第三章
「ケレンさま、申し訳ありませんがご足労願えますか」
エスクアが礼儀正しく頭を下げたのへ、ケレンはまたかと心の中で嘆息した。ここ最近、彼は毎度授業が終わった時間に現れては、ケレンをライオネルの元へ連れていった。ヨルドは同席させてもらえないので、その度に不服そうな表情を隠さない。皇太子からの呼び出しだから気軽に文句を言うこともできないのだった。
「あの、やはり殿下はどこか具合が悪いのですか?」
「それはわたしの口からはお答えできません」
「呼び出されるたびに黙って従えと?」
「あなたは珍しい人だ。殿下に目をかけられるのは光栄なことだと思いますが」
言葉は丁寧だが、抑揚がない声音はいつだって冷ややかに聞こえた。たしかに、傍から見れば、ケレンは皇太子に目をかけられて重用されているように見える。急にライオネルがそんな態度を取り始めたものだから、ブラッドリーたちにあることないこと囁かれ始めていた。ケレンの耳に入らないところでひそひそやっているので、なにを言われているかはわからない。ただこれが始まってから、明らかに自分を見る周りの目が変わってきている。
あの日以来、ケレンは結構な頻度でライオネルに呼び出されていた。皇太子専用の私室が研究棟の一角にあって、授業終わりになるとエスクアがケレンをこうして迎えに来る。その部屋を訪れると、彼は決まって高価そうなソファにぐったりと横たわっていた。この前助けたときと同じように、その顔には生気がない。
あのどろりとしたなにかはどうやら、探られることを警戒して身を潜めているようだった。回復を助けようと魔力を流し込んでも特に弾かれることはなかったが、解放されたときにはあの日と同じようにどっと疲れている。いくら皇太子殿下から重用されるといっても、こんな骨の折れる作業に従事したいと自ら手を上げる者などいないだろう。ましてやケレンはアメリアが彼に惹かれていない以上、ライオネルとは可能な限り関わり合いになりたくないのだ。
「あんな状態の殿下を見てなにも聞かずにいられると思いますか?今までどうやって保ってきたのです?」
ケレンの強い口調にエスクアがようやく足を止めた。教室棟からは随分と離れていたので、誰かに話を聞かれる心配もない。相変わらずの無表情からは、なにを考えているのか読み取ることは難しい。何度問いを投げようとも、彼から欲しい答えが返ってきたことはなかった。それに、ケレンは苛立ちを覚えていた。
「我が国には優秀な治癒魔術師が数多おりますから」
「ではその方たちに頼まれては?」
「残念ながら数人がかりでもあなたひとりに敵いません。どうやらあなたの魔力は殿下と相性がいいようだ。殿下もそれを望まれております」
エスクアに胸に手を当てて頭を下げられた。これで話は終わりだと言うように、ついてくるように促される。仕方なく彼のあとを歩きながら、なにが起こっているのだろうと考えた。こんな場面はあの本で読んだ覚えはない。
結局、今日もぐったりと横たわるライオネルの額に手を当てただけで、小一時間ほどすると解放された。エスクアが教えてくれないのなら皇太子本人に聞くのが手っ取り早かったが、力なく横たわる彼を問い質すことはできなかった。どっと疲れて部屋から出ると、ヨルドとアメリアが待っていてくれた。ふたりの姿を見ただけで一気に身体から力が抜けそうになる。慌てたヨルドが支えてくれなければ、そのまま廊下に頽れていただろう。
「ごめん、安心したら力が、」
そう言い訳してヨルドに身体を預けた。しっかりと支えてくれる力強さに、泣きそうなほど安堵しているのがわかる。ああ、ヨルドだと思った。しっかりと歩けるはずの身体が腑抜けてしまうのは、思っている以上に彼と離れている時間がつらいからだとわかっている。
「ケレン、甘えたいのはわかるけれど、わたしがいることを忘れないでちょうだい」
ヨルドの肩口から顔を出したアメリアにそう揶揄された。それから疲れている顔をしていると顔を心配そうに歪ませて、掌を額に当ててくれる。彼女の少しひんやりとした掌から、癒しの力が流れ込んでくるのを感じた。ケレンが先ほどまでライオネルにやっていたことと同じでいて、アメリアの魔力の方がきめ細やかだった。この繊細な魔力の枝先なら、ライオネルの奥深くに隠れるあの得体の知れないなにかを上手く掴めるかもしれない。
「こんなに疲れるなんてなにをさせられているの?呼び出される頻度も上がっているでしょう?」
「皇太子殿下はお加減が悪いんだ。それで俺はただ殿下の体力を回復させている」
「それでこんなに消耗しているの?ケレンの魔力はわたしよりも強いのよ。それだけでこんなに疲れるはずがないわ」
「殿下の身体の奥深くになにか、得体の知れない闇のようなものが絡んでいる気がするんだ。それに魔力を吸い取られている気がする。俺じゃあ上手く探れなかったんだけど、アメリアならもしかしたら」
「ケレンたら、できるだけ皇太子殿下と関わりたくないんじゃなかったの?」
呆れたようにそう言われて、ケレンはぐっと言葉に詰まった。彼女の言葉通りライオネルとは関わり合いになりたくない。ただ具合が悪そうな様子を見ていたら放っておくことなどできそうもなかった。しかもその身体に得体の知れないなにかを抱えているとくる。
「あの様子を見ていたら放っておけない。殿下は癒しの力を求めているようだった。この前たまたま殿下が倒れたところに鉢合わせて、俺の魔力に目をつけたのかもしれない」
「それなら関わらないに越したことはない。殿下とあなたの魔力は相性がよさそうだもの」
「エスクアさまにもそう言われた」
「それなら確実ね。殿下はあなたが欲しいのよ」
アメリアの言葉に思わず面食らった。肩に触れているヨルドの手に強い力が籠る。痛いくらいの力に思わず顔を顰めると、彼がはっとして力を弛めてくれた。
「あら、そんなに驚くことじゃあないわ。ケレンが探り当てた闇はおそらく呪いの類でしょう。呪われた者は相性のいい術者に強く惹かれるの。多くの人はそれを恋だと勘違いする」
「ああ、そういうことか、」
「とにかく、できるだけ関わらない方がいい。そうじゃなくたって、部屋に呼び出されてなにしているんだってみんな思っているわ。あなたは殿方がすきだと噂になっているし、殿下を誑かしているんだろうってブラッドリーが言いふらしているし」
「誑かすわけないだろ!?」
「ブラッドリーが勝手に言っていることよ。まぁ、あなたはヨルドと付き合っているのに、皇太子から横恋慕されているって女の子たちは思っているみたいだけど」
「は、?」
憤慨したケレンはアメリアに揶揄されて一瞬で怒りを忘れた。思わずヨルドの方へと視線を泳がせて、ケレンの方を見ていた彼と視線がかち合ってしまう。ふと視線を伏せてしまったのは、彼からの申し出を曖昧にしたままでいるからだ。
「あなたたち、いつまではっきりしないつもりなの?」
「俺は恋人になろうと言いましたよ。今はケレンの返事を待っているところです」
平然と言ってのけたヨルドにアメリアが目を輝かせた。ケレンがヨルドに片想いをしていると知っている彼女にとっては朗報なのだ。けれどケレンにとっては、簡単に答えを出せる問題ではない。
ケレンの体力が回復したのでその場を離れた。アメリアは早く返事をするようにと念押ししてから講義へ戻っていった。熱心な生徒である彼女が抜け出してまでここに来てくれたのは、ケレンのことを相当心配してくれたからだろう。
「ヨルドが呼んでくれたのか?」
「いつもお前が疲れて出てくるから、アメリア嬢なら回復魔法をかけられると思ったんだ。俺は支えてやることくらいしかできないからな」
「それだけで充分なのに」
ヨルドの優しさがうれしくて、つい柔らかな笑みが零れた。彼がつられるように笑うだけで心がくすぐったくなる。
「そうだ、肩は痛くないか?さっき強く掴んでしまったから」
「そんなに柔じゃない。あとでたしかめてみるか?」
揶揄するようにその顔を覗き込んだら、ヨルドが面食らった顔をした。その顔がおかしくて更に笑みを深くすると、彼が揶揄ってくれるなと苦笑う。
こうしていられるだけで充分なのに、どうして放っておいてくれないのだろうなと思った。断罪へと繋がる決定打を回避したと思ったらアメリアが皇太子に惹かれず、今度はケレンが皇太子から好かれているらしいとくる。アメリアと結ばれてくれればいいものを、運命はどうしたってケレンをライオネルと関わらせたいらしい。
「次呼び出されたらアメリアに代わってもらうよ。殿下はアメリアにも惹かれているようだったから」
「そうしてもらうといい。あの男とふたりきりでいるのは心配でならないんだ。アメリア嬢も俺の気持ちを汲んでくれるだろう」
「いつの間に仲良くなったんだ?」
「お前を護るという利害が一致しているんだ。アメリア嬢も殿下のことを警戒しているようだし」
本来なら惹かれ合っているはずのふたりには残念ながら今のところその素振りがない。ライオネルからアメリアへの好意はなぜかケレンへの好意(仮)に上塗りされてしまったようだし、アメリアはどちらかというと彼を毛嫌いしている気配すらある。それでも同じ部屋にふたりきりで、逢う回数が増えていけば自然と惹かれ合ったりしないだろうか。アメリアは憤慨するだろうけれど、ふたりが結ばれることが断罪から救われる唯一の希望であることには変わりがないのだった。
「こんなところでなにをしている?」
読んでいた本から顔を上げると、目の前にライオネルが座ったところだった。アカデミーに併設されている帝立図書館は広く、人を探すのにも一苦労だ。ケレンはそこの一角でレポートのための調べものをしていた。ライオネルは誰かからケレンの居場所を聞いてきたのかもしれない。
「レポートのための調べものです、殿下。お元気そうでなによりです」
「ああ、最近はすっかり気分がいい。リデル嬢は優れた治癒魔術師になれるぞ」
「わたしよりも彼女の方が殿下とも波長が合うのでしょう」
そう言ってどうにかにこやかな笑みを貼りつけた。さり気なくアメリアの方がお似合いですよと言ってみたつもりが、思っていたような反応はない。ライオネルは手持ち無沙汰で頬杖をついている。エスクアの姿はない。
ライオネルからの呼び出しをアメリアに代わってもらって以来、ケレンは彼に逢っていなかった。アメリアはライオネルの奥深くの闇を探り当て、それを抑え込むことに成功したらしい。ケレンのときほど呼び出される頻度は少ないようだし、噂に聞くライオネルはいつも通りの凛とした皇太子然としているようだった。実際、目の前の彼から臥せっていたときの姿は想像できなかった。
ケレンはブラッドリーからライオネルに捨てられたのだろうと嫌味を言われていたが、反論も説明も面倒くさくて言いたいようにさせていた。今度はアメリアが婚約者候補なのかと噂され始めたが、彼女はどこ吹く風で飄々としている。関わる時間が増えても打ち解ける様子はなく、あくまでもケレンのために仕方なくという体を崩さない。ふたりが少しでもお近づきになってくれたら、というケレンの願いは今のところ叶う様子はなかった。
「殿下、なにか御用があってこちらにいらしたのではないのですか?」
「ああ、お前の顔を久々に見たいと思ってな。今日はあの男と一緒ではないのか?」
「四六時中一緒にいるわけではありませんよ」
ヨルドは只今教授に呼び出されていて不在だった。どうも勉強が苦手なヨルドは試験の点数があまりよくない。彼の追試が終わるのを調べものついでに待っていることは、この際言わない方がいいだろう。
なにを考えているのかわからない碧眼に見つめられているのは居心地が悪かった。ライオネルに好かれているらしい、というアメリアの憶測が警鐘のように頭に響く。
このまま席を立って立ち去ってしまいたかった。けれど関わり合いになりたくないとはいえ、無礼なことをして気に障っても困る。結局ケレンは読んでいた本を閉じて、ライオネルに向き直った。
「いい機会なのでお伺いしたいことがあるのですが」
「答えられる範囲でいいのなら答えよう」
「殿下はどこかお加減が悪いのですか?」
初めてライオネルが倒れた日とまったく同じ言葉をぶつけると、彼の目が面白いものを見るように細まった。考えるように口元に指をあてる。
じっと答えを待ちながら、どうせ答えてはくれないだろうなとわかってはいた。それでも、普段取り巻きに囲まれているか臥せっているかの彼が、今こうして話ができる状態で目の前にいる。真相を探るのにこの機会を逃す手はない。
やがてライオネルがなにかを思いついたような笑みを浮かべた。どうする?とでも言いたげに頬杖をついて見てくる様子に、嫌な予感を覚える。
「お前がわたしの婚約者になれば教えてやってもいい。この身体のことは国家レベルの機密事項だ。身内でなければ明かせない」
「ご冗談を。本気でそう仰っているのなら、アメリアの方が適任かと思いますが」
「たしかに彼女はわたしの中のあれを抑え込むことに成功した。だが奥深くに追いやっただけに過ぎない。お前が持つ力とは根本が違うのだ」
「なにが違うというのです?」
「リデル嬢の魔法はあれを抑え込むだけに過ぎない。体力の回復はするが、ただそれだけだ。それに比べてお前の魔法は根本を断てる。傍にいるだけで気分が和らぐしな」
「おっしゃっている意味がよくわかりません」
怪訝そうな顔をしていたのだろう、ライオネルにそうだろうなと笑われた。一瞬、揶揄されているのだと思った。どう考えても自分にそんなレベルの魔力が秘められているわけがないからだ。いくらケレンが結末を変えようと行動したところで、ここがあの本の世界であることには変わりがない。ケレンにそんな魔力があるなどという描写があった覚えはない。
「お前はあの男がすきなのだろう?ロックウッド。だからわたしの申し出を断ろうとする」
「それとこれとは関係がありません。男が皇太子殿下の婚約者になれるはずが、」
「わたしが望めば誰も文句は言わないだろう。侯爵家としても悪い話ではないと思うが」
そう言われるとぐっと言葉に詰まった。性別云々は抜きにして侯爵家としての立場だけを考えれば、皇太子の婚約者になることは充分に可能な家柄だ。だが男がその座に収まった前例はないし、ケレンとしてはもちろん願い下げだ。アメリアとの婚約を回避すれば彼とは関わらずに済むと思っていたのに、まさかこんな結果に繋がるとは夢にも思うまい。
俄かな焦りが生まれた。ここからどう頑張ったら、ストーリーをもとの筋に戻せるのか見当もつかない。関わり合いになりたくないのに、どうして積極的に関わろうとしてくるのだろう。
「お許しください、殿下。お受けすることはできません」
「断るのなら明確な理由を述べよ。あの男がすきなのだろう?」
その問いには答えたくなかった。答えたらヨルドがライオネルの目の敵にされる気がしてならなかった。彼のために、彼の命を救うために、断罪の未来を回避しようとここまで頑張ってきたのだ。それなのにケレンのせいで結局ヨルドは危険に晒される。
ヨルドの申し出を受け入れることができないのは、彼をできるだけライオネルから遠ざけておきたいからだった。本音を言えば護衛騎士など辞めて、ケレンと関係のない場所で自由に生きて欲しい。そう思っているのにできないのは、ヨルドが絶対にそう望まないことをわかっていて甘えているからか。
それとも、彼の傍にいたいと心がごねるからか。
「もし、そうだと言ったらどうするのです?」
そう問う、自分の声が随分と冷ややかだった。もう笑みを浮かべる余裕もない。アメリアはケレンが冷酷無慈悲だなんて信じられないと笑ってくれたが、おそらくヨルドのためならばどこまでだって冷酷になれそうな気がした。相手が皇太子だったとしても、だ。
「そう怖い顔をするな。随分と仲がよいように見えたから、そう思っただけだ」
「生まれてからずっと一緒にいるのです。殿下が入る隙はありません」
「それはすきだと認める、ということか?」
「ええ、すきですよ。あくまでも、わたしの勝手な片想いですが」
そう、これは片想いだ。そうわかってはいても、自分の心に嘘は吐けなかった。すきだと言葉にしてしまうと、心の奥からどんどんとヨルドへの想いが溢れ出てくる。ライオネルを前に凛としていたいのに、彼のことを想うとつい表情が弛みそうになった。小さく息を吐いて、今一度心を引き締める。この男のいいようには絶対にさせない。
「ふむ、そこまで言うなら一端申し出は引き下げよう。心変わりをさせるのは難しいようだしな」
「殿下こそどうしてわたしなのです?アメリアのことを好いていたはずでは?」
「もちろん、リデル嬢は素晴らしい女性だと思う。お前の婚約者ではないと知って安堵もした。ただ、お前に強く惹かれてしまう。どうしても欲しい」
魅力的な笑みを向けられて背筋がぞくりと粟立った。そこらの令嬢であったのなら、喜んで提案を受け入れてしまいそうな笑みだ。けれどケレンは笑っていない目の奥に底知れない闇を感じた。その言葉の意味は考えたくなかった。その感情が〈呪われた者が術者に抱く恋に似た気持ち〉であることを願うしかない。
ケレンの表情が強張るのを感じたのか、揶揄っただけだと弁明された。そうではないとわかってはいたが一応安堵の様子を見せておく。口先だけの謝罪を受け取ったが、そこには誠意の欠片も込められていない。
どうにかしてライオネルから解放される手段を考えていたケレンは、入口の方でヨルドが合図するように手を上げるのを見た。それを合図に席を立つとライオネルに暇を告げる。
「また話せるか?」
「アメリアを同席させてくださるのなら」
「お前は随分とあの子を勧めるのだな」
一度は好意を寄せた相手だというのにライオネルが鼻で笑ったのへ、失礼しますと頭を下げた。本の中ではアメリアを手に入れるためにケレンにひどい仕打ちをしたくせに、今世では平然とケレンのことが欲しいと口説いてくる。一体どこをどう間違えたらそうなるのかと泣きたくなった。つい早足になるのをどうにか怺えてヨルドの元へと向かうと、彼の手を取ってさっさと図書館をあとにした。
「誰と話していたんだ?」
そそくさと乗り込んだ帰りの馬車でヨルドにそう問われた。アメリアは本日先に帰ったので、馬車の中はふたりきりだ。逃げるように馬車へと向かったケレンのことを怪訝に思ったのだろう。
「皇太子殿下だ」
そう答えたらヨルドの表情が冷えた。
「どうしてあの男がまたお前に構うんだ。アメリア嬢のおかげで具合もいいんだろう?」
「俺の顔を見に来たらしい。あと、お前のことがすきなのかと聞かれた」
いつもの調子でそう答えてしまってから、まずいことを口走ったなと焦った。ちらりと向けた目線の先の彼の表情は冷えたままだった。どうしてそんなことをライオネルが気にするのかと勘ぐっているのかもしれない。
「いい機会だったから、どこか具合が悪いのか聞いてみたんだ。そうしたら身内にしか明かせないことだから、婚約者になれば教えてやると言われて、」
「勘違いされるようなことをするなと、アメリア嬢に言われただろう?」
「そんなことはしてない!ちゃんと断ったし、アメリアの方がいいだろうって勧めもした。そうしたら、断るのはお前のことがすきだからだろうって言われて」
「それで、なんと答えたんだ?」
「お前のことを巻き込むつもりはなかったんだ。でも誤魔化しきれなくてすきだと答えた。でも俺の片想いだって言っておいたから」
話しているうちになんだか、叱られて言い訳をする子供のような気持になってきた。自然と言葉が尻すぼみになるのへ、ヨルドが溜息を零すものだからますます情けなくなる。彼がケレンに対してここまで露骨に不機嫌な態度を出すのは珍しいのだ。
「なんか、怒ってる?」
恐る恐るそう聞いたらヨルドがはっとした。慌てたように表情を弛めて悪かったと零す。
「一緒にいなかった自分に腹が立っているんだ。ケレンに怒っているわけじゃない。それで、どうして片想いだなんて言ったんだ?」
「え?」
「俺と付き合っていると言えばよかったじゃないか」
そう言われて言葉に詰まった。こちらはお前のために、と思う気持ちをぐっと抑え込んで小さく息を吐く。この男は本当に、人の気も知らないでケレンの欲しい言葉を差し出してくる。それが暴力的に、ケレンの気持ちをかき乱すことを知らないのだ。
「お前が目の敵にされたら困るだろう」
「俺はお前があの男からちょっかいをかけられているのを、見ていることしかできない方が嫌だ。恋人なら堂々と庇ってやれるだろう」
「偽の恋人なのに、そこまでして目をつけられることはない」
そう言うことで喜びそうになる心を諫めた。少し不服そうな顔をするヨルドにそれでもいいと言われる。どうする?と問う真摯な紅い瞳に射抜かれた。彼に引く気はないようだ。
ライオネルにヨルドがすきだと知られてしまった以上、ケレンの片想いだと押し切っても、ヨルドに恋人のふりをしてもらっても、大差はないように思えた。ヨルドが言うように、実際に恋人がいるという方が無理矢理婚約に漕ぎ着けられなくてよいかもしれない。そう考えてしまうのは、偽りでも彼の恋人になりたいと願っているからか。
結局巻き込んでしまったなと少し後悔した。けれど結局、ケレンが離してやれない以上、こうなることは必然なのかもしれない。
「じゃあ、よろしく頼む」
そう言ったら、ヨルドの顔が笑みにとろけた。まさかそんな反応をされるとは思いもよらなかった。面食らったケレンがよほどおかしな顔をしていたのか、伸びてきた指に頬を柔く摘ままれた。それがまた、心をくすぐるのだから困る。
「なにする、」
「そんな顔しなくても大丈夫だ。相手が皇太子だろうと、俺はお前を渡したりしない」
「あまり突っかかると返り討ちに遭うぞ」
「おいおい、お前の騎士はそんなに頼りなく見えるか?」
摘ままれていたはずの頬をいとおし気に撫でられて、心が甘く熟んだのを感じた。その心の奥が切なさに疼いて、そうだなと誤魔化す笑みが引き攣る。
騎士としてのヨルドが強いことはケレンがいちばんよく知っている。ケレンのためなら自分の命を投げ打つ覚悟で鍛錬に勤しんでいることも、有事の際には実際にそうするだろうこともよくわかっている。けれど、同時にライオネルには絶対に敵わないことも知っているから苦しい。
原作では、実際にヨルドに手を下したのが誰なのか明かされていない。ライオネルを襲撃した際に返り討ちに遭ったとしか書かれていないのだ。もしかしたら傍に付き従っているエスクアが、皇太子を護ろうとして斬り捨てたのかもしれない。どちらにせよ、ライオネルに関わってよいことなどヨルドにはひとつもなかった。
「ケレン、本当になにもされてないか?俺に言えないことがあるんじゃないか?」
ケレンの表情からなにかを悟ったのだろう、ヨルドが馬車の床へと膝をついた。泣きそうな顔をしていると両掌で頬を包まれると、そんなつもりはないはずなのに本当に泣きそうになるのだから困る。ヨルドの掌は硬くて、日頃から鍛錬を怠らない騎士の手をしていた。少し低めの体温がいとおしくて、その手の上から掌を重ねる。
「お前が心配するようなことはなにもないよ」
「困っていることがあれば俺を頼れよ。世界中を敵に回しても俺だけはお前の味方だからな」
「そんな大それたことはしないって」
そう笑うと、心配が浮かんでいたヨルドの顔も笑みに崩れた。彼のその言葉が本心からの本物であるということをケレンはちゃんと知っている。だから、護られるだけじゃなくて彼のことも護りたい。
彼だけは、この命に代えても絶対に護る。
「俺もお前のことだけは絶対に護る。だから傍にいてくれ、ヨルド」
ヨルドと恋人のふりを始めてから、不愉快な目に遭う確率が目に見えて減った。それまではヨルドの目を盗んでケレンの恋愛対象が同性だと勘違いしている輩から不躾なことを言われたり、ブラッドリーとその取り巻きからあからさまな嫌味を言われたり、ときには知らない男から迫られそうになったりしていたが、ケレンがヨルドの恋人だと知った途端に誰からも口を出されなくなったのだ。
ふたりが恋人同士だということは、いつの間にかアカデミー中の公然の秘密のようになっていた。常に一緒にいるふたりの関係性は側から見てもなにも変わらないのに、周りの認識に変化があるだけで扱いがこうも変わるらしい。
噂はライオネルの耳まで届いているはずだが、今のところ反応はなかった。図書館でのあの言動はただ、ケレンを揶揄っていただけなのかもしれない。それでもあのとき見つめてきた目の奥の、闇の底知れなさを思い出すだけで背筋がぞっと粟立つのだった。
「皇太子殿下は相変わらずよ。闇を上手くコントロールできていると思う。お元気そうだわ」
アメリアには相変わらず、定期的にライオネルからの呼び出しがあるようだった。臥せっていることは少なく、ライオネルが〈あれ〉と呼びケレンたちが〈闇〉と呼ぶことにしたものを身体の奥底へと押し返すために呼ばれているのだという。彼女も何度か身体の状態について問いかけてみたものの、のらりくらりと誤魔化されるだけだったらしい。
「あなたが腹を決めてくれてよかったわ。少なくとも、無理矢理あなたをどうかしようとはしないでしょうから」
「そんなこと、本当にしてくると思うか?」
「ええ。本気であなたが欲しいと思えばするでしょうね。心が闇で支配されてしまえば」
アメリアはそう言ってしれっと紅茶を口にした。それからその隣で頭を抱えるケレンを見て、大丈夫よと眦を笑みに弛める。
ふたりは昼下がりのカフェテリアで少し遅めのランチを取ろうとしていた。アメリアお気に入りのテラス席の周りには、時間がずれているおかげで誰もいない。ヨルドはケレンとアメリアの分も含めて昼食を買いに行ってくれていた。ケレンがアメリアとふたりで話したいと言ったからだ。
アメリアの話によると、ライオネルの中にある闇はそのうち、彼の心を支配してしまう可能性があるらしい。時折具合が悪くなるのはライオネルの身体が闇の支配から逃れようと抵抗しているからだという。彼女の話を聞きながらケレンは頭を抱えた。最早ここがケレンの生きる現実世界だとわかってはいても、そんな特異な設定を付け加えないで欲しかった。
「大丈夫よ、ケレン。今のところは上手くコントロールできているし、殿下には専属の治癒魔術師がついているわ。あなたはヨルドのことだけ考えていたらいいから」
穏やかな声でそう言われて思わず顔を上げた。声だけでなく穏やかな笑みまで向けられてしまうと、なんだか本当に大丈夫だと思えるのだから不思議だった。本の中ではライオネル側だったアメリアが味方でいてくれる心強さったらない。
「あのさ、どうして俺とヨルドのこと、」
「だって駄々洩れだもの。どうして教えてくれないの?」
「そんなに駄々洩れ?」
恐る恐るそう聞いたら、頬杖をついたアメリアに呆れたような溜息を吐かれた。アメリアに話せなかったのは彼女を騙している罪悪感があるからだった。ケレンはヨルドに恋をしているけれど、本当の恋人同士というわけではない。それでも彼女が言うように、駄々洩れている自覚がないと言えば噓になった。これはふりなのだからと一日に何度も何度も言い聞かせていないと、今までよりも大分甘くなったヨルドの態度についていけない。当たり前だった距離感や一挙一動にいちいち心がときめいて忙しいのだ。
ごめんと謝れば、まぁいいわとあっさり許してくれるのも彼女らしい。
「みんなヨルドが俺の恋人だって知っているのは、俺の態度のせいか?」
「それもそうだけれど、ヨルドが睨みを利かせているからよ。彼は独占欲が強いの。気づいていなかった?」
「俺の前ではいつも通りだけど?」
「たとえばその指環、ヨルドのイヤーカフとお揃いでしょう?しかも侯爵家の紋章が入っている。令嬢たちの間では遂に婚約されたのねって噂で持ちきりよ」
「婚約!?そんなことはまだ、」
「まだ、そこまでの話はしておりませんよ」
いつの間にか戻ってきていたヨルドがにこやかにそう対応した。食事が載ったトレーをテーブルに置くとケレンの隣に座る。本人は助け舟を出したつもりかもしれないが、全然助かっていなかった。アメリアからの温かな視線をやり過ごすようにヨルドを睨んでも、彼は全く気にしていないように見える。顔を赤くして誤魔化そうと躍起になっている自分が馬鹿みたいだ。
「そう。まだ、していないの。先に婚約してしまえば、殿下を遠ざける理由になるのに」
「こういうことは俺の一存でどうにかなることではありませんから。侯爵さまにもご相談しないと」
「おじさまはケレンに甘いもの、きっと認めてくださるわ。それで、その指環は俺のものだという意思表示?」
「ええ。虫除けには効果抜群でしょう?」
満足そうに笑うヨルドは本当に満足そうな顔をしているように見えた。恋人のふりだとわかっているのにそんな顔をされたら困ると思っているところへ、アメリアが女の子らしい歓声を上げる。恋愛話に興じるくらいなら本を読んでいた方がいいと常々言っているアメリアも、ケレンとヨルドのことになると話は別らしい。これはあくまでもライオネルを遠ざけるための対策なのにと、真っ赤になった顔でヨルドを睨む。
「そんなかわいい顔で睨んでも怖くないぞ」
「かわいくないし、なんでいきなりそんなことを、」
むくれて拗ねた声を出したところへ、ヨルドがぐっと身を寄せてきた。思わず一瞬息が詰まる。その反応を面白がるように彼の口端が弧を描いた。
「恋人のふり、するんだろ?」
耳元でそう囁かれて、耳朶にじわりと熱が滲んだ。あまりに余裕綽々な態度のヨルドにどぎまぎしている自分が悔しい。そうしてなんでもないふりをするくせに、そっと指でケレンの指環を撫でたりするのだから質が悪かった。ふりだと思っているからこそ、揶揄って遊んでいるのだ。けれど本当に彼に恋している身としてはたまったものではない。ケレンの気持ちを知っていてわざとやっているように思えてくる。
「あまり揶揄うものじゃないわ。ケレンがこんなにかわいいことがほかの人にバレてしまうわよ」
「それはよくないな。ケレンは自分に無頓着だから、どんなに魅力的かわかっていないし」
ヨルドがわざとらしく溜息を吐いてケレンから手を離した。そっと安堵の息を漏らしたのも束の間、今度はふたりで如何にケレンが自分の容姿に無頓着であるかを話し出した。
原作の中でもケレンは〈氷の美貌〉と称されるだけあって綺麗な顔をしている自覚はあった。前世の記憶を取り戻してからは、本当にこれが自分の顔なのかしばらく信じられなかったくらいだ。恋愛対象が同性だと知られて以来、何度か告白されそうになったこともある。それでもヨルドやアメリアが言うほど魅力的だとは思わない。ブラッドリーにか弱いと揶揄されるほど軟弱だし、侯爵令息としては能力も平凡だ。魅力的だというのなら、よほどヨルドの方がいい男だと思う。
ヨルドは虫除けだと称して指環をくれたが、ケレンからしてみれば彼のイヤーカフの方がその効果を発揮していると言えた。それを付けだしてから彼に色目を使う令嬢の数が目に見えて減ったのだ。侯爵家の紋章が入っているそれは、いわばお互いがお互いのものだということを証明している。ヨルドはケレンの知らないところで、それらを作る了承を父から得ていた。侯爵家お抱えの職人が作らせたそれらは、身に着けるといやに存在感を発揮する。
ヨルドに先手を打たれて逃げ道を塞がれてしまったので、ケレンはやむなく父にヨルドとのことを報告する羽目になった。ヨルドがすきだと告げたときの父の反応はまさに、娘を嫁に出す父親そのものだった。ヨルドが相手だということに納得せざるを得なかったのか、ずっと傍にいたのだものなあと感慨深げだった。これがアメリアとの婚約回避するための嘘だとは夢にも思っていまい。
「お食事中申し訳ございません」
アメリアに揶揄される居心地の悪さを感じながら食事をしているところへ、エスクアが訪ねてきた。アメリアが意外そうな顔をしたのはついこの前呼び出されたばかりだからか。しかし彼は彼女が立ち上がろうとするのを止める。
「本日はテディさまに御用があって参りました」
そう頭を下げたエスクアに嫌な予感が募った。不安が顔に出ていたのか、伸びてきたヨルドの手が安心させるようにケレンの手を握ってくれる。はっとして彼を見ると、大丈夫だと言うように小さく頷いてくれた。
「なんでしょう?」
「殿下がテディ様とお手合わせを願われております。ご足労願えないでしょうか」
初めて挨拶した日、ライオネルはヨルドにいつか手合わせをと願っていた。あれは建前ではなく本音だったのか。ヨルドはその申し出に意外そうな顔をしていたが二つ返事で了承した。
エスクアに連れられて演習場を訪れると、腕に覚えのある生徒を相手に模擬をするライオネルをひと目見ようと人だかりができていた。易々と相手を打ち負かす様子に拍手喝采が沸いている。相手を務める生徒たちは皇太子相手だからと手加減しているわけではなく、本気で敵わないようだった。負かされた男たちは地面に転がって肩で息をしている有様だ。
最後のひとりを弾き飛ばしたライオネルがケレンたちに気づいた。浮いた汗を手の甲で拭った彼に、エスクアがお連れしましたと頭を下げる。彼に習って頭を下げたところへ、ライオネルが近づいてくる気配がした。足元に木刀が投げ捨てられた刹那、ヨルドが纏う気配が冴えわたった。
「それを取れ、テディ。手合わせの相手になれ」
頭を上げたヨルドがなにも言わずに木刀を拾った。いつもは快活な表情を浮かべているその顔が静かに冷えているのを見て、ヨルドの腸が煮えくり返っているのを感じる。脱いだ上着を預かると、ヨルドがシャツの袖ボタンを外して捲り上げた。制服のままでは動きづらいだろうがライオネルを待たせるわけにもいかない。彼は鍛錬用に動きやすい服装をしているので、それだけでも有利に見える。
「ヨルド、無理だけはするなよ」
心配になってそう声をかけると、ヨルドがふっと表情を和らげた。心配するなとケレンの髪を乱暴に撫でてからライオネルと向かい合う。体格は同じくらいだが実力はどうだろう。ヨルドはこの中でも五本の指に入る手練れだが、ライオネルは何人もの手練れたちを打ち負かして見せたばかりだ。しかも息ひとつ乱れていない。
「せっかくだからひとつ賭けをしないか?」
「賭け?」
「わたしが勝ったら、今季の舞踏会でロックウッドのパートナーを譲ってもらいたい」
その申し出に野次馬たちが騒めいた。よほど腹が立っているのか、ヨルドは皇太子相手に不愉快さを隠そうともしていない。頷きもせず真っ直ぐに見つめてくるだけのヨルドに、ライオネルが首を傾げた。軽薄な笑みを浮かべるその顔になんとなく違和感を覚える。
「アメリア、殿下の表情おかしくないか?」
傍にいたアメリアに耳打ちすると彼女もケレンの意見に同意した。なにがおかしいと明確に言い表せはしないけれど、漠然といつものライオネルらしくない気がする。皇太子として表に立っている彼は、少なくとも今のように人を蔑むような笑みを浮かべたりはしないはずだ。
「どうした、テディ。勝つ自信がないのか?」
「いえ、俺の大切なケレンを賭けの対象にするのに気が進まないだけです」
「勝てばいいだけの話だろう?」
挑発するような声の響きには嘲笑が滲んでいた。それもライオネルらしくないのに、野次馬たちは誰も気に留めた様子もない。ケレンはこっそりエスクアの様子を窺ってみたが、相変わらずの無表情からはなにも読み取ることができなかった。
ヨルドがやるともやらないとも答えぬままライオネルが木刀を構えた。そのまま踏み込んでくるのを交わしたヨルドが反撃するように斬り込む。木刀同士がぶつかり合う甲高い音が響くと周りから歓声が上がった。一進一退の互角の戦いは今までよりも見応えがあるに違いない。
不安が募って、ケレンははらはらしながらヨルドの上着を握り締めた。打ち合うふたりの姿を見ているうちに、ヨルドが返り討ちに遭った場面が重なり始める。もしかしたらあのとき、ヨルドはライオネルと賭けをしたのかもしれない。勝ったらケレンを助けてやると言われて、結局返り討ちになった。真剣な表情でライオネルに食らいついていくヨルドに、もういいと叫びたくなるのをぐっと怺える。これは模擬だとわかっているのに、なぜだか酷く心が切迫する。ヨルドが劣っているわけではけしてないのに、絶対に勝てないと手に取るようにわかるからか。
薄い笑みを浮かべる余裕があるライオネルに比べて、対するヨルドは段々と劣勢になっていく。振り下ろされた太刀をどうにか弾き返して距離を取った彼は明らかに消耗していた。普段から鍛錬を欠かさない彼が、肩で息をしているのは珍しい。このまま打ち負かされたらどうしようと焦っているところへ、アメリアから魔法の気配がすると耳打ちされた。
ケレンも感じ取ろうと集中してみると、なるほどライオネルの周りには微かな魔法の気配が漂っていた。わかる者にしかわからない程度の変化だが、自分の能力値を魔法で底上げしているのだろう。魔法が苦手なヨルドが馬鹿正直に向かっていったところで圧倒的に不利だ。それをほぼ互角に戦えているなんて信じられない。
にたりとした笑みを浮かべたライオネルが木刀を構えた。助走をつけてヨルドの間合いに踏み込むと、受け流そうとしたヨルドの木刀を易々と弾き飛ばす。宙を舞った木刀がくるくると回りながら地面に転がった。その衝撃で尻もちをついたヨルドはすぐに膝をついて体制を立直した。そこへライオネルが一歩一歩ゆっくりと近づいていく。
よほど衝撃が大きかったのか、ヨルドが脇腹を抑えて呻いた。皇太子を睨むだけで立ち上がろうとしない彼の眼先へ、木刀の切っ先が突きつけられる。その様子に、ケレンは居ても立ってもいられなくなった。あのときとは違って、今なら助けに入ることができる。
いつの間にか演習場は静寂に包まれていた。どうしたのだろうと懸念するひそひそ話が僅かに空気を揺らすだけで、誰もが固唾を呑んで見守っている。不意にライオネルが木刀を振り上げた。その顔に表情はなく、いつも澄んでいる碧眼が黒く澱んでいるように見える。
エスクアが動くのとケレンが飛び出したのはほぼ同時だった。ヨルドへ駆け寄りながら必死に全身の魔力を搔き集める。防御呪文を口の中で唱え終わるのと、エスクアが鞘ごと抜いた剣で振り下ろされた木刀を受け止めたのもほぼ同時だった。魔法で攻撃が弾かれた衝撃で地面に転がったケレンを、咄嗟にヨルドが抱き留めてくれた。衝撃を殺しきれずにふたりして数メートル地面を滑る。
「大丈夫か!?」
慌てたようなヨルドの声に、それはこちらのセリフだと言ってやりたかった。ヨルドのおかげでケレンはほぼ無傷だが、彼は散々ライオネルとやり合ったあとなのだ。押さえている脇腹にじわりと血が滲んでいるのがわかった。血の気が引いたケレンを慮るように、ヨルドが大したことはないと無理に笑う。
それでもヨルドが生きている喜びに心が打ち震えて彼にしがみついた。自分よりも体格がよいヨルドを抱き締めてやれないのが悔しい。彼の心臓がしっかりと鼓動を刻んでいるのがわかる。それでようやく、ケレンは身体の力が抜けていくのを感じた。
「馬鹿、無理するなって言ったのに」
「心配させて悪かった。だが、無暗に飛び出したら危ないだろう。お前になにかあったらどうするんだ」
「お前を護ることしか考えられなかった」
正直にそう言えば、ヨルドに困ったやつだと言いたげに嘆息された。ごめんと謝れば、ありがとうと礼を言われる。
騒然とする野次馬たちの中心に立っているライオネルは、どうやら我を取り戻した様子だった。エスクアと共にこちらへとやってくると、すまなかったとヨルドへ手を差し出す。申し訳なさが滲んでいる顔に偽りがあるようには見えない。瞳も碧く澄んでいる。
ヨルドがその手を取ると、ライオネルが彼を引っ張り上げた。ヨルドは皇太子を前に平然としているように見えて、ケレンを支えに立っているのがやっとのように思えた。支えるようにヨルドの腰へと回した手からそっと魔力を送り込む。大々的な治癒には足りないが、今しばらく立っているには充分だろう。
「久々に手ごたえのある相手だったからつい夢中になってしまった。許せ」
「お褒めに預かり光栄です、殿下。ですが模擬で魔法を使うのは反則でしょう」
「お前も当たり前に使えるものだと思っていたが違うのだな。それであれだけ食らいついてこられたのか」
そう感心したライオネルだったが、魔法を使ったことに関しては謝るつもりはないようだった。
「それでもお前の負けだろう、テディ」
ヨルドがぐっと言葉を詰まらせた。ライオネルの勝ち誇ったような表情がいけ好かない。思わず意見を述べようとしたケレンの手を、ヨルドが引き留めるように掴んだ。
「そうですね。ただ、ケレンは俺のものです。申し訳ありませんが、殿下であろうと渡すわけには参りません」
そう言った彼に、護るように背後へと追いやられた。額に脂汗を浮かべるほど立っているのがやっとなくせに、そうしてまで庇ってくれることがうれしい。いつからお前のものになったのだと文句のひとつも言ってやりたかったが、それ以上に胸がときめいて苦しかった。ライオネルを牽制するための建前だとわかってはいる。わかっているのに、本当にそうだったらどんなによいだろうと心が願って止まない。
「それは騎士道に反するだろう。その上護衛のくせに主人に懸想するとは」
どう思う?と、ライオネルが野次馬たちを見やった。令嬢たちは曖昧な笑みを浮かべて瞳をそらし、令息たちはどうにか笑みを取り繕った。周りにいる誰もがライオネルの言動に戸惑っているのがわかる。エスクアが険しい顔で苦言を呈したが、引き下がるつもりはないらしい。
「ロックウッド、よく考えてみるといい。侯爵家にとってなにがいちばん最善なのか」
「殿下のパートナーは美しいご令嬢方から選ばれるべきです。わたしでは務まりません」
「このわたしがよいと言っているのに。それにお前は、どんな女よりも美しいぞ」
こんな公衆の面前で口説かれるとは思いもよらなかった。ヨルドが不愉快そうに眉を寄せる。野次馬たちが騒めいて、口々にひそひそと噂話を始めた。なにか反論しなければと思うのに、なにを言っても無駄なことがわかる。ライオネルのパートナーになりたくなどなかった。明確な脅し文句は言われていないのに、じっと見つめてくるにこやかな相貌の圧が強い。侯爵家とヨルドを人質に取られているのがわかって、焦る。
そんなケレンに助け舟を出したのは、やはりというかアメリアだった。ことを静かに見守っていた彼女が突然ふたりを庇うように、ライオネルの前へと立ちはだかったのだ。
「その言い分はあんまりですわ、殿下。この前わたくしに舞踏会のパートナーを申し込んでくださいましたのに」
嘆き悲しむような素振りをしながらも、まったく悲しんでいるように聞こえないところがアメリアらしかった。ライオネルが怪訝そうな表情を浮かべるのを見て、それがアメリアの口からの出まかせであることがわかる。ケレンとヨルドを助けるために機転を効かせてくれた、ケレンよりも大分小さいその背中が頼もしい。
アメリアの発言は野次馬たちを混乱の渦に落とし込み、それでいてこれが茶番であるかのように思わせることに成功していた。ライオネルは大勢の前でアメリアを蔑ろに扱うことができずに戸惑い、遂にはそうだったなと認めるしかなかった。
「すっかり忘れていたようだ。リデル嬢、よろしく頼む」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます」
アメリアが勝ち誇ったように優雅なお辞儀をした。ケレンはそれでほっと胸を撫で下ろして、今にも倒れそうなヨルドに再び肩を貸す。エスクアがさり気なくもう片方の肩を支えて、医務室の方へと連れていってくれた。ケレンが思うよりヨルドの足取りはしっかりしていたが、建物に入りひと目がなくなると気が抜けたようだ。頽れるヨルドを支えきれずに一緒になって廊下へと座り込む。エスクアがすぐに人を呼んでくると言って走り去ってしまうと、ずるずると横になった彼が頭をケレンの太腿へと載せた。
「大丈夫だ、ケレン。ちょっと気が抜けただけだ」
泣きそうになるケレンの頬をヨルドが優しく撫でてくれた。ぐったりとするヨルドの頭がずっしりと重たく感じる。その重みがそのまま恐怖の重さになった。彼の脇腹は先ほどよりもぐっしょりと血で濡れている。慌てて魔力を流し込むと、傷は深くないまでも魔法によるダメージが大きかったことが感じ取れる。
「昔よく、怪我するたびにこうやって治してもらったよな」
「今は無理に喋らなくていい」
「お前が思うより酷くない。こうして膝枕されて気分もいいし」
お道化たヨルドが静かに笑った。少し声が掠れて聞こえるのは疲労が溜まっているせいだろう。ケレンは汗で濡れた彼の髪を静かに撫でた。彼が言うように呼吸は穏やかになってきているし、状態は落ち着いているといえるだろう。それでもいつ、この身体から熱が引いてしまうのかと考えるだけでぞっとした。これは命に別条がある怪我ではないと、懸命に自分に言い聞かせる。
「おい、そんな泣きそうな顔をするなって。死ぬわけじゃあるまいし」
「こんな怪我をしてよくそんなこと言えるな」
「ケレンをひとり残して逝けるわけないだろう。あの男に負けたのは一生の不覚だ。俺が魔法さえ上手く使えれば、負けやしなかった」
「魔法なんて使えなくてもお前は充分強いよ、ヨルド。それにさっき庇ってくれてうれしかった。ありがとう」
「あの男にお前を渡しやしないって約束しただろう。まぁ、お前が言った通り返り討ちに遭っちまったけどな」
ヨルドがそう自嘲した。闇に呑まれかけたライオネルと真正面から遣り合って、これくらいで済んだのは幸いだったと思うしかない。太刀を振り上げたときのライオネルの顔には表情がまったくなかった。模擬であることを忘れて止めを刺そうとしたことに一切の疑問も感じていなかったのだろう。エスクアが止めに入ってくれなければ確実に仕留められていた。ケレンの防御魔法だけでは不完全だったと、今ならわかる。
その慣れない防御魔法を使ったせいで治癒に使う魔力が足りなかった。ありったけの魔力をぶっ放したので回復が追いついていないのだ。それでも徐々にヨルドの傷が癒えていくのを感じていた。そうしているうちにエスクアが人を呼んできて、ケレン共々医務室へと運び込まれた。
翌日の朝早く、ヨルドの元へ皇宮から治癒魔術師が派遣されてきた。ライオネルから言われてきたと言っていたが、実際に手配してくれたのはエスクアだろう。昨日ヨルドを屋敷まで送り届けてくれたときの彼は、いつもの無表情が嘘のように蒼白な顔をしていた。
ケレンは夜通しヨルドに付き添っていた。ヨルドの部屋はケレンの部屋の目と鼻の先だが、ケレンの部屋と違って内装も家具もシンプルにまとめられている。常にケレンと共にいるので、そこは無駄なものが一切ない寝に帰るためだけの部屋なのだ。
そこに置かれた、ケレンのものに比べると狭くて簡素なベッドの上でヨルドは安らかな寝息をたてていた。懸念していた熱が出るようなこともなかった。魔術師が掛け布団を剥いで彼の服を捲り上げた。昨日見たときは酷く抉れていた傷は、しっかりと塞がって僅かに跡が残っている程度だ。
「これは驚いた。ほとんど傷が消えていますね。一体どなたが治療を?」
「わたしです。幼い頃から怪我を治すのは得意なもので」
「それはそれは。この魔法は素晴らしい。治癒というより回帰ですね」
「回帰?」
「治癒というのは文字通り病や傷を癒すことです。ただあなたの魔法は傷や病を無かったときの状態に戻している。だから回帰なのです」
「同じことではないのですか?」
「治すという点では同じです。治癒魔法は時間を早めて治す、回帰魔法は時間を戻して治す。魔法での治癒では必ず傷跡が残ります。徐々に消えてはいくけれど、それは人体が持つ回復力に頼るしかない。その点、回帰魔法はすべてなかったことにできる。病も怪我も、たとえば呪いでさえも」
「呪い?」
怪訝そうなケレンの声に魔術師がはっとして口を噤んだ。軽口のつもりのお喋りが、つい話過ぎてしまったらしい。誤魔化すようにヨルドの傷口に掌を翳して治療に専念しているふりをした。そうしておざなりな治療が終わると、ケレンの追及を逃れるようにそそくさと部屋を出てしまった。
魔術師が口を滑らせた呪いとはライオネルに巣食っている闇のことだろうか。皇宮から派遣されてきた治癒魔術師なら彼の治療にも尽力したことだってあるだろう。その上でケレンの回帰魔法は彼の呪いをなかったことにできると言った。ライオネル自身からも根本を断てると言われたことを思い出す。これが、ケレンがライオネルから執着されている理由なのだろうか?
それはともかくとして、今はヨルドの容態の方が先決だった。枕元の椅子に座って安らかな寝顔を眺めた。彼が誰かの気配を察せずに眠り続けるなんて珍しいから、よほど身体がダメージを受けていたのだろう。そっと彼の手を取って両掌で握り締めた。そっと魔力の枝を伸ばして彼の体力が少しでも早く回復するように努める。治癒魔術師のおかげか、彼の身体に傷ついている部分はもうない。
無意識に手の甲を撫でていたら不意に握り返された。はっとしてヨルドの顔を見ると、ゆっくりと瞼が開いてぼんやりとした瞳が見つめてくる。大丈夫かと問えばその瞳に光が宿って、大丈夫だと笑ってくれた。
「ずっとついていてくれたのか?」
ヨルドが起き上がって、疲れた顔をしているとケレンの頬を撫でてくれた。申し訳なさそうな表情を浮かべるヨルドに笑い返すと、自然と腕が彼の方へ伸びていた。思うままにその身体に抱き着くと、腕の中の身体が驚いたように強張る。それでもすぐに長い腕に抱きすくめられて、たしかなぬくもりに包まれた。彼の鼓動がしっかりと生きていることを教えてくれる。
よかった。本当に、生きていてくれてよかった。
「心配させて悪かった。もうこんな思いはさせないから」
耳元でそう言う彼の声が微かに震えていた。少し身体を離してその顔を覗き込むと、悔しさに揺れる深紅の瞳が見返してくる。
「もう二度とあの男には負けるようなことはしない。俺の至らなさでお前を奪われたらたまったもんじゃないからな」
じっと見つめられたままそんな言葉を吐かれたら、平常心を保つことができなかった。跳ね上がる鼓動を知られないようにさり気なく身体を離して目を伏せる。赤くなる頬をどうにか隠したかったが、こんなに至近距離では難しかった。ヨルドが赤くなっていると揶揄するように笑うので、お前が恥ずかしいことを言うからだろうとなんとか誤魔化すことに成功する。
「お前に忠誠を誓うのは恥ずかしいことじゃあないだろう」
「そうだけど、紛らわしい言い方するから」
「恋人同士なんだからいいだろう」
ヨルドが至極楽しそうに笑うので、ケレンはなにも言えなくなってしまった。彼はケレンを揶揄うのが面白いのか、恋人のふりを楽しんでいるようだった。やっぱり俺のことがすきなのではないかと思わなくもないケレンだったが、過信して傷つくのは怖い。
どうしようもないくらいにいとおしいと想っているからこそ、怖い。
「なんだか面白がってないか?」
「お前の反応がいちいちかわいいからな」
「かわいいって、」
「あの男も言っていただろう?お前はどんな女よりも美しいって」
ライオネルにそう言われたときはなんとも思わなかったのに、ヨルドからそう言われるのは格別だった。口説いているようでもないヨルドの様子にときめいてしまうのが悔しい。本当にかわいいと思ってくれているらしいとわかっただけでもよしとするべきなのだろう。少なくとも、ヨルドの中の思慕にはそう想ってくれている気持ちが含まれているのだ。
「そんなこと、本気で思っていないくせに」
わざと拗ねたふりで唇を尖らせたら、ヨルドの眦が笑みに弛んだ。
「どうしてそう思う?幼い頃からずっとお前を見てきた俺が言うんだぞ」
「じゃあいつからそんなこと思っていたんだ。今までおくびにも出さなかったじゃないか」
「言わなかっただけで思っていないとは限らないだろう?俺は初めてお前に出逢ったとき、こんなに綺麗な人には二度と出逢うことはないだろうと思った。それからずっとそう思っている」
柔らかな声音でそんなことを言われたら、告白されているのだと勘違いしそうになった。さらに熱が滲んだ顔を俯けると、にやにやと笑いながら覗き込もうとしてくるのが憎らしい。一体どういう心持でいたら、そんなに余裕な態度が取れるのだろう。自分ばかりが彼のことをすきなのだと、暗に示唆されているみたいだ。
扉をノックする音がして、思わずふたりして顔を見合わせた。ほとんど抱き合っていると言って過言でない距離が急に恥ずかしくなって慌てて離れる。居住まいを正したケレンが返事をすると、入ってきたのはヨルドの父親だった。
慌てて立ち上がろうとするケレンをテディ子爵が止める。侯爵の息子であるケレンは彼からも敬われる立場だが、父である侯爵と比べても立派な体躯をしている彼に頭を下げられるのはどうも苦手だった。今回もご無沙汰しておりますと頭を下げられて恐縮してしまう。
「この度はうちの馬鹿息子がご迷惑をおかけ致しました」
「迷惑だなんてそんな。ヨルドは俺のために皇太子殿下と闘ってくれたのです」
「それでも、たかが模擬でこんな有様とは情けない。ケレンさまが魔法で護ってくださったとか。愚息を助けてくださり感謝申し上げます」
「こうなったのはヨルドのせいじゃありません」
きっぱりとそう断言するケレンに、再び頭を下げていたテディ子爵が怪訝そうな顔を上げた。ヨルドが手合わせ中に怪我をしたことは聞いていても、こうなった過程までは聞き及んでいないのだろう。彼だって息子がたかが手合わせで怪我を負うなんて信じられなかったに違いない。
「ヨルドのせいではない?」
「皇太子殿下が魔法を使ったのです。それから、勝敗がついて丸腰のヨルドに斬りかかろうとしました。俺とエスクアさまが止めに入っていなかったら、これだけでは済んでいなかったでしょう」
木刀を振り上げたときのライオネルの無表情を思い出すとぞっとした。そう告げている自分の声は至極冷静に響いていたが、内心そうならなくてよかったと安堵していた。あのとき間に合っていなかったらケレンはヨルドを失っていたかもしれない。
彼がいない人生など、想像するだけで怖かった。
「皇太子殿下はなぜそんなことを、?」
「勝ったら次の舞踏会でケレンのパートナーを譲れと言われたんだ。あんな男にケレンを渡すわけにはいかないだろう」
ずっと押し黙っていたヨルドが口を開くと、父親に対する不服そうな態度にテディ子爵があからさまな溜息を零した。
「なんだその口のきき方は。ケレンさまには敬称を付けろと言っているだろう。それにどうして舞踏会のパートナーの話にお前が絡む?ケレンさまのパートナーはアメリアさまだろう」
「今まではそうだった、というだけだ。これからは俺がケレンと舞踏会に行く」
息子にそう告白されたテディ子爵の目が丸くなった。ぽかんとする彼の顔を初めて見たケレンは思わずすべてを白状してしまいたくなった。貴族間で舞踏会のパートナーであるということは、将来的に婚約する可能性を秘めている。つまりは恋人同士であると婉曲して伝えているようなものだ。
「このことを侯爵さまはご存じなのですか?」
唖然とした声の響きに申し訳なく思いながら頷いた。どうやら父はテディ子爵にこのことを話していなかったらしい。ショックを受けると思ったのか、それともヨルドの口から直接聞いた方がよいと思ったのか。戸惑う様子を見る限りは前者であるように思えた。主従関係がある以上、侯爵から言われたら反論することさえできない。まだヨルドから言われた方が戸惑いを表に出せる。
ヨルドがそんな父親の様子に溜息を吐いた。
「狼狽えるなよ、親父。騎士たるもの何事にも動揺するなと常々言っているくせに」
「これが狼狽えられずにいられると思うか!?ケレンさまは次期侯爵になられるお方だぞ?そんな方に手を出すなどお前はなにを考えて」
「護衛騎士でいるだけじゃあケレンを護り切れないと思ったんだ。ケレンは皇太子殿下から求婚されている。ただ騎士でいるだけじゃあ、文句を言うことさえできない」
「相手が皇太子殿下では、お前ごとき太刀打ちできないだろう!」
「それでも誰にも渡したくなかった。だから恋人になってくれと言ったんだ。ケレンはそれを受け入れてくれた」
至極真摯な瞳を向けられたテディ子爵が言葉に詰まった。言いたいことは山ほどあるだろうし、易々と認められるものでもないのだろう。ヨルドの言葉に嘘偽りがないことを悟ったのか、子爵が仕方がないと言いたげな溜息を吐いた。傍で見ていることしかできないケレンは、その様子に申し訳なさが募る。
「申し訳ありません、テディ子爵。ヨルドを俺の事情に巻き込んでしまって」
「どうしてケレンが謝るんだ。俺から申し出たことだろう」
「そうだけど、」
「あなたが謝る必要はありませんよ、ケレンさま。わたしの方こそ取り乱してしまい申し訳ありません。まさか馬鹿息子があなたのお眼鏡に叶うとは夢にも思わず」
そう言ってテディ子爵が苦笑った。ケレンに対しては先ほどまでの戸惑いを見事に飲み込んで、いつも通りの態度に戻っているのは流石だ。
「てっきり、アメリアさまとご婚約されるとばかり思っていたものですから。本当にヨルドでよろしいのですか?ケレンさまなら選り取り見取りでしょう?」
その問いへの答えは決まり切っていた。これが恋人のふりで、いずれすべてが丸く収まったあとに解消するつもりだとしても、これだけは自信を持って言える。
「俺はヨルドじゃなきゃ嫌なのです」
そう言ってしまってから、鼓動が緊張に高鳴りだした。それでも最大限威厳を保ったまま子爵を見つめると、彼が胸に手を当てて頭を下げる。
「不束な息子ですがよろしくお願い申し上げます、ケレンさま」
そう言われた声音の柔らかさに思わず頬が笑みに崩れた。ヨルドの方を見やると、彼はやれやれと言いたげな表情を浮かべている。
仕事に戻るという子爵を廊下まで見送りに出ると、ヨルドに声が届かないところまで来たところで、本当によいのかと念押しされた。ヨルドに無理強いされたのではと懸念しているらしいと見えて、思わず苦笑ってしまった。
「ヨルドは昔からケレンさまのことになると融通が利かないのです。ケレンさまに初めて逢ってからというもの、あなたの護衛は自分がやると譲らなくて。年こそひとつ上ですが、護衛とするにはヨルドはまだ幼かったので、兄の方をつけるはずだったのですが、どうしてもと頼み込まれまして」
「ヨルドは騎士として充分過ぎるほど優れています。俺のためならきっと命だって投げ出してくれる」
実際そうして命を落とす運命なのだということは、テディ子爵が知る必要はない。ケレンのために死ぬかもしれないことが知れたら、なんだかんだ息子を溺愛しているこの男は彼をケレンから遠ざけようとするかもしれない。それとも、それが護衛騎士の本懐だと言うだろうか。
いずれにしろ、ケレンの中にヨルドから離れるという選択肢はない。
「だから俺もヨルドのことを護りたいと思っています」
「魔法に秀でているケレンさまの方がヨルドより強いかもしれませんな。重ね重ね、息子を護っていただいたこと御礼申し上げます。それから、息子の想いを受け入れてくださったことも」
「ヨルドはああ言っていましたが、俺の想いに応えてくれたのはヨルドの方なのです。これから婚約の話も出てくるかもしれないのに、申し訳ありません」
「謝る必要はないと申し上げたでしょう。ヨルドはあなたに出逢ってから、あなたのことしか見ていなかった。そんな男が婚約したところで妻を顧みられるとは思いませんよ。もし想いを遂げなかったとしても、ケレンさまのお傍にいる方がずっとしあわせだったはずです」
「そうでしょうか」
「父親であるわたしが保証します。初めてあなたに引き合わせた日、ヨルドは運命に出逢った。あなたは息子の初恋なのです」
ヨルドの父親から柔らかな声音でそう言われると思わず泣きそうになってしまった。それを誤魔化すように笑って、暇を告げたテディ子爵を見送った。その背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしながら、本当にそうだったらいいのにと願って止まなかった。




