第六章
アメリアの父であるアシェルは二週間の予定で只今帝国に滞在している。その間に帝国の魔術師たちと情報交流を行ったり、帝国のあちこちを視察して周る予定で、ブラッドリーから伯爵の名代として付き添うことになったと連絡が入っていた。彼の取り計らいでケレンたちもアカデミーでの意見交換会の際に面会することを許されている。表向きは侯爵家とアシェルとの交流を目的としていたが、それはブラッドリーがでっち上げた嘘だ。少々後ろめたいことに侯爵家としての身分を存分に活用することになったが、これは父の汚名を晴らすことにも繋がるので文句を言われることはないだろう。
話し合った結果、ライオネルの呪いに関してはケレンたちがブラッドリーと協力して調べ、父の横領疑惑についてはエスクアが対処してくれることになった。ブラッドリーからもらった書類は偽造の証拠としてエスクアに託してある。魔術師たちに調べてもらえば誰がどのような方法で偽造したのかがわかるらしい。
アシェルとの面会を明日に控えたケレンは侯爵邸の図書室に籠っていた。アカデミーの図書館には及ばないが貴重な蔵書が揃っている。皇妃のことや呪いのことなどを事前に調べておいた方が短い面会時間を有益に使えると思ってのことだったが、中々目ぼしい情報は見つからなかった。皇太子に呪いをかけた皇妃を歴史書に刻むわけにはいかないから、記述が見つかっても当たり障りのないことしか書いていない。呪いについても同様で、魔法書を何冊めくってみたところで無駄な時間を過ごしている気持ちになった。
「少し休憩したらどうだ?」
積み上げられた本に埋もれて机に突っ伏したケレンに、ヨルドが労いの言葉をかけてくれた。彼は指定した本を本棚から運んだり読み終わった本を戻したりしながら、成果がまったく上がらないケレンに根気よく付き合ってくれていた。ここにアメリアがいれば多少なりとも有益な情報が見つかりそうなものだが、ここ最近の彼女はずっとライオネルに付き添って闇を抑え込もうと奮闘している。眠らせ続けることには成功しているものの、皇宮内へと滲み出る闇の量は日々少しずつ増加しているようだ。
アメリアは自分が隣国の王女だということをまだ知らない。なにも知らずにアシェルと逢った方がよりよい再会になりそうな気がしたので言わないことに決めた。あのあとケレンはふたりからどうして知っているのかと問い詰められたが、父から聞いたのだと言って誤魔化した。ケレンに前世の記憶があることを話してもブラッドリーは信じなかっただろう。
「なにかいい情報は見つかったのか?」
ケレンがおざなりに開いていた本を覗き込んだヨルドがぺらぺらとページを捲る。それは隣国王家の家系について記された歴史書で、隣国の王立図書館に保管されている原本のコピーだ。王族が結婚したり子を産んだりすると自動で記される魔法がかかっており、帝国内ではアカデミーの帝立図書館の他にはここにしかない。歴代の王族たちがどのような人生を送ったのかも記されているが、皇妃については名前と帝国に嫁いだことしか書かれていない。この歴史書であってもこうなので、そう易々と他の情報が見つかるはずもないのだった。
「ケレン、ここにロックウッドの名がある」
そう言われて身体を起こした。ヨルドの指の先を見るとたしかにロックウッドの名が記されている。それは何世代も前の王に輿入れした皇女の名だったが、そんな話に聞き覚えはない。ロックウッドの名を持つ家門はひとつだけなので、ケレンと無関係というわけではなさそうだ。
「第三皇女か。うちの家系図を調べてみるか」
微かな手掛かりを掴んだような気配があった。俄然やる気が出てきて、家門の歴史が書かれた本がまとまっている本棚に向かう。該当の本を見つけると戻る手間を惜しんでその場で開いた。そこには何世代も前の皇子が権力争いに敗れたことでロックウッド侯爵を名乗ったと書かれていた。隣国に嫁いだ第三皇女は初代ロックウッド侯爵の娘で、都合のよい娘がいなかった当時の皇帝の頼みで皇室に養子として入ったようだ。皇女は沢山の子供に恵まれ、現在の国王陛下はその血筋に当たる。
「俺も一応皇妃と血が繋がっていたのか」
「ますますお前に釣り合わない気がしてくるな。皇室と隣国王室の血を引いているってことだろう?」
「血の繋がりと言ってもかなり薄いだろう。こんな話は初耳だし」
そう答えて、閉じた本を元に戻した。これで一応、ケレンの魔力がライオネルの呪いに有効であった理由がわかった。それにアシェルが謁見を許してくれたのはこういった事情を知っていたからかもしれない。ヨルドが言うように、ロックウッド侯爵家は皇室と隣国王室の血を引く由緒が正しい家門であるようだ。しかしケレンがなにも聞かされていないことを考えると、父もこのことを知らない可能性が高い。元々は皇室の分家筋だといっても、もう何百年も前の話だ。それを笠に着るような父ではないから、先代から聞いていたとしても気に留めていたとは考えにくい。
そんなことを気にしていたのかと振り返ろうとしたら、ヨルドにうしろから腰を抱き寄せられた。肩に額を押しつけられると、首筋に彼の髪が当たってくすぐったい。どうした?と彼の髪を撫でれば、返事をするような曖昧な呻きが返ってくる。
「ヨルド?腹でも痛いのか?」
「ケレン、どうしてアメリア嬢が隣国の王女だと知っていた?」
責められるような言葉の響きに、一瞬息をすることを忘れた。だからそれは、と弁明するように口を開いたところへ、ヨルドが言葉を重ねてくる。
「公爵さまはそのことをご存知なかった。いったい誰から聞いたんだ?」
逃さないと言うように、ヨルドの腕に力が籠るのがわかった。答えを請うような声に名を呼ばれると心の奥が苦しい。
いつから疑われていたのだろう。誤魔化しきれるとは思っていなかったが、いつだってケレンの言い分を信じてくれるヨルドだから、きっとケレンを信じて目を瞑ってくれると思い込んでいた。どうして、と声が零れる。
「勝手なことをして悪かった。お前がそう言うなら信じようとも思った。だが、俺だって馬鹿じゃない。アメリア嬢はお前の婚約者として侯爵家に来た。彼女が隣国の王女ならお前にとっても有益だったはずだろう?それなのに彼女とは婚約しなかった。男がすきだからと嘘まで吐いて」
「それはそうするしかなかったんだ。アメリアはライオネル殿下と結ばれた方がいい」
「なぜそう思う?皇太子殿下と出逢う確率は限りなく低いはずだろう」
問い詰められて言葉が詰まった。話したくない気持ちと、話してしまえばいいと思う気持ちがせめぎ合っている。どこからどう話せばいいのかわからなかった。アメリアに話したように悪い夢の話にして誤魔化そうか。けれどヨルドにだけは嘘を吐きたくない。
ケレンが言いたくないことは聞かないでいてくれる彼が、こうして問い詰めてくるのは珍しい。彼なりに考えてなにか思うところがあったのだろう。腰を抱かれている腕にはケレンを逃すまいとする意志が見てとれた。こうまでしている彼はきっと、誤魔化されてはくれない。
「そういえば、あの男が怖いと言っていたな。それとなにか関係があるのか?」
鋭いな、と素直に思った。学問は苦手なヨルドだが、騎士であるだけあって臨機応変の対応力に優れている。ケレンの動向は逐一覚えているし、身体能力と合わせれば結構な切れ者だ。そんな男を誤魔化しきれると考えていた自分がおかしかった。そう思ってしまえば肩の荷が下りて、ヨルドを前に緊張しているのが馬鹿らしくなってくる。
「はぁ、お前ってやつは、俺のことならなんだって覚えているんだな」
緊張が解けた身体をヨルドに預けると、彼が少々戸惑っているのが伝わってきた。突然ケレンの態度が軟化したので驚いたのかもしれない。
「話す気になったのか?」
「ああ、話すよ。全部話す。お前には言わないつもりだったんだけどなぁ」
ほどけた緊張を呼び戻すように息を吐いた。身体をヨルドの方に向けると、少し緊張している顔を見つめる。
「俺はアメリアがライオネル殿下と結ばれることを知っていた。だからアメリアと婚約するわけにはいかなかったんだ。婚約していたらアメリアを見初めた殿下に、あることないことでっち上げられて断罪されるとわかっていたからな」
「それはどういう意味だ?なんの話をしている?」
「俺には未来の記憶があるんだ、ヨルド」
ここが前世で読んでいた本の中だということはややこしくなるので割愛した。以前アメリアにした説明と同じように話せば、ヨルドの眉が不可解そうに寄っていく。いきなり未来を知っているだのと言われて、すぐに理解しろと言う方が無理な話だ。
「全部信じろとは言わない。ただアメリアと殿下が結ばれるのは確定条件だ。それさえ達成してしまえば殿下とは関わらずにいられると思っていた。お前をここまで巻き込むつもりもなかったし」
「ちょっと待て、ケレン。お前は俺が死ぬ未来を阻止しようとこんなことをしているのか?」
「そうだ。お前が死んだ夢を見て目醒めたとき、生きていてくれてどんなにうれしかったか」
「どうしてすぐ言ってくれなかったんだ。俺が自分が死ぬ未来を知って嘆くと思ったのか?」
「誰だって自分が死ぬ未来なんて知りたくはないだろう。しかも俺を庇おうとして無駄死にするんだぞ。そんなこと絶対にさせたくなかったんだ」
「はあ、道理で俺のことを護るとか生きていてよかったとか言われたわけだ。主に護られっぱなしじゃあ騎士の名が廃るだろう。勘弁してくれよ、ケレン」
ヨルドが重苦しい溜息を吐いた。どうやら理解はしてくれたようだが、ケレンが隠していた理由には少々不服そうだった。けれど同じ立場だったら、ヨルドだって絶対にケレンには話さないに違いない。ここでそれを言うと喧嘩になりそうだったので、ケレンは小さく謝るだけにとどめた。
「もう二度と俺に隠し事をするなよ。お前を護るのが俺の宿命なんだぞ。それに、お前を護って死ねるならこれ以上の栄光はない」
「馬鹿なことを言うな。俺はお前がいなくなったら嫌だからっ、」
「わかっている。誰も死ぬなんて言っていないだろう」
伸びてきた手に髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。泣きそうになるケレンを察して元気づけようとしてくれたのだろう。縋るように彼の胸に額を押し当てると、力強い腕に抱き寄せられた。このぬくもりを知ってしまった今、彼を失うことがなによりも怖い。
物語の筋書きが変わってしまったことで、ケレンは自らの行動が正しいかったのか計りかねていた。ブラッドリーやエスクアの協力を得て、物事は確実によい方向へと向かってはいる。けれどもし、アメリアが闇を抑え込めなくなったら?ケレンがヨルドを護るために行動してきたことのすべてが、裏目に出ているだけだったら?ふとした瞬間にそう考えてしまうのは、ヨルドにもうひとつの世界の話をしたせいだ。
せめてヨルドが、しあわせでいてくれたらいいと思う。こんなこと言ったらきっと怒られるとわかっているけれど、ケレンはこの際どうなってもいい。考えてみれば最初からそうだった。ケレンは断罪を回避すればヨルドを救えると思っていただけで、自分が生き残りたいとは思っていなかった。
そのことに、改めて気づいてしまう。
「大丈夫だ、ケレン。お前が怖がることはなにもないよ」
「ああ、そうだな」
「ところで、俺がお前のことすきだとわかっていたんじゃないのか?あっちの俺だってお前に夢中だっただろう」
突然場違いな質問を投げられて思わず顔を上げた。思ったよりも真剣な顔をしていたヨルドに思わず笑ってしまうと、ようやく笑ったなと彼も頬を笑みに崩す。揶揄するように、こつんと額をぶつけられた。自然と込み上げてくる笑みを噛み殺して、違うよと否定する。
「向こうの俺はアメリアに夢中だったし、ヨルドはあくまでも主に忠実な騎士だった。俺のことをそういう意味ですきだったのかはわからない。でも、きっとすきだと思うと言われたことならある」
「あっちの俺はきっと感情を殺すのが上手かったんだな。敵わないとわかっていてあの男に楯突くくらいなら、お前を攫って逃げてしまえばよかったのに」
少し寂しそうに笑ったヨルドに、もうひとりの彼が重なって見えた気がした。ヨルドが言うように、もうひとりの彼はケレンが幽閉されると決まった日、攫って逃げようとしたのかもしれない。なんらかの原因でそれが叶わず、ケレンと離れるくらいならと焦がれてやまない主のために命を賭けようと決めた。きっと敵わないことは最初からわかっていたのだ。向こうのライオネルは絶対的なヒーローで無敵に近い強さを誇っていた。傍にはエスクアも控えていただろうし、いくらヨルドであろうとも太刀打ちできる相手ではなかったはずだ。
思わず腕を伸ばしてヨルドを抱き締めていた。どうした?と問うてくる柔らかな声音に胸の内側が熟んでいく。もう彼にあんな思いはさせたくなかった。そしてケレンも二度とあんな想いはしたくない。
「もしアメリアがあの闇を抑え込むことに失敗したら俺と逃げよう。この国を出れば殿下の影響力は少ないだろう」
「おいおい、これからあの闇をなんとかしようってときに、お前が弱気になってどうするんだ。アメリア嬢を支えてやれるのはお前だけだろう?」
「もちろんやれることはやる。でもどうしようもないことだってあるだろう。そのとき、俺はお前を失いたくはないんだ、ヨルド。お前以上に大切なものなんてこの世界にない」
本の中で一度失敗しているケレンだからこそ、この計画が失敗したときの結末がより悪いものであることの予想がついていた。あの闇がライオネルに成り代わったあとの帝国で、彼はもっとも悪名高い皇帝と呼ばれるように違いない。そうなったって、ヨルドが生きてしあわせでいてくれさえすればなんだってよかった。隣に自分がいなくたっていい。彼を助けられるのなら侯爵令息の地位も財産も名誉もいらない。ヨルドはなににも代えがたい大切な宝物なのだ。
「なにを言い出すかと思えば。そう思っているのがお前だけだと思うのか?俺はお前のためなら死ねる男だぞ?」
「ヨルド、冗談を言っているわけじゃあ」
「冗談じゃない。今ここであの闇をなんとかしなければ、一生付きまとわれる羽目になる。俺を生かす代わりにその身を差し出せと言われたら、きっとお前はやりかねない。俺はお前を誰かに奪われるつもりはないぞ、ケレン。お前にあいされる喜びは俺だけが知っていればいい。だからあの男をなんとかして、俺たちはしあわせにならなきゃいけない。そうだろ?」
「そう、だけど」
「なんだ、不服そうな顔だな」
ヨルドに苦笑われて、随分と酷い顔をしているのだろうなと思った。鏡で見なくともわかる。きっと今、ケレンは不貞腐れた顔をしている。逃げろと言っても絶対に逃げようとしないヨルドに腹立たしくなってきたからかもしれない。
「本当に駄目だとわかったらお前を攫って逃げるよ。でも、男には負けるとわかっていてもやらなきゃいけないときがあるんだ。大切なものを護るためにな」
ヨルドにそう諭されると、なんだかぐずっている子供みたいな気持ちになってきた。いちばん命が危ぶまれるのはヨルドなのに、彼に逃げずに立ち向かえと言われたらどうしたってそうせざるを得ないではないか。ますますむっとしてしまうところへ、ヨルドになんて顔をしているんだと両頬を柔く抓まれた。それで機嫌が直るのも子供みたいで悔しかった。わざとらしく痛がるふりをすればおかしそうに笑う。その笑みをこの先もずっと見ていたかった。
「全部終わったら俺のものになってくれ、ケレン。その言葉さえあれば俺はあの闇に太刀打ちができる気がする」
「もう全部あげたのに?」
そう言ったらヨルドの頬がいとおし気な笑みにとろけた。全部くれるのかとごちた唇が頬に落ちてくると、ケレンの頬も彼と同じようにとろけてしまう。強請るように彼の首に腕を絡めればようやく彼の唇が唇へと重なった。恋人同士だというのに、ヨルドはすぐに唇へ触れてはくれない。焦らしているというよりは、遠慮していると言った方が正しそうだ。いくら砕けた態度で接していようとも、彼はケレンに仕える立場なのだ。
こうして心も身体も明け渡しているのに、ヨルドはまだケレンが彼のものだという自覚が薄いのだろうか。彼を知ってしまったこの身体は、もう他の誰にも開くことはない。叶うことならヨルドが欲しがるものを全部差し出してやりたかった。格好悪いところも全部さらけ出して彼だけのものになりたい。そうして、しあわせになれたらどんなによいだろう。
「ヨルド、全部終わったら婚約しよう。俺も全部お前にやるんだから、お前のこれからの人生は俺にくれたっていいだろう?」
照れ隠そうと思ったら、少し拗ねた口調になってしまった。恰好がつかないなぁと思っているところへ、目を丸くしたヨルドが少し泣きそうに顔を歪める。
それから泣きたいのを誤魔化すように笑った顔を、ケレンはきっと、ずっと忘れないのだろうなと思った。
アシェルとの謁見はアカデミーの応接室で行われることとなった。皇宮内や伯爵邸にケレンたちが入ることは難しいし、侯爵邸へ招くわけにもいかない。丁度教授たちとの会合のあとの時間だということもあって、ブラッドリーがアカデミー側と調整してくれたようだ。
国賓をもてなす場でもある応接室は、侯爵邸の応接室よりも随分と立派だった。その部屋でアシェルが来るのをヨルドと共に待ちながら、ケレンは時間が経つほどに緊張感が増していくのを感じていた。アシェルは只今教授たちとの意見交換の真っ只中なので、もう少しかかるとブラッドリーから連絡をもらっていた。約束の時間は過ぎていたが、よほど議論が白熱しているのだろう。アシェルはどうやら娘に似て勤勉な性格であるらしい。
アメリアは今日もライオネルの様子を見に皇宮へ行っている。毎日皇宮へと通い詰めている彼女のおかげで皇太子の様子は安定していると聞いている。彼の治療を終えてからこちらへ合流する手筈になっていた。
毎日疲れた様子で戻ってくるアメリアのことが心配でならなかった。彼女の魔力はピカイチだが、毎日高度な魔法を使い続けていたら流石に疲弊する。ライオネルの体力を回復するくらいなら手伝えるのではと申し出たが、闇が誘い出されるからと断られた。アメリアがライオネルの治療を買って出てくれているのは、皇太子のためである前にケレンを救うためだ。それに感謝しながら、こっそりと胸を撫で下ろしてしまったことに情けなさを覚えた。闇の気配が濃い皇宮内を思い返すと、自ら出向こうという気持ちがどうしても挫けてしまう。
「ケレン、顔色が悪いぞ」
ソファに腰かけて両手を握り締めていたケレンは、ヨルドにそう言われて顔を上げた。目の前に膝をついた彼に頬を撫でられると少しだけ緊張がほぐれる。心配そうな瞳に見つめられながら、大丈夫だと笑った。
「今にも倒れそうだぞ。本当に大丈夫か?」
「ああ。緊張しているだけだ。心配ない」
そう言ってヨルドの掌に擦り寄れば、ヨルドが不服そうにしながらも納得してくれたのがわかった。伸びてきたもう片方の手と合わせて両頬を包まれて、こつんと額同士がぶつかる。熱はないようだなと言われて、心配し過ぎだと笑った。
扉をノックする音を合図にヨルドが表情を引き締めて立ち上がった。ケレンも立ち上がって返事をすると、まずブラッドリーが扉を開けて入ってきた。彼が小さく頷くのを合図に頭を下げると、どうぞという声のあとで男がひとり入ってくる。
「アシェル殿下、こちらはケレン=ロックウッド侯爵令息。そのうしろにいるのが彼の護衛騎士のヨルド=テディ子爵令息です」
「お会いできて光栄です、アシェル殿下。ケレンと申します」
「ケレンさまの護衛を務めております、ヨルドです」
「ふたりともわたしの学友です。本日は殿下にご挨拶申し上げたいとのことで、この場を設けさせていただきました」
「ふたりともよろしく頼む。堅苦しい挨拶はなしにしよう。王弟という立場だが僕は一介の魔術師に過ぎないんだ」
そう笑ったアシェルに顔を上げるように言われた。その言葉通り、アシェルは王位継承権を随分と前に辞退している。現国王には正妃と側妃の間に幾人もの子供がいて世継には困らない上、継承権争いを避ける目的があったようだ。表向きの理由はそうなっているが、ケレンは彼がアメリアの母と結婚するために継承権を捨てたのではと考えていた。隣国の男爵令嬢では王子の妃としては身分が足らない。その証拠にアシェルは現在も独身を貫いている。
よろしく、とにこやかに差し出された手をおずおずと握った。思いのほか力強く握り締められて戸惑っているところへ、アシェルが意味深な笑みを深くする。その指がケレンの手首を撫でると、ちりりと焼け焦げるような微かな痛みを覚えた。そこは舞踏会の夜、闇に撫でられた場所だ。みみずばれのように腫れていた傷は翌日には痕もなく綺麗に治っていた。その名残を確かめるような指の動きを感じて、この人は本物なのだと本能が騒めく。
「きみが僕に逢いたかったのはこの呪いに関して聞きたかったからかい?これは我が血筋にまつわる古い呪いだ。随分と執着されているね」
「触れるだけでわかるのですか?」
「わかるように残されているからね。痕は消えても名残は残っている。きみがどこに逃げようとも追ってくるだろう」
「そんな、」
「でも安心するといい。そこにいる彼の防御魔法がそれを遮っているようだ。この呪いが闇だとするのならヨルドくんの魔法は光だ。きみのことを護ってくれている」
「お言葉ですがアシェル殿下、俺は魔法が使えません」
そう申し出たヨルドに、アシェルが興味深そうな笑みを浮かべた。なるほど、とひとりごちたあとでケレンの手を離すと今度はヨルドの手を掴んだ。戸惑うヨルドを他所にこれは面白いなと笑うのだから、ふたりして面食らう。ブラッドリーはずっとこんな調子なのだと言いたげな、少し苦々しい表情をしている。
「無意識のうちにこれほどまでの防御魔法を完成させているのは珍しいよ。ヨルドくんの魔力は申し分ないね。ケレンくんよりも強いと言っていい。まあ、魔力があれば魔法が使えるというわけじゃない。きみは相当ケレンくんのことが大切だと見える。その強い気持ちが彼を護っているんだ」
アシェルにそう微笑まれたヨルドが恐れ入りますと頭を下げた。ケレンもなんだかこそばゆくなって、赤くなった頬を隠そうと俯く。そんな様子をおかしそうに笑ったアシェルが、ゆっくり座って話そうとソファに座るように促した。
茶の準備を整える侍女に礼を言うアシェルは、穏やかで人当たりがよさそうに見える。話した感じもその印象に相違なく、気難しい人間でなくてよかったとケレンは胸を撫で下ろした。にこやかな表情はともかく、髪の色や目元などはアメリアとよく似ている。きっと隣に並べて見比べてみたらもっと似ていると思えるはずだ。
アシェルの向かいにブラッドリーと並んで座ったケレンが傍に控えるヨルドに目線をやると、彼が大丈夫だと小さく頷いてくれた。自分の無意識の魔法がケレンを護っているとわかったうれしさが滲み出ているように感じる。それを指摘されるたびにケレンが恥ずかしさを覚えていることなど知りもしないのだろう。そういうところがほんの少しだけ憎らしかった。
「さて、きみたちが僕に逢いたかった理由はわかった。どうしてきみにあの呪いがまとわりついているのか、教えてもらえるかい?」
カップに口をつけて一息吐いたアシェルにそう切り出された。ブラッドリーに目配せをして小さく頷き合うと、ケレンはこれまでのことをできるだけ簡潔に話した。今日まで何度も頭の中で組み立てていた説明だったので、多少まごつくところはあってもアシェルなら理解してくれるだろう。なにせこれは、アシェルの姉がかけた呪いなのだ。隣国の魔術師たちも口を噤んだその呪いについて、弟の彼が知らないはずがない。
「姉が呪いを残して死んだことは聞いている。その呪いが闇となりライオネル殿下の心を喰い殺そうとしている、というわけか。それできみがその闇に執着されている」
「そうです。闇は意思を持ち、ライオネル殿下に成り代わろうとしています。その呪いを解く方法をご存じではないでしょうか。皇妃殿下の弟君であるアシェル殿下だけが頼りなのです」
「この呪いは遠い昔に廃れた忌まわしい魔法で、我が王国の歴史でも悪名高い国王がこの呪いを作ったと言われている。元々呪いは暴かれたときに術者に跳ね返るだろう。けれど術者が死んでいる場合はその通りではない。これは術者の死を持って完成する呪いだ。姉は好んで怪しい魔術を研究していた。政治の駒になるより魔術師になりたかったのだと思う。魔女と呼ばれて恐れられていたよ。僕も喧嘩するたびに蛙に変えてやると脅されていた。一度もそんなことをされたことはないけれどね。おや、意外そうな顔をしているね」
「いえ、貴国の魔術師たちは口を割らなかったと聞いていたので」
「そもそも詳しく話せる者がいないんだよ。文献にも触り程度に書かれているだけでよくわからないしね。こんな物騒な魔法を研究していたのは姉くらいだ。まさかそれを実行に移すとは思わなかったし、しっかりと呪いが成就しているとも思わなかったんだ」
アシェルが重苦しい溜息を吐いた。その呪いについて記憶を辿るように頭を抱えると、おもむろに宙に向かってなにか図形を描くような動きをする。すると突然なにもないところから数冊の書物がテーブルに落ちた。その衝撃でカップから茶飛沫が飛ぶ。
目を丸くするケレンたちを尻目に、アシェルはいちばん上の書物を開いた。それからそれをソファへと放り投げると、次々と書物に目を通していく。どうやらそれらの書物はアシェルがどこからか取り寄せた魔法書の類であるらしい。随分と古く貴重な書物のように見えるが、扱いは結構乱雑だった。ここにアメリアがいたら目を吊り上げるに違いない。
「姉は実際のところ超一流の魔術師だった。特に闇の魔術に関してはね。姉の嫁ぎ先を決めるために開かれた舞踏会に招待された王族たちのなかで、姉が選んだのがグレンラード皇帝陛下だった。皇帝陛下は愛妻家だともっぱらの噂だったし、姉も放っておいてもらえると踏んだのだろう。グレンラードも魔術が盛んな国だし、実力を発揮できると思ったのかもしれない。けれど当てが外れて子を孕んでしまった。そして子が流れて発狂したと聞いている。さしずめ、皇后さまを恨んでライオネル殿下に呪いを残したのだろう」
「あの闇は自分も皇太子になる権利があると言っていました。あの呪いは皇妃殿下の愛息の名残でもあると言われています」
「ああ、死んだ者の魂を一時的にこの世に繋ぎ留めておく魔法と混ぜたのだろう。魂には器が必要だからライオネル殿下の身体を選んだ。一石二鳥だと思ったんだろうね。姉らしい考え方だ。随分と複雑にしてくれる」
アシェルが今言ったことはケレンが予想していたことと一致していた。彼に協力を仰いだことが正しかったと証明されて安堵するケレンとは対照的に、書物から目線を上げようともしない彼は少々苛ついているように見えた。亡き姉が残した複雑な呪いの尻拭いをさせられていることが気に入らないのかもしれないし、上手い解決方法が思い当たらなくて焦っているのかもしれない。だが、この呪いの本質をわかっているのはアシェルだけだ。
「今はどうしているんだい?ライオネル殿下の容態は落ち着いているわけではないのだろう?」
「今はリデル嬢が抑え込んでおります。わかっていることはケレンの魔力が殿下の体力を回復することと、リデル嬢が呪いを抑え込むことができるということだけです」
「そのリデル嬢というのは、」
ブラッドリーがそう答えたあと、アシェルの問いを遮るように扉がノックされた。タイミングよく入ってきたアメリアを見てアシェルの目が見開かれる。アメリアが遅れてきた詫びのあとで自己紹介をした。優雅にお辞儀をする彼女に向かって、アシェルが別の名を呼ぶ。
「ハリエット、」
「ハリエットは母の名前ですが、どうしてアシェル殿下がご存じなのです?」
顔を上げたアメリアがそう問うた。その言葉にすべてを悟ったらしいアシェルが、泣きそうに歪んだ顔を掌で覆い隠した。一方のアメリアは戸惑いを見せもせずに真っ直ぐ父親を見つめている。ケレンが座ったらどうだと助け舟を出すと、頷いたあとでケレンの横に腰かけた。
「ケレン、呪いのことはなにかわかった?」
「ああ、アシェル殿下が今調べてくれているところだ」
「あら、そんな貴重な書物を乱雑に扱ってはいけませんよ、殿下。貴重なものは丁重に扱わなくては」
憤慨した様子のアメリアに顔を上げたアシェルが懐かしそうに目を細めた。もしからしたらその物言いが若き日のハリエットに重なったのかもしれない。気持ちを落ち着けるように深い息を吐いたアシェルは、乱雑に放り投げていた書物を丁寧にテーブルへと重ねた。読んでいた本も閉じていちばん上に載せると、申し訳なかったと微かな笑みを浮かべる。
「取り乱してすまなかった。あまりにハリエットに瓜二つだったから」
「母とどのようなご関係が?」
「きみのお母さんは昔、皇妃殿下の侍女として働いていたんだ。姉に逢いに行ったときに彼女を見初めた僕が国に連れて帰ったんだ」
「それで母はわたしを身籠り、殿下の前から姿を消したのでしょう?男爵家と王家では身分が違いすぎますもの」
そう平然と答えたアメリアにぎょっとしたのはアシェルだけではなかった。どうして、と声に出したケレンを見やったアメリアが母親の日記を見たのだと答える。アメリアが侯爵家にきた頃にはハリエットは亡くなっていたはずだ。あの本の中で、アメリアが自身の出生について知っている描写はなかった。ハリエットの日記も彼女に渡ることなく失われていたのだろう。
「おばさまが避難する前に渡してくれたの。わたしが年頃になったら渡すようにと母から頼まれていたのですって」
「知っていたのなら教えてくれたらよかったじゃないか」
「あら、ケレンだって言わなかったじゃない」
そう言われるとぐうの音も出なかった。ケレンの母が生きていることで、アメリアの母が日記を託す相手が残ったのだ。そう思えば未来を変えた意味がひとつ増える。
他愛ない遣り取りを見ていたアシェルが笑みを噛み締めて、眩しいものを見るように目を細める。アメリアはその視線が少々照れ臭いようだった。十六年ぶりに初めて逢う父親にどういう態度で接したらいいのかわからないのかもしれない。
「アシェル殿下、このことは一端置いておきましょう。今はライオネル殿下の呪いを解くことが先決です」
「ああ、そうだな。知らないうちに随分と立派なレディになったのだなと思ってしまって」
アシェルが気を取り直すように咳払いをした。年頃の娘に相対する父親の顔になっているのが微笑ましかったが、今はたしかに感動の再会を噛み締めている場合ではない。アメリアはライオネルの中の闇は安定していると言ったが、いつまた暴れだすとも限らない。ケレンも緩みそうになった気持ちを引き締め直した。
「ケレンくんがライオネル殿下の体力を回復できるのは、おそらく彼と魔力の波長が合うからだろう。アメリア嬢が呪いを抑え込めるのも同じ理屈だ。ただふたりは魔法の系統が違うから効果が違う。アメリア嬢は治癒と制御、ケレンくんも治癒能力はあるものの、少し方向性が違うようだね」
「皇宮魔術師のひとりに回帰だと言われたことがあります。呪いをなかったことにできると」
「相性のよい呪いであればそうできるだろうね。我が王家の癒しの魔力は元々ロックウッドから嫁いできた皇女に由来すると言われている。アメリア嬢もきみも同じものを受け継いでいると言っていいだろう」
「だから皇太子殿下の気を惹いてしまったんでしょうか?」
「そうだなぁ。話を聞く限り、ライオネル殿下とその闇は別人格なのは間違いなさそうだが、闇の方は魔力ごときみに執着しているように感じられる。それにヨルドくんに邪魔をされて焦っている気配もするな」
「どうしてわかるのです?」
「きみの手に痕跡が残っているからね」
ケレンの問いにアシェルが薄く笑った。綺麗に治っている掌にそんな痕跡を残されていたのだと考えたらぞっとした。蒼白になるケレンにアシェルが大丈夫だと請け負ってくれたのは、先程ヨルドの魔法で護られていることを感じたからだろう。
「強く想い合う気持ちはどんな魔術よりも強いものだと僕は思っているんだ。その人を助けたいと願う気持ちが魔法を大きく左右する。特に防御魔法とか治癒魔法とかはね。その痕跡は名残りだ。害はないよ」
「それなら、ライオネル殿下を救いたいという想いが、わたしの魔力を強くするということもあり得ますか?」
ぽつりとそう零したアメリアの声は、先ほどまでとは打って変わって揺らいでいた。アシェルが少し複雑そうな表情を浮かべたのは、娘が呪われた皇子に惹かれているらしいことを悟ったからだろうか。しかしそこは流石王弟殿下ということだけあり、応える声に動揺は滲んでいなかった。
「そう想う気持ちが闇を上手く抑え込めている要因だろう。ただ、封じてしまうには力が足りない。助けられる方法があるとすれば、闇を誘い出して引き剥がすしかない。その上で封じてしまうんだ。たとえばヨルドくんのその剣に」
突然話の矛先を向けられたヨルドが目を丸くした。アシェルの指先で示された自分の腰に吊ってある剣を取り外すと、これはただの剣ですと言ってテーブルへと置いた。重厚な鞘に収まった剣はヨルドがケレンの護衛になった際に侯爵から贈られたもので、前に一度持たせてもらったときはケレンの腕では構えるのが精一杯だった。アシェルはそれを丁重に持ち上げると矯めつ眇めつ眺め、剣を抜いてその刃の鋭さを煌めかせる。幸いまだヨルドはそれで誰かを傷つけたことはない。これからもないといいと願う。
「この剣は血を知らないね。形代にはぴったりだよ」
「剣に封じるなど、本当にできるのですか?」
「そうして封じられた呪いがたくさんある。けして外には出ない歴史だけれどね」
剣を鞘に戻したアシェルは再びそれをテーブルへと横たえた。それから鞘を指でそっと撫でながら口の中でぶつぶつと呪文のようなものを唱えた。彼の指が鞘に刻まれた模様を撫でるたび、指の軌跡を微かな光が追っていく。最後に彼の指が柄をさっと払うと光が剣に吸い込まれて消えた。一見最初となんの変哲もないそれを返されたヨルドが恐る恐るアシェルから受け取る。
「僕の魔力を込めておいた。ヨルドくんの光の魔力と合わせれば充分太刀打ちできると思うよ」
「俺は魔法が使えないと、」
「大丈夫。きみがケレンくんを護ろうとして剣を振ることに意味があるんだ。ライオネル殿下から引き剥がされた闇はケレンくんを狙ってくるだろう。そのときがチャンスだ」
できるね?と問われたヨルドが表情を引き締めて頷いた。剣の鞘を握る手に強い力が籠っているのが見て取れる。思わずその手にそっと触れると、ヨルドが大丈夫だと言うように微かに笑んでくれた。
「申し訳ないが、ケレンくんには誘い出す役目を負ってもらわなければならない。闇が外に出てきたとき、その剣で闇を斬れればライオネル殿下から離れるだろう。切り離された闇は内側にいるよりも弱くなるはずだ。それをアメリア嬢の魔法でその剣に押し込める。できるね?」
アメリアがアシェルの言葉に力強く頷いた。闇に支配されたライオネルに押し倒されたとき、アメリアが強力な魔法で助けてくれたことを思い出した。あれはおそらく邪を祓う類の聖なる魔法だったのだ。あの魔法が使えるアメリアなら、アシェルが提案してくれた計画を上手くやれそうな気がした。なんといってもアメリアはこの本の絶対的なヒロインだ。
細かな日程はエスクアと相談するとして、アシェルがライオネルと謁見するタイミングに合わせることになった。アシェルも原因となった皇妃の弟として、責任を果たしてくれるつもりなのだろう。第一にアメリアの心配をしているのだろうが、それを口にするつもりはないようだった。あとの予定が詰まっているからと立ち上がったアシェルは、後日アメリアとの食事会の約束を取りつけて部屋を出ていった。ブラッドリーもそれに続く。
ふたりと少し間を開けてからケレンたちも応接室を出た。応接室は職員棟の奥にあるので案内なしではまず迷う。備えつけの電話機で職員を呼び、玄関ホールまでの案内を頼んだ。
人気のない棟内を玄関ホールへと向かっていると、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。職員が様子を見てくると断ってそちらへ駆けていくと、入れ違うようにこちらへと走ってくる慌ただしい足音が近づいてくる。
ヨルドがふたりを背後へと庇うと剣の柄に手をかけた。どこか隠れる場所を探そうにも、周りの部屋の扉はしっかりと施錠されている。応接間まで戻る選択肢もあったが、もし敵襲だったとしたら袋の鼠だ。
「なにごとかしら?まさかアシェル殿下になにか、」
アメリアの言葉に答えたのは角から飛び出してきたブラッドリーだった。ヨルドがとりあえずの警戒を解くと、三人の前で立ち止まった彼が肩で息をしながら逃げろと言う。
「ライオネル皇太子殿下がいらっしゃっている。今はアシェル殿下が足止めしてくださっているが時間の問題だろう」
「そんなはずないわ。殿下は眠っていたはずだもの」
「父が一緒に来ている。おそらく父が殿下の眠りを醒ましたのだろう。完全に殿下に陶酔しているご様子だ」
狼狽えた様子のブラッドリーが気を取り直すように息を吐いた。いつも目にしている父親とは様子が違って見えたのかもしれない。ケレンは皇宮内に蔓延っていた闇の気配を思い出した。まともな魔術師ならば耐えられない空気も、魅惑された者であれば問題ないに違いない。
ブラッドリーの先導で別の棟へと繋がる廊下に辿り着いた。どうやら彼は複雑なアカデミーの内部構造をそれなりに把握しているらしい。渡り廊下を越えて隣の棟に入り、静まり返った廊下をひたすら黙って進んだ。アシェルが上手いこと足止めしてくれているのか、追っ手の気配は感じられない。隣接する研究棟にも人気がなく、普段は立ち入りが禁じられている場所も難なく通り抜けることができた。そうして一階まで降りると、ブラッドリーが安堵したように足を止める。
「ヨルド、追手の気配はないか?」
「ああ、特に気配は感じない」
ブラッドリーが問いかけたのへ、ヨルドがそう答えた。ケレンも耳を欹ててみたが、これだけ静かな空間で聞こえるのは自分たちの呼吸音ばかりだ。
「殿下はなにしにいらしたの?」
「おそらくケレンがアシェル殿下と接触したことを知ったんだろう」
「お前が漏らしたのか?」
「まさか!俺は絶対に言っていない!」
ヨルドに詰められて慌てて首を振るブラッドリーに、アメリアがおかしそうな笑みを零した。
「ヨルド、ブラッドリーをいじめるのはやめなさいよ。いくらケレンに意地悪していたのが気に喰わないからって」
「アメリア嬢はこいつが怪しいと思わないんですか?」
「ええ、彼は嘘を吐いていないわ。裏切ったらあなたに斬られるってわかっていて、そんなことする度量があるとも思えないし」
「助けているのか貶しているのかどっちなんだ」
どうやら揶揄われているらしいと気づいたブラッドリーが、呆れと情けなさが滲んだ声を出した。それでつい緊張感が緩んで、ケレンも頬を笑みに崩してしまう。それにブラッドリーがお前まで笑うのかと眉を寄せた。
「つい、おかしくて。いちばん危ない橋を渡ってくれているのはお前なのにな」
「そう思うならあいつらをなんとかしろよ。俺のこと絶対馬鹿にしているぞ」
「馬鹿にしているんだからいいのよ。今までやられた分をやり返さないとね」
アメリアにそう言われてぐうの音も出ないブラッドリーは、悔しさとやるせなさをなんとか飲み込んだようだった。気を取り直すようにわざとらしい咳払いをして、話を一気に現実へと戻す。
「ここから演習場を迂回すれば馬車のところまで出られる。お前たちは馬車に乗って侯爵邸へ帰れ。俺はアシェル殿下の様子を見に戻る」
「その必要はないみたいだぞ」
ヨルドの険しい声に窓の外を見ると、演習場でライオネルたちが待ち構えていた。皇太子の傍にはブラッドリー伯が立っており、反対側ではアシェルが申し訳なさそうな顔をしている。そのうしろには数十人の護衛騎士たちが控えていたが、その中にエスクアの顔はなかった。ブラッドリーが青い顔をして、騎士たちは伯爵家のお抱えだと口にする。
皇太子に皇宮の騎士がついていないのはおかしい。そもそも彼が皇宮の外に出ているのなら、その傍にはエスクアが付き従っているはずだった。優秀な護衛騎士が皇太子の名代としての業務をこなす能力を兼ね備えていることを目の当たりにしたばかりのケレンだったが、それでも彼の本分はライオネルの護衛騎士であるはずだ。エスクアがいれば事足りるであろう警護が、彼がいないばかりに大袈裟になっているようだ。ブラッドリーはそれを見て、父親の独断での行動だと悟ったらしい。
「どこまで伯爵家を落とせば気が済むんだ。あれだけの人数でヨルドに太刀打ちできるわけないだろう」
「随分と俺を買っているんだな」
頭を抱えたブラッドリーにヨルドが意外そうな視線を向けた。ヨルドは騎士として優秀過ぎるくらいだが、伯爵家の騎士団とてそれなりに手練れ揃いのはずだ。皇太子の護衛ともなれば実力者を揃えているだろうし、数人がかりで襲われたら流石のヨルドも太刀打ちができるか怪しい。それでもブラッドリーはヨルドの方が勝っていると信じているようだ。
「うちの騎士団はお飾りみたいなものだ。実際に武功を上げている侯爵家の騎士たちと同じように考えてもらっては困る。それなりに腕が立つ奴らを連れては来ているようだが、それでもテディ家の手練れを相手取るには不足だろう」
「流石にそれは買い被り過ぎだ。俺はあの男に負けている。そのことを忘れるな」
「あれは殿下が魔法を使ったからだろう。魔法で実力強化した相手とあそこまで互角に戦えたのはお前だからだ」
ケレンが思わずそう口にするとヨルドが嬉しそうに眦を弛めた。ヨルドの実力が素晴らしいことは誰よりもいちばんケレンがよく知っている。謙遜したのだろうとわかってはいても、彼がライオネルに負けたことをずっと気にしているのが気に障った。あれはライオネルの、もうひとりの闇の人格が起こしたエラーのようなものだ。本の中でヨルドがライオネルに返り討ちにされたのだって、ヨルドの実力不足だというわけではない。きっと別の要因が重なった結果だろうし、皇太子を護ろうとする騎士たちの加勢だってあっただろう。正々堂々身体ひとつで向き合ったら、実力は互角かヨルドの方が上のはずだ。
「お前たちは俺ひとりであそこにいる奴らを蹴散らせると本気で思っているのか?」
「思っているさ。だがやれとは一言も言っていない。お前はケレンを連れて逃げろ。ここは俺がなんとか収める」
ヨルドの問いにブラッドリーがそう言って表情を引き締めた。相変わらず顔色が悪かったが、先ほどよりは随分とマシに見える。ヨルドに視線でどうする?と問われて、ケレンは答えに迷った。アメリアはおそらくブラッドリーに加勢するつもりだろう。ヨルドがひとりで太刀打ちできる相手数であるのなら、アメリアなら魔法で制圧することが可能なはずだ。彼女は原作とはまったく違った人生を歩むことで、その魔法力を格段に上げている。治癒魔法に特化しているだけで、攻撃魔法だって充分に使えることを知っている。
ふと、アシェルが抵抗も逃げもせずにライオネルの傍にいることに違和感を覚えた。王族なのに護衛がいないのは、おそらく本人が魔法で相手を制圧できるからだ。娘のアメリアの実力を鑑みれば、アシェルはそれとは比べ物にならないほど強いと考えて差し支えない。帝国の皇太子を前に無礼を働くわけにはいかないとはいえ、共にケレンたちを待ち受けているのには違和感しかなかった。ブラッドリーを逃がしたのは彼だろうに。
「いや、逃げたところで追われるだけだ。それに俺たちはアシェル殿下にここまで誘導されたんだと思う。演習場なら暴れても被害が少ないと踏んだのだろう」
「どういうことだ、ケレン。まさかさっきの計画を今ここでやるつもりだと言いたいのか」
「アシェル殿下はライオネル殿下と謁見するときが決行のチャンスだと言っていた。今がまさにそのときだ」
意を決したケレンに異を唱える者はいなかった。研究棟を出て彼らと対峙すると、困ったようなふりをしていたアシェルがその口元をわずかに吊り上げるのがわかる。そっと指を振る仕種をすると、彼らのうしろで身構えていた騎士たちが突然次々と地面へ崩れ落ちた。それに気づいて慌てふためく伯爵も同じように地面へと頽れる。どうやらアシェルが眠らせる呪文を発動させたらしい。
「随分と面白い真似をされましたね、アシェル王弟殿下。流石母上の弟というだけはある」
皇太子の身体を乗っ取った誰かが面白そうな笑みを浮かべた。その身体からどす黒いオーラが立ち上るのを感じたのか、アシェルが身構えるように後退った。流石に異変を感じたらしいヨルドが剣の柄に手をかけてケレンを背後へと庇った。ヨルドが柄を握る手に力を入れるたび、魔法の剣に光が充填していく気配のようなものを感じる。この剣で断ち切ればあの闇を祓えるというアシェルの話は本当だろう。あとはあれをどうやってライオネルの身体から誘い出すかだ。
「なんのことを仰られているのか。貴殿の母上は皇后さまでしょう」
「あなたがいちばんよくおわかりでしょう、叔父上。先ほどはケレンとなにを企んでいたのです?わたしを消し去る相談ですか?」
「侯爵家は我が王家と遠い血縁なのですよ、殿下。ご挨拶申し上げるのは当然でしょう」
あくまでもにこやかにそう対応したアシェルに、もうひとりの皇子の口元が笑みに吊り上がった。それはますます欲しくなるなと笑みに細まる目に見据えられると、ケレンは不意に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。皇太子の身体から発せられる闇の波動にあてられたのかもしれない。胸を押さえてぐっと呻いたところをヨルドに抱きとめられると、途端に呼吸が楽になった。ああそうか、と思う。今までのあれやこれやそれも全部、ヨルドの無意識の魔法に護られていたのだと気づいてしまった。
ヨルドの魔法で護られていることを、恥ずかしいと思っていた自分が恥ずかしかった。身体を繋げたから表面化しただけで、本当はずっとそこにあったのだ。ケレンが悪いものに苛まれないようにずっと、傍で大切に護り続けてくれていた。きっとその気持ちが、魔法の中でもいちばん強い。
「ケレン、下がっていろ。あとは俺がなんとかする」
その言葉を疑問に思う前に、ヨルドが皇子に向かってはっきりと言った。
「皇太子殿下、もう一度わたしと手合わせ願えませんか?」
その言葉にはっとしたケレンがなにを考えているのか問う間もなく、皇子が面白そうに表情を歪めた。いいだろうと承諾の言葉をもらったヨルドが礼を述べて頭を下げた。思わず引き留めるように腕に縋りついたケレンに彼が薄く笑って寄越す。もしかしたら、闇を宿したライオネルごと斬るつもりなのかもしれない。
ケレンを護るためなら、この男はやりかねない。
「ヨルド、なにをする気だ。もし殿下を傷つけでもしたらっ、」
「大丈夫だ、ケレン。俺が斬るのはあの闇だ。お前が身を差し出す以外に、あれを誘い出す方法はこれしかない」
「なにか考えがあるのか?」
「さぁ、やってみなけりゃあわからないけどな」
そう笑う彼に胸の奥が苦しくなった。どうしようもない切なさを覚えて思わずその腕に抱き縋ると、ヨルドの手がケレンの肩を抱き寄せてくれた。今この手を離したら後悔するような気がした。その悪い予感が怖くて放してやることができない。ふたりの間をこじ開けるように、皇子がせせら笑う。
「今のうちに別れを惜しんでおくといい。そうしていられるのも今だけだ。お前は一度わたしに負けている」
「そうですね。ですが、たとえ俺を殺してもケレンはあなたのものにはなりませんよ」
そう挑発したヨルドにやんわりと腕を解かれた。もう一度縋ろうと伸ばした手をアメリアに阻まれる。大丈夫よと背を撫でられた。いつの間にかこちら側へ移動していたアシェルとブラッドリーが少々心配そうな目をヨルドへと向けている。
「一体あいつはなにを考えているんだ?真剣同士で打ち合って、下手して死ぬのはヨルドだぞ」
「ヨルドくんのあの剣には防護の魔法もかけてある。そう簡単に命を取られはしないだろう」
「あら、ふたりとも気弱なのね。ヨルドは大丈夫よ、ケレン。あの男はあなたのためならとんでもない実力を発揮することができるもの」
アメリアがそう請け負ってくれたのは、ケレンのどうしようもない不安を少しでも取り除こうとしてくれたからだろう。ケレンだってヨルドが易々と負けるとは思っていないし、彼が大丈夫だと言うのだから信じてやるべきだとわかっている。それでも怖かった。皇太子に勝負を挑むという状況があまりにもヨルドの最期に酷似している。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、震える掌を握り締めた。ブラッドリーが心配そうに大丈夫かと声をかけてくれる。それにどうにか頷いた。
皇子が騎士のひとりの腰から剣を抜いた。刀身を光に翳して鼻を鳴らすと切先をヨルドへと向ける。対峙したヨルドも剣を抜いた。柄をしっかりと握り直すのを合図に僅かな光が刀身を滑る。
「今回はなにを賭ける?お前のその命か?」
「俺が勝ったらその身体をライオネル殿下に返していただきたい」
「いいだろう。ではわたしが勝ったら、今度こそロックウッドをもらおうか」
その言葉にヨルドは答えなかった。不意を突くように地面を蹴って間合を詰めると、問答無用で皇子へと斬りかかる。それをうしろへと飛んで受け流した男が今度は攻撃に打ってでた。刃先同士がぶつかり合って離れる。
「あいつ、本気で殿下ごと斬るつもりじゃあないだろうな」
ブラッドリーがヨルドの気迫にあてられたようにそうごちた。本気で挑まねばならぬ相手だとはいえ、たしかにヨルドの太刀筋には迷いがない。受け流すしかなかった前回と違い、今度は互角に戦えているように見えた。皇子の方がヨルドの太刀筋を恐れているようにさえ思える。
ヨルドが皇子の太刀を跳ね飛ばして懐に飛び込んだ。それをかろうじて交わした皇子が体制を崩す。慌てて体制を立て直そうとしたところへヨルドが容赦なく切先を突きつけた。
「その剣、魔力が込められているな。だが、魔法が使えぬお前では扱えやしない」
「それはやってみなければわからないでしょう。そこから出ないなら、その身体ごと斬ります」
「そんなことをしてみろ。ロックウッドと二度と逢えなくなるぞ」
「ケレンがお前に脅かされているよりはずっといい。俺はケレンがしあわせでいてくれたらそれでいいんだ」
「それなら、わたしに明け渡せばいい。お前よりは相応しいと思うが」
「ケレンはあなたのものにはならないと言ったでしょう」
「なぜそう言い切れる?お前の命と引き換えればどうだ?」
「無駄です。だってあなたは俺じゃない。その身体だってもうぼろぼろなのではないですか?この前と今とじゃあまるで違う」
おかしそうに皇子が顔を歪ませた。にたりとした不気味な笑みを貼りつけた顔はもはやライオネルには見えない。男の手がヨルドの剣へと伸びて、躊躇なくそれを握り締める。滴る血に怯むヨルドを尻目に、皇子が悠々と立ち上がった。血に塗れた手で剣を拾う。
「そうか。では、お前を殺して成り代わるとしよう」
その言葉のあと、一瞬の間にヨルドが地面に転がっていた。茫然とするケレンの目の前でヨルドの元へ近づいていく皇子の身体から、漆黒の闇が溢れ出て人の形を取り始めた。どうにかしなければと思うのに、恐怖に雁字搦めにされた身体を動かすことができない。今すぐヨルドの前に躍り出て防御呪文を唱えなければ。そう考える思考とは裏腹に、身体が言うことを聞いてくれない。
闇が外へと溢れ出るたびに人の方の歩みが揺らいでいく。やがて漆黒の皇子が完成すると、ライオネルの身体が膝をついた。そのまま力なく頽れたところへ、駆け寄ろうとしたアメリアをアシェルが抱き止める。
「離してください!殿下がっ!」
「行っては駄目だ!」
父親の力強さには敵わないと悟ったのか、アメリアが暴れるのをやめた。少し力を弛めたアシェルが項垂れるアメリアに心配そうな眼差しを向ける。
ここからではライオネルの状態を見極めることは難しかった。ぴくりとも動かない身体はまるで魂を失った亡骸のようだ。あの男が零した「殺して成り代わる」という言葉がケレンの背筋を粟立たせた。それが本当のことならば、あの身体にライオネルの心は残っていないことになる。
ヨルドへと一歩近づくたびに闇の輪郭がはっきりと実物を帯びていくように見えた。人型を模した闇はライオネルにそっくりだ。武器を拾わずにいるのは、おそらくもう得物が必要ないからだろう。衝撃から立ち直ったヨルドが警戒心を剥き出して剣を構えた。いくらアシェルが清めの魔法を込めた剣でも、あの闇を牽制できなければ切っ先を届かすことすらできない。
「ヨルド!避けろ!」
闇がにたりと笑う気配を感じて思わずそう叫んだ。ヨルドがケレンの声に反応して横へと転がると、彼がたった今いた場所が魔法の衝撃で抉れていた。本気でヨルドを殺す気なのだと悟ると、感じていたはずの恐怖が冷えて、静かな怒りへと変わっていく。先ほど叫んだことで、身体の呪縛も解けていた。ヨルドを傷つける者は誰だろうと許せない。
そこまでしてケレンのことが欲しいのなら、くれてやる。
「アシェル殿下、あとのことは頼みます」
そう言う自分の声がいやに冷静に聞こえた。真っ直ぐにアシェルを見据えると、彼はケレンがなにをするつもりなのか悟ってくれたようだ。わかったと頷いて、止めようとするアメリアをしっかりと抱き込む。
「ケレン!ヨルドはあなたのために戦っているのよ!」
「わかってる!でも俺はヨルドの命を救うためにここまでやってきたんだ!奪わせるわけにはいかないんだよ」
そう吠えたケレンにアメリアが押し黙った。言われなくたって、彼がケレンのために身を挺して戦ってくれていることはわかっている。だから、ケレンも逃げるわけにはいかない。
ヨルドはきっとケレンの決意に文句を垂れるに違いない。それはあとで、無事にすべてが終わってからいくらでも聞いてやればいい。まずは彼をあの闇から救わなければならない。それはケレンにしかできないことだ。
「ケレン、お前が闇を引きつければヨルドは間違いなくあれを斬れる。ふたりで戻ってこいよ」
ブラッドリーの声がわざとらしい明るさを帯びていた。この重苦しい空気を少しでも軽くしようと、気を遣ってくれたのだろう。アメリアが彼の声に顔を上げてそうねと微かに笑った。
「ああ、ありがとう、ブラッドリー。お前がいなければここまで辿り着けなかった」
「この礼はあとでたっぷりもらうぞ。これからの伯爵家はお前の証言にかかっているんだからな。戻ってきてもらわなければ困る」
ブラッドリーがそう笑ってケレンの肩を叩いた。肩に触れる手が僅かに震えているのを感じる。もう一度礼を言ってその手を軽く叩いた。ひんやりと冷たい掌からは彼が抱えている恐怖が伝わってくるようだった。
魔法で攻撃を仕掛けてくる相手に対し、ヨルドは善戦していた。ケレンはひとつ深い息を吸って、掌に身体中の魔力を搔き集める。以前ライオネルと手合わせしていたときは、それを防御魔法として放った。あのときはヨルドに馬鹿な真似をするなと怒られたが、今度もきっと同じように怒られるだろう。そう考えると口元が微かな笑みに弛んだ。世界でいちばん大切な男を護るたなら、いくらだって怒られてやろう。
これが少しでもヨルドの加勢になるといい。そう願いながら、ありったけの魔力を攻撃魔法としてぶっ放した。ヨルドがケレンの呪文に気づいて、咄嗟に闇から離れてわきへと飛ぶ。一瞬身を庇うような仕種をした闇が攻撃を受け流して、こちらへと向き直るのがわかった。たしかな手応えはあったが、大したダメージにはならなかったようだ。
それでも、注意をそらすという目的は果たせた。
「お前が欲しいのは俺だろう!欲しいのならくれてやる」
睨みつけた先で闇がくつくつとした笑いを零した。顔の造作がはっきりしないが、それでもにやにやとしたいやらしい笑みを浮かべていることはわかる。ではそうしよう、と言う声が直接頭に響いてきた。音が割れたように聞こえるのは、あれが肉体を持っていないからか。
「ケレン!」
ヨルドの切羽詰まった声に名前を呼ばれた。一瞬の間に伸びてきた闇の手に喉元を締め上げられる。ひんやりとした指が皮膚に食い込んで、そこから直に恐怖が身体へと染み渡っていった。息ができない苦しさにもがきながら、太刀打ちのできない力を前に慄然とする。薄れていく視界の先で、斬りかかろうと剣を振り上げたヨルドが闇が手を振るだけで地面に転がされる。それでも食ってかかろうとする彼を、闇が嘲笑っているのが伝わってきた。
彼の名を呼びたいのに声が出ない。もう一度この距離で攻撃を叩き込めば多少のダメージは与えられるだろうか。闇の手が無理矢理にケレンの口をこじ開けようとしてくる。それを歯を食いしばって耐えているところへ、ヨルドが再び剣を振り上げるのを見た。
地面を蹴ったヨルドの振り上げた刀身が光り輝いていた。それを容赦なく振り下ろすと、頭から斬り祓われた漆黒が断末魔の悲鳴を上げて黒煙のように輪郭をなくす。どさりと尻もちをついたケレンにその闇が縋るように向かってきた。目を見張る、その前が煙幕のように闇に染まる。
もう一度、ヨルドに名前を呼ばれた。ケレンにまとわりつく漆黒の靄を剣で祓った彼にしっかりと抱き込まれる。最後の最後まで護られてばかりだった。
そう後悔したのを最後に、意識が闇に呑まれた。




