最終章
数年後。
「見て!ケレンさまよ!」
「舞踏会にいらっしゃるなんて珍しいわ。ヨルドさまはどこかしら?」
「今のうちにダンスを申し込んだら踊っていただけると思う?」
「おやめなさいよ、ヨルドさまに睨まれたくはないでしょう?」
ひそひそと話しているつもりの声がしっかりと耳に届いて、壁際の花となっていたケレンは思わず苦笑いを零した。令嬢のひとりが言ったように、ケレンが社交界に顔を出すのは久し振りだ。ヨルドとの婚約を発表して以来どこへ行っても注目されるので、あることないこと噂されるのだろうと思うと行く気が失せてしまう。そもそもヨルドと並んでいるだけで目を惹いてしまう上、彼からの伴侶としての扱われ方が恥ずかしくなるくらいに甘ったるい。人前でそれをされるのが恥ずかしいというのも、足が遠のいている理由のひとつだ。
そんなケレンが今日ここへ出向いたのは皇室主催の舞踏会だったからだ。あの本の中でケレンがライオネルと出逢った舞踏会と時を同じくするものの、今世とはその主旨がまったく異なる。原作ではライオネルの生誕祭だったが、今回はこの度五歳を迎えた皇女殿下の生誕祭だ。アメリアからどうしてもと参加を請われたため、重い腰を上げたのだった。
「ケレン!」
舌足らずでまろい声音に名を呼ばれる。思わず頬を弛ませて膝をつくと、開いた腕の中に小さな身体が飛び込んできた。そのまま抱き上げてぐるぐると回ると、きゃっきゃと楽しげな声をあげて笑う。幼いながらも可愛らしく着飾っているこの子が今日の舞踏会の主役だ。
「こら、ハリエット!走ったら駄目だと言ったでしょう!ごめんなさい、ケレン。あなたが見えたら走って行ってしまって」
お転婆な皇女を追いかけてきたアメリアが申し訳なさそうに眉を下げた。そんな母親に向かっていーっと歯を見せたハリエットが、打って変わってケレンに飛び切りの笑顔をくれる。
「見て、ケレン!かわいいでしょう?」
「とてもかわいいですね。ですが、お母さまの言うことはちゃんと聞かないといけませんよ」
ハリエットを下ろして目線を合わせると、不機嫌そうに頬を膨らませるのが可愛らしい。皇族として相応しい振る舞いのためにも厳しくせねばとわかってはいても、つい頬が弛むのは仕方がない。ライオネルとアメリアの娘である彼女は、どこからどう見てもとびきりに可愛い。その上幼い頃から皇室に出入りしているケレンに懐いてくれているので、態度が甘くなるのも仕方がないことなのだ。
アカデミー在学中にライオネルと婚約したアメリアは、卒業してすぐに皇太子妃となった。盛大に開かれた結婚式はまだ人々の記憶に新しい。すぐに子宝に恵まれ、今や三人の子供の母親だ。まだ下の二人の皇子は幼いので今日は参加していないと聞いている。
「こらこら、あまりケレンを困らせたら駄目だろう、おチビちゃん」
にこやかな表情で現れたライオネルにケレン共々周りの貴族たちが一斉に頭を下げた。アメリアが彼と婚約したことで、後見を務めていた侯爵家は皇宮から随分と優遇を受けることになった。ケレンは政治に関心が薄いが、ここで築いた関係性は後々、侯爵家を背負って立つ気が満々のエヴァンの後ろ盾になるだろう。自然と顔を合わせる機会が増えたので、ライオネルとは気兼ねなく話せる仲になった。というのも、ケレンはアカデミーを卒業したのち皇宮付の魔術師になったのだ。
「お父さま!」
皇女が父親の足へと抱き着くと、めろめろな笑みを浮かべた彼が娘を抱き上げる。すっかり子煩悩になった皇太子は政治の手腕も素晴らしいと貴族たちからの信頼を集めている。アメリアとの夫婦仲もよく、令嬢たちからもあんな夫婦になりたいと羨ましがられていた。ケレンはそれを目の当たりにするたび、ここに辿り着くまでの紆余曲折を思って感慨深くなる。絵に描いたようなハッピーエンドまでの道のりは、遠いようで案外近かったようにも感じる。
「ケレン、忙しいところ参加してくれて礼を言う。この子がどうしてもとごねてな」
「いえ、ご招待いただき光栄です。ハリエット皇女殿下にお祝い申し上げます」
「仕事の方はどうだ?随分と評判のようだが」
「皇太子妃殿下のおかげです。みな感謝しております」
頭を下げたままそう言うケレンに、アメリアが顔を上げるように言ってくれた。ケレンは現在、アメリアが設立した治療院の治癒魔術師として自らの能力を存分に発揮している。元々皇宮の治癒魔術師たちは特権階級にのみ重宝される存在だったが、皇太子妃となったアメリアはまずその恩恵を国民たち全員が受けられるような制度を考えた。皇太子妃の治療院は医者が匙を投げるような怪我や病気の患者の最後の砦であり、治療費はすべて税金から賄われる。当初貴族たちから酔狂なことをし出したと白い目で見られていたアメリアは、自ら医院を訪れて患者たちを治療することで市民たちからの信頼を勝ち得た。今やそんな彼女の功績を笑う者は誰もいない。
「あら、全部ケレンの功績よ。周りの国から治療を受けに来る人がいるくらいだもの」
「我が国自慢の魔術師だ。わたしの呪いも解いたくらいだからな」
皇太子夫婦に褒めちぎられると照れくさくて、それ以上はやめてくれと苦笑った。不思議な顔をして父親とケレンを交互に見ていたハリエットが、そんなにすごいの?と首を傾げる。その仕種のかわいさに周囲から感嘆の溜息が零れ落ちた。ケレンも頬を笑みに弛めて、そんなことはないと謙遜する。
準備が整ったのか、楽器隊が優雅な音楽を奏で始めた。ライオネルが改めて皇女を貴族たちに紹介すると、楽しんでくれるようにと挨拶をする。割れんばかりの拍手が起こったあとで、貴族たちがパートナーを伴ってダンスフロアへと繰り出していった。その様子を見ていたハリエットが自分も踊りたいとせがむ。
「ケレン、わたしと踊ってくれる?」
「お、それはいい。しかしお前は本当にケレンのことがすきなのだなぁ」
「大きくなったらケレンのお嫁さんになるの!いいでしょ!?」
無邪気にそう言ったハリエットにアメリアが可笑しそうな笑みを向ける一方で、ライオネルが頬を引き攣らせていた。ケレンも面食らってなんと答えたらいいかわからない。かわいい冗談だとはいえ、この発言は見逃せなかった。今更断罪されるとは思えないが、普通は父親と結婚すると言い出すところを、妻の幼馴染にその役目を掻っ攫われたライオネルの心情を慮ると胸が痛い。
「皇女殿下、お言葉ですがケレンはわたしの伴侶です。お渡しするわけには参りません」
そこにそう助け舟を出したのはヨルドだった。背後から伸びてきた腕に腰を抱き寄せられると、遅くなってすまないと髪に唇を落とされる。何年経っても彼にときめいてしまうケレンだったが、大勢の前でそうされるのは恥ずかしかった。周りの令嬢たちが息を呑むのが手に取るようにわかる。
「ヨルド!あなたよりわたしの方がいいに決まっているわ。お姫さまだもの」
父親の腕の中でそう意気込む皇女の顔に、もうひとりの皇子の顔が重なった気がして思わずまばたきをする。そういうことではないのだと、大人のくせに年端もいかない子供に反論するヨルドを嗜めながら、あの男が誰からもあいされる人生を勝ち取ったことをうれしく思った。自分だけの名前と身体を手に入れた彼女のなかに、あのときの記憶は残っていないだろう。けれどまさか兄の子供に転生してくるとは恐れ入る。
「そういうことだから諦めなさい。ダンスは父と踊ろう」
嬉々としてヨルドに加勢した父親に、ハリエットが不服そうに頬を膨らませた。アメリアが呆れたように笑って、ふたりをダンスフロアの方へと押し出す。皇太子が小さな皇女と踊る様をひと目見ようと人垣が割れた。微笑ましげな視線を一身に集めながらライオネルが娘に手を差し出した。その手を恭しく取るハリエットは堂々としていて、小さくとも流石帝国の姫君然としている。
「まったく、子供と張り合うなんてみっともないわよ」
アメリアの呆れたような苦言を、ヨルドは薄い笑みで受け流した。離せと言ってもどうせ離してくれはしないので、ケレンは腰を抱かれたまま彼のすきにさせている。少し背が伸びたヨルドの腕にすっぽりと収まってしまうのは少々気に食わなかったが、日々帝国騎士団の一員として鍛錬している彼と体力がないケレンとでは、成長に差があるのは当然だ。それにこうされているところを令嬢たちに見せつけておくのも悪くはない。ヨルドに懸想する女が減るに越したことはないのだ。
ヨルドは卒業後、ライオネルの推薦で帝国騎士団に入団した。そこでめきめきと実力を発揮し、今は最年少で副団長の地位を任されている。近々ヨルドが率いる騎士団を編成しようという話も出ているようだ。彼は相変わらずケレンの護衛でもあるが、騎士団に入ろうと決めた理由もケレンだった。侯爵令息であるケレンの伴侶として、誰からも文句を言われない地位が欲しかったのだという。それを聞いたときの、うれしさといったら言葉にならない。
夫人たちからお喋りに誘われたアメリアが離れていった。女同士のお喋りを馬鹿にしていた彼女が笑みを湛えてお喋りに花を咲かせているのを見たら、あの頃のアメリアはどう思うのだろう。きっと変なことを言うのねと、ケレンを馬鹿にしたに違いない。
ヨルドに踊るか?と問われて首を振った。さらに目立つことはないし、少しふたりきりになりたかった。ベランダに出ようと誘うと、いたずらっぽく笑ったヨルドにお手をどうぞと手を出される。それがなんだかくすぐったくて笑みを怺えきれなかった。皇太子家族と同じように、自分たちもしあわせに見えていたらいいと思う。なんといっても、これがケレンの望んでいた結末なのだ。
「アカデミーのときを思い出すな。あのときもこうしてベランダに逃げただろう?」
「ああ、仲間に入れてくれと言ってきたブラッドリーをお前が疑って大変だった」
「ケレンを貶める奴は誰だって信用ならない」
うしろから抱き寄せてきたヨルドが甘えるように肩に額を預けてきた。彼はいつだってまっすぐな忠誠をくれる。世界中を敵に回しても彼だけは絶対的な味方でいてくれる。それに何度救われてきただろう。
「ケレン、本当によかったのか?アメリア嬢と婚約していたら、あのしあわせはお前のものだったんだぞ?」
「なんだ、今更俺の伴侶でいることに嫌気がさしたのか?」
そう言った自分の声音が甘く柔らかで、ケレンは思わず自嘲してしまった。どうなのだと彼を振り向けば、そんなわけないだろうと頬に甘やかなくちづけを落とされた。
「お前がもし子が欲しいとは言っても俺には与えてやれないし、手放してやれない。それでもいいのか?」
「その言葉をそっくりそのまま返すよ。俺はお前の子を産んではやれないぞ?」
揶揄したつもりで、ほんの少しだけ胸が痛んだ。ヨルドに選ばれて、これ以上ないくらいあいされていることがうれしい。その反面、同世代の令息たちに子が産まれるところを見るたびに、このしあわせだけは与えてやれないのが悔しかった。ケレン自身はヨルドがいれば子がいなくとも充分だと思っている。ただ、何度身体を繋げてどれほど愛を注がれようとも、ヨルドの子を孕めないのがほんの少し寂しいのだ。
「そんなこと思っていたのか」
「少しだけな。俺はヨルドがいればそれでいいんだ。お前が傍にいてくれされすれば。でも、お前の世継ぎを産んでやれないことは悔しい」
「世継ぎが必要なのはお前の方だろう、ケレン。俺はお前の傍に一生仕えられたらそれでよかったんだ。お前が俺をすきだと言ってくれるだけで充分過ぎる」
そう言うヨルドの声がじんわりとした甘さを含んでいた。身体を彼の方に向けて、柔らかな笑みを浮かべるその頬を両掌で包み込んだ。いとおしげな視線を享受して、これでよかったのだと思う。少し背伸びをしてその唇を啄めば、強い力で掻き抱かれた。
「ケレン、お前が不安になるたびに何度だって誓う。お前がいれば、俺は一生しあわせだ」
甘い声を零した唇が瞼へと落ちてきた。触れ合う部分から溢れ出る幸福に笑い合いながら柔らかなくちづけを交わす。ヨルドはケレンの不安を取り除く天才だ。彼が傍にいてくれたら、ケレンの方こそ一生しあわせが続くだろう。
「あいしてる、ヨルド。末永く共に生きてくれ」
ああ、と応える彼の声音がうれしさを噛み締めるように震えていた。少し泣きそうな表情がいとおしくて、思わず笑みが零れる。これから先もずっと、この男と生きていきたい。誰もが望むしあわせでなくてもいい。
これがまさに夢にまで見た最高のハッピーエンドだ。
のちにライオネルの呪いに関する本が書かれ、そこには皇太子とアメリアの恋物語のほかに、かつての悪役令息と護衛騎士の甘やかな恋の物語がしたためられた。それが令嬢たちの間で話題になるのだが、それはもう少し先の話だ。
その物語はおとぎ話と同じようにしあわせな結末を迎える。
こうしてふたりは末永くしあわせに暮らしました。
めでたしめでたし。




