第3話 噂の菓子と最初の常連
開店から五日が経った。
客は、三人。しかも全員、道を尋ねに来ただけだった。
「月下の茶房」。それが私の店の名前だ。母が好きだった言葉——「月の光は誰にでも平等に降り注ぐ」——から取った。看板はバルトさんが知り合いの職人に頼んでくれて、銀色の文字が控えめに輝いている。
店構えは悪くない。レオが直してくれた棚にはカップを並べ、窓際には小さな花瓶を置いた。テーブルには白いクロス。清潔で、明るくて、居心地の良い空間になったと思う。
でも、客は来ない。
原因は分かっている。「敵国人の店」。その噂が、私より先に広まってしまった。通りを歩く人は店の前で足を止めても、看板を見て去っていく。銀髪の店主の姿を見れば、なおさらだ。
それでも、私は毎朝厨房に立った。
マドレーヌを焼く。パウンドケーキを焼く。クッキーを焼く。前世で何百回と繰り返した動作が、この世界の材料でも同じように形になる。バターの香り、砂糖の甘さ、小麦粉のふくらみ。オーブンの扉を開けるたびに、幸せな香りが店中に広がる。
この香りを、武器にしよう。
私は焼きたての菓子を窓際に置いた。扉を少しだけ開けて、香りが通りに流れるようにする。食べてもらえなくても、匂いだけなら届く。「ここに美味しいものがある」と、知ってもらえる。
六日目も、七日目も、同じことを繰り返した。
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八日目の午後だった。
扉が開く音がして、私は厨房から顔を出した。
レオだった。
黒髪に金色の瞳。相変わらず質素な服装で、表情は読めない。開店準備を手伝ってくれた日から、時々ふらりと現れては修繕の続きをしてくれていた。でも、営業時間に来たのは初めてだ。
「いらっしゃいませ」
声が少し上ずった。初めての——本当の意味での——客だ。
レオは店内を見回し、窓際の席に座った。何も言わない。メニューを示すと、一瞥して「任せる」とだけ言った。
厨房に戻り、紅茶を淹れる。今朝焼いたマドレーヌを皿に並べる。手が震えそうになるのを抑えて、丁寧に盛り付けた。
「お待たせしました」
テーブルに置く。レオは黙って紅茶を一口飲み、マドレーヌを手に取った。
一口、齧る。
私は息を詰めて見守った。前世の記憶を頼りに作ったレシピ。この世界の材料に合わせて何度も調整した配合。自信はある。でも、他人に食べてもらうのは初めてだ。
レオの咀嚼が止まった。
「……どう、ですか」
聞いてしまってから、聞かなければよかったと思った。無愛想な彼のことだ、「普通」とか「悪くない」とか、そっけない返事が返ってくるに決まっている。
「——世界一うまい」
え。
レオは自分の言葉に気づいたように、ぴたりと動きを止めた。耳の端が赤くなっている。
「……いや、その」
「あ、ありがとうございます……?」
「違う、これは——」
レオは立ち上がった。財布から銀貨を数枚取り出し、テーブルに置く。マドレーヌはまだ半分残っている。紅茶もほとんど手つかずだ。
「また来る」
それだけ言って、足早に店を出て行った。
扉が閉まる。私は呆然と立ち尽くしていた。
世界一うまい。
そう言ってくれた。照れて逃げるように去っていったけれど、あの言葉は本心だったと思う。無愛想な人が、無防備に漏らした感想。
嬉しさが、じわりと胸に広がった。
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「あら」
声がして、振り向いた。いつの間にか、扉の前に女性が立っていた。
四十代くらいだろうか。品の良いドレスに、手入れの行き届いた髪。明らかに貴族だ。扇で口元を隠しながら、興味深そうに店内を見回している。
「あの無愛想な方が、笑顔で……いえ、笑顔ではなかったけれど、随分と急いで出ていったものだから。何があったのかしらと思って」
無愛想な方。レオのことだろう。この女性は、レオを知っているのだろうか。
「いらっしゃいませ。お席へどうぞ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
女性は窓際の席——さっきレオが座っていた席——に腰を下ろした。
「あの方が褒めるなんて珍しいのよ。何を召し上がったの?」
「マドレーヌと紅茶です」
「では、同じものを」
私は急いで厨房に戻り、同じ組み合わせを用意した。手が震える。今度は緊張とは違う、期待に似た感覚だった。
女性はマドレーヌを一口食べ、目を丸くした。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「いいえ、お世辞ではなくてよ。この焼き加減、この香り。王都の老舗にも引けを取らないわ。いえ、むしろ——」
女性は残りのマドレーヌを上品に、しかし勢いよく平らげた。紅茶も飲み干し、満足そうに息をつく。
「あなた、エルステリアから来たのでしょう?」
「……はい」
「噂は聞いているわ。『敵国の追放令嬢が店を開いた』と」
身構えた。ここで嫌味を言われるのだろうか。
「でも、この味なら関係ないわね」
女性は扇を畳み、にっこりと笑った。
「私はローザ・フォン・ヴェルナー。ヴェルナー伯爵の妻よ。今度、友人たちを連れてくるわ。この菓子、もっと多くの人に知ってもらうべきだもの」
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ローザ夫人が帰った後、私は店の片付けをしながら、ぼんやりと考えていた。
認められた。たった二人だけど、私の菓子を「美味しい」と言ってくれた。
レオの「世界一うまい」。ローザ夫人の「王都の老舗にも引けを取らない」。
この二つの言葉が、どれほど私の支えになるか。
翌日から、少しずつ客が増えた。ローザ夫人が友人に話したのだろう。「ヴェルナー伯爵夫人が絶賛した店」という噂が、社交界で広まり始めたらしい。
まだ「敵国人の店」という偏見は消えていない。入店を躊躇う人もいる。でも、一度食べてくれた客は、また来てくれる。味で勝負する——その作戦が、少しずつ実を結び始めていた。
そして、レオ。
彼は本当に「また来る」を実行した。毎日、同じ時間に、同じ窓際の席に座る。「任せる」とだけ言って、出されたものを黙々と食べる。感想はあの日以来、一度も口にしない。でも、皿はいつも空になっている。
「レオさんは、常連になるのでしょうか」
ある日、何気なく聞いてみた。
「……茶を飲みに来ている。それだけだ」
素っ気ない返事。でも、耳の端がまた少し赤い気がした。
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夜、帳簿をつけながら、ふと窓の外を見た。
フェリクスの夜空は、エルステリアより星が多く見える。潮風のせいか、空気が澄んでいるのだろう。
「あの追放令嬢が、敵国で菓子店を」
その噂は、私の知らないところで広がっている。フェリクスの社交界だけでなく、海を越えて——。
もしかしたら、エルステリアにも届いているかもしれない。
私を追放した人たちの耳にも。
継母の耳にも。
考えると、少しだけ胸がざわついた。でも、今さら恐れても仕方がない。
私は自分で選んだ道を歩いている。それを邪魔されるとしても、今度は簡単に折れない。
「月下の茶房」の看板が、月明かりに照らされて光っていた。




