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コミュ障令嬢とヤンデレ魔王

作者: 百鬼清風

 この世で最も恐ろしいものは何かと問われれば、私は迷わずこう答える。人。つまり、他人。いやもう、ほんと、まじで怖い。


 というわけで、私は今、極力目立たないよう壁際に貼り付いて、必死に呼吸を整えている。社交界最大の祭典、王国主催の舞踏会。煌びやかなドレス、優雅に踊る貴族たち、そして……極度のあがり症を発症中の私。


「エルネスタ、背中、壁にめり込んでるわよ。もっと前に出なさいって」


 親友ミレイユ・グランディールの明るい声が脳天に突き刺さる。だめだ、この子、元気すぎる。


「う、うう……わたし、これ以上前に出たら……溶ける」


「どこに?床?それとも空気に?」


「空気の粒子と同化して消えるの……」


「意味わからないけど面白いわ、行くわよ、ほら、王子がこっち見てるわよ」


 そう言ってミレイユが私の手を引っ張る。やめて!そんな死地へ連れていかないで!私は人間とは思えない奇声を心の中で叫びながら、ぎこちなく一歩前に出た。きっと今、私の顔は茹でダコを通り越してマグマだ。


 なんで私はこんなところにいるのか。それはもちろん、王太子殿下アルフォンスとの婚約者として、政略的な顔出しのためだ。両親に言われるがまま、私はこの舞踏会に引きずり出された。


 もちろん殿下と私に恋愛感情なんてこれっぽっちもない。私が話しかけようとするたび、彼は絶妙に聞こえなかったふりをする。まあ、私も話しかけられたら即座に動悸がして逃げるから、お互い様か。


「ふふっ、ほんと、あんたってば愛され令嬢って感じじゃないわよね」


 ミレイユが笑う。冗談でも刺さるんですけど!私の精神、紙より薄いの知ってるでしょ!


「でも、ちゃんと笑って立ってるだけでえらいわよ、エルネスタ。殿下に挨拶されたら一言ぐらい返せる?」


「無理です」


「即答かー」


 そうこうしているうちに、突然、会場にファンファーレが響いた。何?何が始まるの?いやな予感しかしない。


「王太子殿下より、重大なる発表がございます」


 司会役の家臣が言った瞬間、私の体温が3度下がった。こわい。今すぐ帰りたい。消えたい。


「侯爵令嬢エルネスタ・フィレールとの婚約は、本日をもって破棄する」


 ……え?


 時が止まったようだった。頭の中が真っ白。周囲がざわつく。ミレイユが私の腕を掴んでいるけど、私は何も反応できない。ただ、立っているだけで精一杯だった。


「理由は、彼女が妹セシリアを陰湿にいじめ、婚約にふさわしくないと判断したためである」


 ……は?


 私が?セシリアを?いじめた?え、逆じゃない?日々、部屋の前に生魚投げ込んでくるの誰?ドレスに墨を垂らしたの誰?私じゃなくてセシリアじゃん!?ていうか、あれ魚だったの!?なんで生臭かったのか今さら納得!


 周囲の視線が一斉に私に注がれた。さっきまで空気だった私が、今や会場の中心。なんで私が今、注目の的に……?


 目の前がぐにゃりと歪んで、私は一歩、後ずさった。足がもつれて、ふらりとよろめく。


 そのときだった。誰かが私の身体を支えた。温かくて、でも妙に冷たい感触。


「……この女を、私のものとする」


 聞いたことのない声。けれど、ぞくりと背筋が凍るような低音だった。振り返ると、見知らぬ美貌の青年が私を抱きかかえていた。黒髪、紅い瞳、異様な気配。


 なんで、魔王がここにいるの?


「おい、何をする!これは我が国の王太子が決めた処分だぞ!」


 誰かが怒鳴った。でも彼は余裕の微笑を浮かべながら言った。


「処分?違うな。価値を知らない者が手放しただけだろう?なら拾っていく。誰にも、渡さない」


 ……は?


 今、なんて?


 突然の出来事に、私の脳は理解を拒否した。婚約破棄?いじめの濡れ衣?魔王?頭の中に「???」が乱舞している。混乱のあまり思考が渦を巻いた私は、抱きかかえられたままフリーズしていた。


 ミレイユがそっと近づいてきて、小声でささやく。「エルネスタ、大丈夫。あんた今、絶対顔真っ赤よ。しかも変な顔してる。なにそれ可愛い」


 やめて。そんなこと今言われても反応できない。感情の整理が追いついてないんだから。


「エルネスタ・フィレール嬢は、我が領へ迎える。よろしいな?」


 魔王の言葉に、王太子は歯噛みしている。悔しいのだろう。でも、もう遅い。あなたが私を捨てたのだから。


 いや、いやいや、いやいやいや!どさくさで連れ去られそうになってるけど!?魔王って敵国の首魁じゃないの!?誘拐では!?


「ま、待ってください……!わ、私、ついていくなんて、一言も……!」


「では、今言ってくれ」


「え、いや、あの……っ、ど、どうすれば……」


「……可愛い」


「やめてぇぇええぇぇえええ!!」


 叫んだ。無意識に叫んでいた。これが限界だ。私の精神は今、心臓が宙を舞い、足元が崩れる感覚だった。


 ミレイユが吹き出しながら言った。「あんた、史上最高に面白いわ。私、絶対手紙書くから。魔王領でも生き延びるのよ」


「待って!そういうフラグ立てないで!」


 でも、もう遅い。私は魔王の腕の中。誰もそれを止められなかった。


 こうして私は、断罪され、ざまぁされ、婚約を破棄され、魔王に溺愛(?)されることになった。


 いや、どんな展開?



 目を覚ました瞬間、私は悟った。あ、ここ牢屋だ。


 いや違う。床はふかふかの絨毯、天井は高く、シャンデリアが揺れている。どこからか花の香りもする。どう考えても高級な寝室である。が、私はここを牢屋と認定する。だって出られないのだから。


 目覚めてからというもの、部屋の扉はびくともしない。ノブを回しても鍵がかかっているし、ノックしても誰も応じない。完全なる監禁状態だ。


 ……いや、待って?もしかしてこれって誘拐なのでは?犯罪なのでは?


「ようやく目が覚めたか」


 背後から聞こえたのは、昨日、舞踏会で私を抱きかかえて去っていった――そう、魔王クラウスの声だった。なぜ後ろから登場するの?怖い。心臓に悪い。


「ど、どこですか……!?あの、鍵、開けてください!閉じ込められてるんですけど!」


「開ける必要はない。ここは君の部屋だ。君のものだ。君は自由だ」


「じゃあ扉を開けてください!」


「だが出て行こうとするだろう?」


「当たり前じゃないですか!」


「ほら、やはり出すべきではないな」


「話が通じないタイプの人だーー!!」


 頭を抱えて床に突っ伏したくなる。なにこの人。思考回路がヤンデレ方向に全力疾走してない?


「君は誤解され、無実の罪を着せられた。それを見過ごすことなどできなかった」


「いえ、ありがとうございますけど、それとこれとは別問題です!」


「ここでは誰も君を否定しない。君のすべてを、受け入れる」


 ……なんだろう、このセリフ。響きは甘いのに、体感温度が下がる気がするのはなぜ?


「そ、それに……家に……手紙くらいは……」


「既に友人のミレイユ嬢に手配した。文通は許可する。ただし、外部の人間との面会は禁止だ」


「えっ、ミレイユにはOKなんですか?」


「彼女は面白い。君の精神安定に必要と判断した」


「……判断基準、そこですか」


 この魔王、思っていた以上に話が通じるようで通じない。困ったことに、部屋には召使いも配置され、食事も豪華。むしろ待遇は自宅より良いまである。


 でも自由がない。これが一番つらい。あと、魔王がしょっちゅう様子を見にくる。さっきから三度目の入室である。


「ちゃんと食べているか?」


「さっき出たスープ、熱すぎて舌やけどしました……」


「すぐに料理長を処罰しよう」


「やめて!?それは私が悪いですから!」


 ちょっとした愚痴も、すぐに「敵認定」してしまう。怖い。過保護を通り越して過激派だ。


 でも、なんというか。誰かにこんなふうに心配されるの、久しぶりかもしれない。


 実家では妹が天使扱いで、私は影の存在だった。失敗すれば怒られ、泣けば「被害者ぶるな」と言われる。だから自分を出さないようになった。


 この魔王は、私が何かを言うたび、真っ直ぐに聞いてくれる。表情は少ないけど、目だけは真剣で。


「君は、帰りたいか?」


「……はい」


「ならば、私に“戻りたい理由”を証明してみせてくれ」


「理由?」


「君があの家で、幸せだったと私に思わせられたら、帰してやる」


「それ……地味に難易度高くないですか!?」


「君が望むなら、私は君を閉じ込めることもできる。だが本当は、選んでほしい。君自身の言葉で」


 ……この人、根は不器用なだけかもしれない。いや、ヤンデレはヤンデレだけど、なんというか、ちょっと優しい。


 私はソファに深く腰掛け、スープの残りを一口啜った。舌にまだひりひり残っていたが、妙にあたたかく感じる味だった。


 明日、ミレイユから手紙が届く予定だ。それを読んだら、少しは頭が整理できるかもしれない。


 この不思議な監禁生活が、どういう結末に繋がるのか。今の私には、まだわからない。


 翌日。部屋のドアの隙間から、丁寧に折られた封筒が差し込まれていた。ミレイユからの返事だった。


『やっほー、監禁されヒロインちゃん。生きてる?私は元気。王都ではあんたの断罪騒ぎがまだ尾を引いてるけど、私が軽く火消ししといたわ。感謝しなさい。さて、そっちはどう?イケメン魔王と愛の逃避行?それとも毎日スープ地獄?ちなみに私は賭けに負けて、アルフォンスの肖像画をトイレに飾る羽目になったわ』


 ……元気そうで何よりだ。


 でも彼女の文章は妙にあたたかくて、思わず笑ってしまった。こんなふうに笑ったの、いつ以来だろう。


「笑ったな」


 声に顔を上げると、クラウスが窓辺に立っていた。いつの間にいたの!?忍者!?


「……今のは、手紙の内容が、ちょっと……」


「君が笑うのは良いことだ。もっと笑え。どんな理由であっても」


 それはあまりにも真っ直ぐで、思わず視線を逸らしてしまった。


「……笑いたくて笑ってるわけじゃないんです。たまたまです」


「ならば私は、毎日“たまたま”を用意しよう」


「ちょっと何言ってるかわかんないです」


 そう答えたくせに、内心ほんの少し、心が軽くなっているのを私は自覚していた。


 私はこの場所で、少しずつ変わり始めているのかもしれない。どんな形であれ、自分の居場所ができたような、そんな気がしていた。



 この城には、やたらと花が多い。どの廊下にも花瓶が置かれ、部屋にも季節の花が絶えない。まるで城全体が植物園のようだ。監禁されてるわりには、環境が良すぎて複雑な気持ちになる。


 それでも私は今日も扉の前で立ち尽くしていた。自由に出られないという事実は、精神にじわじわ効いてくる。

「出してってばぁ……」


 ノブをガチャガチャしていると、いつものごとく背後から声がした。


「君が出たいと思うなら、理由を述べてくれ」


「もはや毎日このやりとりしてません!?」


 振り向けば、いつも通りのクラウス。整った顔に無表情。だけど、私の一挙手一投足に目が釘付けになっている気がするのは気のせいじゃないと思う。


「今日は……花の温室を見せたいと思っていた」


「誘い方が自然すぎて怖いんですけど」


「君が行きたいと言えば、案内する」


「言わないと連れてってくれないんですね」


「もちろんだ。君の意志がすべてだ」


 だからその“君の意志”を、どこまでも囲い込む形で操作してくるのが怖いって言ってるんですよ。


 結局、私は「じゃあ、ちょっとだけ……」と条件付きで同行することにした。ミレイユに「魔王に押されて転がるタイプの恋愛体質だと思ってた」とか言われそう。


 温室は信じられないほど広かった。屋内にも関わらず天井は高く、陽光を通すガラスがまぶしい。花の香りが重なって、むせそうになるくらいだ。


「……綺麗ですね」


「君が喜ぶと思って、取り寄せた」


「全部!?この植物たち、全部ですか!?」


「そうだ」


「正気ですか!?」


「君のためにできることなら、何でもする」


 真顔で言わないでほしい。心臓に悪い。


 でも、たしかに綺麗だった。魔王の城なのに、こんなに穏やかな場所があるなんて。


「ここでは、何も恐れる必要はない」


 そう囁かれたとき、不意に胸がざわついた。何かが引っかかる。でも、その正体がわからない。


 夕食の後、私は届いたばかりのミレイユからの手紙を読んでいた。


『元気?そろそろクラウス様の不審な可愛がりに慣れた?まさか“ちょっといいかも”なんて思ってないよね?あんたの恋愛脳、ハムスター並だから心配してるのよ。とりあえず、自分の気持ちはちゃんと自覚すること。じゃないと、後で泣くのはあんたよ』


 自分の気持ち。私はクラウスをどう思ってるんだろう?


 怖い。でも優しい。過保護。でも温かい。わからない。わからないけど、誰かにこんなふうに必要とされたのは、たぶん初めてだった。


 私はいつからか、自分の存在が“いてもいなくても変わらない”ものだと思ってた。だから、感情を表に出すことをやめた。


「エルネスタ」


 部屋に現れたクラウスの声に、私はハッとする。顔を上げると、彼は静かに私のそばに膝をついた。


「どうした?泣いているのか?」


 頬に触れられて、ようやく自分が泣いていることに気づいた。いつの間にか、涙がこぼれていた。


「……わかりません。なんで泣いてるのか、自分でも」


「それはきっと、心がやっと自由になったからだ」


「私は、そんな……自由なんか……」


「違う。ここは牢ではない。君の心が縛られていた場所こそ、本当の牢だった」


 そんな言葉をかけられて、また涙がこぼれた。私は今、初めて誰かに、自分の弱さを認めてもらえた気がした。


 魔王の腕の中で泣くなんて、どんな立場だろう。だけど、今だけは、許してほしい。ほんの少しだけ、甘えても。


 夜、そのまま眠れずに窓辺に立っていると、外の中庭にぽつんと人影が見えた。魔王だった。こんな時間に何をしているのだろう。


 気づかれぬようにカーテンの隙間から覗いていると、彼は誰もいない空間に向かって話しかけるように、何かを呟いていた。祈り?それとも誰かへの報告?それすらも分からないが、その姿には妙な孤独があった。


 私は思い知る。この人もまた、ひとりだったのかもしれない、と。


 翌朝、朝食に用意されたのは、パンケーキだった。焼き目がやたらと上手で、明らかに素人の手じゃない。


「これ……クラウス様が?」


「そうだ」


「料理もできるんですか!?」


「できる。必要があれば」


「え、趣味とかじゃなく?」


「君のために必要だから、やった」


「えっ……」


 そんな真っ直ぐすぎる愛情表現、心臓に悪い。けど――悪くなかった。悪くないと思ってしまった自分に驚いた。


 食後、彼は静かに言った。「君が望むなら、私はこの国すら捨てられる」


「……それは、困ります」


「では、君の居場所にならせてくれ」


 私は答えられなかった。まだ、心の中で整理がついていなかった。でも――少しずつ、この人の隣にいる未来を、考えてしまう自分がいた。


 ミレイユに笑われるだろうか。でも、それでもいい。


 誰かに大事にされることは、こんなにも嬉しいものなのだと、私は今さら知ってしまったのだ。



 朝の紅茶を飲んでいたら、毒でも入ってるんじゃないかと思った。だって、ミレイユからの手紙の中身が爆弾すぎたのだ。


 『あんたの妹、今、王都で泣きながら「姉が魔王に誘拐された」とか言ってんのよ。民衆から同情買ってるし、王太子との縁を深めようとしてるし、なにこれ、コント?』


 ……笑えない。いやほんと、笑えない。


 クラウスに手紙を見せると、彼は無言で読み終えたあと、火のついていない燭台に向かって「焼き払うべきか」とつぶやいた。


「待って!?まだ何もしてませんから!焼き払うって何!?」


「ならば、君を王都へ連れていこう。真実を、語らせよう」


「誰に!?どこで!?それ、ざまぁ展開じゃないですか!?」


「必要だろう?君は何も悪くない」


 その言い方が妙に静かで、私は何も言い返せなかった。たしかに、私は何もしていない。ただ、妹の陰謀に巻き込まれ、捨てられ、魔王に拾われただけだ。


 でも、王都に戻るなんて。そんな勇気、あるわけないじゃない。そう思っていたはずなのに。


「……クラウス様。わたし……怖いです」


 素直に言葉が出た。情けないくらいに、震えていた。


 クラウスは、そっと私の手を取って言った。


「ならば私が盾になる。剣にもなる。君を傷つけるものすべてから守ろう」


 それは、心の奥まで届くような言葉だった。涙が出そうになるのを、ぐっとこらえた。


「でも、わたし……また人前に出たら、ちゃんと話せないかもしれません」


「ならば私が話そう。君は傍にいればいい。声にならぬ言葉も、私がすべて代弁する」


「それって、私の存在意義とは……?」


「いるだけで、意味がある」


 なんかもう、いろいろずるい。言葉の一つひとつが、じわじわと胸にしみていく。


 翌日、私は魔王城の礼装を身につけた。真紅のドレス。王都の格式に合わせた、けれど明らかに異国の気配を放つそれは、緊張するほど華やかだった。


「重たい……」


「君に似合っている」


「いや、これ重さ20キロくらいありますよね!?」


「その重みを受けて立つだけの気高き魂が、君にはある」


「……クラウス様って、たまに詩人ですよね」


 馬車に乗る直前、彼は私の前に跪いた。そして、私の手に口づけを落とした。


「誓って。君を決して、再び孤独にはしない」


 その瞬間、また涙が浮かびそうになった。私はこんなにも、誰かの言葉を求めていたのか。


「ありがとう、ございます……」


 声が震えていた。でも、ちゃんと言えた。逃げずに、目を見て。


 王都への道中、クラウスはひたすら私の手を握っていた。その手のひらから伝わる熱が、何よりも心強かった。


「エルネスタ。君の意志で、真実を告げよと言ったが……一つ、私から頼みがある」


「なんでしょうか」


「王都で全てが終わったなら、私と正式に婚約してほしい」


「……」


「もちろん、無理強いはしない。ただ、私は……君を離したくない」


 私はそのとき、言葉を失った。ただ、胸の奥が熱くなって、視界が滲んでいく。


 泣きすぎだ、自分。でも、仕方ないじゃないか。私の人生が、今、少しずつ変わっていくのだから。


 王都の城門が見えてきたとき、私は思わず息を呑んだ。懐かしいはずの風景なのに、まるで別の場所のように見えた。


 馬車が停まり、扉が開けられる。私はドレスの裾を握りしめ、一歩外へ足を踏み出した。


 すぐに人々のざわめきが聞こえた。「あれがエルネスタ令嬢?」「噂では魔王に囚われたらしいぞ」「でも意外と綺麗だな……」


 やめて。見ないで。触れないで。そう叫びたくなる心を、私は必死に抑えた。


「落ち着いて」


 クラウスの声がそっと響く。それだけで、足の震えが少しだけ止まった気がした。


 王城の広間に通されると、すでに王太子と、そして……セシリアがいた。


「お姉様……!」


 涙を浮かべて駆け寄ってくるその顔には、一片の罪悪感もない。まるで女神を気取ったような笑顔。


「ご無事で……本当に、よかったですわ……」


 そう言って袖で目元を押さえる様子は、まさに舞台女優のそれだった。


「芝居なら劇場でやってくれないか」


 クラウスの一言に、場が静まり返った。


「この者の虚言と策謀により、我が婚約者は断罪され、追放された。だが、我は彼女の真実を知っている。そして、証拠も持参している」


「ま、待ってください!私は何も……っ」


「言い訳は聞いていない」


 クラウスは懐から一通の手紙を取り出した。それは、ミレイユが密かに集めてくれた証言書だった。セシリアが使用人に命じていた陰湿な嫌がらせの数々、それを証明する文書が、目の前に晒された。


「これが……すべて……?」


 王太子の顔が青ざめる。


「君が我を侮辱するのは構わない。だが、彼女を陥れたことを悔いよ」


 その声に、セシリアの顔から色が消えた。私が何も言わずとも、クラウスがすべてを言ってくれた。


 私は、ただ彼の隣に立っていた。それだけで、よかった。


 ざまぁなんて、望んだことはなかった。けれど、今ここで真実が明かされたことに、私は少しだけ救われた気がした。


 クラウスの手が、そっと私の背を支える。


「エルネスタ。君の答えを、聞かせてくれ」


 私は小さく頷いた。そして、はっきりと口を開いた。


「……私を、魔王領へ連れて帰ってください」


 それが、今の私の、たしかな答えだった。



 あの日、私は自分の意志で「帰りたい場所」を選んだ。クラウスの手を取って、王都をあとにした。


 そして今、私は魔王領の中心にある、荘厳な黒曜の礼拝堂で、正式な“婚約の儀”を受けようとしている。


 真紅のドレスが再び身を包む。心なしか、あのときよりも胸を張って立てている気がする。


「準備は、できているか?」


 クラウスが小さく問いかけてくる。その声はやさしく、けれどいつもより少しだけ緊張していた。


「……はい。たぶん。できていると思います」


 それは半分以上、私自身に向けた言葉だった。


 儀式は静かに進んだ。


 魔王領では「対等な契約」が婚約の証とされている。王家からの誓いと、当人の意思がそろってはじめて成立する。


 私は胸に手を置き、しっかりと宣言した。


「私は、クラウス=ヴァン=ディルハルト殿と、共に歩む覚悟があります」


 その瞬間、クラウスがほっと息をついたように見えたのは、気のせいじゃなかった。


「私もまた、エルネスタ=フィレールを、永劫に渡り守ることをここに誓う」


 短く、しかし深く、静かな言葉。なのに、心にずっしり響く。


 契約の印が刻まれた指輪が、私の薬指にはめられた。真紅の宝石が、淡く光っていた。


「これからは、君を婚約者と呼ぼう」


「は、はい……」


 顔が火照る。どこまでいってもこの人、私の心を乱す名人だ。


 夜、儀式が終わったあと、クラウスは静かに私の前に座った。


「……一つ、話しておきたいことがある」


 彼が語ったのは、過去の話だった。


 クラウスの母は、王国側の人間だった。しかし政略結婚の犠牲となり、魔王との間に子を授かりながら、その後王都から断絶されたという。


 彼が幼くして父王の死を見送り、魔王位を継いだ背景には、深い孤独と緊張の連続があった。


「私は、誰かを守るということを、正しく教わったことがない。だが……君に出会って、それを学んだ」


「……クラウス様」


「不器用で、怖がらせてばかりかもしれない。それでも、君の隣にいたい」


 私は、迷わず手を伸ばして彼の手を握った。言葉なんて、いらなかった。あの日から少しずつ、私は誰かと“つながる”感覚を思い出していた。


 その夜、ミレイユからの手紙が届いた。


『やっほー、婚約おめでとう。で、そっちが幸せすぎて油断してるかもしれないから言っとくけど、妹ちゃん、なんか動いてるわよ。どうも、“王都を揺るがす最後の手”を使うって息巻いてるらしいの。名前に“最後”とかつく計画って、だいたいロクなもんじゃないわよね』


 最後の手、だって?セシリアのことだから、ろくでもないとは思ってた。でも、まさかそんなに早く動くなんて。


「クラウス様……」


「内容は見た。王都への備えを整えさせてある。君は何も気にするな」


 そう言って笑うけれど、私は知っている。彼の中にある焦燥を。彼は私を守ろうとして、誰よりも無理をする。


「……気にします。だって、もう、私も“クラウス様の側”の人間ですから」


 私の言葉に、クラウスが驚いたように瞬いたあと、やわらかく笑った。


 私の心も、静かに決まっていた。


 守られるだけの令嬢じゃなくて、隣に立てる人間になりたい。


 この魔王と共に、“婚約者”として未来を切り拓いていくために。


 翌朝、私は魔王城の執務室で、クラウスの隣に座っていた。公務の一部を見学する許可をもらったのだ。


 意外にも書類仕事が多い。私の知る“魔王”のイメージはもっとこう、破壊と支配と火炎の嵐だったのだが、クラウスは静かにペンを走らせている。


「……すごい。ちゃんと読んで、分類して、署名してる」


「当然だ。君が見ているから、なおさら間違えられない」


「その集中の理由が私ってどうなの……」


 でも、私の存在が彼の役に立っているなら、ちょっとだけ嬉しい。


「エルネスタ」


「はい?」


「王都へ使者を送った。今度は君の名のもとに、正式な要求を伝える」


「要求……?」


「妹のセシリア。あの者に対し、正式な査問会を開かせる」


 言葉の重みを、私はすぐには受け止められなかった。


「王都が応じるでしょうか……」


「君が“侯爵家の娘であり、魔王の婚約者”であることを知らしめる。無視できるはずがない」


 私は、思わず小さく息を吸い込んだ。


 もう逃げてはいけないのだ。今度こそ、過去と向き合うときが来た。


 クラウスは、そっと私の指を握った。あの紅い指輪が、小さく光を返していた。


「共に行こう。君の物語は、ここから始まる」


 魔王の言葉が、未来を照らす光に思えた。



 王都の空は、あのときと同じように晴れていた。なのに、見上げるたびに胸が苦しくなるのは、きっとこの街で私は“捨てられた”からだ。


 でも今は違う。私はもう、魔王の婚約者としてここに立っている。手を握るクラウスの指が、静かに力をくれた。


「震えているな」


「うっ……そりゃ、そうです。こわいですもん」


「だが君は、進もうとしている。その勇気は、何よりも強い」


 その言葉だけで、私は少しだけ、背筋を伸ばせた。


 王城の大広間。そこには、かつて私を断罪した王太子と、絹のドレスを着た妹セシリアがいた。


「ごきげんよう、お姉様」


 にっこりと笑うその顔は、やっぱり“あの時”と同じだった。何も知らないふりをして、善人の顔で人を蹴落とす、嘘でできた笑顔。


 査問会は形式的なものだった。けれど、クラウスが提出した証言と証拠が揃い、場の空気は徐々に変わっていった。


 セシリアの部屋から見つかった日記。使用人たちの署名入り証言。私のドレスを汚した墨の壺の保管記録……すべてが、私の言葉を裏付けていた。


「……そんな、嘘よ。でっちあげよ!」


 セシリアの悲鳴が響いたとき、私はそっと目を閉じた。怖かった。けれど、逃げたくはなかった。


「……私は、何もしていない。ただ、あなたの妹として生まれただけです」


 やっと声が出た。小さくて、かすれていたかもしれない。でも、私は言えた。


「それでもあなたは、私を憎んでいた。父と母に愛されていたから?それとも、王太子に選ばれなかったから?」


「うるさいっ……!」


 セシリアが叫ぶのを、クラウスが静かに止めた。


「もうやめろ。お前の嘘は、すべて暴かれた。今さら何を足掻こうと、真実は揺らがない」


 王太子は項垂れていた。あのとき、私を見もせず断罪した男。


「エルネスタ……済まなかった」


「謝罪は、いりません」


 私は静かに言った。


「あなたが私を捨てたことで、私はクラウス様に出会いました。私の人生は、あの日から始まったんです」


 セシリアが絶望の色を浮かべ、王太子が何も言えず沈黙したその瞬間、私はようやく過去を断ち切れた気がした。


 すべてが終わった後、広間を出た私を、クラウスが優しく抱きしめた。


「よくやった。素晴らしかった」



「……ぜんぶ、震えてましたけど」


「震えながらでも立っていた。それがどれほど尊いか、君は知らない」


 私は、彼の胸に顔を埋めた。ここが、私の居場所だと、心から思えた。


 その夜。王都の郊外の小さな礼拝堂で、クラウスが改めて私の前に跪いた。


「エルネスタ。今度こそ、誰に強いられたのでもない、君自身の選択で答えてほしい」


 彼の手には、かつてのものとは違う指輪があった。銀の台座に、深紅の宝石。私たちの色だ。


「私と――共に生きてくれ」


 私は、笑った。泣きながら、笑った。


「はい。喜んで」


 今度こそ、本当に。心から。


 指輪を受け取ったその瞬間、胸の奥で何かが確かに結ばれた気がした。


 あんなに怖かった世界。人の視線も言葉も、舞踏会も、婚約者という肩書も、全部が私の敵のように思えていたあの日々。


 でも今は違う。私の隣にはクラウスがいて、ミレイユがいて、たとえ世界を敵に回しても私を信じてくれる人がいる。


 帰りの馬車の中、クラウスは私の手をずっと握っていた。言葉はなかったけれど、それで十分だった。


 魔王領の城に戻ったとき、使用人たちが花びらを撒いて私たちを出迎えてくれた。


 私があの冷たい王都で忘れていた“歓迎される”という感覚が、胸にしみた。


「婚約おめでとうございます、エルネスタ様!」


「お帰りなさいませ!」


 そんな声があちこちから上がるたび、私は恥ずかしくて顔が熱くなった。


 でも、逃げなかった。背筋を伸ばして、しっかりと「ただいま」と返せた。


 夜、寝室でクラウスと二人きりになったとき、彼がぽつりと呟いた。


「私は、ずっと夢見ていた。君とこうして、肩を並べる日を」


「……夢、ですか?」


「そうだ。だがこれはもう夢ではない」


 彼の瞳が、柔らかく細められた。


「君が隣にいてくれるなら、私は何度でも魔王になる」


「……それ、甘やかしすぎですよ」


「君のためにある称号だからな」


 私は思わず笑ってしまった。こんな夜が来るなんて、あの断罪の日には想像もできなかった。


 でも、今なら言える。あの日捨てられたことも、今の自分に繋がっていたのだと。


 だから、ありがとうとは言わない。けれど、もう振り返らない。


 私は、私の未来を歩いていく。クラウスと共に。



 魔王の婚約者ともなると、日々の予定がえらいことになる。


 朝から礼儀作法、魔族の歴史、魔法的素養の基礎訓練、午後は書類整理の補佐、夜は晩餐での社交訓練と、まるで貴族の見本市のような日々。


 しかも指導係は、クラウス直属の侍女長。愛想はいいが、目が笑ってない。「婚約者として恥ずかしくないよう、徹底的に指導いたしますわ」と微笑む彼女を、私は勝手に“鉄仮面のレディ・ローゼ”と呼んでいる。


「エルネスタ様、姿勢が崩れております」


「ひいっ、ごめんなさい!」


「ごめんなさいではなく、“申し訳ありません”です」


 この世界、甘くない。


 でも、逃げるわけにはいかない。私はクラウスの隣に立つって決めたから。そう言い聞かせて、毎日奮闘している。


 そんなある日、ミレイユから手紙が届いた。


『元気?魔王の教育係にやられてへとへとになってない?噂では“魔王領のばあやは拷問官より怖い”って言うけど、まああんたなら大丈夫でしょ。あと、王都でまた変な動きがあるっぽいから一応気をつけて。詳しくは次回』


 お約束のように伏線を放り込んでくる親友よ。


 でも、確かに最近、クラウスの表情にほんの僅かだけ陰りがある気がしていた。


「クラウス様。何か、ご心配なことでも?」


「……些細なことだ。君が気にする必要はない」


 そう言われると余計に気になるのが人間というもの。いや、魔王でも同じか。


 夕方、執務室の机に並ぶ地図の中に、見慣れた地名があった。「エルノス辺境砦」。王国と魔王領の境界にある、古い要塞。


 その部分に、赤く印がついていた。


「ここ、なにかあるんですか?」


「王国側の貴族が、不審な動きを見せている。まだ確証はないが……」


 彼の目が細められる。冷静で、けれどどこかで怒りが滲む表情。


「君に不安な思いをさせたくはない。だが、隠しておくのも誠実ではないから、話した」


「ありがとう、ございます」


 そう言いながら、私は拳を軽く握った。まだ何も起きていない。けれど、いつかまた試されるときが来るのかもしれない。


 私は、この城の人々と、そしてクラウスと生きていくと決めた。ならば、守られるだけではいられない。


 その夜、久しぶりに侍女たちと談笑した。厳しい中にも優しさがある彼女たち。私が失敗して落ち込むと、こっそり甘い焼き菓子を差し入れてくれる。


「エルネスタ様、クラウス様が最近とてもご機嫌ですのよ」


「そ、そうなんですか……?」


「ええ。お部屋で君の名前をつぶやいていらっしゃるとか……うふふふ」


「やめてぇぇぇえええ!!」


 顔から火が出そうになり、私はクッションに顔を埋めた。


 だけど、そのまま声を立てずに笑っていた。ここにいていいんだなって、思えることが何よりも嬉しくて。


 その夜、クラウスが執務室から戻ってきた。


「今日もよく頑張ったな」


「……もう少しで“おすわり”とか言われるかと思いました」


「それは次の課題に取っておこう」


「冗談ですよね!?」


 いつものように冗談を交わしながら、私は思い切って尋ねた。


「クラウス様。私、もっとできるようになりたいです」


 彼が少し驚いたように眉を上げる。


「今でも十分だ。無理をすることはない」


「でも、私は“隣に立ちたい”って言いました。なら、立つだけじゃなく、支えたいんです」


 そう言うと、彼は静かに微笑んだ。そして、私の手を取って自分の胸元に当てた。


「ならば共に学ぼう。共に強くなろう。君となら、私は世界のどこへでも行ける」


 胸の鼓動が手のひらに伝わってくる。それは、どんな言葉よりもあたたかかった。


 翌朝、私は新しい課題に挑んでいた。地図を見ながら外交文書の下書きを作る訓練。想像していたよりもずっと複雑で、でも面白い。


 政務官の一人が言った。


「君はよく学ばれている。魔王の隣に立つ器として、十分に見込みがある」


 その言葉が、何よりも自信になった。


 けれど同時に、また新たな知らせが届く。


 王都の軍が、辺境に「警備演習」と称して部隊を移動させているという。


 クラウスはすぐに動いた。境界の砦に伝令を送り、魔王領側も最低限の警戒を強めた。


 大きな戦の火種にはならないかもしれない。でも、これは始まりかもしれない。


 私は再び決意する。どんなことがあっても、もう逃げない。


 泣いて、怯えて、守られるだけだった私から、きっと変われる。


 この手で、私の未来を掴むために。


 そしていつか、クラウスの隣で堂々と笑える私になるために。


 その晩、私は日記を開いて、今日のことを綴った。


『今日も少し泣きそうになった。でも、泣かずに笑えた。私は今、魔王城で生きている。生きていていいんだと、毎日実感している』


 日記の最後に、私は一言だけ書き加えた。


『私は、愛されている』


 その事実が、何よりも私を強くしてくれている。


 そして、私もまた、クラウスを――魔王を、深く、強く、愛しているのだと、確かに思った。



 開かれた地図の上で、赤い印がまた一つ増えた。それは王都が、明確に軍を展開した証。


 誰の目にも明らかだった。王国は、魔王領に対して挑発を開始した。


「戦争になるの?」


 私がそう尋ねたとき、クラウスは静かに首を振った。


「望まぬ限りは、ならぬ」


「でも、相手は……」


「ならばその意思を、我らの側から示す必要がある」


 そう言って彼は、私に一通の文書を見せた。王都への和平交渉の提案書だった。


「君と共に、王都へ赴く。交渉の場に、君の存在は必要だ」


「わたしが?」


「君は、あの国にいた。理不尽と欺瞞の中で、それでも誠実に生きていた。君の言葉こそが、今必要とされる」


 胸の奥が熱くなった。震える手を握りしめて、私は小さくうなずいた。


「わかりました。行きましょう、クラウス様」


 再び訪れた王都は、以前よりも冷たく見えた。でも、私は逃げなかった。今の私は、一人じゃない。


 和平交渉の場には、王太子と一部の重鎮たち、そしてミレイユの姿もあった。


「よっ、伝説の婚約破棄令嬢」


「やめてください、やめてください!」


「冗談よ。でも、あんた立派になったわね。びっくりした」


 そう笑うミレイユの顔がまぶしくて、私は思わず抱きしめた。


「……来てくれてありがとう」


「当たり前でしょ。あんたの一番の味方なんだから」


 交渉は硬直していた。王都側は、魔王の侵略の可能性を強調し、戦意をちらつかせる。


「侵略も戦意も、我々には存在しない」


 クラウスの言葉はいつも通り冷静だったが、眼差しは鋭く光っていた。


「ただ一つ、我々の側にあるのは“守る意思”だけだ。それが、我が愛する者とその未来を守る手段であるなら、剣も取ろう」


 全員の視線が私に集まった。


「わたしは……この人と共に生きていくと決めました。争いのない未来を選ぶと、そう誓います」


 その言葉が、空気を少し変えた気がした。


 交渉はすぐには決着しなかった。けれど、クラウスの示した「引かぬが、譲る姿勢」に、王都もまた即座に剣を抜けないでいた。


 その晩、王都の宿舎で、クラウスと二人になったとき、彼がぽつりと呟いた。


「君を再びこの街に連れてくるのは、躊躇った。思い出も、傷も、残っている場所だ」


「でも、来てよかったです。過去と、ようやく向き合えましたから」


 そう言うと、彼が私の手を強く握った。


「ならば、これが最後だ」


「え?」


「王都にも、誰にも、これ以上は干渉させない。これ以降、君を傷つけるものがあれば、私は世界を敵に回す」


「……クラウス様」


「それほどまでに、私は君を、――愛している」


 その言葉に、私はもう言葉を返せなかった。ただ、彼の胸に顔を埋め、こぼれる涙をぬぐった。

 帰りの馬車で、ミレイユが「これでようやく一段落ね」と笑った。


「そうね。ようやく」


「でもまあ、平和って案外忙しいわよ?次は“魔王妃教育”とか来るんじゃない?」


「それは……」


「あるの!?」


 私は爆笑しながら、肩を揺らした。


 終わりじゃない。ここからが始まりだ。


 この手で、未来を選んでいく。クラウスと、仲間たちと――。


 そう、これは“婚約破棄されたぼっち令嬢”の物語じゃない。


 私が、ようやく自分の名前で歩き出した、最初の一歩なのだ。


 魔王領へ戻ると、城の前には見慣れた顔ぶれが並んでいた。


 侍女長ローゼは厳しい顔で私を一瞥し、「ご無事で何よりです」と一言。そして続けて、「魔王妃教育、明朝より開始いたしますわ」と宣言してきた。


「……やっぱりあるんですね」


「当然です」


 そのまま私は、クラウスと並んで大広間へと足を進めた。


 その夜、私は夢を見た。真っ白な空間の中で、かつての私――断罪された直後の、怯えた少女が立っていた。


『どうしてあなたは、あんなに堂々としていられるの?』


 夢の中の自分が問う。私は答えた。


「守ってくれる人がいるから。信じてくれる人がいるから。そして――私が、私を信じているから」


 その瞬間、少女は笑って消えた。


 私は目を覚まし、隣で眠るクラウスの手を握った。


「ありがとう。見つけてくれて、愛してくれて」


 彼のまぶたが微かに動き、私の名を呼ぶ。


「……エルネスタ」


 きっとこれからも困難はある。でも私はもう、怖くない。


 私は、魔王クラウス=ヴァン=ディルハルトの婚約者であり、私自身の人生の主役だ。


 夜明けが近づいていた。東の空がわずかに白み始める。


 その光の中、私は新しい日を、確かな一歩で迎えにいく。


 これが、私たちの物語の終わり。そして、始まりなのだ。





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― 新着の感想 ―
これは「婚約破棄×魔王溺愛×成長譚」をテーマにした、非常に完成度の高い“令嬢もの”ライトノベルでした。 以下、感想とともに、特に印象深かった点を5つの視点で述べます。 ⸻ 【1】語り口とテンポの…
愛され令嬢、可愛い。 魔王も素敵でした。 
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