第一章
「おはよう、アメリア」
先に馬車に乗り込んで本に目を落としていたアメリアに声をかけると、顔を上げた彼女がごきげんようと微笑んだ。彼女がロックウッド侯爵家へ預けられてから八年余り、疎遠になろうと努力したケレンの奮闘虚しく、今はいい友人関係に落ち着いている。栗色の髪と眼の色は飛びぬけて美しいとは言えないが、愛嬌のある顔立ちは大変麗しい。原作とは違って随分とはっきり物を言う性格に育ったが、だからこそ上手い距離感でいられたのだと思う。誰にでも優しくて親切なヒロイン属性を発揮されていたら、いくら心に想う相手がいるケレンだって少しくらいは絆されていたかもしれない。
ケレンとヨルドが彼女の前に並んで座ったのを合図に馬車が走り出した。アカデミーまでの片道三十分ほどの道程を三人は毎朝同じ馬車で通学している。あの本の中のアメリアはアカデミーには通わずに侯爵家で花嫁修業をしていたはずだが、今世では彼女たっての希望でケレンとヨルドと共に入学する運びとなった。入学してからの彼女は魔法の才能に目覚め、特に治癒魔法に特化している。これは怪我や病気を治せる力で、魔術師の中でも数が少ない。ケレンも同じような力を持っていたが、彼女の足元にも及ばないと思っている。
帝国が誇るアカデミーは首都の中心部にあり、広大な敷地の中に様々な研究分野の校舎を抱えている。貴族だけではなく庶民にも広く門が開かれ、試験に合格さえすれば誰でも入学が許されるが、生徒の大半は貴族と裕福な商家や農家の子供たちだ。広い敷地には宿舎も連なっていたが、大半の貴族たちは首都に構えた屋敷から通っている。そのためアカデミーへの広い道は常に馬車で混雑していた。
アカデミーのクラスは男女で分けられ、それぞれの希望する分野で更に細分化されている。多くの令嬢たちは基本的に花嫁修業の代わりに通っている者が多いため、あまり専門的な授業は設けられていない。裕福な商家や農家の娘たちも貴族の子息に見初められたら万々歳だと入学した者が大半で、全体的に学習に対する意欲はそれほど高くはなかった。それに対してアメリアは侯爵の後ろ盾を大いに活用し、たったひとり男子に交じって魔法学部の授業を受けている。入学当初は男子たちから冷ややかな目で見られていた彼女も、魔法の才能を認められたあとでは一目置かれている。物珍しさに話しかけてくる令息もいたようだが、毎日ケレンやヨルドと通学を共にしていることが知られると鳴りを潜めたようだ。
ケレンはヨルドと共にあらゆる分野を総合的に学べる基礎クラスに入っていた。このクラスの生徒がいちばん多く、ここでじっくり自分の興味のある分野を見つけて、次の年から希望するクラスに分かれるのが一般的だ。ケレンも魔法の才にはそれなりに長けていたが、そちらのクラスを選択するとヨルドと離れてしまうことが悩ましかった。彼は護衛騎士だけあって武術には秀でている反面、魔法の方はからきし駄目なのだ。
「昨日とは違う本だな。今度はなんの本を読んでいるんだ?」
「教授がおすすめしてくださった治癒魔法の応用に関する本よ。あなたも興味があったら読んでみたらいいわ」
「俺は基礎クラスの課題だけで手一杯だから」
「そう?この本はとても面白いわ。ケレンはわたしよりも治癒魔法に長けているのだから、是非読んだ方がいいと思う」
本から顔を上げたアメリアが有無を言わさぬ笑みを浮かべた。彼女は一見おっとりとしているように見えて我が強く、見た目の可憐さに油断していると痛い目を見る。原作ではケレンに怯えて鳴りを潜めていたアメリアだが、皇太子と結ばれて皇太子妃となったのちに芯が強い聡明な女性であると描かれている。その芯の強さが全面に押し出されているときのアメリアがケレンは少し苦手だ。
「アメリア嬢は本当に勤勉ですね」
たじろぐケレンにヨルドが助け船を出した。ふたりきりのときは砕けた口調で話すが、第三者が同席している場面ではあくまでも主従関係を貫くヨルドである。アメリアはヨルドに横槍を入れられて不服そうな顔をした。読んでいた本を閉じると彼の方へと差し出す。
「あなたも読んでみたら?ケレンと共にありたいのなら、魔法について学んでおくべきよ」
挑発的な物言いにヨルドが鼻白んだ。一応受け取りはしたものの、ヨルドに理解ができる代物ではない。ちらりと表紙を見やれば、なにやら難しそうなタイトルが長々と書かれている。ケレンが読んでも理解できるか怪しい。
馬車は順調にアカデミーへの道を走っていた。三人の間に流れる空気がいつもより重たい気がして、ケレンは早く着くことを願った。ヨルドが本を開いてページを捲りながら難しそうな本ですねと苦笑う。
「難しいけれどとても面白いのよ。たとえば、呪われている者には相性のいい魔術師がいるの。その相手に対して恋にも似た感情を抱くことが知られている」
「そういうロマンティックなことも書いてあるんだな」
「様々な呪いや病に関して網羅してあるから」
アメリアの機嫌が治ったようなので、女の子がすきそうな話だなと思ったことは言わずにおいた。たまたまその部分を取り上げただけで、もっと有益な情報だってたくさん書かれているに違いない。
「アメリア嬢は優れた魔術師になるのでしょうね。皆から好かれる治癒魔術師になりそうだ」
「そうなれるように努力しているもの。まぁ、ケレンの力には遠く及ばないけれど」
「まさか。アメリアの方が優れているだろう?」
そう返したら、アメリアにどうしてわからないのかしらと嘆息された。嘆かわしいわと言いたげな瞳を向けられる気まずさに、思わず視線を逸らす。アメリアはことあるごとにケレンの魔力を高く評価してくれるが、ケレン自身にその自覚がまったくなかった。それ故に過度に褒められているようで、居た堪れない気持ちになってしまう。
「あなたは気づこうとしていないのよ、ケレン。てっきり、あなたはわたしと同じ魔法学部を選択すると思っていたくらい。でも、ヨルドと共にあることを選んだんでしょう?あなたはいつだってそうだわ」
暗に非難されているのがわかったのだろう、ヨルドが身を固くした。アカデミー入学に際して、ケレンが深く考えずに基礎クラスに決めたことをアメリアはよく思っていないのだ。名門の嫡男たちもまずは基礎クラスで広く浅く学ぶものだと父から言われて決めただけなのだが、ヨルドと離れたくなくてそうしたのだと思われている節がある。
弁解しようと口を開いたケレンだったが、アメリアからそう指摘されて無意識のうちにヨルドと一緒にいる方法を考えていたことに気づいた。ヨルドは護衛のために入学しているのだから、ケレンと共にいなければ意味がない。彼が苦労することなく共に学べる分野はどこだろうと考えていたことは事実だ。その考えをアメリアに見透かされていたらしい。
「アメリア嬢、お言葉ですが俺はケレンのためならどんな努力も惜しみませんよ。ケレンが魔法学部を選択していたら俺もそうしていたでしょう」
気まずく押し黙ったケレンの代わりにヨルドがそう答えた。ちらりと彼を見やれば、アメリアを真っ直ぐに見つめながらも眦を微かな笑みに崩している。その様子はまるでアメリアと遣り合うことを楽しんでいるようだった。一体なにを考えているのかわからない。
「そうなったらきっとあなたは落第ね。アカデミーは帝国一安全な場所なのだから、護衛がいなくたって大丈夫よ。あなたは騎士としての能力を磨いた方がいいわ」
「アメリア嬢の言うことはいつだって正しいと思います。たしかにあの中でケレンが危険に晒されることはないでしょう。ただ俺は彼を護るためだけに存在している。ケレンが俺のことを考えて基礎クラスを選択してくれたのなら、身に余る光栄です」
ヨルドが胸に手を当てて頭を軽く下げる仕種をする。お道化るようなそれに、アメリアはわざと呆れたような溜息を吐くと、それ以上はなにを言っても無駄だと思ったのだろう、不機嫌そうな視線を開いた本へと戻した。
気まずかった空気が更に重苦しくなったのを咎めるようにケレンがヨルドの袖を引いたところで、馬車が速度を落として止まった。普段の体感時間と比べると明らかに早い。思わず三人で顔を見合わせると、窓の向こうを豪奢な馬車が優雅に通り過ぎていった。どうやらその馬車を通すために道を譲ったようだ。
「こんなことは初めてね。それにあんな立派な馬車は初めて見るわ」
アメリアが窓から身を乗り出した。先ほどまでの不機嫌の理由よりも、いったい誰のせいでこうなっているのか、の方が気になるようだ。通りには道の中央を開けるようにして馬車が連なっていた。アカデミーに通う生徒たちが怪訝そうな表情を浮かべて窓から顔を出している。
貴族の中に階級はあれ、アカデミーではお家柄に関わらず生徒は皆対等に扱われる。庶民や下の者に対して家柄を笠に着て威張る者も中にはいたが、ほんの一握りだ。侯爵家の嫡男であるケレンはその中でも身分が高い方ではあるが、他の家の馬車を押し退けて通ったことなどなかった。あの馬車はよほど急いでいたのか、誰よりも優遇されるべき人間が乗っていたかのどちらかだろう。
馬車は中々動き出そうとしなかった。アカデミーまで歩ける距離だが、誰も降りて歩こうとはしない。道の先に目を凝らしていたアメリアも諦めたように座り直した。ヨルドが様子を見てくると言って降りてしまうと、ふたりきりで取り残された。アメリアは至って普段通りの様子だったが、ケレンはひとり気まずさを噛み締める。彼女との婚約を断った罪悪感に苛まれているせいだ。
「いつになったら動くのかしら。授業が始まってしまうわ」
「全員が同じ状況だし、遅刻したところで咎められはしないだろう。ヨルドが戻ってくるまで待とう」
「そうね。あなたがあの人を置いて行くはずないもの」
ヨルドの名を出した途端、アメリアの不機嫌がぶり返した。つっけんどんな物言いにケレンは戸惑いながらも少々カチンとくる。ふたりは元々仲がよいというわけではなかったが、お互いに節度を持って接していたはずだ。ケレンがむっとしたことに気づいたのか、彼女がやや態度を軟化させた。小さく嘆息するとごめんなさいと謝る。
「今日はやけにヨルドに突っかかるな。なにかあったのか?」
「あの人が悪いわけではないわ。ただ、わたしはあの人に敵わなかったことがわかっただけ」
「それはどういう?」
「あなたがわたしとの婚約を断ったとおじさまから聞いたのよ。理由は随分と言いにくそうにしていたけれど、はっきり言わないといけないと思ったのでしょう。最後には教えてくれたわ。あなたにはすきな人がいて、しかも同性なのですって?それで、ヨルドに負けたことを悟ったわけ」
「アメリアは俺と婚約したかったのか?」
ついそう口にしてしまったら、アメリアが心外そうな顔をした。彼女の言葉通りに受け取れば、まるでケレンのことを好いているかのように聞こえる。ただ素直にそう言ってしまったのはまずかったようだ。アメリアが盛大な溜息を吐いてやれやれと頭を抱えた。
「そういうことは思っていても聞かないものよ、ケレン。それに誤解なきように言っておくけれど、わたしはあなたに恋をしているわけではないわ。どうせ誰かと結婚するのなら、あなたが気心知れていてよかったというだけ。わたしはあなたの婚約者になるためにこの家に来たのだもの」
「たしかヨルドがそんなことを言っていたような」
「気づいていないのはあなただけよ。まぁ、これで祖父母の思惑も外れて清々したわ。おじさまがこのまま侯爵家に住んでアカデミーに通っていいと言ってくださったし、わたしにとってはそっちの方がずっといいの。さっきあなたのヨルドが言ったように、このままいけば優秀な魔女になれるかもしれないもの」
「ヨルドは別に俺のものってわけじゃあ、」
「いずれそうなるのだからなんだっていいじゃない。あなたたちお似合いよ。アカデミーでもみんな噂しているもの」
「噂?」
「ヨルドさまは絶対にケレンさまのことがすきなのだわって。だからおじさまからあなたが男の人に片想いをしていると聞いて真っ先にあの人が浮かんだの」
「それは、」
違うと言ってしまうのは、ひっそりと抱えている気持ちを否定するようで憚られた。言葉に詰まったケレンにアメリアが薄い笑みを寄越して、誰にも言わないわと約束してくれる。どうしてわかったのかと問うまでもない。ケレンが誰かのことを想うなら、その相手はヨルド以外にいないのだ。
ケレンが先ほどとは違う気まずさを味わっていたところへ、ヨルドが戻ってきた。まだ周囲には馬車が停まったままで、生徒たちが上げる戸惑いや苛立ちの声で騒がしくなってきていた。ヨルドはずっと先まで走っていって、アカデミーの門を通り抜けたあの馬車に追いついたらしい。門の傍には職員たちがずらりと立ち並び、恭しく頭を下げていたそうだ。
「降りてらっしゃったのは皇太子殿下のようです。拝見したことがないのでおそらくですが」
隣に座ったヨルドがそう言ったとき、ケレンは一瞬なにを言われているのか理解が追いつかなかった。理解したところで、どうしてと思う気持ちが腹の底から迫り上がってくる。見えない掌で心臓を握り潰されているようだった。俄かに呼吸が荒くなったケレンに心配そうな視線が集まる。
「ケレン、大丈夫か?」
顔を覗き込んでそう問うてくれたヨルドの声音に心配が滲み出ていた。背に触れている彼の掌に安心感を覚える。もう片方の彼の手を無意識に探ると、それに気づいたヨルドがケレンの手を握りしめてくれた。
「気分が悪いのなら帰った方がいいわ。わたしはここで降りるから、ヨルドはケレンに付き添って、」
「学校の医務室の方が近いでしょう。馬車も動き出すようだ」
ヨルドが言った通り、止まっていた馬車たちが順に動き出していた。ケレンたちの馬車もすぐに走り始め、皇太子がいるアカデミーへと向かっていく。
ケレンは大丈夫だと笑ってみたものの、具合は悪くなる一方だった。ヨルドの膝に頭を乗せて横になったが、狭いし揺れるので酔いそうになる。見下ろしてくるヨルドの瞳には心配が満ちていた。安心させるようにその頬に手を伸ばすと、その頬が少しだけ弛む。
原作でライオネル皇太子と初対面を果たすのは、ケレンとアメリアが成人してからだ。皇室主催の舞踏会にアメリアと連れ立って参加した際、彼女と初対面したライオネルがアメリアに一目惚れする。そして素性を調べた結果、隣国の血を引く王女であるとわかり、皇太子の婚約者に相応しいことが証明される。
アメリアとの婚約を回避したケレンはその舞踏会には参加するつもりはなかった。皇太子と接点を持たなければ断罪に繋がることもないし、アメリアと婚約していないのだから彼はケレンから彼女を奪う必要もなくなる。しかしそれは浅はかな考えだったのだろうか。この国の皇太子なのだから、公務としてアカデミーを視察することだってあるだろう。ケレンが行動を起こしたことで筋書きが変わった可能性もある。けれどこれはピンチでもあり、チャンスでもあった。もしここでアメリアと出逢い恋に落ちてくれたら、これ以上はなにも心配しなくて済のではないか?
馬車が門を潜って止まると、アメリアが御者の手を貸りて先に降りた。起き上がったケレンは多少頭がくらりとしたが、どうにか歩けそうだ。ヨルドに支えられて馬車を降りると、校内は皇太子殿下来訪の噂で持ちきりだった。なにも知らずに騒ぐ生徒たちを見ていると、また胸が悪くなる。
原作の仲での同窓生たちは、有事の際に誰もケレンを助けようとはしなかった。皇太子が絶対だと言うことに楯突く勇気がなかったのだろう。ケレンのために必死になってくれたのはヨルドだけだ。今だって至極心配そうに付き添ってくれている。
「医務室に行こう。歩けるか?」
そう問われて頷いたケレンだったが、足元がふわふわして覚束なかった。今世では悪い行いをした覚えがないというのに、どうしてこんなにあの男を恐れているのだろう。皇太子と邂逅したところで断罪に繋がるとは限らない。それでも彼に逢いたくないと、身体が拒否しているように感じる。
とっくに授業が始まっている時間だというのに、廊下にはまだ沢山の生徒たちで溢れていた。漏れ聞く話によれば皇太子殿下は只今理事長室におられるそうだ。いくら貴族だとはいえ、皇太子に謁見する機会などそうあるものではない。誰もがその姿をひと目見ようと理事長室の扉に目を凝らしていた。目指す医務室はそちらの方向にあるので、行きたくないという気持ちが募る。
アメリアがそんな生徒たちに嘆息しながらも、周りの生徒たちに道を譲ってくれるよう声をかけてくれた。人が割れた隙間を医務室へ向かって進んでいると、不意に奥の扉が開かる。周りの生徒たちが歓声を上げる中、部屋の中から皇太子が現れた。全員が恭しく頭を下げる中、ケレンはたったひとりその場に取り残されたような気分になっていた。頭を下げるのが遅れたせいで彼の鋭い視線に射抜かれる。
ああ、あの男だと思った。煌びやかな世界で生きている柔和な皇太子の、にこやかな表情の裏に腹黒い本性が隠されていることを知っている。初めて逢ったはずなのにちっともそんな気がしなかった。あの男がケレンに、ヨルドに、なにをしたのか。本で読んだ知識しかないのに、底知れない恐怖の感情に呑まれそうになる。
頽れそうになるケレンをヨルドが慌てて支えてくれた。そのまま軽々と抱き上げられるのを見て、周りの女子生徒たちが黄色い息を呑んだ。アメリアが呆れた様子で首を振り、医務室への道を開けてくれる。しっかりと支えてくれる腕には安心感があって、落ちないようにと言い訳をしながら彼に擦り寄った。彼の体温が近くにあって、その鼓動がしっかりと鳴っている。その事実だけがケレンを安心たらしめるすべてだ。
教師がすべて出払っているのか、医務室は無人だった。どうぞごゆっくりとアメリアにドアを閉められてしまうと、ヨルドがそっとベッドに降ろしてくれる。きっと今頃話題の種だろうなと苦笑いながら、皇太子の目から逃れられたことに安堵していた。頬に触れるヨルドの指がひんやりとして気持ちいい。
「熱はないようだな。気分はどうだ?」
「少しよくなかったかな」
「一体どうしたんだ?皇太子殿下となにかあるのか?」
流石はヨルド、ずっとケレンと共に育ってきたというだけあって、その観察眼は鋭かった。彼が気にしている“なにか”を話すつもりはないケレンはどう誤魔化そうか思案したが、具合の悪い頭ではいいアイデアは浮かんでこなかった。ヨルドが髪を撫でてくれるのが心地よくて、そのまま眠ってしまいそうになる。
「悪い、今聞く話じゃあなかったな」
「お前が気にすることはなにもない。ただ俺はあの人が怖いんだ」
それだけ絞り出すと、ヨルドはそうかと頷いてそれ以上は深追いしようとしなかった。少し寝ろと言われて目を閉じる。訪れた瞼裏の闇にぼんやりとあの男の顔が浮かんだ。どうやらどれほどの策を講じようともケレンは必ずあの男に辿り着くらしい。
「安心しろ、ケレン。相手が皇太子殿下だろうと、お前のことは俺が絶対に護るから」
ケレンが眠ってしまったと思ったのだろう、そう言ったヨルドの唇がケレンの瞼に触れた。その柔らかな感触が肌へと沁み込んで、やがてひとつ鼓動を高鳴らせた。
皇太子殿下がアカデミーへ入学されたとの知らせをアメリアが持って帰ってきたのは、ケレンの具合が回復した頃合いだった。結局あのあとしばらく気分が優れずに臥せってしまい、しばらくの間学園を休んでいた。ヨルドも一緒に休んでいたので、女の子たちの噂の種になっているようだ。
随分と気分がよくなったので、最近は鈍った身体を慣らすために庭を散歩するようにしていた。テラスで休んでいたところにアメリアが帰ってきたので、侍女を呼んでお茶を用意させる。彼女は休んでいるふたりのために、わざわざ違うクラスの教授から課題や授業内容が書かれたプリントなどを貰ってきてくれていた。真面目で勤勉なアメリアらしい振る舞いだ。
「随分とあなたたちの様子を聞かれたわ。きっともう付き合っているって思われているでしょうね」
しれっとそう言われたケレンは思わず、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。咽せるケレンの背をヨルドがさすってくれる。
「アメリア嬢、あまり揶揄わないでください。俺とケレンはそんな関係じゃないんですから」
ヨルドの戸惑うような声音を聞いた途端、背に触れる掌を急に冷たく感じた。たしかに彼がいう通り、女の子たちが期待するような関係じゃない。それでいいはずなのにどうして、突き放されたような気分になるのだろう。この間瞼にくちづけたくせにと詰りたくなる。
「そうね、ケレンには想う相手がいるのだもの。しかも殿方なのでしょう?」
アメリアが挑むようにヨルドを見た。しかしヨルドはそれが彼女との婚約を断るための方便だと知っている。
「誰かに掻っ攫われても知らないわよ。そのとき後悔したって遅いんだから」
「肝に銘じておきます」
ヨルドがそう言って、ケレンに向けて苦笑いを寄越した。随分と知っているつもりになっていたケレンでも、それが一体どういった類の笑みなのか計り知れなかった。アメリアに苦言を呈されたことへの苦笑い以上のなにかを感じ取ることはできなかった。
そこへ庭いじりをしていた母がやってきて、お話中悪いのだけれどと申し訳なさそうに眉を下げた。弟が友人の家に呼ばれたのでヨルドに護衛を頼みたいという。彼が二つ返事で頷いて母と共に去っていくのを見送った。弟たちには専属の護衛騎士がついていないので、時々こういうことがある。ケレンは嫡男だから特別に、ということなのだろう。
それはケレンが跡継ぎの座を弟に譲り渡したとき、ヨルドを失うということを示していた。
「ねぇ、あの人気づいていないの?あなたに好かれているって」
「伝えるつもりはないからな。こんな気持ち、迷惑だろ?」
「そうかしら。わたしから見てもヨルドはあなたのことを少なからず想っているように見えるけれど。もちろん、忠誠や敬愛とは別よ」
どうして気づかないのかしら、とアメリアが顎に指を当てた。彼女は本気でケレンがヨルドを想っているのだと確信しているようだ。けれどケレンに対するヨルドの態度はひとえに、片時も離れずに育ってきた弊害に過ぎない。ヨルドの優しさはケレンだけのものではないし、ただケレンがいちばんに優先されるべき人間であるというだけで、対象が変わればそれまでだ。
「ずっと兄弟のように育ってきたから、俺を心配するのが癖になっているんだよ。俺に構い過ぎるのも他意はないと思うし」
「さっきヨルドにああ言ったけれど、あれはあなたにも当てはまるのよ?ヨルドだって立派な貴族令息だもの。いつか縁談の話だってくるわ。年頃でどこから見ても素敵だもの」
アメリアがヨルドを素敵だと思っていたことに驚いた。面食らった顔をしていたのか、そんな顔しないでと笑われる。
「一般的な意見を言っただけよ。あなただって、わたしの存在がなければ縁談の打診が殺到しているはずだわ。見目麗しい侯爵家の嫡男だもの。本来なら男爵家のわたしが見合うような相手ではないのよ」
爵位はその家の格だが男爵でも裕福な家はたくさんあるし、伯爵でも没落しかかっている家門もある。アメリアの家は零細貴族だが、しかしそうは言っても彼女は隣国王家の血筋である。見合わないのはケレンの方なのだ。
そんなことはまったく知らないアメリアに褒めそやされるとこそばゆかった。以前は好意的な気持ちを向けられるたびに断罪へと近づいていくようで怖かった。けれどよき友人関係を築いている今は、彼女のそれが友情であるとわかっている。
「俺と婚約しないと知れたら、アメリアにだって求婚が殺到するよ。ロックウッド侯爵家が後見についているんだし」
「話をそらさないで。ヨルドが結婚してしまったらどうするの?誰かと婚姻を結んでしまえば、もう諦めるしかないのよ」
「そんなに俺とヨルドをくっつけたいのか?」
「だってもどかしいのだもの」
アメリアに悩ましい溜息を吐かれた。ケレンが曖昧に笑って誤魔化すと、意気地なしなのねと追い打ちをかけられる。成り行きで彼の知らぬうちにヨルドを巻き込んでしまったことを申し訳なく思った。アメリアはどうしてもケレン贔屓だから、ケレンの気持ちを慮ってこれからもヨルドに食ってかかるだろう。あとでこっそり事情を説明しておこう。
「女の子ってこういう話がすきなんだな」
「あら、わたしをその辺りの子達と一緒にしないで欲しいわ。今回はたまたま利害が一致しただけ。わたしに色恋にうつつを抜かしている暇はないわ」
「そういえばあんまり女の子達といるところを見ないな」
「噂話ばかりしているから苦手なのよ。その分本を読んでいる方がいいの。友達ならケレンがいるし」
「噂話ってどんな?」
「今は皇太子殿下の話で持ちきりよ。なんでも、婚約者候補を探しにいらっしゃるとか」
「へぇ、どこに?」
「アカデミーに決まっているじゃない。お相手探しと貴族たちとの親交を深めるために入学されたのよ。あなたが休んでいる間に」
唖然とするケレンにアメリアが気の毒そうな視線を寄越した。深くは聞かないまでも、ケレンが倒れた理由が皇太子にあることを察しているのだろう。厳密には彼女も原因の一端を担っているが、そんなことは知る由もない。
確実に物語の筋書きが変わっていた。皇太子が婚約者候補を探しているという話は読んだ覚えがない。アメリアを探しに来たのだろうとすぐにわかった。上手いことふたりが出逢って恋に落ちてくれさえすれば、ケレンとヨルドの平和な未来は確約される。
そう、思いたい。
こんなにも恐れているのにも関わらず、ケレンはライオネルのことをよく知らない。今世では幸いまだ接点がないし、この先持つつもりもない。原作ではヒロインであるアメリアを悪役から救い出すヒーローとして描かれているが、ケレンにとっては罪を着せられて断罪され、ヨルドのことを斬り捨てる元凶だ。この国の次期皇帝陛下で、年はケレンとアメリアよりも三つほど上のはずだ。見目麗しく品性方向、剣の腕も立つらしいというのは、この国の国民であればだれでも知っている。ライオネルは絵に描いたような〈王子様〉なのだ。
アメリアの話によると、ライオネルは政治学部に編入したそうだ。幸い講堂がある建物が別なので遭遇する確率は低い。現にケレンは復学してから一度も彼と鉢合わせていない。遠くから姿を見かけたり噂に聞いたりはするものの、この前のように気分が悪くなるようなこともなかった。考えてみればアメリアとは婚約していないのだし、過度に恐れる必要はない。ヨルドは常にケレンの体調を慮ってくれていたが、ケレン自身は一過性のものだと思っている。
皇太子が編入してきてから半月ほど経った頃から、令息たちが皇太子殿下との情報交流会へ参加したと興奮気味に話しているところをよく目にするようになった。参加しているのは国政に参入している有力貴族の息子たちで、中には豪商の息子たちも交じっていた。ケレンの父も度々国政会議に出向いていたものの、声がかかるにはなにか特別な条件があるのだろう。できるだけ彼と遭遇しないよう気を配っているケレンからすれば、それに合致していない方がありがたい。それから何度か会合は開かれているようだったが、声がかかることはなかった。それで、自分には関係のないことだとすっかり高を括ってしまっていた。
しかしそれが間違いであったことがすぐにわかる。
その日は午前で講義が終わる日で、アメリアと共に昼食を取ってから帰ることになっていた。カフェテリアはアカデミーの中心でどの研究棟からもアクセスしやすいため、時間帯に限らず様々な分野の学生や教授たちが利用している。普段はあまり関わりがない生徒たちともすれ違うし、盛んな意見交換が行われている場だ。食事は王侯貴族たちが満足できるよう料理人たちが腕を振るい、なんでもすきなものが無料で食べられる。メニューが豊富なので、毎日利用していても飽きることがない。
アメリアはひとりテラス席で本を読んでいた。周りでは令嬢たちが華やかなお喋りに興じているというのにまったく興味がないらしい。テーブルに置かれたサンドウィッチは半分ほどが手つかずになっている。ケレンとヨルドが食事の載ったトレーを向かいに置くと、読んでいた本からようやく目線を上げた。
ふたりを認めてから、アメリアが再び視線を落としてしまうのもいつものことだ。どうせまた魔法学部の教授から貸りた有益な本を読んでいるのだろう。入学したての頃は物珍しげな視線を集めていたが、あまりにぶれない態度に周囲の興味が段々と薄れていった。今や誰も気にしていないし、ケレンやヨルドが彼女と一緒にいるのも普通のことになりつつあった。
貴族社会では婚約を結ばない男女が人目を憚らず一緒にいることをよしとしない。アメリアと婚約しているのだという勘違いを根気よく解いていくのは実に骨が折れる作業だった。けれどそれが功を奏して、今はふたりをいずれは婚約するのだろうという目で見る者は限りなく少ない。
「読むか食べるかどっちかにしたらどうだ?」
本から目を上げないままアメリアがサンドウィッチに手を伸ばした。ケレンをちらりと見たアメリアはしかし、その忠告を受け入れる気はないようだ。パンくずを本に落とさないように注意しながら、ほどよいサイズに切り分けてもらったらしいそれを口に運ぶ。
「アカデミーにいられる時間は有限だもの。こうしている時間が勿体ないわ」
「アメリアなら希望すれば研究職に就けるだろう?」
「おじさまがそれを許してくださればね」
暗に示された言葉の意味を悟って、ケレンは黙るしかなかった。ヨルドがそれ見たことかと言いたげな視線を向けてきて、これも食べろと自分の皿から切り分けた肉をケレンの皿へと載せてくれる。それを咀嚼しながら、自ら作ってしまった気まずさを味わう。
アメリアとの婚約を断ったのち、父が彼女に新たな相手を宛がう様子は見られなかった。父はアメリア自身が言ったとおり、ケレンとの婚約を見越して彼女を男爵家から引き取ったはずだ。そうでなければいくら可憐で聡明であるとはいえ、格下の零細男爵家の娘を後見し援助する所以がない。一方の男爵家はアメリアのおかげで窮地を脱したようだ。今は細々とではあるが事業も上手くいっていると聞く。
案外、ケレンの婚約拒否を受け入れてくれた父は、あわよくばくらいの考えだったのかもしれない。母も男爵家の経済状況を鑑みてアメリアの教育を買って出たのだろう。彼女がアカデミーに残って魔法の研究に勤しみたいと申し出れば意外とすんなり許可を出すのではないかと思ったが、そうすると貴族令嬢としては行き遅れと言われてしまう。年頃になれば自ずと家の利益になる相手と婚約を結ぶのが貴族社会の通例だ。
アメリアに余計なことを言ったせいで、せっかくの料理の味がしない。それをどうにか無理矢理飲み込んだところで、少し離れたところで賑やかな笑い声が上がった。特に声が大きいわけでもないのに、その場の雰囲気が華やいでいるせいで目立っている。ケレンたちの周りも何事かとざわめいて、室内の方を興味津々に覗き込んだ。アメリアがうるさそうに溜息を吐くと、すっかり冷めているだろう紅茶に口をつける。
「皇太子殿下よ。毎日お昼に食堂で貴族たちと交流を深めてらっしゃるの。本当にうるさいったら」
「おい、アメリア。もしそんな言い分が耳に入られたら、」
「あら、大丈夫よ。あの人が興味あるのは自分が帝位に就いたときに役に立ちそうな有力貴族の息子たちだけだもの。お眼鏡に叶う令嬢たちも身分が高い者ばかり。わたしなんて歯牙にもかからないわ」
そう鼻で笑ったアメリアに、ケレンはいずれお前が皇太子妃に選ばれるのだと言ってやりたくなった。そのためにケレンが払った代償がどれほど大きかったのかを教えてやりたい。けれどそれは〈原作〉の中の話で、今のアメリアには関係のないことだった。それに当の本人は皇太子に興味がなさそうに見える。不機嫌そうに本を閉じたままの彼女に、早く食べ終われとせっつかれた。元々食が細いケレンはなんだか食欲が失せてしまって、半分以上残っているスープに匙を投げだした。
「ケレン、もう腹いっぱいか?もう少し食べないとまた倒れるぞ」
「食べる気が失せた。帰ったらお茶の用意をさせよう。アメリアが言う通りここじゃあ落ち着かないし」
心配してくれるヨルドをそうあしらうと、彼があからさまな溜息を寄越した。彼は食が細いケレンを心配して自分の食事を毎度ケレンの皿へ分けてくれるが、騎士として鍛錬に勤しむヨルドと違ってケレンにはそれほど食事の熱量は必要ない。そもそもこの前倒れたのは皇太子に邂逅した衝撃のせいで、栄養が足りていないわけではないのだ。
けれどそうして、心配してくれることがうれしい。当たり前のように世話を焼かれて、これも食べろと自分の料理をわけてくれるたび、ケレンは優しくされる優越を覚える。それがケレンに対してだけだという事実が、更にその気持ちに拍車をかけた。
「それなら早めに行こう。皇太子殿下に絡まれたらやっかいだ」
先に食べ終わっていたヨルドが立ち上がると、アメリアも膝に敷いていたナプキンを畳んで立ち上がった。普段はあまり仲がよくないくせに結託すると敵わないふたりに、ケレンはこっそりと溜息を零す。この距離では聞こえないとわかっていながら、ヨルドやアメリアの物言いにはひやりとさせられる。目をつけられたくないから、過度に気になってしまうのかもしれない。それに、アメリアがライオネルに好感を持っていないのもおかしい。ふたりは出逢った瞬間に恋に落ちるはずなのに。
そそくさとカフェテリアを出ようとするふたりに続きながら、つい皇太子を中心とした集まりに目をやってしまったのがいけなかった。ライオネルを取り巻いていたうちのひとりと目が合った刹那、はっとしたような顔をしてケレンたちの方を指さす。ぎょっとして慌てて目をそらしたが、時すでに遅し。遠目でよくわからないがおそらくクラスメイトのひとりだろう。
気づかれた以上、逃げ出すのは皇族に対する不敬に当たる。ヨルドとアメリアを呼び止めると、彼らはこちらへと近づいてくるライオネルを認めて微かに苦々し気な表情を浮かべた。傍から見れば緊張しているのだと思われる程度だが、面倒くさいことになったと思っていることが手に取るようにわかった。ヨルドがさり気なくケレンを庇うような位置に立ってくれる。アメリアも安心させるように隣に立って、大丈夫だと言うように小さく頷いてくれた。
まるでふたりの中で、自然とケレンを皇太子から護るための同盟ができあがっているようだった。また皇太子を目の前にして倒れられたらいけないと思ってくれているのかもしれない。倒れるつもりはなかったが、その優しさがとても心強かった。先ほどケレンを示した男はライオネルから目をかけてもらっていると吹聴している伯爵令息だ。権力に興味を示さないケレンをいつも馬鹿にしているうちのひとりだ。そもそも魔術師を束ねている伯爵家と騎士団を有する公爵家とは元々の折り合いが悪いのだ。
彼に伴われてライオネルが近づいてくるたびに緊張で鼓動が早まった。正直なところ少し怖かった。自分を落ち着かせるために小さく深呼吸をすると、多少の息苦しさは感じるが、幸いこの前のような気分の悪さはない。ヨルドとアメリアと共に深く頭を下げた。目の前に立ったライオネルは長身のヨルドと同じくらい、絵に描いたような美丈夫だ。金色の髪はきらきらと光っているように見えるし、瞳は碧玉のように澄んでいる。うっすらと優し気な笑みを浮かべている様は、アメリアを手に入れるためにケレンを断罪するような男には見えなかった。
「殿下、こちらがロックウッド侯爵家の嫡男、ケレンです」
「世話をかけたな、ブラッドリー。助かったよ」
魅惑的な笑みを向けられたブラッドリーの頬に赤みが指した。胸に手を当てて恭しく頭を下げると、立場をわきまえるように一歩うしろに下がる。
「ようやく逢えたな、ロックウッド侯爵令息。身体の具合が悪かったそうだが、もう大丈夫か?」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。ライオネル皇太子殿下にお目にかかります」
耳元でうるさい鼓動の音で自分の声が聞き取りづらかった。ライオネルの指示を待ってから顔を上げると、その視線が隣のアメリアへ注がれていることに気づいた。それにケレンはこっそりと胸を撫で下ろした。緊張が解けて、恐怖が薄れていく。
ライオネルはアメリアに興味を示している。その途端、むくむくと明後日な考えが浮かんできた。これはアメリアと彼をお近づきにする絶好のチャンスなのではないか?それにアメリアと関係がないことを示すいい機会だ。そう考えていたケレンは、突然向けられたライオネルからの無意識の敵意に息を詰まらせる羽目になった。
「ロックウッド、こちらはお前の婚約者か?」
そう問うライオネルの声音は至極穏やかなのに、ケレンは心臓の裏を冷たい指で撫でられたような心地がした。気持ちを落ち着けるように詰まった息を吐き出す。アメリアの方へ視線を向けると、彼女はライオネルを前にしても顔色一つ変えていなかった。それが恋に落ちた瞬間の女の顔ではないことくらいはケレンにだってわかる。
「彼女はアメリア=リデル男爵令嬢。わたしの父が後見を務めておりますが、わたしの婚約者ではありません」
紹介されたアメリアがスカートの裾を持ち上げて頭を下げた。ライオネルは納得しかねるような表情を浮かべていたが、一応理解はしたらしい。アメリアの手を恭しく取ると手の甲に唇を落とした。周りにいた令嬢たちから感嘆の息が零れる。
「皇太子のライオネル=グレンラードだ。以後お見知りおきいただきたい」
「存じておりますわ、殿下。いつも楽しそうにお話しされている姿を拝見しておりますもの」
ライオネルはアメリアの皮肉には気づかなかったらしい。そうかと頬を弛ませるのを見て、ケレンの胸に安堵が広がっていく。少なくともライオネルの方は彼女に好意を抱いているようだ。つっけんどんなアメリアの態度が気にはなったが、とりあえずアメリアの婚約者ではないと明かせただけでもよしとしよう。
「それで、わたしのことを警戒しているそこの男はどういう関係だ?」
「ヨルド=テディと申します、殿下」
「おお、お前がテディ子爵家の次男か!先の辺境での反乱鎮圧は見事だったと聞いている」
頭を下げたヨルドへ、ライオネルが好意的な態度を示した。ケレンを護るためとはいえ、過度な警戒はライオネルの気に障る可能性がある。他者に気づかれないようそっとヨルドの手に触れると、彼の口元が微かな笑みに弛んだ。
「父が是非テディ子爵を我が国の騎士団長へ推薦しているが、いい返事が貰えぬらしい。お前はどう考える?」
その一言で周囲の空気が俄かに張り詰めた。騒いでいた周りの者が静かになったせいで、沈黙を湛える空気がひんやりと感じた。アメリアにどういうことかと目配せされても、ケレンも初めて聞いて驚いているくらいだ。
ヨルドの父親であるテディ子爵は実に有能な騎士だ。近年起こった辺境での反乱鎮圧に帝国騎士団と共に一役買っており、皇帝の覚えもめでたいと聞いてはいる。けれど彼はヨルドの父親というだけあって忠誠心が頑固なのだ。
「我が家はロックウッド侯爵家へ代々忠誠を誓って参りました。国防には喜んで力をお貸し致しますが、あくまでも侯爵さまの命令があってこそです」
「ふむ。それでお前はリデル嬢の護衛をしているのか?」
「いえ、俺が忠誠を誓うのはこの世でただひとり、ケレンさまだけです」
そう言い切ったヨルドが顔を上げて、真っ直ぐにライオネルを見た。令嬢たちがそっと息を吞むのを肌で感じる。ケレンは自分が見つめられているわけでもないのに、その真摯な眼差しを向けられているように感じていた。鼓動が早いのはライオネルと対峙している緊張からではない。頬が熱くて思わず俯いた。その言葉がうれしくて、顔が笑みに崩れそうになるのをどうにか怺える。
ヨルドが寄越す思わせぶりな言葉に、いちいち心を乱されていたらきりがない。それは重々承知の上でも、すきな男からの言葉はケレンの頬を弛ませるには充分過ぎた。
ライオネルが感心するような笑い声を上げた。それに呼応するように取り巻きたちも曖昧な笑みを浮かべる。戸惑うような気配を感じるのは、誰もヨルドがケレンの護衛であると認識していなかったからだろう。あくまでもヨルドは幼馴染としてケレンに接していたし、周りの令息たちもそうだと思って接してくれていた。仲がよいのだなとふたりを揶揄っていた令息たちがふたりの主従関係に驚いているのがわかる。令嬢でも護衛を連れている者はいないのに、ケレンに護衛がついていたことにも驚いているのだろう。
「ほう、見事な忠誠心だな。わたしの護衛にも見習わせたいくらいだ」
そう言ったライオネルが背後にいた短髪の男を振り向いた。唯一制服を着ていない彼が皇太子直属の護衛なのだろう。短く刈り込んだ黒髪に寡黙そうな顔立ちが、鍛え抜かれた体格と相成って恐ろしげに見える。皇太子の冗談にも表情ひとつ動かさないので、ライオネルがつまらなそうな顔をした。
「エスクアはつまらぬ男なのだ。それに比べてお前の護衛は面白そうでいい。優秀なテディ家の息子だろう、今度ぜひ手合わせ願いたい」
「喜んでお相手致しますが、お手柔らかにお願い申し上げます」
ヨルドが声のトーンを和らげて頭を下げると、ライオネルが満足そうに笑った。取り巻きたちがぜひ見たいものだと調子を合わせる。
表面上は和気藹々としたやり取りを眺めながら、ケレンはひとり心が冷えていくのを感じていた。掌が微かに震えるのを、きつく握りしめて抑える。
ヨルドはアカデミー内では一二を争う実力の持ち主だ。だが彼が皇太子に敵わないことをケレンだけは知っている。あくまでの手合わせなのだから危険なことにはならない。そうわかっているのにどうしても怖くなった。
もし、万が一のことがあったら。そう考えるだけで、奈落から底知れない恐怖が這い上ってくる。ヨルドがいなくなったら生きてはいけない。けして口には出せないけれど、ケレンにとって彼は自分の命よりも大切な存在だった。
そんな様子のケレンにアメリアが気づいてくれた。そっと肩に触れられて顔色が悪いと耳元で囁かれる。はっとして笑みを取り繕った。大丈夫だと応える声が届いたのだろう、ヨルドがこちらを振り向いた。その顔が心配そうに歪んで帰ろうと言う。
「殿下、申し訳ありませんが我が主は病み上がりの身です。そろそろ失礼させて頂いてもよろしいでしょうか」
「ああ、引き留めて悪かったな」
「ケレンはその見た目通り、可憐でか弱いのですよ、殿下」
ブラッドリーの揶揄に取り巻きたちが笑い、ライオネルもつられるような笑みを浮かべた。 そう言われるのは心外だったが反論する気力も起きない。急に足元が覚束なくなったのは、ヨルドが命を落としたと知ったあのときの夢が思い返されたからだった。ブラッドリーをひと睨みして黙らせたヨルドが、打って変わって心配そうな顔を向けてくれる。大丈夫だと頷いたケレンが思わずよろめくと、次の瞬間にはふわりと身体が浮いていた。アメリアが隣でおかしそうな笑みを嚙み殺している。
「ブラッドリーが言う通り俺のケレンはか弱いのです」
満足そうに笑むヨルドの頬を思い切り摘まんでやりたかった。ここで暴れるのは分が悪いので、赤くなった頬を隠すように俯いてひたすら具合が悪いふりをするしかない。唖然とする男たちに悠然と笑んだアメリアが、ごきげんようと恭しいお辞儀をした。それからふたりを促して堂々とカフェテリアを出ていく。
「ロックウッド、今週末わたしのサロンで情報交流会を開く。ぜひ参加してほしい。リデル嬢も連れてくるといい」
「検討させていただきます」
正直なところ断りたかったが、アメリアと彼を近づけるチャンスだと自分に言い聞かせた。招待状を送る、と言う彼に頭を下げると、ヨルドに抱きかかえられたままアメリアのあとを追う。すれ違う生徒たちが何事かと寄越す視線が痛かった。見上げるヨルドは意気揚々と口端を笑みに弛めている。それに文句を言おうにも、うれしいと想っている自分がいる以上、そう易々と口には出せないのだった。




