第7話:「王の剣、再び」
木陰から、一人の男が姿を現した。
カイロは泥にまみれたまま、顔を上げた。視界が滲んでいる。だが、その人影は確かに見える。
男は、ゆっくりとカイロとミノタウロスの間に歩み出た。
無装飾のシャツ。革のズボン。無骨な大判マント。どこにでもいる旅人のような格好だ。だが、その立ち姿には、何か違うものがある。
男の黄金の瞳が、カイロを見下ろした。
「──無事か」
静かな声だった。低く、穏やかで、だが揺るぎない意志を秘めた声。
カイロは答えられなかった。喉が渇き、声が出ない。ただ、男を見上げることしかできない。
なぜ。
なぜ、助けるんだ。
俺は魔人族だ。人族に捨てられた価値のない存在だ。囮として死ぬのが当然だと、誰もがそう言う。
なのに、なぜ。
ミノタウロスが咆哮を上げた。耳を劈くような轟音。地面が震え、木々の葉が揺れる。
男は動じなかった。ただ静かに、ミノタウロスを見据えている。
カイロは息を呑んだ。この男は、まさか──。
◇◇◇
ゼノリスは、ミノタウロスを見つめた。
巨大な体躯。血走った目。荒い鼻息。口からは白い息が漏れ、獣臭が鼻をつく。
スチール級の魔物。熟練冒険者でも苦戦する相手だ。
だが──。
ゼノリスは静かに目を細めた。瞳に力を込める。
視界が変わった。
世界の色が褪せ、全てが灰色に沈む。だが、その中で一つだけ、輝くものがある。
ミノタウロスの頭上に、星が浮かんでいた。
【漆黒の星。☆☆☆/☆☆☆】
ゼノリスの瞳は、深く静かな深淵のような色に変わっていた。光を放つのではない。逆に、光を吸い込むような、底知れぬ深さを湛えている。
至極の理──。
真実を見抜く瞳。偽りの評価を剥ぎ取り、魂に刻まれた真の価値を暴く権能。
☆3か。
ならば、問題ない。
ゼノリスは静かに息を吐いた。魔力は枯渇している。だが、この程度の相手なら、権能だけで十分だ。
◇◇◇
カイロは、男の瞳を見ていた。
変わった。
黄金の瞳が、何か別のものに変わった。深く、静かで、見ているだけで引き込まれそうな色。
そして──男の周囲の空気が変わる。
圧力。
目には見えない、だが確かに感じる、重く静かな圧力。まるで世界そのものが男に従っているかのような。
ミノタウロスが一歩後ろに下がった。本能が危険を察知したのだろう。
だが、もう遅い。
◇◇◇
ミノタウロスが咆哮を上げ、突進してきた。
地面が揺れる。ドスン、ドスンと重い足音。巨大な拳が振り上げられ、ゼノリスに向かって振り下ろされる。
その拳は、岩をも砕く威力を持っている。直撃すれば、人族など一瞬で潰されるだろう。
だが──。
ゼノリスは動かなかった。ただ静かに、手を上げる。
「その理を、否定する」
声が、静かに響いた。
瞬間──攻撃が、霧散した。
まるで、存在しなかったかのように。
ミノタウロスの拳はゼノリスに触れる直前、その威力だけが霧のように消え去った。形を失い、空気に溶けていく。
拳そのものは残っている。だが、込められていた破壊の力は、跡形もなく消えていた。
ミノタウロスの拳がゼノリスの肩に触れる。だが、それはすり抜けていく。衝撃も、痛みも、何もない。まるで、そよ風が吹くかのように。
ミノタウロスが困惑したように立ち止まる。自分の拳を見下ろし、首を振る。何が起きたのか理解できない様子だ。
ゼノリスは微動だにしない。ただ静かに、ミノタウロスを見つめている。
ミノタウロスが再び咆哮を上げた。今度は両拳を振り上げ、全力で叩きつけてくる。
地面が砕け、土煙が舞い上がる。風圧が周囲の木々を揺らした。
だが、攻撃はゼノリスに届かない。
拳が、再び霧散する。
破壊の力だけが形を失い、空気に溶けていく。ミノタウロスの拳はゼノリスの体をすり抜け、何の抵抗もなく空を切った。
ゼノリスは、その場に立ったままだった。服の裾すら揺れていない。
◇◇◇
カイロは、呆然と見つめていた。
何が起きている。
ミノタウロスの攻撃が効いていない。
拳が、男に触れる前に、霧のように消え去っている。
魔術か。
いや、違う。詠唱もない。術式陣もない。ただ、男が手を上げただけだ。
それだけで、攻撃が消える。
これが──この男の力なのか。
カイロの心臓が高鳴る。恐怖ではない。何か別の感情。驚愕、混乱、そして──期待。
この男は、何者なんだ。
◇◇◇
ゼノリスは、足元に視線を落とした。
そこに、折れた木の枝が落ちている。太さは指二本分ほど。長さは一メートル弱。
ゼノリスはそれを拾い上げた。
樹皮は粗く、表面には苔が生えている。重さは軽く、強度もない。すぐに折れるだろう。
だが──これで十分だ。
ゼノリスはそれを剣のように構えた。
片手で枝を握り、剣を構えるように体を捻る。足を開き、重心を落とし、視線をミノタウロスに向ける。
ミノタウロスが、後ずさった。巨体を揺らし、警戒するように距離を取る。
本能が、危険を察知したのだろう。
森が静まり返る。風が止み、鳥の鳴き声も消える。
張り詰めた空気。
ゼノリスは、静かに息を吸った。
◇◇◇
ミノタウロスが、再び突進してきた。
だが今度は、拳ではない。全身で突進してくる。角を前に突き出し、全速力で突っ込んでくる。
地面が揺れ、土煙が舞い上がる。木々が揺れ、枝が折れる。轟音が森に響き渡り、地面に亀裂が走る。
その突進は、城門すら破るだろう。
三メートルを超える巨体が、すべての重量を乗せて突っ込んでくる。鋭い角が、ゼノリスの胸を狙っている。
距離が縮まる。
十メートル。
五メートル。
三メートル。
ゼノリスは、動かなかった。
木の枝を構えたまま、ただ静かに立っている。瞳は深く静かな深淵のような色のまま、ミノタウロスを見据えている。
一メートル。
角の切っ先が、目前に迫る。
その瞬間──
ゼノリスが、一歩踏み込んだ。
それだけだった。
ただ、一歩前に踏み込み、木の枝を振るう。
体を捻り、腰を入れ、全身の力を一点に集約する。枝が、空気を裂く。
一閃。
風が、切り裂かれた。
音すらない。ただ、空気が真っ二つに割れる感覚だけが残る。
木の枝が、ミノタウロスの体を斬り抜けた。
樹皮が粗く、強度のない、ただの折れた枝。それが、鋼鉄よりも硬い筋肉を、骨を、内臓を、すべて斬り裂いていく。
抵抗は、なかった。
まるで、水を斬るかのように。
ミノタウロスの突進が、止まった。
巨大な体が、そのまま倒れ込む。地面に激突し、土煙が舞い上がった。地響きが森に響き渡る。
ゼノリスは、木の枝を下ろした。
枝には、一筋の血が滴っている。先端が、わずかに欠けていた。
ミノタウロスは、動かない。胴体が、真っ二つに斬られている。即死だ。
静寂が、戻った。
風が吹き、木々の葉が揺れる。鳥たちが、恐る恐る鳴き始める。
ゼノリスは静かに息を吐いた。木の枝を地面に置く。枝は、ゆっくりと二つに折れた。役目を終えたのだ。
◇◇◇
カイロは、呆然と見つめていた。
終わった。
あのミノタウロスが、倒れている。
木の枝一本で。
一撃で。
カイロの頭は、理解を拒んでいた。何が起きたのか。どうやって倒したのか。
ただの木の枝が、あの巨大な魔物を斬り裂いた。
魔力の気配すらない。ただ、剣を振るっただけだ。
これが──武芸の極致なのか。
カイロは、泥にまみれたまま動けなかった。体が震えている。恐怖ではない。何か別の感情。畏怖、驚愕。
そして──憧憬。
男は、ゆっくりとこちらに向き直った。
黄金の瞳が、カイロを見下ろす。
そして──静かな声が、響いた。
「──長く待たせて済まない」
カイロの目が、見開かれる。
待たせて?
俺を?
何を言っているんだ、この男は。
俺は魔人族だ。人族に捨てられた、価値のない存在だ。
なのに──なぜ、この男は。
カイロは声を出そうとした。だが、喉が渇き、言葉にならない。ただ、男を見上げることしかできない。
男は、静かに微笑んだ。
その笑みには、謝罪と、決意と、そして──誠実さが込められていた。
カイロの心臓が、激しく鼓動する。
この男は──何者なんだ。




