第8話:「跪く王」
ゼノリスは、ゆっくりと青年に近づいた。
足音を立てないように、静かに。枯れ葉を踏まないよう、慎重に足を運ぶ。青年を驚かせないように。傷ついた獣に近づくように。
青年は、泥にまみれたまま動けずにいた。
足首には重い鉄の足枷が食い込んでいる。鎖が地面を這い、わずかな動きのたびにガチャリと鈍い音を立てる。背中には遠征隊の荷物が二つ。大きな荷袋が青年の細い体を圧迫し、肩に深い痕を残している。
顔は泥で汚れ、黒い髪も乱れている。服は破れ、あちこちに擦り傷が見える。手首には縄で縛られていた痕が赤く残り、皮膚が擦り切れている。呼吸は荒く、肩が小刻みに上下していた。
だが──その瞳には、まだ光が残っていた。
完全には諦めていない。まだ、何かを信じようとしている。生きようとしている。
ゼノリスは、青年の前で立ち止まった。風が吹き抜け、マントの裾が揺れる。木々の葉が擦れ合い、ざわざわと音を立てた。
そして──ゼノリスは、ゆっくりと片膝をついた。
地面が、膝に触れる。湿った土の冷たさが、布地を通して伝わってくる。泥の匂いが鼻をつく。腐葉土と雨の後の匂い。
ゼノリスは青年の目の高さまで体を下げた。もう片方の膝を立て、背筋を伸ばす。そして──静かに、頭を下げた。
◇◇◇
男が膝をついた。
カイロは目を見開いた。
何をしている。なぜ、膝をつくんだ。
男はカイロの目の前で、片膝を地面につけていた。泥にまみれた地面に。躊躇いもなく。
そして──頭を下げた。
カイロの心臓が跳ね上がる。ドクン、ドクンと激しく鼓動し、耳の奥で血液が流れる音が聞こえる。喉が渇き、息がうまく吸えない。
この男は──何をしているんだ。
力ある者が、弱者に膝をつくなど。力ある者が魔人族に頭を下げるなど。ありえない。
カイロの人生で、一度も見たことがない光景だった。
いや──見たことがないだけではない。想像すらしたことがなかった。
力ある者は、常に上から見下ろしてくる。踏みつけてくる。罵声を浴びせてくる。それが当然だと、カイロは思っていた。
なのに。
男の声が、静かに響いた。低く、穏やかで、だが確固たる意志を秘めた声。
「──長く待たせてしまって、すまない」
カイロの呼吸が、止まった。
すまない?
この男は、俺に謝っているのか。俺のような、魔人族に。囮として捨てられた、価値のない存在に。
カイロの手が震える。泥の中に埋もれた手が、小刻みに震えている。
◇◇◇
ゼノリスは、青年を見つめた。
青年の瞳には、困惑と驚愕が浮かんでいる。理解できない、という表情だ。唇が小さく開き、息を呑んでいる。体が硬直し、指先が震えている。
それも当然だろう。この青年は、これまで誠実さなど受け取ったことがないのだから。
ゼノリスは、静かに言葉を続けた。
「私の傲慢が、君の一族にこれほどの屈辱を強いてしまった」
青年の目がさらに見開かれる。瞳孔が揺れ焦点が定まらない。
「かつて私は、力だけで世界を支配しようとしていました。圧倒的な力で、全てをねじ伏せ、魔物を従え、領土を広げ、人族さえも寄せ付けなかった」
ゼノリスは、遠くを見つめた。木々の向こう、灰色の空を。
「だが──その結果が、これです」
視線を戻し、青年の足枷を見る。重い鉄の輪が、青年の足首に深く食い込んでいる。皮膚は赤く腫れ、血が滲んでいた。
「君の一族は、私が敗北したことで、人族に狩られることになった。魔王軍の生き残りとして。勇者が作り上げた『正義』の名の下に」
風が吹いた。冷たい風が頬を撫で、木々の葉が激しく揺れる。枝が軋み、どこかで鳥が鳴いた。
「私は、君たちを守れなかった。力だけでは、何も守れなかった。領土は守れても、人は守れなかった」
ゼノリスは、青年の目をまっすぐに見つめた。黄金の瞳が、青年の瞳を捉える。
「許してほしいとは言いません。私には、その資格がない。君が私を憎んでも、それは当然のことです」
ゼノリスは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「だが──私はもう一度、王として君の手を取りたい」
青年の呼吸が、止まる。
「今度は、力ではなく、誠実さで。君と君のような者たちを、正当に評価し、守りたい。そして、この歪んだ世界を正したい」
ゼノリスの声には、決意が込められていた。揺るぎない意志。後悔と、そして未来への誓い。
青年は、何も言わなかった。ただ、男を見つめている。
その瞳には、涙が浮かんでいた。透明な雫が、まぶたの縁に溜まり、今にも零れ落ちそうになっている。
◇◇◇
カイロは、混乱していた。
頭の中が、真っ白になっている。この男は、何を言っているんだ。
傲慢? 一族? 王?
かつて私は、力だけで世界を支配していた──。
まさか、この男は──
カイロの記憶が、蘇る。
幼い頃。まだ、一族が森で平穏に暮らしていた頃。夜、焚き火の周りで、長老たちが語っていた話。
魔王のこと。
圧倒的な力で世界を支配していた、漆黒の王。魔物を従え、人族を寄せ付けず、広大な領土を治めていた。
だが、勇者に敗れた。禁忌の呪毒で倒され、命乞いをしたと言われている。その名は『腰抜け』として、世界中に語り継がれることになった。
そして──魔王軍の残党は、人族に狩られることになった。
カイロも、その一人だった。
幼い頃に村を襲われ、家族を失い捕らえられた。そして奴隷として売られ、使い潰され、最後には囮として捨てられた。
すべては、魔王が敗れたから。魔王が力で支配していたから。
だから──カイロは、魔王を恨んでいた。
なぜ、負けた。
なぜ、俺たちを守れなかった。
なぜ、力だけで支配していた。
だが──。
今、目の前にいる男は膝をついている。頭を下げている。謝罪している。
力ある者が弱者に。
カイロの喉が、詰まった。
声が出ない。息ができない。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。熱いものが、喉を通り、目の奥を刺激する。
涙が、零れた。
一筋、また一筋と、頬を伝い落ちる。温かい涙が冷たい泥と混ざり、顎から滴り落ちた。
◇◇◇
ゼノリスは、青年の涙を見た。
青年は、何も言わない。ただ、涙を流している。声を上げることもなく、静かに。
それは、怒りの涙か。悲しみの涙か。それとも──
ゼノリスは、静かに立ち上がった。
膝が地面から離れ、立ち上がる。泥が服に付着し、冷たく重い。だが、それは気にならなかった。
青年の涙は、止まらない。頬を伝い、顎から滴り、地面に落ちる。泥にまみれた顔に、透明な筋が幾筋も残っている。
ゼノリスは、青年に手を差し伸べた。
大きな手。傷だらけの手。だが、優しく差し出された手。
「君の本当の価値を、私に見せてください」
青年は、その手を見つめた。
差し伸べられた手。力ある者が、弱者に差し出した手。
カイロの人生で、初めてのことだった。
◇◇◇
カイロは、男の手を見つめた。
差し伸べられた手。大きな手だ。節くれ立ち、あちこちに傷跡がある。戦いを重ねてきた手。だが──その手は、震えていなかった。迷いなく、まっすぐに差し出されている。
命令ではない。強制ではない。ただ、手を差し伸べている。取るかどうかは、カイロが決めていい。
カイロは、その手を取ろうとした。
だが──自分の手が、震えて動かない。泥の中に埋もれた手が、力を失っている。足枷の重さが体を圧迫し、荷物が背中に食い込んでいる。
喉が詰まり、声が出ない。息を吸おうとするが、空気がうまく入ってこない。
ただ、涙が溢れてくる。
止まらない。
次から次へと、涙が零れ落ちる。視界が滲み、男の姿がぼやける。
なぜだ。なぜ、こんなに涙が出るんだ。
カイロは、ようやく理解した。
これまで、力ある者に踏みつけられ続けてきた。罵声を浴びせられ、価値を否定され、囮として捨てられた。それが当然だと、思っていた。
魔人族は、そういう存在だと。生まれた時から、そう教えられてきた。
でも──違った。
力ある者が、誠実さを差し出すことがある。力ある者が、弱者に謝罪することがある。力ある者が、弱者の手を取ろうとすることがある。
それを、カイロは今初めて知った。人生で初めて、目の当たりにした。
だから──涙が止まらない。
喜びなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥から何かが溢れてくる。長い間押し込めていた何かが、堰を切ったように溢れ出してくる。
カイロの唇が震える。声を出そうとするが、言葉にならない。喉が詰まり、かすれた音しか出ない。
男は、静かに待っていた。
手を差し伸べたまま、カイロの返事を待っている。急かすこともなく、ただ静かに。まるで、永遠に待ち続けるかのように。
◇◇◇
ゼノリスは、青年を見つめた。
青年は、涙を流したまま、何も言わない。声を出そうとしているが、言葉にならない様子だ。
それでいい。今は、言葉など必要ない。
ゼノリスは、静かに言った。
「急ぎません。君が心を決めるまで、私は待ちます。一日でも、一ヶ月でも、一年でも」
青年の目が、ゆっくりと上がる。涙で滲んだ瞳が、ゼノリスを見つめる。
その瞳には、まだ混乱がある。困惑がある。理解しきれていない何かがある。
だが──同時に、何か別のものも見える。
期待。希望。そして──信じようとする意志。
わずかな光。だが、確かに存在する光。
ゼノリスは静かに微笑んだ。優しく、穏やかに。
「まずは、君の本当の価値を、私に見せてください。世界が君を『無能』と呼んでも、私だけは君の真実を見抜きます」
ゼノリスの瞳が、変わり始めた。
黄金の瞳が、深く静かな深淵のような色に変わっていく。光を放つのではない。逆に、光を吸い込むような、底知れぬ深さを湛えていく。
至極の理──
真実を見抜く瞳。偽りの評価を剥ぎ取り、魂に刻まれた真の価値を暴く権能。
青年は、その変化に気づいた。目を見開き、息を呑む。体が硬直し、動けなくなる。
ゼノリスは、青年を見つめた。
世界の色が褪せ、全てが灰色に沈んでいく。木々も、地面も、空も、すべてが色を失う。
だが、その中で一つだけ、輝くものがある。
青年の頭上に、星が浮かび始めていた。
それは──黄金に輝く、星だった。




