第2話 敵国の言葉で笑ってみせます」
国境を越えてから、五日が経っていた。
王都フェリシアの街並みは、エルステリアとはまるで違う。石畳は白っぽく、建物は煉瓦造りで、どこか開放的な空気がある。港が近いせいか、潮の香りが風に混じっている。
私は安宿の軒先で、雨を凌いでいた。宿代を払う金はない。昨夜からずっと、ここで座り込んでいる。
空腹で頭がぼんやりする。前世の記憶では、こんなに追い詰められたことはなかった。いや、過労で死んだのだから、追い詰められてはいたのか。でも少なくとも、雨の中で路上に座り込むような経験は初めてだ。
「お嬢さん」
声をかけられて、顔を上げた。白髪の老人が立っていた。恰幅が良く、身なりは質素だが仕立ては良い。商人だろうか。目を細めて、私の顔をじっと見ている。
「その髪と瞳……もしや、シュテルン家の血筋かね」
心臓が跳ねた。シュテルン。母の旧姓だ。
「……母が、その名でした」
老人の顔が、ぱっと明るくなった。
「やはり。セレスティア様のお子か」
母の名前を、この異国の地で聞くとは思わなかった。老人は私の前にしゃがみ込み、皺だらけの顔で微笑んだ。
「儂はバルトロメウス・シュナイダー。皆はバルトと呼ぶ。三十年前、お母上に商売を救われた恩がある」
三十年前。聖精戦争の頃だ。
「戦時中、儂の商会は敵国との取引を疑われて潰れかけた。その時、お母上が——まだ若い外交官見習いだったセレスティア様が、儂の潔白を証明してくださった。あの方がいなければ、家族は路頭に迷っておった」
バルトさんは懐から手巾を取り出し、私の濡れた髪を拭おうとした。その手つきが、どこか祖父を思わせた。前世の祖母は私を可愛がってくれたけれど、祖父は私が生まれる前に亡くなっていた。
「お嬢さん、事情は聞かぬ。だが、恩返しをさせてくれ」
「でも、私は……」
「追放された身、じゃろう。噂は聞いておる」
驚いて顔を上げると、バルトさんは穏やかに笑った。
「この街に来る敵国人は珍しい。しかも銀髪に紫眼の若い娘となれば、噂が立つのも早い。じゃが、儂にとっては関係ない。セレスティア様の娘御というだけで、十分じゃ」
涙が出そうになるのを、必死に堪えた。
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バルトさんに連れられて、王都の外れにある空き物件を見に行った。
「ここは『境通り』と呼ばれる場所での。貴族街と商業街の境目じゃ。身分を気にせず立ち寄れる、便利な立地よ」
元は古書店だったらしい。二階建ての小さな建物。一階が店舗で、二階が住居になっている。埃だらけで、棚は傾き、窓ガラスには蜘蛛の巣が張っている。
でも、私の目には違うものが見えた。
ここにカウンターを置いて、あそこにテーブルを並べて。厨房は奥に。窓際の席には陽が入るから、明るい雰囲気になる。
「どうかね」
「……素敵な場所です」
声が震えた。バルトさんは嬉しそうに頷いた。
「開店資金として、金貨十枚を貸そう。返済は軌道に乗ってからで良い。利子は取らぬ」
「そんな、ご恩だけでも十分なのに——」
「恩を返させてくれ、と言うたじゃろう」
バルトさんは私の手を取り、しっかりと握った。
「お母上は、この国とエルステリアの和平のために尽力された方じゃ。その娘御が困っているのを見過ごすほど、儂は恩知らずではない」
母が、和平のために。初めて聞く話だった。継母が来てから、母の話をする者は屋敷にいなくなった。
「……ありがとうございます」
今度こそ、涙が零れた。
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翌日から、店の掃除を始めた。
埃を払い、蜘蛛の巣を取り、床を磨く。前世でカフェのアルバイトをしていた経験が役に立った。清掃の手順は体が覚えている。
午後、隣の店から男が出てきた。四十代くらいの、太った商人。腕を組んで、私を睨んでいる。
「おい、お前」
返事をする前に、男は続けた。
「敵国の女がこんな場所で商売か。図々しいにも程がある」
フェリクス語だ。当然、私にも分かる。
「客が来るとでも思ってるのか。お前みたいな薄気味悪い銀髪の——」
「ご忠告、痛み入ります」
私は男の言葉を遮り、完璧なフェリクス語で応じた。王都の上流階級が使う敬語で。
男の顔が強張る。
「この地域の商慣習も存じております。『境通り』では日暮れ後の大声での客引きは禁止、店先の清掃は各自の責任、隣店との境界は軒の滴が落ちる線まで。母から学びました」
方言混じりの商人言葉に切り替える。バルトさんから昨日聞いたばかりの知識だけれど、言葉自体は母に教わっていた。
「ご近所としてお付き合いいただければ幸いです。何かご不便をおかけしましたら、遠慮なくお申し付けください」
最後は、庶民が使う丁寧な日常語で締めくくった。
男は口を開けたまま、何も言えなくなっている。敵国の追放令嬢が、フェリクス語を三種類の文体で使い分けるとは思わなかったのだろう。
「で、では、まあ……その……」
男は何か呟きながら、自分の店に引っ込んでいった。
小さな勝利。でも、確かな手応えがあった。言葉が通じるなら、やっていける。
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夕暮れ時、傾いた棚を直そうとして苦戦していた。重くて、一人では動かせない。
「手伝う」
声がして、振り向いた。
見覚えのある黒髪と金色の瞳。国境で、ブローチを拾ってくれた青年だ。質素な旅装は変わらないが、今日は工具の入った袋を肩にかけている。
「あ、あなたは——」
「通りかかった」
それだけ言って、青年は棚に手をかけた。軽々と持ち上げ、水平に直す。傾いていた原因の緩んだ釘を、工具で打ち直していく。手慣れた動きだった。
「お名前は……?」
「レオ。それだけでいい」
「私はノエルです。ノエル・フォン……いえ、今はただのノエルですね」
レオと名乗った青年は、ちらりと私を見た。表情は読めない。無愛想というより、感情を表に出さない人なのかもしれない。
「……店をやるのか」
「はい。喫茶店を」
「この場所で」
「はい」
レオは棚の修繕を終え、次に傾いた窓枠に取りかかった。工具を持っているということは、こういう仕事をしているのだろうか。でも、その手には剣だこがある。職人の手ではない気がする。
「あの、お礼を——」
「いらない」
素っ気なく遮られた。
「通りかかっただけだ」
通りかかっただけで、なぜ工具を持っているのだろう。なぜ手伝ってくれるのだろう。疑問は浮かぶけれど、今は人手が欲しいのも事実だ。
「……ありがとうございます」
レオは答えず、黙々と作業を続けた。窓枠を直し、蝶番を調整し、壊れかけたドアを補修する。日が沈む頃には、店の骨組みはずいぶんましになっていた。
「今日はここまでだ」
「本当に、何かお礼を——」
「店が開いたら、茶を一杯」
レオは振り向きもせず、そう言って出て行った。その背中を見送りながら、私は不思議な気持ちになった。
変な人だ。でも、悪い人ではないと思う。
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夜、一人で店の中を見回した。
まだ埃っぽいし、家具も足りない。でも、形は見えてきた。
明日は厨房の設備を確認しよう。材料の仕入れ先も探さないといけない。やることは山積みだ。
でも、一つ分かっていることがある。
「敵国人の店」。その噂は、もう広まっているはずだ。隣の商人の態度を見れば分かる。開店しても、客は来ないかもしれない。
それでも。
厨房に立つ。埃だらけのかまどを見つめる。
前世で夢見た場所。自分の店。自分で作った菓子を、誰かに届ける場所。
「まずは一人」
声に出して言ってみた。
「味を認めてくれる人を、一人見つけよう」
そこから始めればいい。一人が二人になり、二人が十人になるかもしれない。ならないかもしれない。でも、やってみなければ分からない。
私は、自分で選んでここに立っている。
それだけで、今は十分だった。




