02 世界の前で結ばれる
風竜王テオファヌの背から見下ろす海は、穏やかだった。
凪いだ水面が陽を弾き、同じ色を繰り返している。
だが、それは似ているだけで、同じじゃない。
そう理解している自分がいた。
マルティサン島が近づくにつれ、風の匂いが変わる。
潮の湿り気の奥に、焦げた岩と焼けた土の気配が、なお消えきらずに残っていた。災厄の魔獣と呼ばれるブリュスキュリテールが、二年前に踏み荒らした名残だ。
「戻ってきたな……」
呟きは、風に溶けてゆく。
隣でセリーヌが島影を見つめていた。
表情は静かだが、指先にわずかな力が宿っている。
恐れじゃない。覚悟の前触れだった。
テオファヌの思念は、すでに神竜や竜王へ届いている。
俺たちが戻ることも、討伐の結果も。
側には、ユリスと老剣士コームさんもいる。
海を眺めながら、地の民クロヴィスさんの言葉が頭をよぎった。
『ここで島に戻れば、長どもに引き留められるのは目に見えてるだろ。俺たちは外の世界に残って、この戦いを見届けるからな』
その言葉に、他の神官たちも同意した。
場を取り持ってくれたのはユリスだ。
『身代わりと言ってはおこがましいですが、私が皆さんの代わりに島へ戻ります』
その表情は、どこか寂しげだった。
『竜臨活性の力を持たない私は、この先の戦いでは足手まといでしょう。それに、誰も帰らないよりは、長たちの心証も良くなる』
本来なら、ユリスも戦いたいはずだ。
むしろ、セリーヌの力を引き受けてでも前に出たいと願っているだろう。
それでも、自分の役割を選んだ。
かけるべき言葉を見つけられないまま、島はすぐそこまで迫っていた。
風竜王は島の中心、円形闘技場へと降下する。
その巨体が、吟遊詩人の姿をした青年に変わった。視界が開ける。
六人の長。
そして、場を埋め尽くす島民。
老いた者も、幼き者も。
戦える者も、もう戦えない者も。
おそらく、島の全員がここにいる。
俺たちを迎えに来たんじゃない。
「みんな、結果を見届けに来たのか……」
中央に立つのは、光の民の長老ディカだ。
その眼差しの鋭さは、以前と変わらない。
「よく戻ったな」
その声を受け、セリーヌが一歩前へ出た。
「災厄の魔獣、討伐完了いたしました」
テオファヌが空中へ文字を描くように両手を動かす。
風の魔法で編まれた白い球体が、ディ゙カの前へと運ばれた。
指を鳴らすと、球体が弾けた。
現れたのは、巨大な黒鱗を持つ大蛇の頭部だ。
場内の観衆からどよめきが起こる。
それは、斬り落とされた証。
なお残る魔力の痕跡が、戦いの苛烈さを物語っていた。
復讐でも誇示でもない。
終わらせたという報告だ。
ディカは深く頷き、ゆっくりと杖を突く。
「よくぞ、生きて帰った」
その言葉には、長としての重みと、祖父としての安堵が混じっていた。
歓声は上がらない。
代わりに、あちこちで押し殺した吐息が漏れる。
「島民の心は救われただろうけど……失われたものが多すぎる……」
俺の言葉に、誰も応えなかった。
討伐報告が終わると、六名の長たちは闘技場の座席を見上げる。
島民ひとりひとりの顔を確かめるように、時間をかけて。
不意に、ディカが咳払いをした。
その背は、先程までより少し低く見える。
「今日をもって、我々六名は長の座を退く」
場が揺れた。
討伐報告に匹敵するざわめき。
誰ひとり、この展開を予想していなかった。
「これからのマルティサン島には、若き者たちの力と判断が必要だ」
視線が、ユリスに向く。
「新たな体制の中心は、ユリス。おまえだ」
一歩前へ出たユリスは、戸惑いを隠しきれないまま頭を下げた。
「恐れながら申し上げます。私は未熟です。皆を導くには力不足だと自覚しております」
「当然だ。六名で統治する習わしも、そのためにある。おまえにも参謀が必要だ」
視線が、俺たちの後方へ移る。
「コーム。おまえが島に残り、ユリスを支えるのだ」
「ですが……」
コームさんは言葉を詰まらせる。
それでも、意を決したように続けた。
「ユリス様の補佐として残るにしても、私にはセリーヌ様の護衛としての任が……」
ディカの視線が鋭く走る。
その目が、俺を見据えた。
「必要あるまい」
静かな断言。
「そこに、適任がおるではないか」
その口元が、わずかに緩んだのを、俺は見逃さなかった。
ユリスは一瞬、言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「承りました」
コームさんもまた、深く頭を下げる。
守るためじゃない。支えるために残る。
その役目を受け入れた顔だった。
「島は、もう守られるだけの場所ではない」
ディカの視線が、セリーヌに向く。
「神竜ガルディアは、この島にも新たな役目をお与えになったのだろう」
島民の間に緊張が走る。
「セリーヌ。おまえは“絆の守り人”だ」
それは静かな宣告だった。
「島と大陸をつなぐ者。争いではなく、意志を継ぐ者だ」
海風が、俺たちの髪を撫でてゆく。
「おまえは……もう独り立ちした」
それが、長を退く決意につながっていることを、セリーヌも理解したのだろう。
深く一礼し、顔を上げた。
「わたくしは、この先も戦います」
迷いのない声だった。
「理力の宝珠は、未だ悪しき者たちの手にあります。それを取り戻すまで、わたくしの戦いは終わりません。神竜剣と神竜杖も取り戻しました。魔導通話石を含め、これらの品を宝珠奪還まで、引き続き貸与願います」
ディカは杖に両手を添え、ゆっくりと前へ出る。
「儂の許可は不要だ。ユリスに聞け。これからは、島の掟に縛られることはない。おまえの選んだ道をいけ」
それは命令ではない。赦しだった。
わずかな間を置き、セリーヌが口を開く。
「ひとつ、決意表明がございます」
振り返ったセリーヌと視線が交わった。
「この場を借りてご報告いたします。わたくしは、リュシアンさんと婚約いたします」
闘技場に、三度目のどよめきが走った。
だが、拒む声は上がらない。
「理力の宝珠を取り戻したのち、正式に婚姻を結びます」
ディカは静かに頷き、こちらを見る。
「リュシアン」
名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「セリーヌを、頼む」
それは長としてではない。祖父としての言葉だった。
「必ず」
短く答える。
婚姻を許した理由は明白だった。
セリーヌは、もう守られる存在じゃない。
選び、背負い、歩く者になった。





