魅了の代償
シロナは持ち込んだ包みを開くと陶磁器を思わせる美しい杯を二つ並べ、同じ材質で出来た酒瓶を取り出すと栓を抜いて杯に注いでいく。
「見返りは用意できませんが、我が国はこのような物も造っておりますのでお気持ちだけでもいかがでしょうか?」
酒の類は好みの分かれる所ではあるが大の大人がまさか飲めないとはいうまいと用意した物で狐人族の国で作られたその酒は偶然にも日本酒に似た清酒であった。
「ほぉ、これは酒か・・・その、お嬢さん」
「はい、飲みやすくて弱い人でも良く飲めるので酒宴で重宝される物です。それと私の事はシロナと御呼びいただけると助かります」
当然だが元日本人のヴォルカンにとって懐かしくかつ好物のそれなので口元を僅かに緩ませ、嬉しそうに杯を見つめている。杯が陶磁器のような質感であったのも彼の郷愁をどことなく掻き立てるものだ。
杯に手を伸ばしかけたヴォルカンは一瞬厳しい表情になると低い声で尋ねる。
「毒など入れてないだろうな?」
「ッ・・・もちろんです」
背筋を氷が伝ったかのような鋭いまなざしに思わずシロナは息を呑んだ。図星ではあるがここで表情に表すほど馬鹿ではない。逆に笑顔を浮かべながらやんわりと否定する。首筋に金属質のものが添えられている状況でこう返せた自分を褒めたいくらいだった。
「だそうだ、アウロラ、下がっていいぞ」
ヴォルカンの一言を受けるとシロナの背で床が軋む音が聞こえ、続いて扉が閉まる音が続いた。
思わず振り返って首筋に手を当てて確認する。大丈夫、斬られてはいない。
「過保護でな、気を悪くしないでくれ」
「いえ、貴方様はこの集落の長なのですから」
当然の事です、とあくまで平静を装いシロナは杯に注いだ酒を一口飲んだ。経験の少ない彼女にとっても酒が手元にあるのは有り難かった。酔いが回るに連れて恐怖は僅かにだが薄らいだ。
「・・・初めて飲むとは思えないな、これは穀物から造られるのか?」
「そのとおりです、我が国では『コメ』と呼んでおりますが・・・ご先祖様は神様から賜ったと言われております」
「穀物とそれから造る酒は神様からの賜り物・・・か、まさしくそうだな」
今は職人が代々製法を守っております、とシロナは言いながら早くも杯を一口に飲み干したヴォルカンを見ながら意味ありげな笑みを浮かべ空になった杯に再び酒を注ぐ。
「ふふ、どうですか?気分は?」
「ああ、悪くないな」
酒瓶の中身が半分になった頃、シロナは徐に立ち上がってヴォルカンの隣に腰を下ろし魅惑的な仕草で寄りかかるとこちらを見つめると頬に朱に染めるヴォルカンにそう問い掛ける。
「これから貴方様に呪術を掛けますよ、掛かってくださいますか?」
「掛かるのか?」
「ええ、大丈夫です、貴方様が受け入れてくだされば」
狐人族の秘薬『美酔』の効能は簡単に言うと相手を酩酊状態にさせ判断力を奪うこと。そしてもう一つは異性に対する貞操観念をゆるやかにし、奔放にすることだ。
この薬の効能が利いている間相手はあらゆる『頼み事』を断る事ができなくなり白紙の小切手を切りまくってしまうのだ。ただしこれを成功させるには薬を盛る側が呪術師であることと当然ながら相手が魅了できるような美男美女である必要がある。当然ながらいくら押して頼んだところでピクリともこない女性や男性の頼みなど聞く気にはならないのが人情である。
「そうだなぁ、なら此方からも聞いていいか?」
「ええ、なんでも仰ってくださいな」
「俺の杯に何か塗ったな?」
「気付いたところでもう遅いですよ、狐人族の秘薬の効能はたとえ巨獣でも逃れられません。じきに貴方様は私のお願いを聞くしかなくなる」
「断れないのか・・・いかなる願いも?」
「もちろん」
俯いてなにやら呟くように確認してきたヴォルカンにそう返す。勝利を確信してにっこりと笑みを浮かべるシロナにヴォルカンはおもむろに顔を上げ、非常に悪い笑みでシロナを見つめると信じられない言葉を吐き出した。
「よし、ならシロナと言ったな?お前、俺の妻になれ」
「えっ」
聞き返した瞬間にシロナは抱き寄せられる。そして息のかかりそうな距離で再びヴォルカンは彼女を真っ直ぐに見つめて再度言い放った。
「何度も言わせるな、俺の妻になれ」
「あ、・・・はい、なります」
返事を言うが早いか体の芯に熱が点り意識がふわふわとしてくる。彼女が自分が薬を飲まされた事に気付く事は恐らく薬が抜けた後になるだろう。
「器に塗ってあった薬は何と言うんだ?」
「美酔という薬です・・・、効能は相手をの判断力を奪って・・・」
「なるほどな、しかしイカサマを仕掛けるなら杯から目を離してはいけないな」
「ど、どういうことれす・・・?」
判断力が鈍ったシロナは全く理解できなくなっていたが単に不審に思ったヴォルカンが杯をアウロラに気を取られた隙を突いて摩り替えただけだったのだ。
「未使用の杯に濡れていた形跡があったら不審がられて当然だろうが」
ヴォルカンがそう彼女のほんの僅かな失態を指摘するも彼女は焦点の怪しい潤んだ瞳でヴォルカンを見つめるだけだった。
ヴォルカンは毒の有無を尋ねたときアウロラが過剰に反応する事を知った上でカマを掛けて反応を確かめた。流石に表情にこそ表さなかったが命のやり取りの駆け引きを経験したヴォルカンには彼女の僅かな反応を読み取る事など造作もなかったのだ。そして白い杯に僅かに残った何かを塗った痕跡に気付いたのも狐人族が薬物を使う事もあるという事前情報を知っていたからだった。
なので酒を取り出した所で人知れず警戒していたが、酒そのものに混ぜては自分が飲む恐れがあり、目の前で盛るのは監視の中で行なうのは厳しい、後はあらかじめ器に塗るか自分だけ解毒剤を飲むかしかないので対策も立てやすかった。




