第4話 招かれざる客
開店から一ヶ月が過ぎた。
「月下の茶房」は、少しずつ客足が伸びていた。ローザ夫人が友人を連れてきてくれたのを皮切りに、社交界の噂を聞きつけた貴婦人たちが訪れるようになった。最初は物珍しさが半分、という顔ぶれも多かったけれど、菓子を食べれば表情が変わる。「また来るわ」と言って帰る人が増えた。
「ノエルさん、今日のパウンドケーキも絶品ね」
常連になったメルヴィン子爵夫人が、紅茶のカップを持ち上げながら言った。隣の席では、彼女の友人らしき女性二人が、焼きたてのマドレーヌを頬張っている。
「ありがとうございます。今日は干し葡萄を多めに入れてみました」
「それがいいのよ。甘すぎず、でも満足感がある。王都の老舗より好きだわ、私」
お世辞かもしれない。でも、そう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。
窓際の定位置には、今日もレオがいる。いつもの時間に来て、いつもの席に座り、「任せる」とだけ言って出されたものを黙々と食べる。もう三週間、一日も欠かさない。
「レオさんは、お仕事はよろしいんですか?」
給仕のついでに聞いてみた。毎日同じ時間に来られるということは、かなり融通の利く仕事なのだろうか。
「……問題ない」
それだけ。相変わらず言葉が少ない。でも、皿の上のクッキーは綺麗になくなっている。
「今日のクッキー、新作なんです。レモンの皮を少し——」
扉が開いた。
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入ってきたのは、見慣れない男だった。
三十代半ばくらいだろうか。使用人風の地味な服装。でも、何かが引っかかる。手が荒れていない。使用人にしては、肌が白すぎる。
「いらっしゃいませ」
私は笑顔で迎えた。どんな客でも、来てくれるのはありがたい。
男は店内を見回し、空いているテーブルに座った。メニューを渡すと、ぞんざいに受け取り、一番安い紅茶だけを注文した。
「かしこまりました」
厨房に戻りながら、ちらりとレオを見た。彼は男を一瞥し、一瞬だけ目を細めた。何か気になることがあるのだろうか。
紅茶を淹れて持っていく。男は無言で受け取り、一口も飲まずにカップを置いた。そして——。
「おい」
大声だった。店内の客が一斉に振り向く。
「この菓子、虫が入ってるぞ」
男がテーブルの上を指差した。そこには、小さな黒い点がある。確かに、虫のように見える。
でも、おかしい。私はこの男に菓子を出していない。紅茶だけだ。
「お客様、菓子はご注文されていませんが——」
「さっき出されただろう! 試食だとか言って!」
言っていない。そんなことは言っていない。
「虫入りの菓子を出すとは、どういう了見だ! これだから敵国人は信用できない!」
男の声が店中に響く。貴族の客たちがざわめき始めた。メルヴィン子爵夫人が眉をひそめ、友人たちと顔を見合わせている。
私は冷静に、でも速やかに動いた。
「お見せしましょう」
「何を——」
「厨房と材料です。この店の衛生管理をご確認いただければ」
前世の知識が役に立った。カフェでアルバイトしていた時、衛生管理の講習を受けたことがある。この世界の水準より、ずっと厳しい基準を自分に課してきた。
「厨房を見せてもらっても、もう出した菓子は——」
「お客様のお皿を確認させてください」
声がした。レオだった。いつの間にか、男のテーブルの傍に立っている。
「皿? 何を——」
「あなたが菓子を受け取った時、俺は見ていた」
レオの声は静かだったけれど、店内の空気が変わった。貴族の客たちも、息を詰めて聞いている。
「この男は、菓子を受け取っていない。紅茶だけだ。そして——」
レオは男の袖を指差した。
「さっき、袖から何かを落としたのを見た。テーブルの上に」
男の顔が強張った。
「何を言っている、言いがかりだ——」
「俺は窓際の席から、ずっと見ていた。あなたが入ってきた時から」
レオの金色の瞳が、男を射抜くように見据えている。
「逃げるなら今のうちだ。このまま続けるなら、衛兵を呼ぶ」
一瞬の沈黙。
男は舌打ちをして、立ち上がった。財布も出さず、扉に向かって歩き出す。その足取りは速く、ほとんど走るように店を出ていった。
後に残ったのは、静けさだった。
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「まあ、ひどい人」
メルヴィン子爵夫人が扇で口元を覆いながら言った。
「追放された令嬢を陥れようなんて、どういう神経かしら」
「見たわよ、私も。あの男、菓子なんて受け取っていなかったもの」
「エルステリア訛りだったわね。あちらから来た人かしら」
貴族の客たちが口々に言い始めた。彼女たちは目撃者だ。男が嘘をついていたことを、全員が見ていた。
「ノエルさん、お気の毒に」
ローザ夫人——いつの間にか来ていたらしい——が、私の手を取った。
「でも、ご安心なさい。この店の衛生管理が素晴らしいことは、皆知っているわ。あんな見え透いた嫌がらせで、評判は落ちないから」
「ありがとうございます……」
声が震えた。怖かった。あのまま信じられていたら、店は終わっていたかもしれない。
「レオさんが見ていてくれて、本当に——」
振り向くと、レオはもう窓際の席に戻っていた。何事もなかったかのように、冷めかけた紅茶を飲んでいる。
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夜、店を閉めた後。
レオは帰らず、片付けを手伝ってくれていた。正確には、私が「帰ってください」と言う前に、勝手にテーブルを拭き始めた。
「レオさん」
「何だ」
「今日は……ありがとうございました」
「……偶然だ」
「偶然、あの男が何かを落とすところを見ていたんですか?」
「ああ」
「偶然、毎日この時間に店にいるんですか?」
「…………」
レオは答えなかった。テーブルを拭く手が、一瞬だけ止まる。
私は気づいていた。騒動の間、レオはずっと私の近くにいた。男が大声を出した時、すぐに動ける位置に。私が厨房を見せようと言った時も、男のテーブルの傍に。まるで——何かあったら、すぐに守れるように。
「レオさんは」
「……何だ」
「いつも私を助けてくれますね」
「偶然だ」
「偶然が、多いですね」
レオは目を逸らした。耳の端が赤い。
「……茶を飲みに来ているだけだ」
それだけ言って、彼は布巾を置いた。
「明日も来る」
「え?」
「茶を、飲みに」
足早に店を出ていく。扉が閉まる音だけが残った。
私は一人、静かな店内に立ち尽くしていた。
助けてもらった。また、助けてもらった。「偶然」という言葉で包んで、彼はいつも近くにいてくれる。
嬉しい。でも、少しだけ怖い。
あの男は、エルステリア訛りだった。「敵国人を嫌う一般人」にしては、手口が用意周到すぎた。誰かに頼まれて来たのではないか。誰かが、私を陥れようとしているのではないか。
——継母の顔が、ふと脳裏をよぎった。
考えすぎかもしれない。でも、あの人なら、やりかねない。
今日は失敗した。でも、次は?
私は窓の外を見た。フェリクスの夜空には、雲がかかり始めていた。
嵐が来るのかもしれない。比喩ではなく——本当に。




