安堵
山道の勾配に足を取られながら、伊吹と雪花はただ前だけを見て歩き続けた。
夕陽が木々の間を朱に染め、風の音さえも心細く聞こえる。
「伊吹……あれ、見て」
雪花が指さした先に、瓦屋根の古い民家がぽつんと建っていた。
希望の光が射したように、伊吹の顔が明るくなる。
「助かった……! 誰かいますかー!」
しばらくすると、戸の向こうから年配の男の声が返ってきた。
「はいはい、どなたですかぁ?」
現れたのは、農作業着を着た六十代ほどの男性。
その穏やかな表情に、二人は泣きそうになりながら胸を撫でおろした。
「私たち、山の向こうのログハウスにいたんです。……鬼みたいなのに襲われて、逃げてきました!」
息を切らせながら伊吹が説明すると、男の顔色が見る間に変わった。
優しかった目が、恐怖に見開かれる。
「お前さんたち……まさか“あいつ”に目ぇつけられたんじゃ……」
その瞬間、空気が凍った。
男の声は、さっきまでの優しさを失っていた。
「“あいつ”って、誰のことですか?」
伊吹が問い詰めると、男は唇を噛み、首を振った。
「……知らんほうがいい。今すぐここを出なさい。はよ!」
怒鳴り声が家の中に響く。
伊吹と雪花は思わず後ずさった。
「でも、夜になったら危ないです! お願いです、少しだけ――」
「ダメだ! あいつに気づかれたら……わしまで……」
男は途中で口を噤み、雪花の肩を突き飛ばすように外へ押し出した。
バタンッ。
重い音を立てて戸が閉まる。
風の音だけが、冷たく吹き抜けていった。
「なんで……助けてくれないの……」
雪花の声はかすれていた。頬には涙が光る。
「ふざけんな……!」
伊吹は怒りに任せて戸を叩いた。
「私たち、本気で逃げてきたのに! 助けてください!」
中から返事はなかった。
沈黙だけが返ってくる。
「もう……誰も信じられない……」
雪花が、伊吹の腕の中で小さく呟いた。
その言葉に、伊吹は拳を握りしめた。
恐怖より、悔しさがこみ上げてくる。
「……大丈夫。誰も信じなくていい。私がいる。私“だけ”は、絶対に雪花を守るから」
伊吹は雪花を抱き寄せた。
その手の温かさに、雪花の呼吸が少しだけ落ち着く。
「ありがとう、伊吹……」
「礼なんていらない。一緒に、生きて帰ろう」
二人はまた歩き出した。
夕陽が山の端へ沈み、足元が闇に染まる。
それでも、手だけは、お互いの指が白くなるほど強く繋いだままだった。
やがて、闇の先に光が見えた。
小さな集落――古びた木造の駅舎。
「……駅?」
雪花の声が震える。
伊吹は最後の力を振り絞って走り出した。
「行こう、間に合うかもしれない!」
駅の時計は、終電まであと数分を刻んでいた。
二人は崩れ落ちるようにベンチに腰を下ろし、息を整える。
「助かったんだね……」
雪花の目に涙が滲んだ。
「うん。もう大丈夫だよ」
伊吹は雪花の肩を抱き寄せ、髪を撫でる。
汗と土の匂いがする髪。でも、伊吹にとっては、雪花が「生きてる」匂いだった。
その仕草は、あまりにも優しかった。
夜風が吹き、虫の声が静かに響く。
その音が、不思議と心を落ち着かせた。
ガタン、と線路の奥から音がした。
暗闇の中を、一台の古いディーゼル車両がゆっくりと近づいてくる。
ヘッドライトが二人を照らし、一瞬だけ夜が白く光った。
ドアが開く。
車内には誰もいない。
「行こう……」
伊吹が雪花の手を取った。
二人は最後尾の座席に並んで座る。
「怖かったね」
伊吹が小さく言う。
「うん……でも、伊吹がいたから平気だった」
雪花は微笑み、伊吹の肩に頭を預けた。
伊吹のTシャツ越しに、トクン、トクン、という心音が伝わってくる。この世で一番、安心する音だった。
窓の外を、闇と山の影が流れていく。
誰もいない車内で、二人の息遣いだけが響いていた。
列車はゆっくりと走り出す。
ガタゴト、ガタゴト――。
その音が、まるで子守唄のように二人を包む。
けれど、外の風景はどこまで行っても山と森。
「……ねぇ伊吹」
「ん?」
「さっきから、景色……全然変わってない気がする」
伊吹は黙って窓の外を見た。
冷たい窓ガラスに、自分の強張った顔が映る。
そこには、昼間逃げ出したはずの――
あの、黒い森が広がっていた。




