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再びの襲撃、そして脱出

 薄明かりのログハウス。

 伊吹と雪花は、ソファに身を寄せ合って横たわっていた。

 昨日と今日の恐怖が、心の奥にまだこびりついている。


「伊吹、私が見張るね。昨日、全然寝てないでしょ?」

 雪花は伊吹の汗で湿った髪をそっと撫でた。

 その優しさに、伊吹は微笑んで頷く。


「ごめんね、雪花。……ありがとう」


 二人は最低限の荷物を持ち、二階へ上がった。

 布団に入る直前、伊吹は雪花の頬に、というより、唇のすぐ端に、小さくキスをした。

 一瞬だけ、柔らかい感触が押し付けられる。

 そのまま、安心したように眠りに落ちる。


「おやすみ、伊吹」


 雪花は毛布を掛け、静かに立ち上がった。

 自分の指先で、そっと、キスされた場所をなぞる。

 窓の外では、夜の帳が森を飲み込んでいる。

 黒い木々の影が、不気味に揺れていた。


「……私だって、守るんだから。私の伊吹に、指一本触れさせない。安心して眠って」


 雪花の瞳に、強い決意の光が宿る。


 静寂。

 ログハウスを支配するのは、火のはぜる音と雪花の呼吸だけ。

 だが、その静けさは長く続かなかった。


 ギシ――。


 床板が鳴るような、低い音。

 雪花は反射的に息を止めた。

 心臓が跳ね、背筋が凍る。


 伊吹を起こすか? 一人で確かめるか?

 一瞬の迷いのあと、雪花はそっと立ち上がった。


 二階の吹き抜けから、下を覗く。

 薄明かりの中、家具の影が長く伸びている。

 耳を澄ます――音は、止んだ。


「……気のせい?」


 そう思った瞬間、再び音がした。今度は、もっと近く。


 リビングの奥。

 闇の中に、巨大な影が動いた。


 人間よりはるかに大きなシルエット。

 黒い毛に覆われた身体、鋭い角、闇に光る赤い瞳。

 それは、鬼のようだった。


 鬼は、まるで人のように振る舞っていた。

 棚を漁り、引き出しを開け、まるで“自分の家”を確認するように。


 雪花は息を呑み、動けなくなった。

 その視線が、ゆっくりと吹き抜けの方を向く。


 ――目が、合った。


 赤い瞳が、雪花を「認識」した。

 次の瞬間、鬼はニヤリと笑ったように見えた。

 そして、また棚を荒らし始めた。まるで、いつでも狩れるとでも言うように。


 雪花は喉の奥で悲鳴を飲み込み、寝室へ逃げ戻った。

 ドアを閉め、背中で押さえる。

 冷たい汗が背筋を伝う。


「お願い……気づかないで……」


 鬼が何かを壊す音が、遠くで響く。

 一つ一つの音が、心臓の鼓動と同じリズムで鳴っていた。


 やがて音が止み、静寂が戻る。

 雪花は震える手でドアを開け、そっと吹き抜けを覗いた。

 鬼の姿は――消えていた。


「伊吹! 起きて!」


 雪花はベッドに這い上がり、眠る伊吹の体を必死で揺り起こす。


「見たの! 鬼みたいなのがいたの! もうここにはいられない!」


 伊吹の目が一瞬で覚醒した。

 雪花の涙と汗でぐちゃぐちゃの表情だけで、冗談じゃないことがわかった。

 伊吹は、雪花の冷え切った体を、自分の腕の中に強く抱き寄せた。


「行こう!」


 二人は荷物を掴み、玄関へ駆け出す。

 外の闇は濃く、月明かりさえ届かない。


「大丈夫、雪花。私が絶対に守る!」


 伊吹が雪花の手を握り、闇の中を走る。

 背後に気配はない。だが、追われているような錯覚が離れなかった。


 森の中。

 木の根が足に絡み、枝が髪を掠める。

 呼吸が苦しくても、二人は止まらなかった。


「伊吹、足が……痛い……」

「もう少し! 頑張れ!」

 伊吹は立ち止まり、雪花の足首を乱暴に掴んで確認する。

 幸い、血は出ていない。

「立てるね!? 行くよ!」


 互いの手を握り合い、何度転んでも立ち上がる。

 追われているのか、逃げているのかも分からない。

 ただ、“生きたい”という願いだけが、二人を動かしていた。


 やがて、木々の切れ間から光が差した。

 舗装された車道だ。


 二人は倒れ込むように座り込んだ。

「伊吹……もう歩けない……」


 伊吹も息を切らし、雪花の背中をさすった。

 その時――。


 遠くから、ライトの光。


「車だ!」

 二人は立ち上がり、全力で手を振った。


「助けてーっ!」


 車は急ブレーキをかけ、目の前で止まった。

 運転席から降りてきたのは、中年の男性。


「どうしたんだ? こんな時間に」


 伊吹は必死に説明した。

 鬼のこと、逃げてきたこと、助けがほしいこと。


 男は真剣な表情で頷く。

「……わかった。乗りなさい」


 二人は泣きながら礼を言い、車に乗り込んだ。

 エンジンの音が、まるで子守歌のように優しく響く。


 走り出す車。

 伊吹は雪花を後部座席で抱き寄せ、彼女の顔を自分の肩にうずめさせた。

 お互いの汗と土の匂いが、安心する匂いに変わる。


「もう大丈夫。……今度こそ、助かった」


 雪花はその腕の中で、小さく息を吐いた。


 だが――。


「なんだ、あれはっ!?」


 運転手の叫び声。

 急ブレーキ。


 視界の先、フロントガラスの向こう。

 ――あの“鬼”が立っていた。

 赤い目を光らせ、笑っている。


「きゃあああああ!!!」


 車が横転した。

 視界が回転し、衝撃が全身を打つ。

 伊吹は雪花を抱きしめながら、自分の体を盾にするように、雪花の上に覆いかぶさった。

 雪花の悲鳴が、伊吹の胸の中でくぐもる。


 朝。

 鳥の声が遠くで聞こえる。

 伊吹は、ゆっくりと目を開けた。


 視界に映るのは、逆さまの車内。

「……雪花!」


 隣で雪花がうめき声をあげた。

 二人は抱き合い、互いの無事を確かめる。

 伊吹は雪花の顔を両手で挟み、額や頬に血がないか、必死で確認する。


「よかった……生きてた……」

「うん……雪花も」


 安堵の涙がこぼれる。

 だが、その静寂の中で、ひとつの違和感。

 あの獣と腐敗臭が、この車内にも微かに残っている。


「運転手さん……?」


 呼びかけても、返事はない。

 二人は視線を交わし、無言で外へ出た。


 ギィ……。

 ドアがきしむ。


 朝の光が眩しい。

 森は穏やかで、風が木々を揺らしていた。

 だが、地面に刻まれた“跡”がすべてを壊した。


 ――何かを引きずったような、深い溝。

 草が裂け、土がえぐれている。


「これ……」

 伊吹の声が震える。

 雪花は真っ青な顔で、その先を見つめた。


 森の奥へ続く、暗い闇。


「逃げよう……」

 伊吹が絞り出すように言う。

 雪花は頷き、震えて動けない伊吹の手を、今度は雪花が強く握る。


 二人は、跡とは反対方向へ走り出した。

 お互いの荒い息遣いだけを頼りに。

 朝の光が、あまりにも冷たく感じられた。

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