください! あなたはまず休みたくて、ここに来たんじゃないんですか?」
「……それもひとつの用件ではありますが、ただ――ああまったく、なんだってそんな言い方をしてくれるんだか」
「は?」
聞き返すと、やけくそのような声が返ってきた。
「――いいですか、私はまず、仕事とは関係ない私情であなたを不快にさせたことをあやまるために、ここに来たんです!」
言うと同時、彼はその場にしゃがみこんで頭をかかえた。
アーシアはそちらのほうに驚いた。
「あの、だいじょうぶ……?」
マントがくしゃくしゃと草の上に折り重なっている。それとほとんど一体のようになって、彼の黒い頭ががくりとうなだれている。
「……公子はうそをつけないと言ったでしょう」
長い指が髪をかきむしった。
「だからといって、ありのままの自分を平静に認められるかといえば、それはまた別の問題で」
髪からのぞいている耳は赤かった。
「え――っと」
ちっとも静まってくれない心臓のせいか、アーシアの頭はちっともまわらない。彼がなにを言っていてそれがどんなことを意味するのか、こんなにもわかりたいと願っているのに、わからない。きゅっと眉間にしわをよせて、整理してみようとアーシアは声に出す。
「つまり、あのお茶会で、あなたは仕事とは関係なく、おじさまを疑ったんですか?」
髪をかきむしる指は止まったが、うなだれた頭はまだあがらない。
「……そもそも、疑ってなんかいませんでしたよ。あなたの叔父は、そうなればいいとは思っていても、ごり押しできるような人じゃない」
「疑ってなかったって、じゃあ、どうしてあんなことを?」
「だからどうしてそういうことを聞くんです!」
長い指がまた勢いよく髪をかきまわす。
「……あまりにぼんくらだったからです。あなたの婚約者になりそうだった、あの男が」
「ジャクルスは確かにがまんならないくらい鈍い人ですけど、でもだからって、どうして?」
三度目のうめき声は、それまでのものよりさらに低く、長かった。
「…………ですがあなたの幼なじみで、そうやってすらりと名前が出てくる程度には親しいでしょう!」
「それが理由になるんですか?」
アーシアはぱちくりとまばたいた。
がばっと彼の顔があがる。
「あなたもたいがいな人ですね!」
アーシアはあわててまた木の幹に隠れたが、それでもこちらを見据えた彼の表情は目に焼きついた。不機嫌に似てまったくちがう、初めて見るふしぎな顔。
「――有り体に言って、妬いたんです」
「はあっ!?」
その瞬間、アーシアはほんとうに心臓が体から飛び出したかと思った。かあっと顔に血がのぼった音を聞いた気がした。
「ちょっ、ちょっと待って! えっとそれってだから――いえでもそんなこと――えええええっ!?」
「こっちだってえええええ、ですよ」
ため息まじりの声が動いている。
ぎくりとしてふりむくと、歩いてきている彼のマントの端が見える。
「わっだめ、ちょっと! 来ないで!」
「なんです、人を化け物みたいに」
「そうじゃなくて!」
アーシアは意味もなく左右をいそがしくふりかえる。
彼には宮廷でしか会ったことはない。式典のときはもちろん、なんでもない日でも侍女と小間使いに念入りに飾り立てられて、自分でも別人だと思った姿しか見せてない。
「いま、こんな格好だから!」
「格好がなにか」
「なにかって、いやなの!」
「ああ、私にはきれいな姿だけを見せたいと?」
「ちがうっ! ただ――えっと、そう、どうせまたからかって笑うだろうから!」
「笑いませんよ。だいたい、ちっとも笑える気分じゃない」
ふわっと視界にマントが広がった。
アーシアはすぐさまうつむいて顔を隠した。
そうしていても、目の前に立った彼の存在を消すことはできない。気配も、視線も、たとえ目をつぶり耳をふさいでも感じずにいることはできない。
「……うそでしょ」
背中にあたる固い木の幹が、さっきまでは守ってくれる盾のように頼もしかったのに、いまは逃げ道をふさぐ壁のようだった。
「公子はうそはつけないんですよ。あなたがよけいなことを聞いてくれなければ、こっちだってここまで言うつもりはありませんでした」
深刻な吐息まじりの声が近い。アーシアはそれをなんとか否定しようとかぶりをふる。
「だって、こんな短い時間で――ありえない」
「つきあう時間が長ければいいというなら、あなたはあのぼんくらを好きになったんですか。時間は短くても、彼の何倍かは内容のあることを話したと思ってますが」
「ほとんどからかっていただけじゃない!」
「そうですね。あなたといると、自分をとりつくろわなくてよかったんです」
「だけどだからって――」
「自分は砂浜の砂金だと、あなたは言ったじゃないですか。実際あなたは正直で、だから宮廷にもなじめなかったんでしょう」
アーシアは答えない。さっき見た彼よりも、いまの自分の耳のほうがもっと赤くなっていそうで、それがやたらと気にかかる。
「だから、自分の不明を認めます。ふたつの点で」
え、と顔をあげそうになって、アーシアはあせってますますきつくあごをひく。
「真実を語るあなたを見抜けなかったことももちろんですが、自分の感情にすらすぐに気づけず、あんなみっともないことをしでかすようではね――おのれの愚かさを認めざるを得ません。そして、それ以外のことも」
ため息とともに声が言う。
「待って待って待って!」
アーシアは彼と自分のあいだに置くよう、広げた手をあげる。
「でででも、あなた、わたしのことなんてほとんど知らないじゃない!」
「知りませんよ。ですがあなたにしたって、もともとよく知っていたから鳥が好きになったというわけじゃないでしょうに」
「そっそういうことじゃないでしょ、こういうのは!」
「そうですかね」
「わかった、あなたは公子だから、そうでないただの人に興味があるのよ、だから」
「……どうしてあなたはいちいちそういうことを言うんです」
彼はうなり、髪がかきまわされる音がそれに重なった。
「ただの興味で、妬くような人間がいるわけないでしょう! それともあなたはほんとうに、公子という役目に就いたらおとぎ話の化け物に変わるとでも思っているんですか?」
深いため息がそれに続く。
「いっそ、そのほうがよかったですよ。ドレスだろうがエプロンだろうが、あなたはあなたに変わりはないですが、しかし私はこれまで自分と思っていた自分じゃないんですよ。自分がここまでみっともない人間だったとは、想像もしませんでした……ああああ、まったく!」
また髪が激しくかきまわされる音がした。
自分よりももっと動揺している人間がいると思ったことで、アーシアは少しだけ冷静さを取り戻す。
考えてみれば。
公子という立場にある者は結婚するのか、そもそも恋をするのかも、アーシアは知らない。知らなくてもまったくかまわないはずのことが、いま、不意に気になってきた。
――変なの。
そんな自分がおかしくなった。アーシアは笑いをこらえて、思い切って顔をあげた。
ふてくされたような、情けなさそうな。そんなフェンリクと目が合った。
その髪はすっかりぼさぼさで、洗練ともすきのなさとも優雅さともすっかり無縁になったフェンリクが、アーシアにはこれまで見たどんな彼よりも好ましかった。
――もっと知りたい。
こらえた笑いが体のどこでどう変身したのか、突然いたずら心がわきあがる。アーシアはフェンリクの目をのぞきこむ。
「じゃあ、うそはつけないという公子にお聞きします。こんな、木苺まみれの姫がお好きですか」
フェンリクがぎょっと目を見開き、片手で髪をかきむしった。低い、長いうなり声の果て、彼はそれでもうそはつかなかった。
「……ええ、とても」
「宮廷の人たちより?」
「比べるまでもありません」
「いない人生なんて考えられないほど?」
「いまのところはそうですね」
「この先は?」
「ええ、この先もきっとずっとそうでしょう」
「あい――」
最後の質問を悟ってフェンリクの目に浮かんだあきらめの色に、ついにアーシアは吹き出した。
「――今日はこの辺で許してあげる。お鍋が放ったらかしになっているから」
アーシアはさっとフェンリクの脇をすりぬけた。肩越しにふりかえる。
その場にしゃがみこんだフェンリクが、がっくりと肩を落として、体がぺしゃんこになりそうなほど大きなため息をついたところだった。
アーシアはくるりと体ごとふりむいて笑った。
「そうそう、あなたの用件はもうひとつあったっけ。どうぞゆっくり休んでいってくださいな。木苺もお好きでしたら、ごちそうしますけど?」
のろのろと黒い頭が持ち上がる。
「それも結構ですが、お茶のあとでしばらく一部屋貸していただけますか。さすがに少し横になりたくなりました」
アーシアはかるく眉をあげた。
「《眠らずの公子》じゃなかったの?」
「私はほんとうに眠らないわけじゃないですよ。そんなあだ名なんて、人が勝手につけるものでしょう? 実際の私を言い表しているものじゃない」
「それも――」
そうね、とうなずきかけて、自分もやはり人にあだ名をつけられていたことに思い至って、アーシアはさっと頬を赤くした。
「――さ、それはもういいから、ほら、立って!」
アーシアは無理やりフェンリクの手をひっぱった。
両手につかんだ彼の手は見た感じよりさらに大きくて、アーシアの手よりももっと温かかった。
《了》