21 羽ばたくことをやめた蝶
「があぁっ……」
ユーグは呻き、背中を丸めて後ずさる。地面へ膝を付くと、胃の内容物をぶちまけた。
「威力はかなり抑えた。法衣しか着てないおまえでも、死ぬようなことはねぇだろ」
再び拳を握り、側に立つセリーヌを見た。
「こいつの右腕、止血できるか?」
「どういうおつもりですか?」
信じられないものを見るような目を向けられたが、それも当然の反応か。
「言っただろ。二万回斬っても足りないって。無限の苦しみを味わわせてやろうと思ってな。セリーヌだって、ロランさんたちの恨みがあるだろ。こんなもんじゃ足りないんだよ」
「勝負は決しました。ひと思いに止めを」
「こいつにどれだけの人が苦しめられた?」
セリーヌの意見には納得できない。今はこいつにばかり構っていられないのもわかる。それでも、そう簡単に終わりにしてしまっていいのかという葛藤が渦巻いている。
無言のままユーグへ近付き、右腕の切断面を掴んだ。手の平にどす黒い血が付着してしまったが、俺には魔力障壁がある。この血もすぐに弾かれ、大地が受け止めてくれる。
左手に灯った炎が切断面を焼く。焦げ臭さが鼻を突くと同時に、ユーグが悲鳴を上げた。
「リュシアンさん。この方に、ひとつ伺っておきたいことがあります」
「だとよ。答えてやれ」
俺は、膝をついたままのユーグの胸ぐらを掴み、喉元へ魔法剣の刃を添えた。
「どのようにして守り人の存在を知ったのですか? 以前に神の存在を口にしていましたね。背後にいるのは何者なのですか?」
その言葉で我に返った。確かに、こいつの背後関係を確認しておく必要がある。あの黒装束も、終末の担い手のひとりに違いない。どれほどの規模を持つ連中なのか。
荒い息を吐いていたユーグは、蝶の仮面の下で口元を不敵に歪めた。
「この戦いに終わりを望めば思い知る。神の力に、全ては終末へ向かうのみ」
「答えになっていません」
そこまで言って、急にセリーヌの動きが止まった。直後、なぜか息苦しさを覚えた。体の自由が奪われ、磔にされたように手足を強く引っ張られてしまう。
魔法剣が地面へ落ちた。大の字の姿勢を取らされたまま、首を釣り上げられるように体が持ち上がってゆく。そしてそれは、セリーヌも同じだった。気付けば俺たちの足元には、蜘蛛の巣状に黒い光が広がっている。
「紙一重。わずかに判断が遅れれば、死ぬのは私の方だった。この魔法は、発動までに時間が掛かるのが難点」
失念していた。こいつは杖のような魔導触媒を持たずとも、魔法を行使できるのだ。
「君たちだけでも始末して、ここは退散。残念だが立て直しが肝要。竜の力さえあれば、あの魔獣を完全に支配できたものを」
要するにこいつの目的は、ブリュス=キュリテールを支配下に置くことか。
左手が持ち上がり、手の平へ魔力が収束を始めた。残された力で一気に決めるつもりだ。
しかし、俺もセリーヌも全く動けない。竜臨活性でも跳ね除けられないということは、これも高等魔法のひとつなのだろう。
呼吸ができず、意識も飛びかけている。それでもこんな所で終われない。
竜の力を、残された力を振り絞れ。
無我夢中で念じたものの、それを叶える術など見つけられるはずもない。
「さらばだ」
ユーグの無情な一言で、集中は途切れた。途端、一陣の風が吹き抜ける。
「なに?」
ユーグのつぶやきと共に、俺は糸の切れた人形のように地面へ横たわっていた。体が自由を取り戻し、肺が急速に酸素を取り込む。思わずむせ返りながら、頭の中は酷く混乱していた。何が起きたのかわからない。
四つん這いになって顔を上げると、地面に伏せるユーグが見えた。奴の側には斬り落とされた左手足が転がり、周囲には、細切れにされた鳥形魔獣の遺体まで散乱している。
「おのれ……いつの間に……」
ユーグは憤怒の表情で俺を見ている。
「何が起きたんだ?」
「私にもわかりませんが、周囲に風の結界が張り巡らされています。これでもう、あの方は逃げることすら叶わなくなりました」
「よくわからねぇけど、追い詰めたんだな」
どうにか立ち上がり、剣を拾い上げた。これ以上引き延ばせば何が起こるかわからない。
「死後の世界で後悔するんだな」
両腕と左足を失ったユーグは地面へ伏せたまま、顔だけを上げてセリーヌを見ている。俺はその姿を見下ろし、剣を構えた。
「此奴らを生かす価値はあるのか? 私はただ、終末の果ての再生と、光を望むだけ」
「私は彼等の存在に希望を見ました」
「論外。耳障りだ」
話を打ち切ったユーグの首を狙い、渾身の力で刃を振るった。こいつのせいで命を散らした全ての人たちの恨みを込めたつもりだ。
「終わったのですね」
羽ばたくことをやめ、地へ落ちた蝶の仮面。それを見つめ、セリーヌは安堵の息を吐く。
彼女へ微笑みかけると、耳から空気が抜けるような感覚に襲われた。ユーグが発動していた拡声魔法が失われたのだろう。
するとそれを待っていたように、恐ろしい咆哮が轟いた。空気だけでなく、魂までも震え上がるような恐ろしい声だ。
「災厄の魔獣……」
身を震わせるセリーヌ。俺は隣に立ち、安心させようと背中へ手を添えた。
「やっとユーグを倒せたっていうのに。感慨に浸る間もなく、次の難題か」
何があろうと、彼女だけは守り抜いてみせる。この気持ちは絶対に折れない。
「プロスクレ様の所へ戻りましょう」
セリーヌは逃げるように離れた。その動きに触発されたのか、彼女の体から黄金色の光が消失。髪色は見慣れた濃紺へと戻った。
「竜臨活性が……」
セリーヌが泣き出しそうな顔を見せると同時に、俺の体にも変化が起こった。
右手の甲に刻まれた痣からラグが飛び出し、全身へ大きな虚脱感がのし掛かってきた。
「まったく……これからって時に」
怒りを当て付けるように剣を地面へ突き立てた。力を温存するため、炎の力を解除する。
「リュシアンさん。予定通り、プロスクレ様を助けて撤退するしかありません。万全の状態でなければ、災厄の魔獣は倒せません」
「どうにか倒す方法はないのか?」
「がう、がうっ」
ラグは俺の左肩へ乗ってくると、無茶をするなと言わんばかりに吠えてきた。俺を心配してくれる気持ちもわかるが、不安要素は早めに潰せと思い知ったばかりだ。
「とにかく、急いで戻ろう」
焦りを抱えてセリーヌへ告げた途端、目の前へ再び謎の竜巻が発生した。
「はわわっ!」
狼狽するセリーヌは、すかさず自らを抱きすくめ、身を固くした。
「大丈夫だ。そんなに怖がるなって」
「リュシアンさんは平気なのかもしれませんが、私の身にもなってください」
「こうすりゃ安心だろ」
セリーヌのすらりとした体を抱きしめた直後、俺たちは竜巻に包まれた。体が一気に持ち上がり、空を飛ぶような勢いで移動する。
「災厄の魔獣。奴に一矢報いてやるよ」
セリーヌの悲願を叶えるためにも、あの魔獣をなんとしても止めてみせる。





