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最期  作者: 佐藤
3/4

第三話 もう思い出せない味

 まぶたの向こう側に、ゆっくりと光が灯る。

やっと朝が来た、独りぼっちの夜がようやく明けたと、

わたしはどこか幸せな気持ちでゆっくりと目を開ける。


 どうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。でも、体の調子は良い感じ。

そんなことを考えながら周りを見渡すと、見覚えのない部屋だと気づく。

夢の中で「これは夢だ」と思うことは多いけれど、そこから思い通りに

行動できた試しがないから嫌だ。

 でも、なんだかヒンヤリとした椅子と机が気持ち良い。

光の差さない海のように静かで、ここにいることを許された気がした。

わたしはもう一度、頬をぺたりと机につけて部屋を見渡した。


(誰もいないの?)


 部屋の中は全体的に暗く、どこか色褪せている。

かすかな音に目を向ければ、古びた針の無い時計が一つだけ。


(どうせ夢なら、ディズニーランドみたいに楽しい場所ならいいのに)


 小さい頃からわたしは、人がたくさんいて賑やかな場所は大好きだけど、

独りで大人しくしていることが大嫌いだった。でも、ここはなぜか、

息苦しくならない。ヘンテコな夢をみている理由なんてどうでも

よかったけれど、ただそれだけが不思議で、心地よかった。


 針のない時計を、わたしは見つめていた。

刻む音に誘われるようにして、わたしは口をぽかんと開けたまま

ぼんやりと寝る前のことを思い出す。まるで何日間も眠り続けて

いたかのように回転の遅い頭で、どうしてこんな不思議な夢を

みているのか、考えてみる。


 時計の音が、コツリと、大きく時を刻んだ。


 高校生のわたしと、あの人は同じ家で暮らしている。

あの人は、もやもやしていて、排気ガスみたい。

わたしのお父さんだった人なら、わたしの言ってること

分かると思う。


 この家にはわたしと、あの人だけ。

一緒に暮らしているけれど、顔も合わさない。毎日台所に

千円札が1枚だけ置かれていて、わたしはそれを受け取る。


 今朝もいつもと同じように、目が覚めたら台所に行って、

無造作に置かれた紙切れ1枚を取りに行った。そして、

お湯を沸かしてインスタントのスープと、味のない食パンを

かじりながら、なるべく賑やかなテレビをぼんやり眺める。

身支度を整えて家を出ると、早足に学校へ向かった。


「おはよー」


 ここでようやく、声を出す。

学校はわたしの大切な居場所だった。


「「「おはよー」」」


 仲の良い友達がいる、わたし達の教室。

言葉が返ってくることが、嬉しい。友達の瞳にはわたしが映っていて、

そして、笑顔を向けてくれるだけで嬉しかった。


 でも、お昼休みの時間だけ辛かった。みんなでお昼ご飯を

食べなければならないから、わたしは時間をかけて購買へ行き、

売れ残っている小さな菓子パンとサラダを買う。教室に戻って

みんなの輪に混ざると、友達の食べているお弁当はカラフルで

かわいい見た目だったり、おかずがいっぱい詰まっていたり、

その子の好きな食べ物が入っていたり、苦手な物も入っていて、

作った人の気持ちがそのまま表れているようだった。


 朝ご飯と内容が変わっていないと怒っている友達を、

みんなが笑ったからわたしも笑った。あの人の手料理を

最後に食べたのはいつだろう。小学生の頃かな。


 でも、今更出されても、食べる気はしない。

わたしがあの人の視界に映ろうと、どんなに背伸びをして頑張っても

あの人は遠くの何かを見ていた。何を見ているのかは、

今も分からないし、もう分かりたくもなかった。


 午後の授業も終わって放課後を迎えると、みんな、家に帰ってしまう。


 だからわたしは、みんなと別れて、次の居場所に向かった。

今日の待ち合わせ場所は、ファーストフード店だった。

ここで、記憶が抜けている。必死に思い出すと、一瞬の、強い光。

わたしは眩しくて、目を閉じてしまう。


 これ以上は、どうしても思い出せなかった。

じわりとにじむ焦りから、嫌な汗が流れていく。

わたしは頬を机から離して、確かめるように自分の顔をなぞる。

きっと大丈夫、そう自分に言い聞かせながら、わたしは再び

記憶の途切れた場所から、昨日の出来事を振り返る。


 通い慣れたファーストフード店は、私達の待ち合わせ場所だった。

向かいの席に座る他校生の彼は、大きなハンバーガーを口にしながら

「腹、減ってないの?」と尋ねる。


 わたしは少し不機嫌になりながら、食べきれないハンバーガーを

無造作に渡した。安いファーストフードやコンビニが、わたしには

ピッタリだ。高いお店も、オシャレなお店も、どうせ出てくる料理は

おいしくないから。わざわざ連れて行ってもらっても、

おいしいフリをするのが疲れるし、食べ残して文句を言われるのは、

一番嫌いだった。


 遠くの席で、わたしと同じ制服を着た女子高生達が、楽しそうに

ハンバーガーを食べている。わたしはそれを眺めながら、昼間の

学校のことを思い出し、氷ばかりのジュースを口に含んだ。


 ご飯を食べているとイライラしてしまうから、なるべく友達とは

食事をしたくない。それでも、独りきりで詰め込むようにご飯を

食べていると、ものすごく、寂しい気持ちになる。でも、食べないと

生きていけないから、なんだか面倒で死んでしまいそうだった。


 自分の分を食べ終えた彼は、わたしの食べ残した

ハンバーガーに手を伸ばす。


「彼」は、わたしのことが好きだから、都合が良かった。

わたしも、「彼ら」の都合が良い所が、好きだった。


「お前ほんとに食わないよな。だからガリガリなんだろうけど」


「うるさい」


 私が怒ると、彼は笑った。わたしは、全然笑えなかった。

こうやって一緒にご飯を食べていると、「もっと食べた方が良い」とか

「太っても可愛い」なんて言う人もいるけれど、もしわたしが太ったら、

きっと彼らはもう、こうして一緒にご飯を食べてくれないだろう。


 人は、「自分」が一番好きだから。「自分」が好きだから、

「自分」が好きな人のことを大切にするのは当然だ。

 だから「わたし」は、自分が寂しくならないように、

誰かにとって「都合の良いわたし」になる。


 細くて可愛い見た目。オシャレで足のみえるスカート。

隣にいる、優越感。与えるのは、全部、自分の為。

わたしが一番大切だから。


「ねぇ俺の話、聞いてる?」


 問いかける彼の瞳には、「都合の良いわたし」が映っている。

それを見て、わたしはにっこりと笑って、返事をした。

嬉しそうに、彼は笑った。独りではない時間をぼんやり過ごしながら、

わたしは外にふと、目を向ける。窓ガラスに、見知った顔。

ピタリと張り付き、こっちを見ている。


「…あ…」


 わたしはそれと視線が合い、思わず声をこぼした。

背の高い、スーツ姿の男性は、いつからそこにいたのか分からない。

だが、あまりにも真剣な、危機を感じさせるその瞳を受けて、

ザワリと鳥肌が立つのを感じた。


( やっと みつけた )


 その口が、言葉を形作る。わたしはそれから、目を逸らせない。


「なに?誰かいるの?」


 ハンバーガーを食べ終えた彼が、後ろを振り返る。

わたしに向いていたその瞳が、ギョロリと彼を捕らえた。

彼は驚いたらしく、視線が合うと体を小さく揺らした。


「…あいつ誰だよ、お前の親父…いや、兄貴?」


 わたしはそっと、彼の制服の袖をつかみ、答えた。


「知らない人」


 動揺する彼の瞳には、嘘つきなわたしが映っていた。

でも、彼はそれに気づかない。


「マジかよ…ストーカー?」


 わたしが「多分」頷くと、彼は咳払いを一つして、

わたしの手を引き、2階席へと移動する。その途中、チラッと

後ろを振り返ったが、あの男の姿はもう見えなかった。

階段を上がって、奥の席に座ると、わたしはなるべく怯えたフリをして、

弱々しく彼の質問に答えた。


「あいつ、いつからお前に付きまとってるんだよ?」


「…先週から誰かに見られてる気はしてたけど…勘違いだと思って…」


「親…はアレだよな…学校とか、警察に相談した?」


 わたしは小さく首を横に振る。彼はため息をついて、椅子に座り直した。

この「彼」で、大丈夫だろうか。わたしはスマホの中にいる「彼ら」の

ことを思い出していた。わたしが電話すれば、みんなすぐに

駆けつけてくれるだろう。でも問題は、彼らがお互いの存在を

知らないことだ。彼らは、わたしが独りにならずに済むだけの人数と関係を

持っていると知ったら、きっと怒るだろうから、ずっと黙っていた。


 窓の外にいた彼も、そのうちの1人だった。

最初は優しかったけれど、段々とわたしに口を出すようになって、

面倒だったから切ったのに。わたしは独りになりたくないだけなのに、

どうしてうまく行かないんだろう。


 目の前に座る彼を見ると、もっとわたしを問い質したいようだった。

わたしはこれ以上詮索されたくなかったから、ストーカーが怖くて

泣き出しそうなフリをする。すると彼は必死にわたしをなだめる。


「あと1時間くらい待ってあいつがいなくなったら帰ろう。送るから」


 わたしはごめんねと、彼に謝った。そして1時間以上待ってから、

彼と一緒に店を出た。辺りを見渡すけれど、わたし達を待ち受ける

それらしい人影はない。彼は「行こう」と、わたしの右手をとる。

なぜか、いつもと違う感覚。手を繋ぐなんて些細なことなのに、

今のわたしは新鮮で、深い幸福感に包まれていた。


 私はその感覚に心を奪われたまま、「うん」とカラ返事をして、

駅へと向かい、電車に乗った。電車の中でわたし達は何も話さなかった。

でも、それが心地良かった。ただ手を繋いで、寄り添っているだけなのに

心が安らいだ。これがきっと、守られることの安心感。

彼らとはずっと「恋人」という立場で会っていたけれど、

わたしは彼らに対して恋愛感情を抱くことはできなかった。


 求めていたのは、シンプルな愛情だったのかもしれない。

ただ子どものように、手放しに愛されたかっただけなのかもしれないと、

わたしは通り過ぎていく暗い窓の外を見つめていた。


 わたしの最寄り駅に着くと、彼は警戒するように電車を降り

2人で改札を出た。外に出ると、夜の空気はじっとりと湿っていて

蒸し暑い。それでも、繋いだ手をこのまま離さずにいたいと思った。


 ピタリと、隣を歩く彼の足が止まる。

わたしも立ち止まり、彼の目線の先を追うと、あの男がいた。

ゆっくりと、わたしと彼を見比べるようにしながら近づいてくる。


 あぁ、怒っているな、とわたしはその人を見て思った。

わたしと目が合うと、その人は悲しそうな顔をした。

この人とうまく行かなくなった頃によく見た、不安が

隠し切れない表情と同じだった。

ずっとわたしを見つめて、笑ってくれるだけで良かったのに。

これ以上見ていたくなくて、わたしはそっと目をふせる。


「何か用ですか?」


 手を繋いだ彼が、男に問いかける。

言葉は丁寧だが、強気な態度を保っていた。


「お前に用はない」


 男はぴしゃりと言い切り、彼を睨んだ。あまりに鋭い視線を受けて、

驚いた彼は体を小さく揺らした。そして、男はわたしに瞳を向ける。


「…どうして何も言ってくれなかったんだ」


 わたしは目を逸らしたまま、スッと彼の方へと身を寄せた。


「…急に連絡がつかなくなって、心配して…」


「人違いです。わたし、あなたのこと知りません」


 わたしはうつむいて、そう答えた。繋いでいる手に力を込めると、

彼も強く握り返してくれた。


「彼女もそう言ってるんで、もう付きまとわないでください」


 そう言って、わたし達は歩き出そうとした。


「…嘘をつくなよ」


 男は声を震わせながら、わたしの肩を思い切り掴んだ。

向かい合ったその瞳には、嘘つきなわたしが映っていた。


「誰でも良かったのか?俺でも!そいつでも!」


 周りの人の視線が刺さる。男のあまりの剣幕に、

わたしも彼も呆気にとられてしまっている。


「…あんなに独りになりたくないって、泣いていたのに」


 この言葉で、わたしの中で、何かが崩れたような気がした。

一瞬で、もう何もかもがどうでもよくなってしまった。

ご飯が食べられないことも、あの人が毎日千円だけを置くことも、

友達と学校で別れることも、ちっぽけな彼らが自分勝手なことも。


 なぜだかあの人の、氷のような怒りを湛えた顔が思い出されていた。

あの人の口が動いて、濁った言葉を生み出す。


「何も知らないくせに」


 いつか耳にしたその言葉を、わたしは口にしながら、

男の瞳を見つめた。もう、どんなわたしが映っているのかも分からない。


「…わたしのこと、何も知らないくせに、分からないくせに

口ばっかり出してきて、わたしが思うようにならないとすぐに

機嫌が悪くなって、嫌だった!あなたが依存してきて嫌だったの!

わたしは独りじゃなければどうでもよかったのに!みんな全部

わたしはどうでもよかったのに!わたしが独りになるの嫌いって

知っててみんなそれを利用してたくせに怒るから、わたしは」


 男は何も言わず、強い力でわたしの肩を押していく。

不意の出来事によろけたわたしは、鞄を落としてしまった。


 後ろで彼が、何かを叫んでいる。

でも、わたしは男の瞳から、視線を離すことができずにいた。

同じだった。怒ったあの人の瞳と同じ色。それは言葉もなく、

ただただ「あなたが憎い」と叫んでいた。


 わたしが叫び出す瞬間、ドンと、突き飛ばされた。

わたしのまわりの時間だけ、流れが遅くなる。

まるで海の中に落ちたみたいに。


 体はゆっくりとガードレールを越えて、ぐるりと宙に浮かぶ。


 そして、一瞬の、強い光。


( あぁ、やっとみつけた )


 突き飛ばした男の瞳には、わたしが映っていた。

遠ざかるその瞳に映るわたしは、歪に笑っていた。

わたしに、わたしが問いかける。


( みんな、自分が一番好きだから、仕方ないのかな )


 わたしは眩しくて、目を閉じてしまう。


 車のブレーキ音と叫び声が響くけれど、もう海の底に

着いてしまったようで、何も聞こえなくなる。

光の差さない海のように静かで、終わりを許された気がした。




 ようやく、わたしは全部思い出した。終わってしまったのか、

まだ続いていて夢の中なのか気にはなるが、わたしにとって

一番重要なのは、「独り」かどうかだった。


「…誰もいないのは、嫌だなぁ」


「お呼びでしょうか、お客様」


 わたしは驚いて、声のした方へ目を向けた。

さっきは全然気づかなかったけれど、暗がりに一人の女性が立っていた。


「最後に食べたいもの屋さんへ、ようこそいらっしゃいました」


 その女性は丁寧に頭を下げて、わたしに挨拶をする。

わたしもそれにつられて頭を下げた。


「ここは、あの世とこの世の境目にある、最後のレストラン。

これから旅立たれますお客様に、最高の一品をお出ししています」


 わたしはきょとんとしながら、女性の瞳を見つめた。


 自分が死んでいたことや、それなら今の自分は一体何なのかを

考えることよりも、わたしはなぜか、女性に心を奪われる。

今まで見たことのないほど美しいその人の瞳に、吸い込まれて

しまいそうだった。それはまるで海の底のように深い蒼色を

帯びていて、ロウソクの灯りで時折、緑に揺らめいていた。


「きれい」


 つい口にしてしまい、わたしはハッとするが、

女性は小さく微笑むだけだった。


「私どもは、お客様が最後に食べたいと思っているものを

お出ししております」


 わたしはそれを聞いて、一気に感情が沈む。

死んだ後も食事をしなければならないなんて、苦痛でしかない。

最近はファーストフードばかり食べていたから、ハンバーガーが

出てくるのかも。それでも、本当にこれが「最後」なら我慢しよう。

わたしは覚悟を決めて、「分かりました」とため息をついた。


「それではしばし、お待ちください」


 そう言って女性は暗闇に消えてしまった。わたしは少し寂しくなって、

時間を潰すため、何を食べたいかを考えてみることにした。


 わたしの好きな食べ物は、お菓子だから、すごくおいしい

甘い物が出てくるのかもしれない。パフェとかクレープだったら、

多分半分は食べられる気がする。ご飯物は、苦手だ。

あの人の料理を思い出すから。


 小学生までは、あの人が作った料理を食べていた。

全てが料理本のレシピ通りのそれは、どこか完璧すぎて、

食べていて息苦しかった。いつも完璧に整えられた台所のテーブルで、

わたしとあの人はいつも2人で食事をしていた。


 食事中は、会話をしてはいけなかったので、わたしは

よく噛んでご飯を食べていた。変な味とは思わなかったし、

量も決して多くはなかったのに、なぜかいつも、少し食べただけで

お腹がいっぱいになってしまう。そうして食べ残すと、

「どうして食べてくれないの」と問い質されるのが嫌だった。


 でも、離婚してから、あの人の中で何かが切れてしまったようで、

わたしにご飯を作ることも、一緒に食べることも一切なくなった。

それでも、わたしは未だに、あの人の作った、どこかの誰かが考えた

レシピ通りの料理を食べたいと思っているのだろうか。


「お待たせしました」


 先ほどの女性が戻ってきてくれて、わたしはほっとした。

これ以上はもう、何も考えたくなかった。優雅な微笑みを

浮かべるその人は、テーブルに銀色の蓋の付いた皿を置いた。


「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」


「いただきます」と言いながら、わたしは手を伸ばして、

早く食べ終わしてしまおうと、軽く蓋を取った。

目の前に現れたのは、おかゆのような食べ物。


 わたしは驚いて、女性の方をチラッと見てみる。

だが、彼女は微笑んだまま、何も話そうとしない。

こんなの食べたことあるかな、と首を傾げながら、

わたしはその料理を見つめる。


 ぐずぐずとしたおかゆの中に、緑の葉っぱが混じっている。

噛む必要もない、変なおかゆをスプーンですくって、口に含む。


 正直、まずかった。ぬるいし、味が全くしない。

けれど、うっすらとほうれん草の香りがする。


「おいしい?」


 声がした。けれど、目の前にいる女性の声ではない。

これは、あの人の声だ。わたしがその声に耳を傾けると、

忘れていた記憶が、溢れるように蘇っていく。




 見慣れた家の中、小さなテーブルに、わたしとあの人は

向かい合って座っていた。いつも家には、わたしたち2人だけ。

お父さんは、いつもいなかった。わたしは足をばたつかせながら、

心配そうな表情をするあの人のことを見つめている。

そうして、わたしと目が合うと、あの人は柔らかく微笑んだ。

窓辺のカーテンが、ふんわりと風を受けて膨らむように。


 わたしを見つめるその瞳は「あなたが愛おしい」と、

まだ言葉の分からないわたしに伝えていた。

わたしはそれが嬉しくて、声をあげて笑う。


 あの人が、プラスチックのお皿に入ったそれをスプーンですくい

ふぅふぅと息を吹き、冷ましている。


「…まだ熱いかな…」


 不安そうに、あの人が何度も確認している様子を、わたしは見つめていた。


「もう食べられるかな…」


 そっと口元に差し出された離乳食を、わたしはゆっくりと頬張る。

丁寧にすりつぶされたお米とほうれん草は甘く、ほのかに温かかった。


「おいしい?」


 問いかけるあの人の瞳には、「わたし」が映っている。

映っていたのは、おいしくて笑うわたしだけじゃない。


ぐずって、あなたを困らせるわたしがいた。

あやされて、不思議そうな顔をするわたしがいた。

あなたの瞳に映るのが嬉しくて、あなたの笑顔が嬉しくて笑う、

わたしが映っていた。


 私が笑うと、嬉しそうに、あなたは笑った。

わたしはそれだけで、幸せだった。




 遠い記憶から戻って、わたしは、目の前のお皿を見つめていた。

もう一度、そっと、口へと運ぶ。


 さっきとは、違う味がした。


 それは、あの人が台所でひとり、時間をかけて作ってくれたのを

知っているから。それは、あの人が何冊もレシピ本を見比べて、

わたしに一番食べさせたいものを選んでくれたから。

それは、あなたの一生懸命な背中を、ずっと見ていたから。


 どうして、人は、大切な記憶を忘れてしまうのだろう。

どうして、心が離れてしまったのだろう。

 

 でも、もう取り戻せない。

あなたと向き合い、気持ちを言葉にすることも、笑い合うことも、

わたしにはできない。あなたの瞳には、もう、わたしは映れない。


「…おかあさん…」


 ぽつりと、わたしはあなたを呼んだ。

悲しくて、悔しくて、どうしようもなくて、あなたを呼んだ。


「おかあさん、おかあさん、おかあさん」


 雨が降るように、ぽつり、ぽつりと、感情が流れ出していく。


 幼稚園の帰り道、あなたとわたしが歌っていた、

雨降りの歌が聞こえる。わたしは子どものように

自分を投げ出して、泣き出す。


「 おかあさーーーん おかあさーん おかあさん … 」




 少女は何度も母親を呼び続けたが、その声が届いているのかは

分からなかった。迷子のように泣きじゃくり、母親を想いながら

少女は光の射す方へと向かう。


 後ろから旅立ちを見送る声が聞こえる。


「またのお越しを、お待ちしております」

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