第9話 調印式の断罪
三十年ぶりの和平調印式。
フェリクス王宮の大広間は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。両国の国王が玉座に並び、重臣たちが居並ぶ。歴史が動く瞬間を見届けようと、両国の貴族たちが広間を埋め尽くしている。
私は招待客として、フェリクス側の席にいた。深い紫のドレスに、母の形見のブローチ。隣にはレオがいる。彼の存在が、私の支えだった。
「両国の永きにわたる対立に終止符を打ち、新たな友好の時代を——」
フェリクス国王の宣言が始まった。その瞬間だった。
「お待ちください!」
凛とした声が響いた。聖女マリアベルが、エルステリア側の席から立ち上がっていた。白と金の法衣。清らかな——いや、清らかに見せかけた——微笑み。
「神託が降りました」
広間がざわめいた。聖女の神託。この国では、絶対の権威を持つ言葉。
「この調印式に、両国の和平を妨げる者がおります」
マリアベルは私を指差した。
「ノエル・フォン・アルトシュタイン。彼女こそが、両国の和平を阻む災いの種。神はお告げになりました。彼女を排除せよ、と」
血の気が引いた。また、この手を使うのか。神託という名の嘘で、私を断罪しようとする。
「聖女様」
フェリクス国王が、静かに言った。
「その神託の根拠をお示しいただけますか」
「根拠……? 神託に根拠などございません。神の声を聞く者として、わたくしは——」
「では、こちらの根拠はいかがか」
レオが立ち上がった。
「聖女マリアベル。あなたが和平交渉を妨害していた証拠がある」
広間が静まり返った。レオは手にした書類を掲げた。
「エルステリアの強硬派に送られた手紙。『和平交渉を妨害せよ』という指示が、あなたの筆跡で書かれている」
「そ、そのようなものは偽造——」
「筆跡鑑定は済んでいる。三人の専門家が一致して、あなたの筆跡だと認めた」
マリアベルの顔が青ざめた。でも、レオは止まらなかった。
「さらに、これはあなたの私室から発見された日記だ」
日記。レオがそれを開き、読み上げた。
「『ゲームのシナリオ通りに進めなければ。悪役令嬢は断罪されるべき。私は主人公なのだから、幸せになる権利がある』——これは何のことだ?」
広間にざわめきが広がった。ゲーム? シナリオ? 意味が分からない。でも、マリアベルの顔色が完全に失われたのは、誰の目にも明らかだった。
「あなたは『神託』など受けていない。自分の願望を『神の声』と偽って、この国を操ってきた」
「違う……違います! わたくしは本当に神の声を——」
「では、証明していただこう」
私は立ち上がった。
ブローチを握りしめる。あの日と同じように、真実を強く求める。
「お母様。真実を見せてください」
紫色の光が、再び広間を包み込んだ。
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映像が浮かび上がった。
聖女が、エルステリアの強硬派貴族と密談している場面。
『和平など成立させてはなりません。私の計画が狂います』
『しかし聖女様、民は和平を望んで——』
『民のことなど知りません! わたくしが幸せになることが、最も重要なのです!』
映像が切り替わる。
断罪の夜の、直前。聖女が王太子と話している。
『エドワード様、神託が降りました。ノエル・フォン・アルトシュタインは、わたくしを陥れようとした悪役令嬢です』
『本当か、マリアベル』
『ええ。神がそうおっしゃっています。彼女を断罪し、追放してください。そうすれば、わたくしたちは幸せになれます』
王太子が、聖女の言葉を鵜呑みにしている。疑うことすらしていない。
映像が消えた。
広間は、完全な沈黙に包まれていた。
「これが……真実です」
私は声を絞り出した。
「聖女マリアベルの神託は、全て虚偽でした。彼女は自分の願望のために、神の名を騙り、この国を——いえ、両国を操ってきたのです」
マリアベルは崩れ落ちた。膝をつき、がたがたと震えている。あの清らかな微笑みは、もうどこにもなかった。
「マリアベル」
エルステリア国王が、重い声で言った。
「神託の偽装、和平妨害、冤罪の捏造。これらの罪により、聖女の地位を剥奪する」
「そんな……わたくしは、主人公なのに……こんなはずでは……」
主人公。また、その言葉だ。彼女は最後まで、自分が「主人公」だと信じていたのだろうか。
「処分は——国外追放とする」
広間がざわめいた。国外追放。私と、同じ処分。
「また、王太子エドワードは、聖女の虚言を鵜呑みにし、無実の者を断罪した責任を問う。謹慎処分とする」
王太子の顔が蒼白になった。何か言おうとして、でも言葉が出ないようだった。
フェリクス国王が立ち上がった。
「これにて、障害は取り除かれた。改めて——和平条約の調印を行う」
両国国王が、条約書に署名した。三十年の冷戦が、ようやく終わりを迎えた。
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式典の後、私は一人で王宮の庭園に出た。
頭がぼんやりする。ブローチを二度使った疲労と、あまりにも多くのことが起きた混乱で、まだ現実感がなかった。
終わった。聖女は断罪された。私を陥れた者たちは、全員、報いを受けた。
なのに、心は晴れない。達成感より、虚脱感のほうが大きい。
「ノエル」
振り向くと、レオがいた。夕日が彼の黒髪を染めている。
「一人で出てくるな。まだ危険が——」
「もう、終わりましたよ」
「……ああ。終わった」
レオは私の隣に立った。二人で、夕日に染まる庭園を見つめる。
「お前は、強かった」
「そうでしょうか」
「ああ。誰よりも」
沈黙が流れた。心地よい沈黙だった。
「ノエル」
「はい」
「俺は——」
レオが言葉を切った。珍しく、言い淀んでいる。
「この前、途中で止まっただろう」
8話のこと。「任務じゃない。俺が、お前にいてほしいからだ」——あの言葉の続き。
「覚えています」
「あの続きを、言わせてくれ」
レオは私の前に立った。金色の瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
「俺は、お前を守りたい。任務だからじゃない。お前が、大切だからだ」
心臓が高鳴る。
「お前が選んだ場所が、俺の守る場所だ」
レオの手が、私の手を取った。温かくて、大きくて、少しだけ震えている。
「お前が選ぶなら——俺を、選んでくれないか」
涙が溢れた。なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。悲しいのではない。嬉しいのだ。こんなにも、誰かに必要とされることが。
「……はい」
声が震えた。
「私も、レオさんの傍にいたいです」
レオの表情が、ふっと緩んだ。笑顔、と呼べるほどではない。でも、今まで見た中で、一番柔らかい顔だった。
「ありがとう」
彼は私の手を、強く握った。
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「失礼いたします」
声がして、二人の時間は終わった。使者が近づいてくる。
「ノエル・フォン・アルトシュタイン様に、エルステリア国王陛下からの通達です」
嫌な予感がした。
「『公爵家の娘を他国に置いておくわけにはいかない。ノエル・フォン・アルトシュタインに、帰還を命ずる』——以上です」
帰還命令。
全身から血の気が引いた。
「お待ちください。私は追放された身です。再入国禁止の刻印まで押されて——」
「刻印の解除は、国王陛下の署名により可能です。すでに手続きは進んでおります」
「そんな……」
レオの手が、私の肩を掴んだ。
「ノエル」
「レオさん……」
「大丈夫だ」
彼の声は、静かだったけれど、揺るぎない強さがあった。
「お前が選べばいい。どこで生きるか。誰と生きるか。お前自身が」
夕日が沈んでいく。庭園が、薄闇に包まれ始めていた。
明日、私は最後の選択をしなければならない。
でも——もう、答えは決まっている気がした。




