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守り星の轍

作者: 蒼原悠

 本作は、みのりん様(ID:315300)作の短編小説『月環光の夜』の二次創作です。

 原作と並行して進むストーリーであり、設定も原作準拠のため、先に原作をお読みになる事をお勧めいたします。

 なお、原作者様の許諾はすでに頂いております。








 蒼々と冷たい夜の空に、白銀(しろかね)の光り輝く玉。

 初めて、この目でその姿をとらえた日。手を伸ばせば届くんじゃないか、掴めるんじゃないかと思って、小さな手のひらをいっぱいに広げようとしたあの日は、もう、遠い昔の話だ。

 地球の持つ唯一の衛星・月は、地球の重心を焦点とした半径三十八万㌔の楕円状の軌道を周回している──。手が届くどころか、新幹線が千時間以上も走り続けてようやく到着できるほどの距離が開いていることを、ずいぶん経って聞かされた。教えてくれた人も、何も知らなかった幼い頃の私も、あれから月と同じくらいの彼方に遠ざかってしまったけれど。

 それでも時々、私は空へ向かって手を伸ばしている。

 氷のように澄んだ蒼空を懸命に見つめていれば、その指先から冷気がそっと身体に忍び込んで、温もりを求める私の胸をそっとなだめてくれた。




 有人くんと待ち合わせた駅前のロータリーでは、月の色にも似た柔らかな銀を反射して、足元のアスファルトがつやつやと燃えていた。頭上の星よりも地上の星ばかりが気になって、声をかけられるまでずっと、うつむいていた。

 私たちは中学生だった。お互い連絡は取っていたけれど、もう一年以上も顔を合わせていない。その間に私が一足先に、十四歳の敷居を越えてしまった。身長は十二㌢も伸びたけれど、彼の話を聞く限り、どうやらその背丈を上回ることは当分なさそうだ。

 夜空の美しい場所で再会しようよ、と有人くんは言った。私よりも背の高い分だけ、ちょっと気取ったことをしたがる彼のそんなところが愉快で、奥歯で安堵を噛みしめながら二つ返事で了承した。

 地図帳の端のページに顔を覗かせる、ローカル線の行き着く果ての町が、私たちの約束の場所だった。電車に揺られ、幾度かの乗り換えを無事に済ませて数時間。軽快に響く規則正しい車輪の音へ耳を傾けながら、私はずっと窓の景色を見上げていたように思う。この速度で月まで走ったら、どれほどの時間を費やさねばならないのだろう──。そんなことに思いを馳せていたと口にしたら、有人くんは笑うに違いない。月になんて到着しなくても構わないから、せめて彼よりも先に目的地に着きたかった。

 無意識に手を伸ばしそうになって、そのたびに、やめた。

 窓ガラスを隔てた冬の夜空が、ぼうと白く曇っていたせいだと思った。


 声は月から聞こえた気がした。視界を埋め尽くす白銀色の煌めきが、不意に蒼く彩りを変えて、私の胸をしんと静かにする。耳にしているとどこか落ち着く、懐かしいあの声は誰のものだったかな。本当は答えなんて分かりきっていたけれど、すぐそばに有人くんが近寄ってくるまで私は月を見上げたまま、じっと考え込むふりを貫いた。

「待たせたね」と彼は笑っていた。「思った通りの空模様で、よかった」

 私は「そうだね」なんて答えただろうか。開け放ったコートの前から生暖かな風が吹き込んで、そちらにばかり気を取られて。

 隣に並んだ有人くんとふたり、空を眺めながらしばらくとりとめのない話を交わした。大人っぽくなったねと彼は私を評した。そのわりにコートは着こなせていない、とも。自分より背の高い、顔の遠い人に大人らしさの如何を説かれても現実味が湧かなくて、素直に頷きたくなかった。

 彼は時おり、うっとりと目を閉じた。何をしているのと尋ねると、有人くんは薄い笑みを口許に引いて答えた。「こうしていると目蓋に蒼が滲んで、きれいなんだ」と。

 私も真似をして、目をそっと覆ってみた。

 けれど私の“大人っぽくなった”目に、蒼はちっとも映らなくて、ただ、そこには薄ぼんやりとした柔らかな銀色が膨らむばかりなのだった。




 月は地球の周りを公転している。青々と広がる海を暢気に泳いでいるように見えるあの星は、それなりの速度を保ちながら地球の周りを周り続けることで、地球に向かって落ちるのを防いでいる。

 母星に近寄ることも、離れてゆくことも、月には決して許されないのだ──。

 いつかそんな話をしてくれた時も、有人くんは同じようにうっとりと目を閉じていた気がする。会いたくても会えない、どこかの誰かの運命みたいだと口にしたら、彼はそっと唇の端で笑っていた。

 運命だとか宿命だとか、それがどれだけ残酷なものかも知らずに、ただロマンチックな存在だとばかり信じていた頃が、私たちには確かにあったのだと思う。

 否。

 私は今でも信じている。

 彼も信じているのではないかと、心の底で期待してしまう。

 もちろん同じように運命の存在を信じていたとしても、共有する世界観まで一致することなんて──ないのだけれど。




 普段の私を有人くんはきっと知らないだろうからと思って、学校の制服に身を包んだ。その上からコートも纏ってみたけれど、どうやら外套の装いは中身までも誤魔化してくれるわけではないようで。有人くんに話しかけるたび、私の口から発せられるのは、どうにも女の子らしくない掠れを帯びた声ばかり。この声が前から気に入らなかった。

 空から舞い降りてきた月色の光は、そんな私の声までも柔らかに包み込んで、いびつな凹凸をなかったことにしてくれる。有人くんの耳には、普通の声として届いたらいいな──。冷たい湿り気の漂う空気を吸い込んで、吐き出しながら、ひそかに願う。

 スクリーンの色は、無限の深みをたたえた蒼。たったひとつのスポットライトを見上げ、

「月の引力が潮の満ち引きを決めていると知ったのは七歳の時さ」

 有人くんは言っていた。

「NHKだよ。大学の教授が話していてね。難しかったけど、僕はテレビにかじりついてそれを聞いた。月のCGが、綺麗だったからね」

 有人くんの話し方は昔から変に大人びているというか、背伸びをしすぎている。そんなところも昔と同じ。

 幼かったあの頃から、私たちの関係は少しも進化していないのだろうか。可笑しくなって、笑みを逃がす先が欲しくて、私も空に目をやった。

「そのときまで、夜に上を向いたことはなかったの?」

「なかった。月が見えるような時間は、部屋の中で眠っていたから」

 スポットライトの色が翳ったように見えた。

 仄かに暗くなった月の光を見つめると、そこに昔の私の背中が幻灯のように映り込む。「私も月は見なかったな」と答えてみた。

「月の光を浴びすぎるとおおかみおとこに変身させられるんだぞって、お母さんに脅かされてたから」

 有人くんがささやかな笑い声を上げてくれた。ような、気がした。

 だって昔は信じていたんだから。月にはそういう奇跡みたいなことを起こせる力があるって。口を尖らせてみたくなって、不意に心の殻の内側を通り抜けた冷たい風に身体をすくめて、やめてしまった。

 彼は大人な私を望むのか、それとも大人になりきらない私を望むのか。それすら分からない今、この蒼々と広がる世界を変な賭けに費やしてしまいたくなかった。


 衛星は惑星に近付けない。

 おのずから光り輝いて、その存在を主張することさえ叶わない。

 いつも均しく離れた場所に立って、時には姿を見せ、時には姿を隠しつつ、ちょっぴり地上へ影響を与えたりもしながら、いつまでもいつまでも母星のまわりを周回し続ける。

 もしも地球や月をたとえ話に用いてもいいのなら、地球を有人くんに、月を私に見立てたい。

 知っているだろうか。きっと有人くんは知っているはずだ。

 月から地球は蒼く見えるんだよ。私にとって澄んだ蒼の光は、距離を縮めることのできない場所で今日も息をしているあの星の色。柔らかな、けれど温もりを欠いた銀白色の光は、あなたの周りをぐるぐると回るちっぽけな星の色。


 彼の手を握ってみる。つい力が入ってしまって、けれど緩めることができなくて、喘ぐように私は呟いた。

「寒いね、有人くん」

「うん……」

 有人くんも呟いた。「だから月が綺麗に見える」

 息ができなかった。

 彼の言葉のせいではなかった。その一瞬、アスファルトに反射した三十八万㌔彼方の光が、蒼く、蒼く、セロファンを重ねたように染まって見えていた。

 それきり有人くんは黙ってしまう。

 私はまだ、こうして手を重ねていることを許されているのだろうか。

 それとも気付かれてすらいないんだろうか。

 艶のある彼の瞳に、果たして月の色は変わって見えているのか──。聞いてみたいことは多すぎて、だから私は少し考えた。考えて、彼の好きな言い回しを思い付いた。

「ねぇ、想像してみて。月のワルツ。オルゴールを売ってくれる、おじいさんのこと」

 握った手から伝わるように、熱くなった手のひらを押し付けた。──そうよ、私は円舞曲(ワルツ)に乗って躍り続ける。青々と燃えるその煌めきを見つめながら、あなたの周りを、いつまでも。いつか月の起こす不思議な奇蹟が、私をあなたの求める姿に変えてくれることを信じて。

 有人くんが、(ひざまず)いた。ちょうど私の顎先の下に来た。届かなかった高さの顔に、今なら触れられるかもしれないと思った。私が見下ろして、彼が見上げて、交差した視線がぴたりと一致して。珍しい視点が可笑しくてちょっぴり笑って。

 ああ、幸せだ。

 初めて、心から感じられた。

 私は長いこと求めていたのだ。この温もりに達することを。この距離まで近付くことのできる幸福を。

「有人くん」

 彼も笑ってくれた。

 だから、言えた。

「楽しいね、有人くん」

 この言葉だけを口にするために一年の月日を過ごしてきたのだと、達成感にも似た感慨に浸りながら。




 初めて、この目でその姿をとらえた日。

 手を伸ばせば届くんじゃないか、掴めるんじゃないかと思って、小さな手のひらをいっぱいに広げようとしたあの日は、もう、遠い昔の話なのかもしれない。

 それでも私はこうして轍を刻みながら、いつか蒼い悠久の温もりに包まれる日の来るのを諦められずにいる。

 諦められるわけがない。

 きっと何度でも信じたくなる。

 それでいいの。ねぇ、後悔なんてしないから、せめて願わせてほしいよ。


 あなたの隣で過ごす、こんなに月の蒼い夜は。





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