謎の足跡
伊吹の愛車は、小さな赤いコンパクトカーだった。
山道に入ると、車はまるでジェットコースター。左右へ、上下へ、ガタガタと揺れる。
ガードレールのない崖を横目に、助手席の雪花は息を呑む。
運転席でハンドルを握る伊吹の横顔が、少し汗ばんで輝いて見えた。
「ねぇ伊吹……ほんとにこの道で合ってるの? “出る”って噂あるらしいけど」
「大丈夫! 幽霊より、道迷う方が怖いでしょ」
「そういうこと言うと出るって!」
「出たら撮る! バズる!」
「それホラー映画の死亡フラグだよ!」
車内に笑い声が弾ける。
大学の文化祭休みを使った、女子二人の小旅行。
伊吹の父の知り合いが持つ山奥のログハウスに泊まる計画だ。
ただ出発前に「夜、出るらしい」と聞かされたせいで、雪花はずっと胸がざわついていた。
エンジンの振動と心臓の鼓動が、同じリズムで鳴る。
外の木々はどんどん密になり、昼なのに薄暗い。
「……ほんとに何もないね」
「いいじゃん。Wi-Fiも電波もないとか、文明のデトックス!」
「電波なくても平気な人間、尊敬する……」
「大丈夫、雪花がナビ代わりだから。ね、頼りにしてるよ」
「そうやって丸投げするんだから」
笑い合いながら、赤い車は森の奥へ消えていった。
木立の切れ間に、ログハウスが現れた。
夕方の光で木の壁がオレンジ色に染まる。
「うわぁ……映画みたい!」
「でしょ? 苦労して予約した甲斐あった!」
「これ泊まっていいレベルじゃないって。鹿の剥製あるし……」
「お出迎えだね、しか君。かわい……くはないけど!」
伊吹が荷物を両手に抱える。汗でTシャツが背中に張りつく。
雪花も自分の荷物を持ち上げるが、思わず声が出た。
「重っ!」
「筋トレだと思えばオッケー。ほら、持つよ」
「いいって、自分で──」
「いいから。協力プレイ」
伊吹の指先が雪花の手に一瞬触れた。
体温が残る。胸の奥が、くすぐったく疼いた。
ログハウスの中は木の匂いに満ちていた。
広いリビング、暖炉、急な階段。
「わぁ……写真で見るよりすごい」
「森の秘密基地って感じ!」
「こういうとこ、伊吹好きそう」
「うん、テンション上がるタイプ!」
伊吹が探検に走り回る。階段を上るたび、スカートがふわり。
雪花はソファに腰を下ろし、文庫本を開いた。指先が少し震える。
「到着五分で読書モード?」
「静かな場所こそ本の聖域」
「私の声があるけど?」
「……BGMとして」
「それ褒めてない!」
ふたりの声が木の壁で跳ね返る。
雪花の緊張は、いつの間にか溶けていた。伊吹の笑顔が、それを溶かした。
「ねぇ雪花! 二階めっちゃ急!」
「そんなテンションで言われても……」
「あとカラオケ機材ある!」
「なんで山奥に!?」
「歌うっきゃないでしょ!」
「やめ──」
「90点以下で脱衣ね!」
「誰が決めたルール!?」
伊吹の歌声が響く。
冗談めかした罰ゲームの言葉だけが、空気に小さな緊張を残した。
その声は透き通って、まっすぐ伸びていく。
首筋に汗の粒が光り、雪花の喉が鳴る。
「……やっぱり伊吹、すごい」
「なに、惚れた?」
「仲間として尊敬しただけ」
「照れてる」
「うるさい」
そのまま、伊吹が、ソファに座る雪花の隣にどさりと座り込み、そのまま体重を預けるように肩をぐりぐりとぶつけてきた。
「ちょ、重い!」
「いーじゃん、仲間なんだから!」
薄いTシャツ越しに、歌い終えたばかりの伊吹の熱が、じかに伝わってくる。
布越しに伝わる体温が、心を少しだけ近づけた。
夕暮れ。
台所で鍋を作る。
雪花の包丁さばきは手際がよく、伊吹が覗き込む。
「料理、上手だね」
「伊吹は食べる係でしょ」
「任せて。味見には定評ある」
スプーンを口に運ぶ伊吹の唇が艶めいて、雪花の視線が止まる。
「味見って言い訳だよね」
「バレた?」
湯気が上がり、頬が赤くなる。
「美味しい……! 外で食べたらもっと最高」
「クマが来るけどね」
「やめて! フラグ立てないで!」
食後。
雪花は温泉に入り、伊吹はキッチンで洗い物。
脱衣所はほんのり暖かく、ログハウスの木の匂いと温泉の湯気が混じって、甘く湿った空気が満ちていた。
雪花は服を脱ぐ。汗で少し肌に張り付いていたTシャツが離れるたび、山のひんやりした空気が一瞬肌を撫で、すぐに湯気がそれを包み込む。
浴槽の縁にそっと腰掛け、足先からお湯に入れる。
じんわりと熱が足首を伝い、ふくらはぎへと吸い付くように登ってくる感覚に、思わず小さな息が漏れた。
「ん……っ」
意を決して、肩まで一気に沈む。
「……気持ちいい」
泡が浮かび、指で弾く。
伊吹の笑顔が脳裏に浮かび、頬が熱くなる。
湯の中で膝を抱えたまま、小さく息を吐く。
「何やってんの、私」
苦笑して、水面を叩いた瞬間――。
バキ。
木の枝が折れる音。
もう一度。 バキ、バキ……。
「……伊吹?」
返事がない。
外で何かが、確実に動いている。
雪花は湯から飛び出した。恐怖で、指先がうまく動かない。
脱衣所に放っていた薄いTシャツとショートパンツを掴み、乱暴に体に滑り込ませる。
まだ水滴が乾ききっていない肌に、冷たい布が張り付いた。
びちゃり、と音を立てそうなほど、それは第二の肌みたいに、肩の丸みも、背中のくぼみも、すべてを写し取っていく。
湯上がりで火照っていたはずの肌が、山の冷気で急速に冷えていく。
濡れた布が肌に触れるたび、ビクッ、と背中が震えた。
ガタガタ震える足で、リビングに戻る。
伊吹が、マイクを握ったまま、きょとんとした顔で振り返った。
「雪花! おかえり! お湯どうだった?」
明るい声。
でも、雪花の表情と、あまりに扇情的なその姿を見た瞬間、伊吹の笑みが凍りついた。
「どうしたの? すごい格好……」
「外で、音が! 木が、折れるみたいな」
「風じゃない?」
「違う! ほんとに! 何かいる!」
その時。
――ガリ、ガリガリッ!
今度は二人同時に聞いた。
リビングの壁。外側から、何か硬いもので引っ掻く音。
「……っ!」
伊吹がマイクを放り投げた。
――ガチャ、ガチャガチャッ!
勝手口のドアノブが、乱暴に回される音。
「うそ……」
「……見てくる」
「だめ! やめた方がいいよ!」
「大丈夫。二人で来たんだから、逃げるときも二人一緒」
伊吹は真剣な顔で、雪花の手を掴もうとした。
Tシャツ越しに肌に触れた伊吹の指先が、雪花の濡れた体温に驚いたように一瞬止まる。
雪花はその手を、震える指で握り返した。
「……ほんとに平気?」
「平気。行こう」
伊吹は雪花をぐっと引き寄せた。
ほとんど、背中をかばうように。
そのまま、音のした勝手口へ向かう。
密着した体から、お互いの震えが伝わってくる。
トクン、トクン、と耳の近くで鳴る心音が、自分のか、伊吹のか、もう分からない。
ドアの前で、伊吹がランプを掴む。
ガチャガチャという音は、今は止んでいる。
代わりに、匂いがした。
泥と、獣と、何かが腐ったような生臭い匂い。
「……開けるよ」 伊吹が、雪花の手を強く握りしめた。
指と指が、食い込むように絡み合う。
ドアが、軋みながら開く。
夜の冷気が、二人の間に割り込んできた。
濡れた雪花の服が、風にあおられ、伊吹の腕にまで貼り付く。
伊吹の息が、雪花の耳元にかかった。熱くて、短い。雪花の、湯上がりの石鹸の香りに、恐怖の汗の匂いが混じって、伊吹の鼻腔をくすぐる。
「……誰も、いないね」
伊吹が呟いた、その時。
「待って」
雪花が、震える指でランプの光を足元に向けさせた。
泥の上に――“足跡”。
人の形をしているのに、指が、ありえない方向に折れ曲がり、逆を向いていた。
深く刻まれた跡が、森の闇の奥へ、続いている。
「ひ……」
「これ……人のじゃない……」
伊吹の息が、雪花の首筋を熱く掠めた。
「……戻ろ」
伊吹が、雪花の手をさらに強く握り直す。
その手は、冷たく、小刻みに震えていた。
「伊吹……手、震えてる」
「……大丈夫。雪花こそ、冷たい」
伊吹は、もう片方の腕を雪花の背中に回した。
濡れたTシャツが、伊吹の服にも冷たい感触を移す。
「大丈夫だから。……守るから」
その言葉には、確かに優しさがあった。
でも、森の闇が二人を包むとき―― どちらの手が震え、どちらの心臓が激しく鳴っているのか、もう分からなかった。
闇の中で、ふたりの熱い息だけが、灯のように重なり合っていた。




