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第二章

 皇太子殿下からの招待状は、早速翌日の朝早くに届けられた。皇宮の蜜蝋が押された封筒を受け取って仰天したに違いない。朝いちばんに執務室へと呼ばれたケレンは、少々難しい表情を浮かべる父と対面することになった。父の隣には母と弟もいる。

 ソファの間のローテーブルには封が開けられた招待状が広げられている。そこには簡潔な文章で情報交流会の日時と、アメリアに是非同席して欲しい旨が書かれていた。

「皇太子殿下がアカデミーに入学されたことは知っていたが、すでに情報交流会を発足させていたとは。メンバーは主要貴族の息子たちか?」

「そのようです。ブラッドリー伯の令息を中心に、その他宰相や大臣の息子が主かと」

「それを考えるとケレンに声がかかるのが遅過ぎたくらいだが、正直なところあまりお前を関わらせたくはない。お前は嫡男だが、政治にはあまり興味がないだろう?」

 そう問われて返す言葉に詰まった。原作通りのケレンであれば父の領地や爵位を立派に継ぐ嫡男だったのだろうが、実際のケレンは全く父の言う通りだった。まだ齢十六の少年たちとはいえ、同級生たちは自分たちの将来を見据えて皇太子に気に入られようと必死になっている。彼らは将来立派に父親の地盤を継ぎ、この国を引っ張っていくことだろう。一方のケレンは正直、将来のことまで考えている余裕がない。そもそも、あるはずの将来さえ脅かされている。今はただライオネルとは距離を置いておきたいのが本音だ。

「皇太子殿下より直々にお声がけ頂いた以上は行かないわけにはいくまい。政治に関する情報交流ならエヴァンの方が向いていると思うが、代わりに行かせるわけにもいかぬだろう」

「僕も許されるなら兄さんの代わりに行きたいくらいです」

 六つも年下だというのに、エヴァンはケレンよりも領地経営に熱心だ。この弟がいるからこそ、ケレンはのうのうと自分の行く先だけを考えていられる。叶うことなら喜んで、情報交流会への出席を譲りたかった。父は非常に優秀な統治者だが、その功績をケレンに押しつけられても困る。

「ありがとう、エヴァン。お前がいるから俺は安心していられる。お前が望むなら後継者を譲ってもいいくらいだ」

「おいおい、まだまだ父は現役だぞ?」

 父がおどけるように笑うと、穏やかに事の成り行きを見守っていた母も小さな笑い声を上げた。それで少し張り詰めていた空気が一気に弛む。

「ケレン、わたしはいい経験だと思うわ。それにアメリアをご招待くださったのだもの、男性だけの堅苦しい会というわけでもないのではなくて?」

「皇太子殿下はアメリアをお気に召したのだと思います。それで俺を招待したのかと」

「ふむ、それなら皇太子殿下の意向を探ってみるがいい。アメリアも一緒ならお前も安心だろう。ヨルドも連れていけと言いたいところだが、あいにくその日はエヴァンの護衛を頼みたくてな。皇宮の中なら護衛をつけなくとも安全だろう」

 それで話がまとまった。両親に挨拶をしてから部屋を出ると、外で待っていたヨルドに大丈夫だったかと問われた。それに頷くと、連れ立って馬車へと向かいながら話の内容を掻い摘んで話す。皇太子が指定した日とヨルドがエヴァンの護衛を務める日が同じだと知った彼の、苦々し気な表情が可笑しかった。

「笑うなよ、ケレン。俺は心配しているんだぞ」

「ごめん、すごい顔しているから。大丈夫だ、皇宮の中だし危険はないって父さまも言っていたし」

「そうじゃない。この前も皇太子殿下の前で倒れそうになっただろう。また具合が悪くなるんじゃないかと心配なんだ」

「ああ、あのときはちょっと、悪い夢を思い出しただけで、」

「ふぅん?」

 ヨルドが皇太子に討たれる夢だということは口が裂けても言うつもりはなかった。ヨルドはケレンが話すつもりがないことを悟っているのか、少々不満げな表情は浮かべつつ深追いしようとはしてこない。

 彼に心配されると、ヨルドがいない不安に苛まれそうだった。けれどライオネルとふたりきりというわけではないし、なによりもアメリアが一緒だ。彼はケレンを招待することでアメリアを招待することに成功したに過ぎない。ケレンはあくまでもアメリアのおまけだ。

 そう、自分に言い聞かせる。

「殿下はアメリアとお近づきになりたいのだろう。手始めに俺をだしにして彼女を招待したんだ。アメリアだけを令息ばかりの交流会に招くわけにもいかないからな」

「交流会にはブラッドリーとその取り巻きがいるんだろう?俺はあいつらにお前が馬鹿にされるのが許せないんだ」

「あいつらのことは気にするだけ無駄だ。アメリアが一緒にいるんだから、そう心配しなくて大丈夫だよ」

「たしかに、アメリア嬢はお前を馬鹿にされるのは許さないだろうな」

 一応それでヨルドは納得したようだった。いつだってケレンのことを心配してくれる彼を、ずっとこのまま失いたくはなかった。それにヨルドが同席していないことは、ライオネルから目をつけられる心配がないということだ。ケレンはアメリアのおまけとして、彼女とライオネルの仲をできるだけ取り持てばいい。

 そう自分に言い聞かせながらも、湧き出る不安を拭いきれなかった。



 情報交流会にはアメリアのほかに婚約者や姉や妹などが招かれていた。アカデミーで見たことのある顔もあれば全然知らない令嬢もいて、交流会はまず自己紹介から始まった。アメリアは皇宮へと向かう馬車に揺られているときから不機嫌さを隠すことなく、むっつりと黙り込んだまま手元の本から目を上げようとしなかった。サロンに入ってからはさすがに表情を和らげているものの、ここに来るのをよしとしていないことだけは隠していない。

 ライオネルのサロンは、広大で見事な皇宮の庭に作られたガラス張りの温室だった。色鮮やかな花々が咲き乱れ、柔らかな日差しがガラスを通してふんだんに降り注いでいる。おそらく令嬢たちのためにこの場所を設えたのだろう。テーブルは男と女で分かれており、令嬢たちの方には華やかなお茶菓子や紅茶が用意されている。

「この前素敵なドレスをあつらえましたの。是非見ていただきたいわ」

「今度お茶会を開きましょうよ。アメリアさまも是非ご参加なさって」

「ええ、是非ご一緒したいわ」

 そう答えたアメリアがお喋りに花を咲かせる令嬢たちに辟易しているように、ケレンも繰り広げられる政治談議に辟易としていた。話している内容は理解できたが、互いの父親を褒めそやす会話がそこここに差し込まれるのにうんざりする。口を挟む隙間もなさそうなので、ケレンはひたすらにこやかな表情を貼りつけて話を聞き流すことに徹していた。

 集まっているのは主に政治の中枢を担う有力貴族の息子たちだ。互いに競争意識を持っているから、皇太子直々に招かれたケレンにわざわざ話を振るような真似はしない。政治の中枢は爵位に関係なく有能な者が取り立てられるので、互いに牽制しながらも互いの出方を窺っているのがわかる。ライオネルはそんな議論を面白そうに聞きながらあらゆる方向へと話題を広げていった。将来自分の周りを固めるであろう男たちの能力を見定めているのかもしれない。この場ではケレンは真っ先に落第だろう。

本当に、この場にいるべきは弟のエヴァンの方だ。彼はまだアカデミーに入学する年齢に達していないが、難しい本を読み漁り政治の動向に目を光らせている。ケレンよりもそういった感覚が鋭いし、いずれは父の跡を継いで立派な侯爵になるだろう。ケレンは爵位を継いだあと、すぐに彼にすべてを任せて領地に引っ込みたいと考えていた。今は首都の屋敷に身を寄せているが、首都よりも南にある侯爵領は穏やかな土地柄だ。農作物が豊かに実り、夏も涼しく過ごしやすい。そこでヨルドと共に心穏やかに暮らしていければ、もうこれ以上はない。

「ロックウッド、お前はどう思う?」

 ヨルドとの未来を空想していたら、突然話を振られて我に返った。話をまったく聞いていなかったことに気づいてバツが悪くなる。小さな声で謝れば、令息たちから冷ややかな笑いを向けられた。しかしライオネルに気にした様子はなく、穏やかな笑みを浮かべたまま、初めての参加なのだから仕方がないと言ってくれる。理想とされる皇太子らしい姿に、この男は本当にあの皇太子と同一人物なのかと疑いたくなった。

「殿下、ケレンに話を振っても無駄ですよ。こいつは嫡男のくせに政治にまるで興味がないんだから」

「そうそう、弟の方がよほど向いているという噂です」

 ブラッドリーの取り巻きのふたりにせせら笑われた。それに気をよくしたブラッドリーがにやにやとした笑みをケレンに寄越す。馬鹿にされていることはわかったが、まったくその通りなので反論する気も起きない。ヨルドがここにいたらおそらくそんな口はきけなかっただろう。この男たちはいっぱしの口をきくくせに、ヨルドにひと睨みされるとすくみ上がるのだ。

「あら、政治に興味がないからって馬鹿にするのですか?嫡男だからといって必ずしも政治に関わらないといけないわけではないでしょう?幸い侯爵家には優秀なエヴァンさまがいらっしゃいますし、ケレンもあなたたちより優秀です」

 男たちがあっけに取られて、いつの間にかケレンのうしろに立っていたアメリアを見た。彼女は真面目な表情でケレンを馬鹿にした男たちを見据えている。綺麗な顔にじっと見つめられて居心地が悪そうに、取り巻きのふたりが居住まいを正した。その頬がほのかに赤く染まっているのは、アメリアに苦言を呈されたのが恥ずかしいからだろうか。

「リデル嬢は面白い考え方をするのだな。たしかに、嫡男だからといって無理に政治に関わる必要はない。人には向き不向きがあるとわたしも思う」

 ライオネルに同意されて、アメリアは溜飲を下げたようだった。座るように促されて、侍女がケレンの隣に用意した席に大人しく収まる。令嬢が政治談議に加わることは珍しかったが、あちらでアメリアの言う〈無駄なお喋り〉に興じるよりはマシなのだろう。ここへは彼女とライオネルをお近づきにするために来たのだから、ケレンにとってはまたとないチャンスだ。それにアメリアが来たことで、向かい側に座るライオネルの表情は先ほどよりも和らいでいるように見える。

「失礼致しました、リデル嬢。ケレンを馬鹿にするつもりはなく、」

「ヨルドがここにいたらそんな口はきけなかったのではなくて?彼がいないからってケレンを馬鹿にするのはいただけないわ」

 返り討ちにあった取り巻きふたりが身を縮こまらせた。そのやり取りが可笑しかったのか、ライオネルが声を上げて笑う。

ケレンはブラッドリーの表情が冷え冷えとしているのを見た。今まではライオネルの取り巻きとして頭角を現していたのに、アメリアに打ち負かされたのが気に入らないのだろう。これは嫌な予感がする。

「リデル嬢はケレンのことになると随分とムキになるのですね。この前は婚約者ではないとおっしゃっておられましたが、今後そうなるのではありませんか?殿下もお似合いだと思いますよね?」

 ブラッドリーの言葉が和やかな空気を凍らせた。この男はライオネルがアメリアを気に入っていることを知ったうえで、ケレンを煽っているのだ。すぅっと心が静かな怒りに冷えていくのを感じた。せっかくの努力を、この男の身勝手で壊されてはたまらない。

 アメリアに打ち負かされた仕返しをされているのだとわかっていた。ライオネルの表情が僅かに強張るのを見て、彼がブラッドリーの言葉に懸念を抱いたことを感じる。あくまでもそうだなと答えるにとどめているものの、内心どう思っているのかはその表情からは読めない。

 ライオネルに目をつけられる恐怖よりも、ブラッドリーへの腹立たしさが勝っていた。この男は本当に、いざというときにいちいち突っかかってきて、ケレンの思惑を台無しにしてくれる。ケレンを陥れることだけを考えているような男のことを歯牙にかける必要はない。それでも、黙っているわけにはいかなかった。

 アメリアは反論したい気持ちを抑え込んだまま、ケレンの動向を窺っている。否定したいのは山々であっても、侯爵家の後見を受けている身では下手な発言はできない。普段なら勝気に物を言うくせに、いざというときにきちんとわきまえているところがアメリアらしい。

「ブラッドリー、憶測でものを言わないでいただきたい。殿下にあらぬ誤解を与えるだろう」

 思っていたよりも冷ややかで冷静な声音が出た。いつもヨルドに護られている〈見た目通りの可憐でか弱い〉ケレンがそんな反応を寄越したことに、ブラッドリーが息を呑む。

「アメリアと婚約する予定はありません。これはアメリアも承知のことです」

「そ、それならどうして一緒に暮らしているんだっ!?年頃の令嬢を迎え入れる理由などひとつしかないだろう!?」

 激昂したブラッドリーが立ち上がってそう喚いた。取り巻きたちも呆気にとられて彼のことを見上げることしかできていない。ライオネルの目の前で取り乱すくらいだから、いつも馬鹿にしているケレンに反論されたことが相当頭にきたのだ。

 言い負かしてやった、と思った。それで少しだけ気が晴れたのか、怒りがすうっと引いていく。令嬢たちもお喋りをやめて騒ぎに注目する中、すっかり周りが見えなくなったブラッドリーが、肩を怒らせて真っ直ぐにこちらを見据えてくる。怒りに燃える視線を冷静に見つめ返すと、彼の表情が次第に悔し気に歪んでいった。隣にいたアメリアがわざとらしく大きな溜息を吐いて、呆れたようにブラッドリーの想像力の乏しさを指摘した。

「あなたはケレンを陥れたいようだけれど、後見を受ける理由は人それぞれ違う理由があるはずよ。侯爵さまは困っていたわたくしとわたくしの家族を助けてくださったのです、殿下。ケレンが言う通りわたくしたちが婚約することはあり得ません。ケレンには想う相手がいるの。侯爵さまはケレンの気持ちを尊重なさる立派なお方だわ」

「ブラッドリー、これでは信じるしかあるまい。座ったらどうだ?」

 アメリアの言葉を受けたライオネルが、ブラッドリーをそう促した。ようやく頭が冷えたらしい彼が顔を真っ青にして椅子に崩れ落ちる。ケレンをか弱いと揶揄した彼の方が倒れそうだ。

「ロックウッド侯爵は稀有なお方なのだな。民想いの領主だと聞いているが、息子にも随分と寛大に接されているようだ」

 ライオネルにそう微笑まれたので、ケレンも曖昧な笑みを返した。彼に誤解を与えずに済んで安堵していたが、笑みを浮かべる頬が引き攣っているのがわかる。ライオネルが向けてくる笑みはどこか、表面だけの薄っぺらさがあった。それに気づいた途端、背筋が怖気だった。

「その思う相手と婚約をする予定はないのか?侯爵家なら喜んで申し込みも受け入れられよう」

「そうするつもりはないのです。あくまでもわたしが勝手に想いを募らせているだけですから」

「ほう、ますます気になるな。皆も気になるだろう?ロックウッド侯爵家の美しい嫡男でも叶わない相手とは誰なのか」

 ライオネルがテーブルに肘をついて身を乗り出した。にこやかな笑みの奥にある、探るような視線に冷や汗が背筋を伝い落ちる。遂に腹の底に押し込めていたこの男の正体が顔を出したのだとわかった。やはりこの男はアメリアや貴族たちに好印象を与えるためだけに、よき皇太子を演じているのだ。この場でそれに気づいているのはおそらくケレンだけだろう。

 今だって、ただ気になって聞いただけだ、という体を見事に装っていた。令嬢たちの気を引きやすい話題であるし、ブラッドリーを諫めるふりをしながらその役を引き継いで、ケレンを揶揄って遊んでいる。隣にいたアメリアの表情が、親しい者にはわかる程度に引き攣った。もしここにヨルドがいたら食ってかかっていっただろう。その場面を想像したら、心を占めていた不愉快さが僅かに弛んだ。

 彼がここにいなくてよかったと思う。こんな茶番に、大切なヨルドを巻き込みたくはない。

「お戯れを。あくまでもわたしの勝手な片想いだと申しましたでしょう」

「ふむ、どうしても教えぬと申すか。ではリデル嬢に聞こう。あなたならご存じなのでは?」

「殿下、不愉快なご質問はお控えください。あまりに無礼です」

 アメリアの冷たい一言でその場の空気がさらに冷えた。ライオネルの態度が癪に触ったとはいえ、その声には明らかな憤慨が滲み出ていた。感情を取り繕うのをやめたのは堪忍袋の緒が切れたからだろう。

 彼女が庇ってくれたことがうれしいのと同時に焦った。今ライオネルから目をつけられるのは避けたい。それにアメリアと彼の仲が変にこじれても困る。

「失礼致しました、殿下。彼女の失言をお許しください」

 不本意ではあるものの、ケレンは立ち上がって頭を下げた。アメリアも同じように頭を下げたが、本心はまったく悪いとも思っていないに違いない。彼女が皇太子に興味を示さなかったときから薄々あった疑いがこれではっきりした。アメリアは今のところ、彼に対して好意を抱いていない。原作での一目惚れ設定はどこかへ消えたらしい。

「リデル嬢は友人思いなのだな。ロックウッド、お前がその想い人を打ち明ければこの場は許してやろう。なにも名を明かさずともよい。どのような者なのだ?平民か?」

 その声には怺えきれないにやつきが滲み出ていた。侯爵家の嫡男ともあろう男が平民相手に熱を上げているという事実を想像するだけでおかしいのだろう。きっとこれから告げなければならないことは更なるおかしさを生むに違いない。

 好青年の皮を被るこの男の本性に、恐れながらも抗う決心がついた。おそらくこれでライオネルがアメリアとケレンの仲を疑うことはないだろう。そのためだけにケレンは胸のうちを明かさなければならない。こんな大勢の前で言うつもりはなかったが、それはこの際仕方がない。

 ケレンはひとつ息を吐いてから真っ直ぐにライオネルを見つめた。熱のない冷ややかな視線を受けて彼の表情から笑みが引っ込む。

「殿下、これはわたくしの失言です。お戯れはそれくらいに、」

「アメリア、大丈夫だ。殿下、お答えします。わたしの想い人は平民ではありませんが、ご令嬢でもございません」

「令嬢ではない?それはいったいどういう、」

「笑っていただいて構いません。わたくしの想い人は同性なのです」

 緊張で痛いほど高鳴っていた心臓は、そう口にしたときいやに冷ややかだった。ライオネルが豆鉄砲を食らったような顔をして、それから考えるように額に手をやる。予想外の回答に誰もなにも反応できないようだった。普段なら揶揄して笑うはずのブラッドリーもその取り巻きも理解しがたい表情を浮かべたまま固まっている。

 これで大丈夫だ、という確信は、不思議と得られなかった。それでもこの場を切り抜けられたのだとわかる。微かな不安を押し込めるように、ケレンは言葉を重ねた。これ以上は、もうなにも言うことはない。

「これでわたしがアメリアと婚約していない理由がおわかりいただけましたか。心に想う相手がいるのに誰かと婚約を交わすことはお相手に失礼でしょう」

「あ、ああ、そうだな。たしかにそうだ」

 ライオネルが答えたのはそれだけだった。


 帰りの馬車の中でアメリアはケレンに謝ったあと、事実を知ったあとのライオネルの態度をしきりに笑った。どうやらやり込められて満足しているらしい。

「今日はあなたが心配だったからついてきたけど、わたしは金輪際あんな男と関わるのはごめんだわ。皇太子だからといって、秘密を暴く権利なんて持っていないんだから」

「実は、殿下はアメリアをすきなんじゃないかと思っていたんだ。だから今日がそのいい機会になればいいと思っていたんだけど、俺のせいで台無しになったな」

「あなたが謝ることじゃないわ。ヨルドがあの場にいたらもっと大変なことになっていたんじゃないかしら。それに、わたしは皇太子殿下に興味はないのよ、ケレン。あなたやおじさまがおすすめしてくれてもお断りだわ」

 アメリアが断って当然だろうと鼻を鳴らしたので、つい笑ってしまった。たしかにいくら見目麗しい皇太子であろうとも、あんな性格の男に惚れる気がしれない。本の中のライオネルは王子様然とアメリアを護るヒーローだったのに、蓋を開けてみればその辺の男たちと変わらなかった。人を馬鹿にして笑うし、取り巻きに囲まれて王様のように振る舞っている。

 けれど一応の期待を込めて聞いてみた。ケレンとしてはアメリアがライオネルと結ばれる安全牌が欲しいのだ。

「本当に惹かれないのか?少しも?」

「あなた、あんな男とわたしをくっつけたいの?」

「女の子なら夢見たりするだろう?王子様に見初められるとか」

「わたしをその辺の女の子と一緒にする気?」

「それはそうだけど、そうはいっても皇太子殿下だぞ?」

「随分と食い下がるじゃない。わたしが殿下と婚約でもすれば侯爵家への恩返しになるでしょうけど、わたしは男爵令嬢なのよ、ケレン。いくら侯爵さまの後見があったとしても身分が釣り合わないし、それにあんな人は願い下げよ」

 そこまで言われてしまえば、それ以上食い下がることができなかった。先ほどの一件にアメリアは相当頭にきているらしい。冷え切った場の空気に耐えられずに帰ってきてしまったが、あのあとライオネルはどう取り繕ったのだろう。ブラッドリーやその取り巻きたちはおそらく、明日からケレンのことを好き勝手に吹聴するだろう。それを考えると気が重たくなったが、少なくともこれでアメリアとの仲を疑われることはない。

「ねぇ、ケレン。あなたはどうして殿下がわたしに好意を寄せていると知っているの?」

「見てればわかるよ。明らかにアメリアだけ特別扱いしていたし」

「本当にそれだけ?わたしとの仲を誤解されないよう、何度も明言していたように思えたけど?」

「それは、殿下がアメリアを気に入っているようだったから、」

 一応の安堵を感じていたケレンは、アメリアからの鋭い指摘にぎょっとして、咄嗟にはそれ以上の上手い言い訳が見つからなかった。じっと見つめてくる瞳は容赦なくケレンの心の内を読み取ろうとしているように思える。冷や汗をかきながら曖昧な笑みを取り繕ったところで、アメリアの言葉がケレンの笑みを奪っていった。彼女はそれで誤魔化されてくれるほど、愚かな女の子ではない。

「あなたは皇太子殿下に対峙する際、二回も倒れている。あの人がなにかあなたに悪いことでもしたの?」

「したよ、絶対に許されないことをあの男はした」

 つい、そう言葉が零れた。絶望と恐怖がそこここの隙間から忍び出て、ケレンの足下から這い上がってくる。絞り出すような小さな声を聞き取ったアメリアが、そう、とだけ言って静かにケレンがその言葉の先を紡ぐことを待っている。馬車が岐路を急ぐ車輪の音がやけにうるさく耳についた。不意にあの夢が目の前に蘇るようだった。本で読んだだけなのに、実際に経験したことがあるようなつらさを覚えるのは、それがなによりも大切なヨルドの最期だからだ。

「昔、幼い頃に夢を見たんだ。その中で俺は冷酷無慈悲な悪役令息で、母と弟を亡くした哀しみを慰めてくれたアメリアに酷く執着しているんだ」

「冷酷無慈悲な悪役令息?あなたが?」

「そういう夢なんだよ」

 どこまで話していいものか迷いながら、ケレンはあくまでも〈悪い夢〉だという体を保って本のあらすじを話した。本当に夢は見たのだし、嘘を言っているわけではない。そう自分に言い聞かせながらも、絶対的な味方である彼女に嘘を吐いているような罪悪感が、話す舌をざらつかせる。アメリアは口も挟まずに話を聞いてくれていたが、途中からは時々なにか思うところがあるような反応を示した。特にヨルドがケレンのために皇太子に楯を突いて討ち取られた場面では、悲痛な表情を浮かべて額に手をやった。

「まったくヨルドらしいわ。あなたのためなら命も顧みないところが特に。それで皇太子殿下からの断罪を逃れようと、わたしとの婚約を固辞したというわけね?」

「アメリアと殿下が結ばれるためには俺が邪魔なんだ。だから婚約さえしなければ、俺は殿下と関わらずにいられると思って、」

「でもなぜか今出逢ってしまった。それでわたしと殿下を近づけようとしたの?」

「アメリアの気持ちを考えなかったのは悪かったと思っている。でも、ヨルドの命を救うことに繋がると思ったんだ。俺が断罪されなければ、ヨルドが馬鹿な行動を起こすこともない。夢から醒めたとき、ヨルドが生きていてくれてあんなにうれしいと思ったことはなかった」

「あなたって本当にヨルドのことが大切なのね。でもね、ケレン。それはただの悪夢よ。その通りにはけしてならない。だってあなたはこんなにも優しいし、わたしはあの男にちっとも惹かれないもの。あなたには悪いけれど、わたしが殿下と結ばれることはないと思うわ」

 それはそれで困るのだとは言えなかった。アメリアとライオネルが結ばれることだけがケレンとヨルドを救う条件であるのに、いったいどうしてこうなったのだろう。けれどアメリアにこれ以上ライオネルに興味を持ってもらうのは、今のところ難しそうだった。



 思った通り、ケレンは翌日から好奇の目に晒されることになった。誰も表立って揶揄してきたりはしない代わりに腫物を扱うように接してくる。ブラッドリーとその取り巻きたちだけがにやにやとした笑みを浮かべて、その様子を面白そうに見ていた。やはりこの男たちがあることないこと好き勝手に吹聴したのだ。

 ヨルドには理由を話してしばらくの間距離を置いた方がいいと説得してみた。令嬢たちの噂であるうちはともかく、変な信憑性が出てしまうのは彼にとって本意ではないと思ったからだ。けれど健闘虚しく失敗に終わった。怪訝そうな顔をした彼に、護衛なのに傍にいなくてどうするのだと論破されてしまったせいだ。ヨルドに不愉快な思いをさせたくなかったが、今のところはケレンの方が折れるしかなかった。

「ここにいたのか」

 人気のない暗がりで膝を抱えていたケレンは、ヨルドが戻ってきてくれたことに安堵した。どうかしたのかと心配そうに問われたので、なんでもないと首を振る。ランチを買いに行ってくれた彼をもう少しカフェテリアに近い場所で待っていたのだが、知らない男たちに声をかけられたので逃げてきたのだった。

 カフェテリアでの好奇な視線から逃げてふたりきりで昼食を取るようになって数日、教室棟と研究棟を繋いでいる廊下には人気がなく、数段の階段が座るには丁度よかった。人目を気にせずにゆっくりと昼食を取るには絶好の場所だ。この場所を定位置にしていたので、ここにいればヨルドに探させる手間がないと思った。けれどあの男たちに見つかるのが怖くて、暗がりに隠れていたのだ。

「お前がそういう顔をしているときはなんでもなくないだろう」

 図星を突かれてぐうの音も出なかった。ヨルドがランチボックスを段差へと置くと、ケレンと目線を合わせるように片膝をついた。しっかりと目を見据えられてもう一度なにがあったのかと問われると、もう誤魔化す気も起きない。彼が傍にいて心配してくれる安心感に胸が淡く締めつけられる。

「知らない男たちに話しかけらたから怖くなって逃げただけだよ。本当に男がすきなのかとか、ヨルドとの関係を根掘り葉掘り聞かれたから、俺の噂を知っているんだろう」

「嫌なことはされなかったか?」

「うん、ちょっと距離が近くて怖かっただけ」

 それは事実だったが、ヨルド以外の男に間近に近づかれて、囲い込まれる恐怖を初めて感じた。舐めるような目で見つめられる不愉快さと恐怖が入り混じった気持ちに、まだ少し混乱している。それでももう大丈夫だった。だからこれ以上、彼を心配させる必要はない。

 それを聞いたヨルドが安堵の息を吐いた。

「お前の噂が出回って、よくないことを考える輩が出てくると心配していたんだ。それなのにお前は距離を置けと言う。これでわかっただろう、ケレン。俺の傍を離れるなよ。絶対だ」

「で、でも、俺と一緒にいると変なこと言われるし、お前までそうだと思われる」

「別になに言われたって気にしない」

「俺はお前を困らせたくないんだよ」

「別に困ってない。お前のいないところで、実際どういう関係なのかとか聞かれたりはしたが、お前なら男でもいける気がすると言われたから黙らせておいた」

「乱暴なことしてないよな?」

「乱暴なことはしていない」

 薄く笑ったヨルドを見て絶対嘘だと思った。彼はケレンのことを悪く言われると見境がなくなるのだ。

「本当?」

「お前に不利益になるようなことはしていない。ちょっと脅しつけただけだ」

「脅したって、」

「俺のものに手を出す度胸があるのならなって言っただけだ。そっちの方が、お前に変な気を起こす輩が減っていいと思ったんだよ」

 少し不貞腐れたようにヨルドが嘆息した。彼はケレンのためを思ってそう言ってくれただけだとわかっている。わかっているのに、どうしてこんなにうれしく思うのだろう。胸がときめいて苦しかった。彼が大切だから巻き込みたくないのに、自ら巻き込まれにきてくれたことがうれしい。特に深く考えることなくそう言っているあたり、恋とか愛とかいう類の感情ではないのだろう。

それで充分だ。

「変な気って、俺は男だぞ」

「現にさっき追いかけられたんだろう?それにお前は自分のことに無頓着すぎる。ブラッドリーが言っていただろう、ケレンは可憐でか弱いって。お前は華奢だからその気になれば簡単に抑え込まれるぞ。そういう気を起させるってことを自覚しろ」

「はぁ!?なに言っているんだよ」

 一瞬真摯な瞳に見つめられて鼓動が止まるかと思った。すぐに表情を崩したヨルドが、そう思っている男はケレンが思うより多いことを忠告する。

「だから充分に気をつけろ。アカデミーの中では常に俺かアメリア嬢と一緒にいてくれ。お前のことが見えないと心配で気が狂いそうになる」

「流石に過保護過ぎやしないか?皇太子殿下の護衛だってそこまで一緒にいるわけじゃない」

「あの人とお前は違うだろ。相手が明かされていない以上、万が一の好機を狙う男だっているかもしれない。お前は侯爵家の嫡男だ。見初められれば玉の輿だぞ?」

「揶揄ってるのか?」

「俺は本気で言っているんだ。ブラッドリーがなにか仕掛けてこないとも限らない。そうだ、いっそのこと本当に付き合っていることにするか」

「はぁ!?」

 思わず大きな声が出た。返す言葉が見つからなくて口をぱくぱくさせるケレンを、ヨルドが可笑しそうに笑う。一体なにを考えているのかわからなかった。いや、彼の言うことは一理あるしきちんと的を射ている。わからないのはどうして、そんなことを言い出したのか、だ。

「本当に相手がいた方が信憑性も増すだろう?それにお前のすきな相手が俺なら、誰も疑いやしない」

「ど、どこから出てくるんだ、その自信は」

「俺がお前至上主義なのはみんな知っていることだろう。それに、お前のことになると見境がなくなる。現に今、俺はお前のことをいやらしい目で見る男たちを殺したいと思っているし」

「冗談かどうかわからないことを真顔で言うのはやめてくれ」

「冗談なんかじゃない。俺はお前のためならなんだってできるぞ。だから俺にしておけ」

「言っておくがこれは俺がアメリアと関係がないとわからせるための嘘なんだぞ。お前がそこまでする必要はない。お前にいい縁談がこなくなったらどうするんだ」

 そう、これはあくまでもアメリアと婚約を回避するための嘘だ。ケレンの中にヨルドへの想いがあるだけで、ヨルドにとってはケレンが吐いている嘘に過ぎない。だからそう言ったのに、彼はケレンを喜ばせるようなことを易々と口にする。

「俺は結婚する気はないよ、ケレン。ずっとお前の傍にいて護ってやれればそれでいいんだ。それに、お前の相手が俺ではないと思われるのは癪に障る」

 声の響きはあくまでも冗談めかしていたが、その奥に隠された真摯さが痛いほど伝わってきた。これは愛の告白ではないとわかっているのに、言い聞かせていなければ錯覚しそうだった。その言葉選びだけを聞けば愛を囁いているように聞こえる。ヨルドは本心を隠すのが昔から上手い。だから本当はどう思っているのか、わからなくて困るのだ。

 彼を大切に思えばこそ、巻き込みたくはなかった。ケレンが抱えているこの気持ちは永遠に片思いでいい。そう思っていたのに、そんなことを言われたものだから決意が揺らいでいた。ヨルドの提案がうれしいのにうれしくない。嘘でもいいから彼の恋人になりたい。

 そう、願ってしまう。

「すこし考えてもいいか?」

「もちろん。俺はお前の意思を尊重するよ、ケレン。それにあくまでも噂が収まるまでの恋人のふりだ。深く考えることはない」

「ああ。そう、だな、」

 そう言われてほっとしなければいけないのに、ついがっかりしてしまった。揺らいでいた心がすっと冷静になる。ケレンのために言ってくれていることはわかっている。ただ、平気な顔でそう言えるヨルドからは特別な感情を感じない。それに勝手に傷ついてしまった。

 ヨルドの中にあるのは、ケレンに対する絶対的な忠誠と幼馴染としての思慕だ。それ以上でも以下でもない。最近やけにアメリアからヨルドはケレンをすきなはずだと言われるものだから、錯覚しそうになっていた。こんな気持ちを抱えているのはケレンだけだ。いちばんに大切にされていることがわかっているだけでも、満足するべきなのだ。

 気を取り直して昼食を取ろうと立ち上がったところで、どさりとなにかが落ちる音がした。怪訝な顔を見合わせてから音の方向を覗き込むと、人気のない廊下に誰かが倒れているのが見える。弾かれたようにそちらに向かうケレンをヨルドが牽制した。離れるのは危ないと言われたところで、病人を放っておくわけにはいかない。

 倒れたらしい男は這い蹲って荒い息をしていた。屈み込んでその肩に触れると、弾かれたように男がこちらを見る。一瞬驚きが浮かんだ表情はすぐに険しくなった。

「皇太子殿下?どうかされたのですか?」

「立ち眩みがしただけだ。たいしたことはない」

「たいしたことないわけがないでしょう。誰か人を呼びます。ヨルド!エスクアさまを探してきてくれ」

「だがお前を殿下とふたりきりにするわけには」

「今はそんなことを言っている場合じゃない。早く行け!」

 命令する響きを感じ取ったのか、ヨルドが表情を引き締めて敬礼した。それから踵を返すと、近くにいるはずのエスクアを探しに消えていく。

 ケレンはライオネルを仰向けにすると、呼吸がしやすいようにネクタイと第一ボタンを弛めた。膝を貸してほしいと懇願されたので、不本意ではあるが太腿に頭を乗せてやる。

「お前、治癒魔法は得意か?」

「使うことはできますが、どうしてそれを?」

「お前から治癒の力を感じる。リデル嬢からも感じていたが、まさかお前からもだとは」

「アメリアの方が治癒魔法に長けています。俺は見様見真似でヨルドの怪我を治してやる程度です」

「それにしては随分と魔力が強い。傍にいるだけで気分が和らぐ」

「どこかお加減でも悪いのですか?」

「少し疲れが溜まっていただけだ。ロックウッド、どこでもいいから触れてくれないか?最悪の気分が和らぐ」

 そう言われて断るわけにもいかず、ケレンはライオネルの額に触れた。実際に間近でこうして触れていると、相手の具合が悪いせいか、不思議と恐怖は感じなかった。特に魔力を込めたつもりはなかったが、じっとりと掌に伝わってきていた熱が段々と引いていくのがわかった。そしてその血脈の奥深くになにか、一筋縄ではいかない得体の知れないものが絡みついているのが微かに感じられる。あれはなんだろう。先ほどの熱と同じように、じっとりとして重苦しい、真っ暗ななにか。気になって、もう少し探ってみようと魔力の枝を指先から伸ばした。もう少しで届きそうだと思ったとき、それが突然牙を剥く。静電気のような衝撃に思わず手を引っ込める。鼓動が驚きにはぜた。あれは一体、なんだったのだろう。

ライオネルも驚いたように目を丸くしていた。

「申し訳ありません、殿下。静電気が、」

「いや、お前のせいではない。この身体はどうやら、強い魔力を感じると反発するようにできているようだ」

 起き上がったライオネルがそう自嘲した。先ほどよりは随分と顔色がよくなっていたが、額に冷や汗が浮いているところを見るとまだ本調子ではないのだろう。その言葉の意味を問い質そうとしたところで、ふたり分の足音が慌てたようにこちらへと駆けてくる音が聞こえてきた。

「ロックウッド、わたしを見つけたのがお前で幸いだった。礼を言う」

 険しい表情で駆けつけてきたエスクアに抱き起されながら、ライオネルがそう薄く笑った。彼はそのままエスクアに大人しく抱きかかえられて、研究棟の方へと連れられていく。

 詮索されるのを拒むために逃げられたように感じた。弾かれた掌にはまだ微かな痺れが残っている。どうしてあんなものがライオネルの奥深くに息づいているのか。触れてはいけない場所に触れてしまったような、俄かな罪悪感を覚える。

「なにもされなかったか?」

 唖然として座り込んだままのケレンの前にヨルドが膝をついた。ひんやりとした手を頬に充てられると気持ちがよくて、思わず柔らかな笑みが零れる。随分と張っていたらしい気が緩まるのを感じた。それほど魔法を使ったつもりもないのに、酷く疲れている。

「されるわけないだろ。皇太子殿下はお加減が悪かったのだから」

「そのわりに随分と疲れている顔をしているぞ」

「殿下の奥深くになにか、どろりとしたものを感じたんだ。ちょっと探ろうと魔力を忍び込ませたら弾かれた。その反動かもしれない」

 魔法の気配が残る掌を紛らわせるよう結んで開いた。その様子を見ていたヨルドが、心配するようにそっと触れてくる。指の股をくすぐるように指を絡められると、折角落ち着いた鼓動がひっそりとひとつ高鳴った。そのことをこの男は知る由もない。

「なにか感じる?」

 そう問うと、不快そうに眉を寄せていたヨルドが誤魔化すように首を振った。

「いや、とにかくあまり関わって欲しくない。今日はこのまま帰ろう」

 立ち上がったヨルドに差し出された手を掴んだはいいが、上手く足に力が入らなかった。これでは大人しくヨルドに抱きかかえてもらうしかない。それ見たことかと言いたげな彼の頬を思い切り摘まんでやりたい気持ちを抑え込んで、ケレンは彼に身体を預けた。



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