闇力士
今年も夏がやってきて、江戸相撲が行われることになった。
さすがに将軍様のお膝元なだけあって、江戸相撲はよその国で開かれるものより活気があり、集まる人々も多い。
谷嵐は番付最高位の大関、それに最近は十連勝、二十連勝することもざらで、現在は二十連勝中、当世最強の力士との呼び声高かった。
今日も今日とて、谷嵐は連勝記録を伸ばして、夜になり、江戸の街中を歩いていた。俺ほどの力士ともなれば、今日の相手などに負けることは許されぬな。そんなことを考えながら隅田川のほとりを歩いていると、突然水音と共に、川の中から人影が飛び出してきて、谷嵐の前に降り立った。
「なっ…」
うろたえる谷嵐。見ると、人影は暗い褐色の肌から水のしずくをたらし、鳥のようにとがったくちばし、黒目しか見えない目に、ざんばら髪で、頭のてっぺんがくぼんでいる。
河童だ。
河童は谷嵐を見ると、言った。
「相撲をとろうではないか」
「お前は…何者だ?」
「俺の名は『六条河原』。といっても、これは本名ではなく、四股名だがな。俺も、お前と同じ相撲取りなのだよ」
「四股名だと…?いや、そういえば聞いたことがあるぞ。河童は相撲を好むとか言う話を…」
「その通り。お前は、人間界で当世最強の力士との呼び声高いそうだな。かく言う俺も、河童の間では最強の力士だと自負している。だから、こうしてお前のもとに出向いて来たのだ。
人間界の最強と河童界の最強、俺たち二人が戦って、どちらが強いか決めようというのだ。さあ、相撲を取ろう」
そう言うと、六条河原は川のほとりに並んでいるしだれやなぎの間の土に線を引き、四角い土俵を作った。そして立ち合いの構えをして、言う。
「さあ、相撲を取ろうではないか」
「ふむ…いいだろう」
谷嵐は、着物を柳の枝にかけて、六条河原と向かい合った。
相手を見てみると、背丈は谷嵐と同じほどか、やや低いくらいであろうが、体は細身で、体重は恐らく三分の二ほどであろう。有利であるが、油断はできぬ。なにせ妖であるから、どんな手があるかも知れぬ。
目が合い、二人は立ち上がって、ぶつかり合った。瞬間、谷嵐は弾き飛ばされそうになる。
「む!」
当たりが強い。見た目の割に力が強い。谷嵐はこらえて六条河原と組み合った。
押したり引いたりするが、相手はしっかり足を踏んまえて、体勢を崩すことができない。逆に、力をかけたところに踏み込まれ、すくい投げをくらいそうになった。谷嵐はなんとかこらえて、相手の首をつかんで投げようとしたが抜けられ、体勢が崩れたところを投げ飛ばされて、地面に叩きつけられた。負けだ。
谷嵐は立ち上がって言った。
「くそっ!もう一度だ!」
「まあ待て。相撲の本番で同じ相手と何度も取るものではないだろう。俺と相撲が取りたければ、また明日ここに来い」
「明日だと…?」
「そうだ。江戸相撲が開かれている間は俺は毎晩ここに来よう。俺と相撲が取りたければ、いつでも来い。もう俺と戦いたくないと言うなら別だがな」
「くっ…、いいだろう。明日は勝つぞ」
「では、また明日」
そう言うと六条河原は隅田川に飛び込んで姿を消した。
その夜は一晩中憮然としていた谷嵐。翌日になると、昼間の相撲では鬼気迫る勢いで連勝記録をさらに伸ばし、試合が終わると早々と街に繰り出し、昨日と同じ場所で待っていた。
夜になり、再び六条河原が姿を見せる。谷嵐は着物を脱いで柳の枝にかけると、さっそく立ち合った。と、勢いよく当たりにいったところを、はたき込みで倒され、一瞬で負けてしまった。
「く、くそっ!」
「焦りすぎたようだな、谷嵐よ。まあ、まだ明日があるさ」
次の夜も相撲をとったが、今度は寄り切られて敗れた。六条河原は言った。
「残念だが、確か江戸相撲は今日で終わりだったな」
「ま、待て!もう一度俺と取ってくれ!」
「まあ、そう焦るな。急いてはことを仕損じるぞ。江戸相撲は春夏秋冬行われているだろうが。次は秋だ。また秋に来い。もっとも、逃げるならそれでもいいが」
「誰が逃げるか!いいだろう。秋には勝つぞ!」
かくして、国に帰った谷嵐は、鬼気迫る勢いで稽古に励んだ。そんな谷嵐を見て、他の力士達が言う。
「谷嵐さんはすげえなあ。あれだけ連勝中なのにあんなに熱心に稽古に打ち込むなんて。相撲にかける情熱が違うね」
「やっぱり大関ってのはああじゃないとな」
谷嵐は思う。
(バカ共が!俺はお前らなんかよりよっぽど手強い相手と戦ってるんだよ!)
そんなこんなで秋が来て、江戸にやってきた谷嵐。昼間の相撲ではまた連勝記録を伸ばし、早々と例の場所にやって来た。夜になり、六条河原が現れると、彼は言った。
「また来たか、谷嵐よ。よく逃げなかったものだな」
「当たり前だ。あれから俺はお前を倒すために稽古を重ねてきた。今日こそは勝って帰るぞ」
「フフフ、稽古を重ねてきた、か…。だがな、それは俺だって同じことだ。俺とお前と、どちらの方が力を伸ばしたか、試してみるか!」
再びぶつかり合う二人。谷嵐は相手に組み付かれまいと、のど輪を使ったが、その腕を取られ、がっちり極められて、小手投げをくらった。そのまま土俵の外に送り出され、投げ倒された。おまけにその拍子に柳に頭をぶつけた。
呆然とする谷嵐に、六条河原は言った。
「俺の勝ちだな」
「ま、また明日…」
「分かっているとも。江戸相撲が開かれている間は毎晩ここに来よう」
それからも、谷嵐は毎晩相撲を取った。そして、昼間の相撲では勝ち続けたが、夜は負け続けた。
そして秋の江戸相撲の最後の夜、谷嵐は背負い投げで地面に叩きつけられて敗れた。寝転がっている谷嵐に、六条河原は言った。
「俺の勝ちだな」
「ま、待ってくれ…。もう一度戦ってくれ」
「まあ、そう焦るな。次は冬の江戸相撲があるだろう。その時にまた立ち合おう。もっとも、もう俺と戦うのは懲り懲りかもしれないがな」
「誰がそんなことを…。待ってろよ。冬には必ず勝つ」
「そうか。まあ冬は寒いことだし、風邪をひかないようにしろよ」
そう言うと、六条河原は隅田川に飛び込んで姿を消した。谷嵐は、その後もしばらくその場に寝転がっていた。
そして冬がやって来た。谷嵐はまた稽古を重ねてはいたが、正直言って気分は重かった。どうしても、己の勝つ姿が思い浮かばない。
江戸に行く前の日、谷嵐は地元の街を物思いにふけりながら歩いていたが、そうしているうちに、草ぼうぼうのやぶの中に出た。草むらの向こうに、朽ちかけた古びた寺が見えた。
この寺は、今は誰も住んでいないと言われ、また幽霊が出るなどと言われていて、地元では恐れられていた。何でも、かつてこの寺には邪宗たる真言立川流の僧達がひそかに集まっており、その僧達が弾圧を受けてこの寺で殺されたために、怨霊がとどまっているとか言う話であった。
谷嵐がなんとなくその寺を眺めていると、声がした。
「何かお悩みかね。お相撲さん」
見ると、傍らに一人の老僧が立っていた。はて、この寺はもう人がいないと言われていたが、まだ誰かいたのかしらんと思いつつ、谷嵐は言った。
「ええ、まあ」
「勝負事の悩みだね。勝てない相手がいるのだろう?それも、人ならざる者相手にな…」
「なっ…、なぜそれを…?」
「ホッホッホ…それなら話は早い。この寺に祀られている軍荼利明王に頼りなされ。人ならざる者には神仏の加護があってこそ勝てるもの。かつて、あの鋼の体の平将門が討伐されたのも、神仏の加護があってのことであった」
「しかし、それでは己の力で勝ったことになりませんので…」
「それなら、案ずるに及ばぬ。この寺に伝わる軍荼利明王の秘法は、己の力を最大限に引き出すことで相手に勝つ法だ。他人の力を借りていることにはならぬ」
「そうなのですか?」
「そうとも。もしあんたにやる気がありなさるなら、この寺に一晩おこもりしてみなされ。そうすれば、明王がなにかお告げを下さるであろう」
かくして、わらにもすがる思いの谷嵐は、その夜寺にこもった。老僧に言われた通り、一晩中本堂で軍荼利明王の真言を唱えていると、夜も更けたころ、にわかに本堂の中が明るくなり、声がした。
「谷嵐よ、なぜここにやって来たのか。お前の求めていることは、よろしからぬことだ。帰るがいい」
「明王よ。ご存知でしょうが、私はどうしても六条河原に勝ちたいのです。何とぞ、私に力を貸してください」
「勝ってどうすると言うのか?あれはもともとお前とは住む世界が違うのだ。お前達ははじめから出会うべきではなかった。もうあれに会うのはやめるがいい」
「いいえ。私はどうしても勝ちたいのです」
「お前はすでに人間界で十分名を上げているではないか。それに満足しているのが良いのだ。六条河原のことは忘れてしまえ。あれに会いさえしなければいいのだ。お前達はもともと住む世界が違うのだから、それで元通りになる」
「いいえ。私は六条河原に勝たない限り、他の誰に勝とうとも満足できません。このままあいつから逃げたら、私は一生悔やむでしょう。何をかけてでも、私はあいつに勝ちたいのです」
「それほどまでに言うのなら、行くがいい。次は勝てるだろうからな」
そう声がすると、谷嵐は、何かが己の中で目覚めるのを感じた。その何かは、谷嵐の中で荒れ狂い、背骨に沿って一直線に上へと駆け上がると、頭に達した。その瞬間、谷嵐は全身がドクンと脈打つように感じて、目の前が真っ白になり、その場に倒れ込んだ。
さて六条河原は、隅田川を泳いでいつもの場所にやって来ると、水面から頭を出した。もう冬だけあって、江戸の街には粉雪が舞っている。
これでは人間の谷嵐は寒かろうなと思って、水からあがると、すでにその場には谷嵐がいた。
雪が降る夜の街、谷嵐はすでにまわし姿で仁王立ちしていた。目が血走り、髪は逆立ち、ただならぬ気迫を感じる。谷嵐は言った。
「待ったぞ…。さあ、相撲を取ろう」
「ふむ…?よかろう」
二人は土俵の中で向かい合い、立ち上がってぶつかった。瞬間、六条河原は弾き飛ばされそうになる。
当たりが強い。かつての谷嵐とは、まるで別人である。六条河原は組み合おうとしたが、腕を取られ、背負い投げで地面に叩きつけられた。
「ぐっ!?」
六条河原は立ち上がり、言った。
「もう一度だ!」
「応!かかってこい!」
再び二人は立ち合ったが、六条河原が勢い込んでつっかけたところを、けたぐりで足を払われて倒された。六条河原は再び立ち上がって、言った。
「もう一度だ!」
「かかってこい!」
みたび二人は立ち合ったが、六条河原が組み付き、投げようとしても、谷嵐はびくともしない。逆に谷嵐は、六条河原を強引につかんで高々とかかげあげると、地面に叩きつけた。
「ガハッ!」
「さあ、まだやるか!?」
六条河原に迫る谷嵐。六条河原は立ち上がると、そのまま逃げていき、隅田川に飛び込んだ。
「逃げるのか!六条河原!」
谷嵐はその後を追おうとした。だが、その瞬間めまいがして、その場に片膝をついた。
「うっ!?」
頭がくらくらして、柳に寄りかかって顔を押さえると、手に血がついた。鼻血だ。鼻血がだらだらと流れ、体ががくがく震えた。
「うぐっ…、これは…!?」
立っていられなくなり、谷嵐はその場に倒れ込んだ。
その後、谷嵐は道端に倒れているところを人に見つけられ、相撲部屋に運んでこられた。それから谷嵐は一週間寝込んでいたが、その間にみるみるやせ細っていき、立って歩けるようになった時には、十歳も歳をとったように見え、力も出なくなっていた。
当然相撲が続けられるはずもなく、谷嵐は引退に追い込まれたのだった。
しかし、谷嵐は満足していた。最後に六条河原に勝つことができたのだから、悔いはなかった。あのまま六条河原から逃げて相撲を続けていても、己は決して満足することはできなかっただろう。たとえ誰も彼の戦いを知らずとも、最後に満足のいく戦いができたのだから、彼はそれで良かったのだ。
とはいえ、時に彼はこう思うこともあった。
あれは、まことの戦いだったのだろうか?もしかして、己は化かされていたのではないか?
あれから、彼は一度も六条河原を見ることはなく、その他の妖の類を見ることもなかった。例の寺にもう一度行ってみても、もうそこには誰も住んでいなかった。
もしかして、己はだまされたのではないか?幻と戦い、そのために全力を出し切って、そのために相撲人生を棒に振らされたのではないか?初めから、全ては己をはめるために仕組まれていたのではないか?時にそんな思いがわいてきて、彼の心に影を落とすのだった。
とはいえ、彼のその問いに答えてくれる者がいるはずもなく、いやそんなはずはない、あれで良かったのだと、そのたびに己に言い聞かせるのではあったが。