第7話 彼女は我が国の賓客です
王太子が来る。
その知らせを聞いたのは、夜会から一週間後のことだった。
「明日、エルステリアの王太子がフェリクスに到着する。聖女も同行している」
レオがいつもの席で、低い声で告げた。
「表向きは和平交渉だ。だが——」
「私を連れ戻すため、ですね」
「ああ」
分かっていた。聖女の「帰還要請」。王太子の来訪。点と点が繋がっている。
「会談の場にお前を呼ぶ可能性がある。拒否することもできるが——」
「行きます」
自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。
「逃げたくありません。私の口で、私の意志を伝えたい」
レオは私を見た。金色の瞳が、じっと私を捉えている。
「……分かった」
それだけ言って、彼は紅茶を飲み干した。
「俺も行く。お前の傍にいる」
「レオさんが会談に?」
「俺には、そういう立場がある」
詳しくは言わなかった。でも、彼が何かの有力者——あるいはその関係者——であることは、なんとなく分かっていた。夜会での周囲の態度、貴族たちの反応。普通の平民に向けるものではなかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、終わってからだ」
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翌日、フェリクス王宮。
謁見の間は、緊張感に満ちていた。
高い天井から差し込む光、白い大理石の柱、両国の紋章が並ぶ壁掛け。その中央に、玉座がある。フェリクス国王が座し、両脇には重臣たちが控えている。
向かい側には、エルステリアの使節団。その先頭に、王太子エドワードと聖女マリアベルがいた。
久しぶりに見る二人だった。王太子は相変わらず金髪碧眼の美丈夫。でも、その目には苛立ちが滲んでいる。聖女は白と金の法衣を纏い、清らかな微笑みを浮かべている。でも、私には分かる。あの笑顔の下に、何が隠れているか。
私は末席に近い位置に立っていた。レオは——なぜか、上座に近い場所にいる。彼の立場が、ますます分からなくなった。
「本日は、和平交渉の一環として——」
形式的な挨拶が始まった。でも、王太子の視線は私に向いている。早く本題に入りたくて仕方がない、という顔だ。
案の定、挨拶が終わるとすぐに切り出してきた。
「フェリクス国王陛下。本題に入らせていただきたい」
「許可する」
「我が国から追放された元公爵令嬢、ノエル・フォン・アルトシュタインの身柄を引き渡していただきたい」
ざわめきが起こった。フェリクス側の重臣たちが顔を見合わせる。
「聖女の神託により、彼女の帰還が我が国に必要とされております」
王太子は続けた。聖女が一歩前に出て、「清らかな」声で付け加えた。
「わたくし、ノエル様を恨んでなどおりません。ただ、神のお導きにより、彼女が祖国に戻ることが両国の和平に繋がると——」
「私は、戻りません」
聖女の言葉を遮って、私は声を上げた。
一斉に視線が集まる。王太子が眉をひそめた。聖女の微笑みが、一瞬だけ固まった。
「発言を許されていないはずだが」
王太子が冷たく言った。
「失礼いたしました、殿下。ですが、私自身のことです。私の口から申し上げる権利はあるかと存じます」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「追放されたのは私の罪ではありません。帰還する義務もありません。私は自分の意志で、この国に残ります」
「お前は祖国を裏切るのか」
王太子が声を荒げた。
「裏切る?」
私は真っ直ぐに、彼を見た。
「私を冤罪で断罪し、国外に追放したのはどなたですか。私には身に覚えのない罪でした。証拠もなく、裁判の機会もなく、一方的に——」
「聖女の神託は絶対だ!」
「神託が絶対なら、なぜ今、私の帰還を求めるのですか」
会場が静まり返った。
「追放を命じたのも神託、帰還を命じるのも神託。どちらが『神の意志』なのですか、殿下」
王太子の顔が紅潮した。反論しようと口を開いた、その瞬間——。
「彼女はフェリクス王国の賓客です」
静かな、でも揺るぎない声が響いた。
レオだった。
「侮辱は外交問題と見なします」
王太子の顔色が変わった。怒りではない。驚愕だ。レオを見て、何かを認識したような顔をしている。聖女も同様だった。彼女は一瞬、怯んだように見えた。
フェリクス国王が、小さくレオに頷いた。
「我が息子の言う通りだ」
息子。
その言葉が、頭の中で反響した。息子?
「ノエル・フォン・アルトシュタインは、我が国の賓客である。彼女の母セレスティアは、三十年前、両国の和平のために尽力した功労者。その娘を我が国は歓迎し、保護する」
国王の宣言が、会場に響き渡った。
「帰還を強制するなら、それは外交問題となる。エルステリアは、それを望むか」
王太子は唇を噛み締めていた。聖女が何か言おうとしたが、王太子がそれを手で制した。
「……善処を求める」
絞り出すような声だった。
「この件は、改めて協議の場を設けたい」
「承知した」
フェリクス国王は頷いた。それ以上は何も言わなかった。
会談は、それで終わった。
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王宮の回廊。
会談の後、私はレオと二人で歩いていた。彼は何も言わない。私も、何を言えばいいか分からなかった。
「レオさん」
ようやく、声を絞り出した。
「国王陛下が、『息子』と——」
「……聞こえたか」
「はい」
レオは足を止めた。窓の外を見ている。その横顔は、相変わらず読めない。
「俺は、フェリクス王国の第二王子だ」
静かに、彼は言った。
「レオナルド・フォン・フェリクス。それが、俺の本当の名前だ」
王子。レオが、王子。
頭が真っ白になった。あの質素な服で店の修繕を手伝っていた人が。毎日、窓際の席で黙々と菓子を食べていた人が。
「なぜ……黙っていたんですか」
「言えば、お前の態度が変わると思った」
「変わりません」
「……そうか」
レオは私を見た。金色の瞳が、まっすぐに私を捉えている。
「お前が選んだ場所を、誰にも奪わせない」
「レオさん……」
「それが、俺の任務だ」
任務。また、その言葉だ。
少しだけ、胸が痛んだ。彼にとって、私は「任務」なのだ。守るべき対象。それ以上でも、それ以下でもない。
でも——。
彼の目は、真剣だった。「任務」という言葉を使いながら、その瞳には別の何かが宿っている。私には、そう見えた。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
レオは何も答えず、また歩き始めた。私はその背中を追った。
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夜、店に戻って、一人で窓の外を見た。
今日、私は勝った。連れ戻されずに済んだ。自分の意志で、この場所に残ることを選べた。
でも、終わっていない。
王太子の去り際の顔を思い出す。あの屈辱に満ちた表情。聖女の、一瞬だけ見せた冷たい目。
彼らは諦めない。次の手を打ってくる。
「まだ、終わっていない」
呟いて、ブローチを握りしめた。
嵐は、まだ続いている。




