来夢音
「あ……カツキチヒロ、だ。」
名前を呼ばれてスゴく嫌な気持ちになった。
『カツキチヒロ』
名前だけが、独り歩きをしている。
同じ学区の持ち上がり組だけならともかく、高校になってからの知らない奴まで、半分は俺の名前を知っているみたいだ。
俺の名前は『香月千尋』。
『カツキチヒロ』なんて滑舌よく、区切られて呼ばれたくは無い。
でも、大半の奴等は俺を『カツキチヒロ』と呼ぶ。
正直、イイ迷惑だ。
少し足が早い位で、こんな有名人になんて成りたくない。
俺は『香月千尋』で、ただテニスがしたいだけなんだ。
本当の所、あのテニス部は大ッ嫌いだ。
だけど、テニスは好きだ。
どんな球だって拾ってみせる。俺は足が早いから。
でも、周りは陸上をやれという。バスケ部に入れと追いかける。
大きなお世話だ。
俺はただ、好きなテニスが出来ればそれでいいのに。
だから、こんな風に名前を呼ばれて、今度はどこのどいつだ。と、振り返って驚いた。
「司……」
握りしめた拳の行き先に困る。
「何で、お前まで」
同じテニス部の一年。
先輩の無茶に辞めて行く奴等が多い中、残った数少ないテニスバカ。
「クラスの奴が、そう呼んでた」
爽やかに、仏頂面で言われても。
「今カラ、帰るトコ?」
「そう……だけど?」
「じゃ、一緒に帰るべ」
「あ。ウン」
司はテニスが上手い。
多分、一年の中では一番だと思うし、コレからもっと上手くなるとも思う。
俺も司くらいテニスが上手かったら、誰にも何も言われなかったのかな?
「千尋」
ふいに名前を呼ばれて立ち止まる。
「寄らね?」
司が親指で差した先は、小さな頃よく通った駄菓子屋だった。
「いいけど」
「奢ってやる」
「え?」
何を?
ってか、何で?
司の行動や言動は時々脈落がなく、置いていかれる時がある。
そんな時は無理に付いていこうとせず、流した方が無難だと最近気がついた。
サッサと店に入るアイツを見送り、対面に並べられた駄菓子を窓ガラス越しに眺めて待つ。少しして、中からラムネの瓶を二つ手にした司が出てきた。本当に奢ってくれるらしい。
「はい」
「あ、アリガト」
有り難く受け取った硝子瓶は、思ったより冷たくて。
「ラムネって、来る夢の音って書くんだってサ」
「何ソレ? 」
「イトコの兄ちゃんが言ってた」
店の外に置かれた年季の入った木のベンチ。座るとギシギシと音を立てる。昔は大きいと感じたそれも、今では二人が座ったらぴったりサイズだ。
「DreamComeTrue……」
「ドリカム?」
「信じれば、夢は叶う」
「……」
「ラムネの泡が弾ける音は、夢が近づいてくる音に似てるんだって。だから来夢音」
そう言うとアイツは、手にしたラムネの硝子玉を瓶の中に押し込んだ。勢いよく溢れた泡が、パチパチと音を立て司の指を濡らしながら落ちていく。
乾いた地面に黒い染みが出来た。
「何でテニス部? の『カツキチヒロ』が嫌なら、アレがテニス部! の『カツキチヒロ』になればイイ」
「!」
染みを見ながら呟く司の声に、一気に香月の頬が染まる。
「飲まないの? 」
不意に顔を上げた司は、相変わらず何を考えているか判らない表情で、俺が手にしたラムネを指さした。
「飲むよ! 」
慌てて封を開ける。口を塞いでいた硝子玉が中に落ちて白い泡が溢れた。
パチパチと小気味の良い破裂音が響く。
「来夢音、ね」
何だかな……。
「司」
名前を呼ばれた司がこちらを見る。
「サンキュ」
笑うと、アイツは少し拗ねた様な顔をして視線を逸せた。
司は表現力に乏しいだけで、感情がないわけではない。注意深く彼を見れば、色々なサインが出ていた。
「別に……」
おっ、照れてる照れてる。
「笑うなよ」
唇を尖らせてみたり。
「笑ってねーよ」
結構、可愛いじゃん。
「千尋」
「? 」
「先に言っとく。……一応、下に心アリだから」
「?? 」
数回瞬いた後、意味に気づいたのか香月は再び耳まで紅く染めた。
「……死、角は……下心? 」
伺う様に、司の顔を覗き込む。
「そんな、感じ」
受けた司も薄く頬を染めている。
「か、考えとく」
「おう」
互いに視線を逸しながら。
でも、神経は隣にあるぬくもりに集中している。
ムズ痒い沈黙すら照れ臭くて……
「司、あのさ」