第七章
がくんと頭が膝の間に落ちて意識が浮上した。どうやら眠っていたらしいと顔を上げると、ぼんやりとした視界の先に崩れた石積みと折れた鉄の棒が見える。その周りに広がるのは広大な野原だ。
なんだか、しあわせな夢を見ていたような気がした。ヨルドと恋人同士になって、それなりに穏やかな日常を生きていた。もう二度と目覚めなければいいのにと願うような、しあわせで残酷な夢。けれどそうであるのなら、ここが幽閉された塔の上でなければならない。こんな穏やかな野原のど真ん中であるはずがないのだ。
「気がついたか?」
一体ここはどこだろうと考えるケレンに応える声があった。そちらに視線を向ければ、同い年くらいの少年が崩れた瓦礫を椅子代わりにケレンを見つめている。
「あなたは、?」
「もうひとりの皇子と言えばわかるだろうか。きみがこうなったのは僕のせいでもある」
申し訳なさそうに眉を寄せる顔はどことなくライオネルに似ていた。もしかして、彼が皇太子に成り替わろうとしていた闇の正体なのか?それにしては傲慢さの欠片もないし、どことなく気弱そうに見える。先ほどまで対峙していた強靭な闇の魔力とは、いちばん縁遠い存在のように思えた。その上、彼は至って普通だった。真っ黒でもないし、ちゃんとした顔も声もある。
「あなたがあの闇の正体だと?」
「信じられないのも仕方がないよ。僕は本来なら、生きているはずがないし」
たしかに彼の言う通り、死んでいるはずの彼とこうして向き合っているのはなんとも不思議な気分だった。普通に考えればケレンも死んだのだということになる。ヨルドが斬り祓った闇がこちらへ向かってきて、それからどうなったのだろう。
抱き寄せてくれる彼の力強い腕の感触を思い出した。たったひとり、ここに辿り着いたということはヨルドは無事なのだろうか?心臓の裏がひやりとした。彼が生きていてくれさえすればそれでいい。けれどあの状況でそれを望むのは酷だろうか?
「ここはどこなのです?随分と不思議な場所ですが」
「僕が作った世界、とでも言えばいいかな。闇が祓われるまではもっと殺伐とした場所だった。きみは一時的に僕の中に取り込まれたんだ」
「ああ、あのときに、」
「大丈夫、きみの身体は生きている。おそらくはきみの大切な彼も」
ケレンの考えを読んだのか、彼が薄く笑ってくれた。その笑みに安堵と驚きが入り混じった複雑な感情を噛み締めながら、ケレンはこの不思議な世界を見回してみる。野原と青空が見渡す限り広がるだけの空間には、ケレンたちがいる建物の残骸らしき場所以外はなにもない。ただただ穏やかな世界だったので、彼が闇と決別したことはたしかなのだろう。
「あなたはずっとライオネル殿下の中にいらっしゃったのですか?」
「そうするしか他に方法がなかったからね。僕は兄の心の隅っこでただただ闇に怯えていた。だがきみの魔力に気づいたことで、兄の心に渇望が生まれたんだ。きみの魔力で呪いを解いてほしいという渇望がね。それが闇に魅入られる原因になった。闇は人の欲望を喰って強くなる。それで僕も取り込まれてしまったんだ」
「ライオネル殿下の心は生きていらっしゃるのですか?」
「兄の心は無事だ。最後の方は僕なのか兄なのか区別がつかなかったけれど」
「俺のことを婚約者にすると言ったのはなぜなのです?」
「きみの力を欲するあまり、きみ自身を手に入れようと躍起になっていたのだと思う。闇が祓われた今はよくわからないんだ。きみとテディ子爵令息には申し訳ないことをした」
悪かったと頭を下げられると気が抜けてしまった。あんなに恐れや怒りを抱いていたはずの対象は、今や見る影もない。すべては皇妃がかけた呪いのせいなのだ。そうとわかれば彼を責める気にもなれず、つい溜め息が漏れた。それに肩を揺らした男に、許してはもらえないのかと揺らぐ瞳を向けられた。それがちっとも皇子らしくなくておかしい。
「あなたのせいではないのでしょう?ほら、顔を上げてください」
「ああ。きみは優しいんだな。テディ子爵令息が夢中になるのもわかる気がする」
「わからなくていいですから」
「随分と敵意を向けられたことを覚えているよ。だからきみのことが気になってしまったのかもしれない。あの男は美丈夫で令嬢たちからも人気だったろう?それなのにきみ以外見えていないようだった。その感情が羨ましかったのかもしれないな。僕には縁遠いものだから」
「俺の魔法でなにをしようとしていたんですか?すべて元に戻せるとおっしゃっていたでしょう?」
男が寂しそうに笑うのでケレンは話題をそらした。つい現実世界では存在できない彼に同情しそうになったからだ。
「ああ、そうだった。僕をなかったことにして欲しいんだ」
「なかったことに?それはどういう、」
「きみの回帰の能力はすべてを存在しなかった頃まで戻せる。兄の呪いはテディ子爵令息が斬り祓ったが、僕は縫い止められた魂だからね。本来なら今頃は新しい命になっているはずだった。僕を失いたくなかった母の気持ちもわからなくはないが、兄の身体にいつまでも居候しているわけにもいかないだろう?」
ひと思いにやってくれと両手を広げられると正直困った。ケレンは自分の魔法をそれだと意識して使ったことがないのだ。癒しの魔術は防御や攻撃の魔法とは違って呪文を必要としない。己の魔力を相手の身体へと流し込んで、傷や病の原因となっている部分を探り出して癒す。ケレンの魔法は傷や病を負う前に身体の状態を戻せるのかもしれないが、魂を元居た場所へ還すのとはわけが違う。
「どうかしたか?」
ケレンがなにもせずにいることに痺れを切らしたのか、彼が不思議そうに首を傾げた。ここは正直にやり方がわからないと告げるしかないだろう。ケレンの魔法を手に入れようとしていた彼ならば、正しい魔力の使い方を知っているかもしれない。
「どうしたらいいのでしょう?実は怪我を治したことくらいしかなくて」
「同じようにしたらいい。僕の核を消し去ればいいんだ」
「本当によろしいのですか?」
あまりに淡々としていたので、ついそう問うてしまった。闇を消し去ることには躊躇がなくとも、自我を持って話している彼を簡単に消してしまうのにはどうしても抵抗がある。意外そうな表情を浮かべた彼に、やはり優しいなと笑われた。その表情はライオネルによく似ている。
「次は僕だけの名と身体を持って生まれたい。これはそのために必要なことだ。僕が消えれば自ずとこの世界も消える。元の世界に戻れることを願うよ」
そう言った表情があまりにも晴々しかった。さぁ、と差し出された手はひんやりとして、生きている人間のものではなかった。空っぽの彼の身体を魔力で満たしてゆくと、彼が核と呼んだ場所が少しずつ浄化して溶けていくのがわかる。微かに光り輝きながら実態を失くしていく彼はほっとしたような穏やかな表情をしていた。
「ありがとう。またいつか」
最後にその言葉だけが残った。今さっきまで彼がいた場所にはなにも残っていない。たったひとりきりになってしまった寂しさが俄かに湧き上がってきた。話しているうちは気にならなかったが、ここはいやに静かだ。耳を澄ませてみてもケレンの息遣い以外は聞こえない。
果てなく続きそうな世界の端が崩れて消えていくのが遠くに見えた。あれがここまで迫ってきたら自ずとケレンも自我を保てなくなるのだろう。彼は元の世界に戻れると言っていたが、それまでの間どのくらい孤独に耐えればいい?
「ヨルド、」
ぽつりと零した声が静寂に吸い込まれていった。抱えた膝に額を埋めて、ひたすらにヨルドのことを想う。彼は今無事でいてくれるだろうか。向こうの世界で目覚めないケレンを心配してくれているのなら、早く戻ってやらなければと焦る。けれど同じように目覚めないまま、その魂の行方が不明だったら。そう考えると胸の奥が苦しくて、泣きそうになるのを怺える。
どれほどそうしていたのだろう、ふと耳にケレンの名を呼ぶ声が聞こえた。思わず顔を上げて耳を澄ませると、たしかにいとおしい男の声がする。立ち上がって声のする方へと向かって駆けていくと、向こうの方から向かってくる影が見えた。その姿が鮮明になるにつれ、生きていてくれた安堵に涙が溢れ出そうになった。こちらへと駆け寄ってくるヨルドを何度も呼んで、泣きそうになるのを懸命に怺える。泣いている場合ではない。わかってはいるのに、どうしても涙腺が弛んでしまう。
ようやく彼の元へと辿り着いて、不確かな地面を蹴って彼に向って飛んだ。その胸に飛び込むと、慌てたように抱き留めてくれたヨルドがバランスを崩してうしろへと倒れた。
「悪い、大丈夫か?」
倒れたときの痛みがなかったのはヨルドが庇ってくれたから、というより現実世界ではないからだろう。それでも起き上がって謝ると、大丈夫だと再び抱き寄せられた。ヨルドの身体の感触も曖昧で不確かだったが、それでも抱き寄せてくれる腕の強さは間違いない。
「お前もここにいてよかった。てっきりひとりきりになってしまったかと思った」
「ああ、目覚めたらこうして原っぱの真ん中に倒れていた。ケレンは?」
「俺は向こうにある崩れた瓦礫のところで、もうひとりの皇子に逢った」
「なにもされなかったか!?」
ヨルドが起き上がって険しい表情を浮かべるので、ケレンは思わず笑ってしまった。されなかったと言って頬に手を伸ばすと、その手に頬を摺り寄せてくるのがかわいい。彼の掌がケレンの手を包むと、じんわりとした体温が伝わってくる。
「お前が無事でいてくれてよかった。闇に呑まれたとき、ケレンを失うんじゃないかと怖くてたまらなかった」
それはこちらのセリフだと思ったのに言葉にならなかったのは、そのときのヨルドの恐怖が痛いほどよくわかったからだった。俺もだとようやく声を絞り出すと、泣くなよと彼の指に眦を撫でられる。そうされて初めて涙が溢れていたことに気づいた。先ほどどうにか怺えきったつもりだったのに、ヨルドを失う恐怖がぶり返したせいで、ついに零れてしまったようだ。涙を舐めとるヨルドの舌がくすぐったい。思わず笑い声を上げて身を捩ると、きつく抱き寄せられてわざとらしくしつこくされた。こうやっていつまでも笑い合っていたい。
ふいに地面が揺れた。どうやら本格的にこの世界の崩壊が始まったようだ。音もなく静かに崩れていく世界が、真っ白な空間に飲み込まれていくのが見える。ひとりでいたときは随分と遠く感じたそれは、案外と早くここまで辿り着きそうだった。
表情を引き締めたヨルドに強く抱き寄せられた。崩れていく世界を睨みつけながら、どうにかしてケレンを護る方法を考えているのがわかる。その頬を揶揄するように摘まめば、面妖な顔をして見返してくるのが面白い。
「そんな怖い顔してどうするんだ、ヨルド。どうせこの世界はもうすぐ滅びるんだぞ」
「ケレンこそどうしてそう余裕でいられるんだ」
「さっきもうひとりの皇子と話したんだ。俺たちは闇に飲み込まれただろう?それで彼が作ったこの世界に取り込まれてしまったらしい。この世界が消えたら元の世界に戻れると言っていた」
「それを信じたのか?」
「ああ。俺とお前は生きていると言っていた。俺はその言葉を信じたい。お前が生きていてくれるなら、俺はそれで充分なんだ、ヨルド」
「まるで自分は死んでもいいみたいな言い草だな。お前がいない世界で生きる意味があるって言うのか?」
責めるような声音がケレンの心を刺した。また泣きそうになるのを怺えるように唇を噛むと、ヨルドが悪かったとバツが悪そうな顔をして口端にくちづけをくれる。もしかしたら、触れ合えるのは最後かもしれない。そう思って、強請るように彼の首へと腕を絡めた。けれどヨルドは少し寂し気な笑みを浮かべて、生きて戻れたらと言う。
「戻れるかわからないから、してほしいのに」
「馬鹿を言うな。あの男の言うことを信じるんだろう。だったらふたりして元の世界に戻ろう。そうしたら、お前が音を上げるまでキスしてやる」
「約束するか?」
「約束する」
ヨルドの笑みが柔らかで自信の満ちたものに変わったので、ケレンはその言葉を信じることにした。すぐそこまで迫った光がふたりを飲み込まんと口を開ける。しっかりと抱き寄せてくれるヨルドにしがみついて、強い光に飲み込まれていく。
どうかヨルドだけは、と強く願った。ケレンの命と引き換えらえるのならば、それでもいい。だから、ヨルドだけは助けて欲しい。
だからどうか。
そう、願ったことまでは覚えている。
次に目覚めたとき、ケレンはベッドに寝かされていた。ぼんやりとした視界の先には泣きそうな顔をしたアメリアが座っていた。声をかけようと口を開いても、掠れた声しか出ない。それでもケレンが目を醒ましたことに気づいた彼女が、慌てたように部屋を出ていく。
それからばたばたと父や母や弟たちが集まってきて、ケレンは病み上がりにも関わらず涙を浮かべた家族に次々と抱き締められる羽目になった。あとで聞いたところによると、父の横領疑惑はライオネルの呪いが解けたことにより終焉を迎えたらしい。エスクアの活躍により何人かの実行犯が炙り出されブラッドリー伯の関与も明らかになったが、すべてはライオネルが闇に支配された結果の気の迷いだったということで収まった。内々に処分を下された伯爵は家督を息子に譲ることで伯爵家の体裁を保った。ケレンが眠っていた間の出来事だったので、ブラッドリーの弁明ができなかったことが少々悔やまれたが、見舞いに来た彼は晴れ晴れとした顔で気にすることはないと笑ってくれた。当主が代替わりしたことで、犬猿の仲だった侯爵家とも和解できたと喜んでくれていた。
言い渡された療養期間が明けると、すぐにケレンはライオネルの元を訪れた。
「病み上がりのところ呼び出してすまない。まだ自分の身体だという感覚が薄いのか、上手いこと動けなくてな」
ベッドの上で身体を起こしたライオネルが申し訳なさそうな表情を浮かべた。傍についていたアメリアが心配そうに細々と世話を焼いている。アメリアは治療にあたるうちにすっかり彼と打ち解けたのか、最初の頃のとげとげしい態度は鳴りを潜めていた。今も日に何度か治癒魔法をかけるために皇宮へと通っている。
「身体の調子はどうだ?」
「すっかりよくなりました。アカデミーにも近々復学する予定です」
勧められた椅子に座ってそう答えると、ライオネルがそうかと表情を弛めた。それからすぐに思い当たったのか、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「テディの容態はどうだ?まだ目を醒まさないのか?」
「これから起こしに行くところです」
深刻な響きにならないように努めて明るい声を出した。笑ったつもりの頬が引き攣っているのはご愛敬だろう。アメリアが気持ちよさそうに眠っているから、と笑ってくれたのがケレンの心を少しだけ軽くする。彼女はケレンが眠っていた間ずっと、ふたりに治癒魔法をかけ続けてくれていた。誰よりもふたりの状況をわかっている彼女がそう言うのだから、その言葉を信じるほかない。
あのあと、ふたりを飲み込まんとした闇はアシェルが放った魔法に囚われ、アメリアによってヨルドの剣へと封じられたそうだ。その剣は今、保護魔法をかけられて厳重に保管されている。アシェルが国に戻る際に持ち帰り、皇妃が葬られている墓の傍に祀ることになっていた。その話を聞いたケレンは、母の傍で眠れるのなら彼も安心だろうと思った。そこに彼の魂は封じられていないが、それを形代に戻る目印になるかもしれない。
ケレンは三日の間目を醒まさなかったらしい。そのあとしばらく安静を言い渡され、ようやく今日、ライオネルの呼び出しに応じることができている。ヨルドが庇ってくれたおかげか、闇に呑まれた影響はほとんど身体に及んではいなかった。治癒に当たってくれた魔術師の話を聞きながら、ヨルドの魔法が護ってくれたのだという確信を強めた。そのおかげ順調に回復したケレンとは違い、一方のヨルドは未だ眠り続けている。
説明を求めるケレンに、魔術師たちはヨルドの方が闇の影響力が強かったのだろうという見解を寄越した。ケレンを護るために自らの魔力を解放したため、自分への防御が手薄になったのでしょう。帝国随一の魔術師集団にそう言われたら、ケレンに反論する余地はない。
意図して魔法を使うことはできないくせに、いつだってヨルドはケレンを護ってくれようとする。その魔法の原理がどのようなものであるのかは、魔術師にもわからない。ケレンを想うひたむきなヨルドの気持ちがケレンのことを護っている。いつかアシェルの言った言葉が本当であるのなら、ケレンのひたむきな想いもヨルドを護っていてほしい。
「お前たちには本当に申し訳ないことをした。わたしにできる限りの償いはさせてもらいたい」
今日顔を合わせてからずっと申し訳なさそうな様子のライオネルは、なんだか見慣れなくて困る。ほとんど闇に呑まれていたようだから、彼自身の人格と相まみえるのはほとんど初めてではないだろうか。本来の彼は民のことを慮ることができる、よい皇子なのだろう。それこそ、不幸なヒロインを救い出す、ヒーローのような。
ケレンは微笑んで、そんなことはないと弁明した。闇を封じたことで彼を恐れる気持ちも、憎む気持ちも残ってはいない。
「殿下のせいではありませんから。わたしを婚約者に望んだのも、呪いを解きたいという渇望を闇に利用されたからなのでしょう?」
「おそらくそうなのだろう。そのときにはわたしは奥へと追いやられて、誰かがこの身体を動かすのを見ていることしかできなかった。あれがなにを考えていたのかわたしに知る術はない。だが、お前がわたしから逃げるためにテディを恋人にしたのは面白かったぞ。まぁ、あの男は最初からお前に惚れていたのだろうが」
ふむ、と考えるようにライオネルが顎に手をやった。言われた通りであるとはいえ、冷静なライオネルに観察されていたのだとわかると妙に恥ずかしかった。あのときはまだ恋人同士のふりだったが、今は違う。
「一介の騎士よりも皇太子の方がいいだろうに。お前も相当テディに惚れているのだな」
「ケレンとヨルドは幼い頃から想い合っていたのです、殿下。ケレンは大分それに気づかずにいたようですけれど、傍から見ればヨルドがケレンのことを特別に想っているのはみんなわかっていましたわ」
「そうなのか。それは、恋路を邪魔するような真似をして申し訳なかったな」
「殿下、謝らなくていいですから、」
たじたじになってそれだけ絞り出したケレンに、アメリアが揶揄するような笑みを寄越した。純粋に申し訳ないと思ってくれているライオネルには申し訳ないが、彼が闇に呑まれてあんなことを言い出さなければ、ヨルドと恋人同士になろうとは思わなかった。色々と危ない目には遭ったけれど、そこだけは感謝しなければならない。
アメリアにヨルドの元へ行くのだろうと促されて部屋を辞した。
以前は闇の気配に支配されていた皇子宮も今や清浄な空気に包まれている。魔術師たちも出入りができるようになったので、アメリアの負担も大分軽くなったのだろう。おかげでケレンはアメリアの治癒力を貸りて早急に回復することができたし、ヨルドも死なずに済んでいる。
「随分殿下と気安くなったんだな」
「毎日顔を合わせているのだもの、自然にそうなるわ。それに婚約しようと言われたの」
アメリアがなんでもない風に言うものだから、ケレンはつい足を止めてしまった。数歩先でこちらを振り向いた彼女に、なんて顔をしているのだと笑われる。
「いや、つい驚いて、」
「ケレンが望んだとおりになったじゃない。喜んだらどう?」
「受けるつもりなのか?」
「ええ。わたしは隣国のお姫様だしね?」
「言わなかったことをまだ怒っているのか?」
恐る恐るそう言ったら、アメリアの笑みが深くなった。どうやら怒っているわけではないらしいが、当て擦りたい気持ちが透けて見える。賢い彼女のことだから、ケレンがなにを言ってなにを言わなかったかくらいのことは察してくれていたのだろう。それでも色々と思うところはあったらしい。
「わたしも日記で知ったことをあなたに言わなかったのだからお互い様だわ。でも、ヨルドやブラッドリーには話していたのに、わたしには教えてくれなかったことが、なんだか仲間外れにされているように感じただけ」
「それは、悪かった」
思わずそう謝ると、悪いとも思っていないのでしょう?と苦笑われた。それに面食らいながら、たしかに悪いとは思っていない。あのときはあれが最善だと思っていたし、アメリアを仲間外れにしたつもりもなかったからだ。
「婚約おめでとう、アメリア。きっとしあわせになれる」
「ええ、わたしもそう思うわ」
結ばれてしあわせそうに踊るライオネルとアメリアの姿が目の前に浮かんだ。あの本の中でケレンを断罪したあと、ふたりのハッピーエンドを描いたシーンだ。それをあの本のケレンは見ることはなかったが、今世ではきっと見ることができるだろう。
そのとき、隣にはヨルドがいて欲しい。
「大丈夫よ、ケレン。ヨルドはきっと目を醒ます。あなたが起こしてくれるのを待っているのよ」
「そう思うか?」
「ええ。それに、眠りを醒ますのはいつだって王子さまの魔法のキスだもの」
「本気で言っているのか?おとぎ話じゃないんだぞ」
「あら、騙されたと思ってやってみたら?あなたには呪いを解く力があるもの」
アメリアは笑っていたが、至極真面目に言っているようだった。行こうと促されて再び歩みを進めながら、たった今彼女に言われたことを思案していた。彼女が確信めいてそう言うのだから可能性はあるのだろう。もしかしたら彼女が読み漁っていた本のどこかにそんなことが書いてあったのかもしれない。
ヨルドは皇子宮からほど近い、来賓用の宮の一角に寝かされていた。そこは魔術師たちの詰め所からも近く、療養するには持ってこいだと、エスクアが取り計らってくれたそうだ。部屋の前に立っていた騎士がアメリアを認めて頭を下げた。ケレンのことも耳に入っているのか、アメリアについて部屋に入っても特に咎められることはなかった。
「様子はどうですか?」
「恙無く。深く眠っていらっしゃいます」
アメリアの問いにベッドの傍にいた魔術師がそう頭を下げた。丁度治癒が終わったところだったらしく、入れ違いに部屋を出ていく。アメリアに促されてベッドへと近寄ったケレンは、思っていたよりもずっとヨルドの顔色がいいことに安堵した。本当に深く、気持ちよさそうに眠っているだけに見える。
「ヨルドの身体に闇の気配は残っていないわ。特に命に係わる損傷も受けていない。ケレンが診たらもう少しわかることがあるかもしれないわ。ヨルドの治療にかけてはあなたの横に出る者はいない。でしょう?」
ケレンを元気づけるように、アメリアがそっと肩を抱いてくれた。その優しさに礼を言って、泣きそうになる自分を叱咤する。ライオネルに打ちのめされたときも、こうして不安に駆られながらヨルドの寝顔を眺めていた。あのときと違うのは、この身体にケレンがありったけの魔力を流し込んでいないことくらいだ。
「少しふたりにしてもらってもいいか?」
「ええ、もちろん。外で待っているから、なにかあったら声をかけて」
アメリアが出ていくと、締め切られた部屋の中はふたりだけの世界になった。室内の空気がやけにひんやりと感じるのは、ここに生きている人間の気配がないからかもしれない。そっと触れたヨルドの手はいつもよりも温度が低い。ぬくもりを移すように握り締めると、そっと魔力の枝を彼の体内に向かって伸ばしてみる。
アメリアが言っていた通り、ヨルドの身体に闇の気配は感じられなかった。特に弱っているところも傷ついているところもない。先ほどまで治癒魔術師が治療にあたってくれていたからか、体力も弱っていないようだった。これではケレンの出る幕はない。
不意に恐怖が足元から迫り上がってきた。成す術もなくこのまま、ヨルドの目が醒めなかったら?身体に異常もないのに、目を醒まさずに眠り続ける事例はいくつもある。それにケレンはあの本の中にあった絶望を今たしかに感じていた。それを二度と味わいたくなくて、ヨルドのことを救いたくて、ここまでやってきた。それなのになんというざまだろう。
眠っているのが自分の方であればどんなによかったか。
「でも、そうだったら、お前は自分を許せなかっただろうなぁ」
ぽつりと零した声が静寂に吸い込まれていった。そっとベッドに乗り上げて、ヨルドの胸に耳を押し当てる。規則正しく動く鼓動の音に、酷い安堵を覚えた。そのまま彼に寄り添うように身体を丸めた。ヨルド、と呟く名前に返る声はない。
ふと、ヨルドがキスに願掛けをしていたことを思い出した。元の世界に戻ったらケレンが音を上げるまでキスをくれると約束してくれた。戻ってきたぞと、語りかけても、それに反応してくれるヨルドがいない。こんなことならあのときキスしてもらえばよかった。それでもケレンはあのときの、ヨルドの言葉を信じたのだ。
ふいに、騙されたと思って試してみたら?と笑った、アメリアの声が聞こえた。顔を上げて安らかなヨルドの寝顔を見つめる。試してみる価値はあるかもしれない。そう思って彼に覆い被さった。いつも押し倒されてばかりなので、こうして見下ろすのは新鮮だ。その目が開いて見つめ返してくれたら、もっといいのに。
「ヨルド、俺をひとりにしないでくれ」
ぽたりと、彼の頬に雫が落ちた。ケレンの目から零れた涙が彼の頬を伝ってシーツへと落ちる。いつものように泣き虫だと笑って、少し硬い指に涙を拭ってほしかった。この唇に眦を啄まれるくすぐったさに笑い転げたい。
指先で触れるヨルドの唇は少しかさついていた。起きている彼にそんなことをしたら、ケレンの手を掴んで指先にくちづけてくるに違いない。ヨルドに逢いたかった。そう願う心が握り潰されるように痛い。早く目を開いて、なんて顔をしているのだと笑いかけて欲しい。
そう願いを込めて、そっと唇を重ねた。初めてというわけでもないのに、随分とぎこちなくなったキスをひとりで笑う。アメリアの言葉を真に受けて、行動に移した自分が馬鹿らしく思えてきた。そのままヨルドの胸に頬を預けていると、不意に彼の鼓動がひと際力強く鳴るのがわかる。
「ヨルドっ!?」
慌てて身体を起こすと、ヨルドが先を越されたなと笑っていた。伸びてきた指に涙を拭われて、ぼろぼろと涙が止まらなくなる。ぎょっとしたヨルドが慌てたように、起き上がってケレンを抱き寄せてくれた。思わずその身体に縋ってしまってから、彼が病み上がりだったことに思い当たった。もう少し休んでいた方がいいとわかってはいるのに、離れたくない。
「そんなに泣くなよ。ついさっきまで一緒だっただろう」
「馬鹿を言え!一週間以上眠ったままだったんだぞっ!」
ケレンの言葉にヨルドが目を丸くした。つい怒鳴ってしまったことを謝れば、心配かけて悪かったと詫びられてしまう。ヨルドのせいじゃないと弁明して、身体は大事ないかと問うた。いくら鍛えているヨルドとはいえ、しばらく寝たきりでいたら体力だって落ちているはずだ。
「少しだるい感じはするが、特に具合が悪いところはないと思う。お前の方は大丈夫なのか?」
「ああ、俺はもう平気だ。ライオネル殿下も恙無く回復されている。闇の方も問題ない」
「俺だけがなにも知らずにずっと眠り惚けていたのか?」
「お前が悪いわけじゃない。身体に異常がないか診てもらおう。人を呼んでくる」
そう言って離れようとしたケレンは、気づいたらヨルドに見下ろされていた。病み上がりのくせに力強い腕に抱き寄せられて、ベッドへと押し倒されてしまったのだ。微かな笑みを浮かべた唇がケレンの眦を啄んだ。それは思った通りにくすぐったくて、ああヨルドがいると笑う。そう感じたらまた涙がじんわりと滲みそうになったので、慌てて目を瞬かせた。ケレンはよくヨルドに泣き虫だと笑われるが、自分でもここまでだとは思っていなかった。涙は哀しくなくても出るけれど、どうやら今日は涙腺が壊れてしまったらしい。
「お前の泣き顔を他の男に見せられるわけないだろう。泣き止むまでここにいろ」
「それほどひどい顔をしているか?」
「お前、本当に自分のことがわかっていないな。お前がか弱く泣いているところに出逢ってみろ、懸想されたら困るだろう」
ヨルドが大真面目にそんなことを言い出すので、思わず涙が引っ込んだ。相変わらずケレンに対して過剰なほどに贔屓目な彼こそが、ケレンがいとおしくてやまない男なのだ。
「誰もそんなこと思うわけがないだろう。お前が変なこと言うから涙も引っ込んだ」
「いいや、お前が無頓着なだけだ。そんなかわいい顔、誰にも見せたくない」
真摯な瞳でそんなことを言われて、ときめくなという方が無理な話だった。お前こそ、自分の容姿がいかに整っているかをわかっていない、と詰ってやりたい。それでも、ケレンは観念することにした。満足そうな笑みを向けられてしまうと、もう少しこうしていてもいいような気さえしてくる。
「テディ子爵やアメリアだって心配していたんだぞ」
「少し眠っている時間が長くなったところで支障はないだろう。それに、俺が安心させてやるべきなのはお前だ、ケレン。もう二度とそんな思いはさせないと誓ったのに」
「俺を庇ったせいでこうなったんだ。だからお前のせいじゃない。それに戻ってきてくれただろう?」
「当たり前だ。お前を残して逝けるわけがない。ただ、変な夢を見ていた気がする」
「変な夢?」
「お前と白い光に包まれたあと、俺はどこか別の場所にいた。牢のようなところで、そこにケレンが蹲っていた」
よほど感情が顔に出ていたのか、知っているのかと言いたげな瞳に見下ろされた。それはヨルドには話していない、あの本の中のケレンに違いなかった。ヨルドは戻ってくる最中にもうひとつの、あったかもしれない未来の方へと迷い込んだのかもしれない。あの世界のヨルドはライオネルの返り討ちに遭ってもうこの世にはいないはずだ。
「逢ったのか、もうひとりの俺に」
「ああ。生きていたのかと言われて、この世界の俺は死んだのだとわかった。もうひとりのお前は俺があっちの〈ヨルド〉ではないことにすぐに気づいたようだった。それで、すぐに戻れと言われたんだ」
「それで戻ってこられたのか」
「たぶん、あっちのお前が戻してくれたんだと思う。もうひとりの俺をしあわせにしてくれと言われた。そうすればこの未来は消えるからと」
淡々としながらも柔らかな感情が籠る声を聞いて、思わずその身体を抱き寄せていた。この男が今無事に生きていてくれることがその答えだった。もうあんな未来は来ないし、彼の死を嘆き哀しむケレンは存在しない。抱き返してくれたヨルドが微かに笑う気配がした。しあわせにすると耳元で囁かれると、じんわりとしたいとおしさが、そこから身体中へと広がっていく。
身体を縫い留められるように唇を奪われた。触れて離れるだけのケレンのぎこちないくちづけとは違う、柔らかで優しい、心をくすぐるようなキスだった。強請るように下唇を食まれて唇を弛めると、その隙間から舌をねじ込まれる。吐息を奪うような深いくちづけの、触れ合う隙間から怺えきれない甘い声が零れてしまう。
扉の向こうにアメリアと護衛がいるというのに、久々のキスを拒むことができなかった。柔い唇に首筋をくすぐられてようやく、駄目だと力のない手でヨルドを押し返す。それをくすぐったそうに笑ったヨルドに約束だからなと鼻頭を啄まれた。
「そうだけど、今じゃないだろうっ!病み上がりのくせに!」
心を鬼にしてヨルドの下から逃げ出すと、逃すまいとする腕に絡め捕られてしまった。強請るように名前を呼ばれると心が絆されて、つい許してやりたくなってしまう。
「ケレン!入ってもいいかしら?」
中の問答の気配を察したのか、アメリアが扉をノックした。別の意味でケレンの鼓動が跳ね上がったことに気づいたのか、ヨルドが少々名残惜しそうに腕を解いてくれた。アメリアから急かすようにもう一度名前を呼ばれたところへ、慌てて返事をする。
扉を開けたアメリアが起き上がっているヨルドに気づくと、傍にいた護衛に人を呼びに行かせた。どうしてすぐに知らせないのかと言いたげな視線に晒されていると、なにもかも見透かされているような気がして居心地が悪い。もとはと言えば、ヨルドの言い分に流されたケレンが悪いのだ。
「随分と元気そうで安心したわ、ヨルド。ケレンに起こしてもらえてよかったわね」
にこやかな表情とは似つかない棘のある声音だった。目覚めないケレンとヨルドを心配してくれた彼女の気持ちを慮れば当然だ。ついヨルドと顔を見合わせると、彼も少々バツが悪そうな表情を浮かべていた。謝った方がいいだろうかと互いに思っていることがわかる。
「申し訳ありません、アメリア嬢。ケレンと再会できたことがうれしく、」
「拒まなかった俺が悪いんだ。流されてつい」
「まったくあなたたちったら、くっつくまではあんなにもだもだしていたくせに、くっついた途端にこれなんだから」
わざとらしい盛大な溜息と共にアメリアが頭を抱えた。ヨルドと視線を交わして微かな笑みを浮かべてしまえば、それを見咎めるように睨まれた。そうしているうちに部屋の外からこちらへと急ぐ足音が近づいてくる。
「とにかく、もう少し辛抱なさい。ヨルドはともかく、ケレンも病み上がりなのよ。それにもうあなたたちを邪魔する人はいないわ」
ライオネルの婚約者になるだろう彼女にそう言われると説得力があった。そうだなと大人しく同意して、入ってきた治癒魔術師に場所を譲る。
大人しく治癒魔術師の診察を受けているヨルドを眺めながら、すべて終わったことを実感した。ここから先、なにが起こるかはわからない。それでもケレンはヨルドを救うことができた。
それだけでもう、なにも言うことはない。




