22 吐息を感じるほどの距離
風の球体に包まれて空を移動しながら、腕の中へ抱いたセリーヌを覗き込んだ。
彼女はさっきと同じように俺の胸元へ顔をうずめたまま、必死に恐怖と戦っている。
その姿がいじらしく、微笑ましさと愛しさが込み上げる。守ってあげたいという気持ちと共に、つい笑みが溢れてしまった。
「大丈夫だ。すぐにみんなの所に着く。それに、空が怖いんじゃない。あの魔獣に対しての恐怖だって、すり替えちまえばいいんだよ」
「リュシアンさんはいつも前向きですね。私はそう上手く考えを切り替えられません」
彼女の声が体と心を振動させる。その温もりを、存在を、こうして確かに感じられていることがまだ信じられない。
「セリーヌは真面目すぎるんだよ。でも、俺が前向きなのは、兄貴やフェリクスさんの影響が多分にあるだろうな。あの人たちはいつも、俺より一歩も二歩も先を行くんだ」
フェリクスさんは、一緒に旅をした一年の中で色々と学ばせてもらった。普段は飄々として掴みどころがなく、適当で、酒と女が好きな遊び人。でも、ここぞという時には率先して矢面に立ち、俺たちを必ず守ってくれた。兄のような、父のような、本当に頼れる存在。
兄貴のジェラルドにしてもそうだ。故郷の人たちから聖人のようだと信頼を寄せられる誠実な冒険者。これまで旅先で訪れた冒険者ギルドでも、兄貴を知る人と話す機会が幾度かあった。誰に聞いても悪い噂がなく、穏やかな人柄と丁寧な仕事ぶりを褒められた。
このふたりを超える存在になりたい。
「本当に凄い人たちですね。リュシアンさんのお兄様にも、ぜひお会いしてみたいです」
「あぁ、そうだな。必ず会わせるよ。その時には、自慢の彼女だって紹介させてくれ」
「困ります。なぜ勝手にそのようなことを」
慌てて顔を上げるセリーヌ。俺は覚悟と信念を持って、その目を黙って覗き込んだ。胸の前で合わされた、彼女の両手に触れる。
言葉をなくし、互いの視線が混ざり合った。セリーヌの瞳へ、俺の姿が映り込む。
彼女しか見えない。
彼女だけがいればいい。
「俺が絶対に、災厄の魔獣を倒すから」
吐息を感じるほどの距離で見つめ合う。ごく自然な流れのように、蕾を思わせる彼女の唇へ引き寄せられてゆく。
「リュシアンさん……いけません……」
口ではそう囁きながらも、顔を背けようとはしない。潤んだ瞳に添えられたまつ毛が、緊張を現すように微かに震えている。胸の前で合わせた手を解き、俺の胸を押し返して抵抗するが、その力はとても弱々しいものだ。
抗いたくても抗えない。彼女を通じて、そんなもどかしさが伝わってくる。
「がう、がうっ!」
すると、現実を見ろと言わんばかりに、左肩の上でラグが吠える。
良い所で水を刺された。慌てて顔を上げると、俺たちを包む球体は地表へ着地しようとしていた。側では水竜女王が体を起こし、マリー、ナルシス、コームの姿も確認できた。だが、ミシェルの姿が消えている。
そして、俺たちの到着を迎えようとでもいうように、ブリュス=キュリテールの巨体が大空へ飛び上がる様が見えた。
「魔獣には、空気を読むなんて概念はないんだろうな。もう少し気を利かせろっての」
「空気を読まないのは、リュシアンさんも同じです。私としたことが……」
セリーヌは俺の体を押しのける勢いで離れると、髪を振り乱して頭を振るった。
自分を戒めるようなその姿を目にして、なんだかいたたまれなくなってしまった。なぜ彼女がこれほどまでに自分を強く律するのか。その根源を知りたいと痛切に思う。
「災厄の魔獣を倒して、一族の無念を晴らしたいって言ってたよな……それまでは、自分だけ幸せになるなんてできないって」
「覚えていてくださったのですか?」
「当たり前だろ。絶対に、その呪縛から解き放ってやるからな。俺たちの約束だ」
「過度の期待は致しません。ですが、その悲願を忘れたことは決してありません。災厄の魔獣は必ず討ち果たします」
セリーヌの横顔は不安を滲ませている。その視線は、迫り来る魔獣だけを見ていた。
「レオンさんたちはどうされたのでしょう? 考えたくはありませんが、まさか……」
「ラファエルもいたんだ。あいつらが全滅したとは思えねぇ」
着地して風の結界が消えると同時に、耳から空気が抜けるような感覚に襲われた。誰かが拡声魔法を周囲に張り巡らせたようだ。
「碧色ども、聞こえるか?」
「あぁ、聞こえてるよ」
それはラファエルの声だった。
「あの魔導師は死んだか。賞金首の魔獣を打ち取って、俺たちの目的は達した。特別に、報酬は山分けにしてやる。だがな、ギデオンは重傷の上、他の奴らも深手を負った。化け物の後始末は貴様らに任せる」
「ちょっと待て!」
「生きていればまた会おう。それから最後にひとつ。一緒にいる守り人の女、この戦いを生き残れたら、妾のひとりとして面倒を見てやる。この俺のために最強の子孫を産め」
身勝手な言い草に腹が立つ。俺はブリュス=キュリテールの存在すら無視して、ラファエルがいるであろう場所へ目を向けた。
「このガキ。勝手なことほざいてんじゃねぇぞ! 俺たちは必ず生き残るし、セリーヌは絶対に渡さねぇ。彼女は俺のものだ!」
「リュシアンさんまで好き勝手なことを仰らないでください!」
セリーヌが抗議の声を上げた直後、拡声魔法が解除されたのがわかった。どうやら本気で逃走を始めたようだ。
気を取り直し、俺たちは仲間のもとへ駆け寄った。今は少しでも多くの戦力が必要だ。
「竜は大丈夫なのか?」
声を掛けると、疲れた顔のマリーが困ったように微笑んだ。
「応急処置程度だと思うわ。さすがにこれだけ大きな体だと、私の力も追いつかない」
「ありがとう。よくやってくれた」
そこへ、ナルシスが駆け寄ってきた。
「リュシアン=バティスト。結局の所、君の目的はこの竜を助けに来たということかい? 依頼人の件はすべて嘘なんだろう?」
「悪い。騙すつもりはなかったけど、竜の存在が漏れれば騒ぎになるからな」
どのみち、ユーグとの会話で水竜女王という言葉を聞かれてしまっている。みんなにもこれ以上は隠しきれない。
「まったく……水臭いじゃないか。僕たちの誰かが、その情報を外部へ漏らすとでも? もっと頼って、信頼してくれたまえ」
呆れるナルシスの奥から、コームの鋭い視線を感じる。恐らく、俺と水竜女王の距離感を測りかねているのだろう。
俺は改めて、上空へ浮かぶ魔獣を伺った。
「竜を人目の付かない所へ逃がしたい。その時間を稼ぐために、みんなの力を貸してくれ」
「どうするつもりだい? みんな満身創痍だ」
ナルシスの尤もな意見が腹立たしい。
「そんなわかりきった言葉は求めてねぇんだよ。俺もランクLになっちまったんだ。フェリクスさんや兄貴に笑われるような戦いはできねぇだろうが。それに、俺は俺のやり方で、あの人たちを超えるって誓ったんだ」
剣を構えると、隣へセリーヌが並んだ。
「リュシアンさん、忘れないでください。絶対に無理は禁物です」
「なにがあっても生きろ、だろ? 任せとけ」
努めて明るく振る舞いながらも、胸の内に込み上げる不安を拭い去れずにいた。





