第二話
目を覚ますと、僕はいつもの病室ではなく、窓のない部屋にいた。
ぼんやりとした照明に、意識が少しずつ戻っていく。
これは、夢だろうか。椅子に座るのは、ひどく久しぶりだ。
最近は、体を起こすことも難しかったから。
そっと、目の前のテーブルに触れてみる。木の持つ柔らかな感覚は、
夢とは思えないほど現実じみていた。試しにそのまま手をつき、
ぐっと力を入れて立ち上がろうとするがそれ以上は動けない。
その時ふと、体に、いつもの痛みを感じないことに気がついた。
刃物で刺されたような、腐っていくようなあの痛みが、どうして
消えているのか、考えようとして、僕はやめた。
夢をみているのなら、家族に会いたかった。
姿を探して辺りを見回すと、壁に、長針も短針もない時計が
目に付いた。他には椅子とテーブルしかないが、外国の書斎のような、
落ち着いた雰囲気の部屋だった。
視界の端、灯りから離れた場所に、一人の女性の姿があった。
黒い服を着た、髪の長い女性だった。その人は、僕が気づくまで
ずっと待っていたようで、深く、お辞儀をしていた。
そして、ゆっくりと顔を上げてこう言った。
「最後に食べたいもの屋さんへ、ようこそいらっしゃいました」
「最後」というその言葉の意味を考え、心が一瞬で陰っていく。
不思議と痛みの無くなったこの体が、静かにそれを認める。
女性は微笑みを浮かべながら、言葉を繋ぐ。
「ここは、あの世とこの世の境目にある、最後のレストランです。
これから旅立たれますお客様に、最高の一品をご提供しております」
何もかもが、現実から遠く思えた。それでも、目の前で佇む、
人間らしさを感じさせない女性の存在が、言葉が、なぜか僕に
「絶対」を感じさせた。それでも、嘘であってほしかった。
「…これは夢、ですか」
静かに、その女性は首を横に振る。僕は躊躇いながらも、
もう一度、聞かずにはいられなかった。
「…私は…死んだんですか」
すがるような問いに、その人は微笑んだ。それは、僕を労るようで
ありながら、全てを受け入れ、慈しむような微笑みにも思えた。
「長い間、お疲れ様でございました」
女性は頭を下げて、僕に終わりを告げた。
言葉に弾かれて、今までの記憶が、浮かんでは消えていく。
こうして最後に思い出すのは、どうして、誰かとの記憶ばかりなのだろう。
それでも、もう、終わってしまった。僕にはもう、未来は無い。
「…はい…」
死を、ずっと前から覚悟していたつもりだった。それでも、
いざその時となれば、どうか夢であってほしいと願っている自分がいた。
生きられなかった。その言葉が浮かんでは、僕の心の中を、
静かに埋め尽くしていく。悲しみが、僕に叫ぶ。不甲斐ない自分が
憎くて仕方がない。もし僕が独りきりだったら、自分だけを慰めれば
終わりだっただろう。だが、僕には未来を一緒に過ごしたい人達がいた。
それなのに、僕との未来を信じてくれていた人達を、僕は裏切った。
その人達の気持ちを考えると、僕の心は、自分を恨む言葉を
叫び続ける。届かないと分かっていても、必死になって手を伸ばす。
思い出すのは、悲しいくらい、家族のことばかりだった。
妻に、別れの言葉も伝えられなかった。5歳になる娘が、
どうしても心残りだった。ずっと積み重ねてきた感情が溢れ出して、
行き場もなく、涙となって零れ落ちる。いつも、体はくたくただった。
それでも、いつだって心は、君を想えば生まれ変われた。
どんなに僕の体が痛んでも、僕の心が終わりに怯えても、
君達と暮らす未来を想えば、まっすぐ前を向いていられた。
君は、僕の光だった。記憶の中で、楽しそうに笑った、
君の姿が思い出される。その隣には、妻が笑っていて、僕を呼ぶ。
それを思い出して、僕は子どものように、
ただ、泣くことしかできなかった。
生きている間に流せなかった分も、生きていれば
流すことができた分も、全部、終わりなのだと涙は言って、
とめどなく零れ落ちていく。
君が、泣かなければいいのに。真っ白な頭の中、これから
君が流す分の涙も、今ここで、代わりに流してしまえたらいいのにと、
考えても仕方のない考えて、ただ悲しくて、僕は泣いた。
もし君が泣いていても、僕はその理由を聞くことも、その涙を
拭ってあげることもできない。
だから、この先もし君が、僕のことで涙を流すのなら、
僕のことは忘れて、笑顔でいてくれる方がずっと嬉しかった。
僕は、君の笑顔のため、生きようとしていたから。
だからどうか、笑っていてほしかった。
でももし、お母さんが旅立つ時には、たくさん涙を流してほしい。
きっとその方が、ちゃんとさよならを言えるから。
大切な思い出が多いほど、さよならは寂しくなってしまうだろうから。
涙を流しながら、僕は、自然と手を合わせていた。
生前あれほど願っても叶わなかったのだから、死者の祈りに意味など
無いのかもしれない。それでも、僕は願わずにはいられなかった。
祈り続け、壁の時計は、永い時間を刻んだ。
そっと差し出されたハンカチに、僕は顔を上げる。
神聖さを湛えたその女性は、微笑んだまま、何も言わない。
白く輝くハンカチを受け取った僕は、涙を拭い、顔を上げた。
女性は透き通った声で、この場所について語る。
「ここは、人生を全うされた方々をお見送りするレストラン。
お出しするものは、お客様が最も食べたいと願うもの。
最後のお食事を、私どもはご用意いたします」
その言葉に、僕の心は少しだけ晴れる。病院にいた頃は、ほとんど
食事がとれなかったから、きっとなんでも美味しく感じるだろう。
そして、もし本当に何でも食べることができるなら、妻の手料理を
出してもらうことは可能だろうか。あれこれ思案していると、ひとつ
思いつき、僕は尋ねる。
「それなら、大きくなった娘が作った料理を出してもらえませんか」
僕の願いに、ウエイトレスの女性は、頭を下げて答えた。
「申し訳ございません。私どもがご用意できるのは、お客様の記憶の中に
存在しているものだけとなっております」
「…そうですか」
そう呟いた僕は、そっと、目を伏せた。選べるものは記憶の中だけなら、
将来、成長したあの子が作った料理は食べられないということだ。
まだ未練が残っている自分の心に、僕は笑った。それでも、願っているものが
食べられるのだからと気持ちを切り替えて、「よろしくお願いします」と
女性に頭を下げた。「かしこまりました」と声がして、暗闇へと消えていく。
独りになると、僕は少しだけ、僕がいなくなった後の未来のことを考えた。
あの子が大きくなって、学校に通うところ。友達と笑っているところ。
仕事をしているところ。結婚するところ。子どもが生まれるところ。
きっと、どんな時でも、輝いている。
思い描いていた未来と遠く離れてしまっても、きっと、大丈夫だから。
惨めな思いをする時も、自分でいることが苦しくなる時もあると思う。
それでも、いつだって、君は輝いているから。だから、生きていてほしい。
君のことを、僕の代わりに妻が見守っていてくれることが、
なによりの救いだった。僕の愛した人が、僕の愛する人を、見つめている。
辛い思いをさせてしまうけれど、僕は幸せ者だ。今度会えたら、僕はきっと、
たくさん怒られるだろう。それが楽しみで、僕はまた、少し泣いてしまった。
「お待たせいたしました」
銀の蓋が付いた皿を運びながら、ウエイトレスの女性が姿を現す。
テーブルの上に用意される料理は、決して長くはなかった人生の
最後の晩餐。僕はそれを、静かに見つめた。
「どうぞ、お召し上がりください」
蓋を取ると、爽やかな香り。
赤い果実が、白い皿に可愛らしく載っている。僕がそれを見つめていると、
記憶の中に、同じ赤色を見つけた。
カーテンが揺れる、真っ白な病室。薄い色をした僕の世界に、
娘と妻はいつだって、鮮やかな色を足してくれた。
「パパ、いちごすきでしょ?ママともってきた!」
嬉しそうにした娘が、真っ赤な苺を僕に渡そうとする。
側にいる妻は愛おしそうに、それを見つめている。
「あぁ、ありがとう」
僕が手を差し出すと、娘は溢れんばかりの苺を、その手のひらに載せた。
そうして3人で苺を食べていると、泣きたくなるくらい生きている心地がした。
「ねぇパパ」
光に満ちた、可愛らしい瞳で、君は僕を見つめる。
「はやくげんきになるといいね」
僕は笑顔で頷き、苺を口にする。いつだって君との約束を守りたかったのに、
破ってばかりで、ごめんね。それでも、君と、約束したかった。
もっと、色んな約束をしたかった。いつだって君との約束を、
僕は守りたかった。苺は甘酸っぱくて、涙を必死に堪える僕を
からかうようだった。そんな僕を見て、君が笑う。
「パパもいちご、だいすきだもんね」
美味しそうに頬張る君の、眩しい笑顔が思い出される。
空になった白い皿が、最も心に残したい、記憶の一瞬を映していた。
「パパも、大好きだよ」
あの時、口にしたら泣いてしまいそうで、言えなかった言葉。
約束は、結局守れなかった。けれど、僕は最後に、君と同じように
笑うことができて嬉しい。僕は、手を合わせ、感謝と共に未来への
祈りを捧げた。そして、席を立つとまっすぐ、光の射す方へと歩き出す。
「またのお越しを、お待ちしております」
後ろから、旅立ちを見送る声が聞こえた。
それから壁の時計が永い時間を刻み、レストランに、
一人の女性が来店した。ウエイトレスが頭を下げ、お客様に挨拶をする。
「最後に食べたいもの屋さんへ、ようこそいらっしゃいました」
来店したのは、美しく皺の刻まれた女性だった。
椅子に座ったまま、穏やかに頭を下げる。ウエイトレスも
深くお辞儀をして、言葉を続ける。
「ここは、あの世とこの世の境目にある、最後のレストラン。お客様が
心の奥底で『本当に』最後に食べたいものをお出ししております」
女性は頷いて、静かにそれらを受け入れる。
ウエイトレスは言葉を付け加えた。
「お薦めは、お客様のお父様が召し上がった食べ物となっております」
その言葉に、女性の瞳は遠くを見つめた。
「メニューを決めるのはお客様の心となっておりますのでご了承ください」
「…そう」
言葉と共に視線を戻した女性は、複雑な表情を浮かべていた。それは、
過去の出来事を思い出すことで、自分の気持ちを確かめているようだった。
「それではしばしお待ちください」
ウエイトレスはそう言い残して、部屋から出て行った。
そして、再び食事を持って戻るまで、時計は何度も時を刻んだ。
女性はその間、数えきれないほどのため息をついた。
「お待たせ致しました」
待っていた女性はどこか緊張した面持ちで、ウエイトレスが
運んできた皿を見つていめた。その中には、誤魔化しようのない答え、
自分の本心が入っているからこそ、彼女は不安だった。ウエイトレスは
何も言わないまま、テーブルの上に、銀の蓋のされた皿を置く。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
蓋を取ると、ふわりと、爽やかな香りがした。
そこには、赤く輝く果物があった。それを見て、女性はうっすらと
涙を浮かべたが、流すことはなかった。そっと手を伸ばして、一粒、
口にする。
つぶつぶとした、軽やかな食感。心地良い酸味を包むようにして、
ほんのりとした甘さが追いかけてくる。その甘さに呼ばれるようにして、
忘れていた記憶が蘇える。
「…父親が病室で、よく食べていたの」
誰ともなく、ぽつりと、女性が呟いた。
「わたしが、好きだったからなのね」
忘れていたことが、たくさんあった。
記憶の中、わたしが笑ったら、パパも、笑った。
「今も好きでいられて、よかった」
女性は食べ終えると、手を合わせ、ウエイトレスに微笑んだ。
「ご馳走様。両親に、会いに行ってくるわ」
席を立ち、歩き出すと、後ろから旅立ちを見送る声が聞こえる。
「またのお越しを、お待ちしております」




