おかえりのうた
煙草の煙が夜の底に溶ける。仄明るい灯火のなかで、目に見えない小蠅の飛び回る音が聞こえる。
吐き出した煙が君の顔を形作るのを僕は待っている。
その夜も君は帰ってこなかった。
その日僕らは酔っ払って、僕は道にひっくり返って吐いていた。君は少し離れたところで、膝を抱え込んで昔の彼氏の名前を呼んだ。お互いのことは全然考えていなくて、ただ自己嫌悪と不安と込み上げる気分の悪さだけが僕らの全てで、そのくせ耳だけは相手のほうを向いていた。だから僕の耳には君の呟くその名前が聞こえていたし、きっと君の耳には僕の醜い嘔吐が聞こえていて、それが僕らを離れ離れにしていたのだと思う。
僕らはそのとき、すぐにタクシーでも拾って家に帰って、全裸になって同じベットに潜り込み、起きたら宿酔のままセックスでもすればいいのだと知っていた。それでも僕らはすぐに車になんて乗れるような状態じゃなかったし、金曜の街のタクシーは僕らになんて全然見向きもしないから、僕らは仕方なくそこにいた。
ちょっと暑いような夜だったけれど、君は自分の肩をずっと抱いていた。僕はそれを、身を起こして漸く知った。立ち上がって側に行こうとしたら、軽い貧血でくらくらして、僕はまた座り込んでしまった。
帰りたいな、と君が僕を見ずに言った時、僕はなんだか頭の中が真っ白なままで、ぎゅっと眼を閉じていた。君の言葉が辛いのか、酔いが辛いのか、貧血が辛いのか、僕には判らなかった。
帰りなよ帰れよ、まだ鍵は持ってるんだろ帰れよ、と、僕に言わせたのは間違いなく酔いだったから、僕はそれから今まで、ずっと後悔している。
君は結局僕を見ないまま立ち上がって、五六歩歩いて、一度だけしゃがみ込んで、そのあとは意外としっかりした足取りで歩き出した。左手を挙げてタクシーを止めて乗り込む君を僕はぼんやりとみていたけれど、君はこちらを振り返らなかったから、多分目は合わなかった。そうしてタクシーに乗り込んだ君が、一体どこへいってしまったのか、僕は知らない。
僕はあの後、しばらくぼうっとして、それこそお巡りさんに声を掛けられるまでぼうっとして、そして君が忘れていった鞄を拾い上げて、歩いて家まで帰ってきた。君の居ない家で、鍵は開けっ放しにして、土曜日は一日中頭を抱えて寝ていた。日曜日は朝起きてすぐ君に電話をしてみたら鞄が震えていて、仕方ないから掃除も洗濯も僕がやった。買い物だけは君が帰ってくる気がして、行けなかった。
家にあった袋ラーメンを一食分だけ作って食べて、そうして暗くなってしまったベランダで、僕は煙草を吸いながら君の帰りを待っている。
日曜日の夜だというのに、ベランダで1.5ℓもビールを飲んで、18本の煙草を吸って、結局僕は月曜の仕事を休むことにした。酔っ払ったまま上司にメールして、そのままもう一缶だけビールを飲んで気が付いたら寝ていたみたいだった。
朝10時半に、開けっ放しだった窓から風が吹き込んで僕は目が覚めた。君がそっと玄関の扉をあけたところだった。
友達のね、ところに居たの、今日は会社、休んじゃった、といって笑う。
お風呂はいんなよ、金曜から着替えもしてないんだろ、と僕も笑う。
大丈夫だよ。お風呂は昨日、ちゃんと掃除したから。なんて笑う。
全裸になって同じベットに潜り込み、起きたら宿酔のままセックスでもすればいいのだ、と僕らは知っている。2本だけ残っている煙草を吸いながら、彼女が疲れを洗い流すのを待っている。




